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【Episode 3】
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それは、サラが大原家のペットとなって1ヵ月ほどしたころのことだ。
昼寝をする吾輩の前を、サラは通りすぎようとしていた。
その無防備で警戒心のない緩慢な動きに、吾輩はちょっと驚かしてやろうという悪戯心で「ワン!」と吠えてやった。
とたんに驚いたサラは、眼にも止まらぬ速さで、吾輩の鼻先を前脚の爪で引っ掻いてきたのである。
一瞬、吾輩は何が起きたのかわからなかった。
だが、とつぜん鼻先に激痛が走って、吾輩は思わず「キャン!」と叫び、犬小屋に駈けこんでしまった。
痛む鼻先に目をやってみれば、ぱっくりと裂けた傷口からは血が滲んでいたのだった。
(なんてやつだ……)
傷口を舐めながら吾輩はそう思った。
冗談が通じないのも、いささか考えものだ。
ちょっと驚かすつもりが、傷を負わされたのではたまったものではない。
それ以来、サラに対して一度たりとも吠えたことはない。
と言うわけで、サラが通りすぎるまで、吾輩はいつものように寝たふりを決めこむことにした。
と、サラは吾輩の前で、ふと脚を止めた。
「なによ、ゴン太。まだ午前中だっていうのに、もうお昼寝?」
馬鹿にしたその口調にカチンとしながらも、それをぐっと堪え、吾輩は片眼を薄く開けてサラを見た。
彼女はすぐ眼の前にちょこんと坐り、見下すように吾輩を見ている。
その口許には、不敵な笑みさえ浮かんでいる。
吾輩が襲いかかってくることはないと高を括っているのだ。
その態度がはなはだ憎たらしい。
だが、ここは我慢である。
鼻の頭に刻まれた傷を、好きこのんで増やすことはない。
「アンタは、食うか寝るか吠えるか、それしかないのね」
(なにッ!)
その言葉には、さすがに腹が立つ。
むむ、いや、こ、堪えるのだ。
耐え、忍べ。
「まあ、それだけでも、あるだけまだマシかもね」
(なな、なんだと!……)
いやいや、抑えるんだ。抑えろ!
「起きてるんでしょ? ゴン太」
(いったいなんだよ。さっさと、どっかへ行けっての……)
吾輩は相手にせず、無視することにする。
「ちょっと、シカトしないでよ。能なしゴン太」
(うぐぐぐッ、能なしだとう……)
吾輩は、むくりと起き上がった。
「なんだ、やっぱり起きてるんじゃない」
「吾輩になにか用か?」
「別に」
「別にって、おい。用がないならどこかへ行くことだな。吾輩の牙が、おまえのその喉元を噛み切る前に」
吾輩は口端をつり上げ、牙を見せつけてやった。
しかし、傲慢なサラが、そんなことでビビるはずもない。
「あら、アンタにそんな勇気があるの? そのチンケな鼻先に、もうひとつ傷をつけてあげてもいいのよ」
サラはすうっと前脚を上げると、鋭利な鉤爪を覗かせた。
(!!!――)
ビビったのはやはり吾輩のほうで、思わず身を退いた。
「あ、いや、吾輩はその、少し考えごとをしていたものだから、それを邪魔されたくないだけさ」
「あら、そう。アンタのその小さい脳ミソでも、考えることがあるなんて驚きだわね」
サラは挑発するように嘲る。
(うぐぐッ、もう許せん!……)
吾輩は身を低くし、臨戦態勢をとって小さく唸った。
「なによ、やろうっての。上等じゃない。相手になってやるから、かかってきなさい」
サラは、背中の毛を逆立て威嚇した。
吾輩はたちまちたじろいた。
「いや、待った、待った。吾輩はいま体調が悪い。朝から腹痛がひどいんだ」
「フン、なにが腹痛よ。腰が引けてるじゃないのよ、バカ犬」
「バ、バカ犬とはなんだ!」
さすがの吾輩も、「バカ犬」と言われては怒り心頭である。
「あら、怒ったの?」
「当然だ!」
吾輩は怒りのダンスを披露する。
「なによ、その間抜けな踊りは。ま、でもそうね。確かにバカ犬は言いすぎたわ。失言を撤回する。アンタは能なしだけど、決してバカじゃないものね。悪かったわ。ごめんなさい」
素直に謝られ、吾輩は拍子抜けした。
「いや、いいさ。吾輩は寛容だからな」
謝られて悪い気はしないが、どこかしっくりこないのは気のせいであろうか。
昼寝をする吾輩の前を、サラは通りすぎようとしていた。
その無防備で警戒心のない緩慢な動きに、吾輩はちょっと驚かしてやろうという悪戯心で「ワン!」と吠えてやった。
とたんに驚いたサラは、眼にも止まらぬ速さで、吾輩の鼻先を前脚の爪で引っ掻いてきたのである。
一瞬、吾輩は何が起きたのかわからなかった。
だが、とつぜん鼻先に激痛が走って、吾輩は思わず「キャン!」と叫び、犬小屋に駈けこんでしまった。
痛む鼻先に目をやってみれば、ぱっくりと裂けた傷口からは血が滲んでいたのだった。
(なんてやつだ……)
傷口を舐めながら吾輩はそう思った。
冗談が通じないのも、いささか考えものだ。
ちょっと驚かすつもりが、傷を負わされたのではたまったものではない。
それ以来、サラに対して一度たりとも吠えたことはない。
と言うわけで、サラが通りすぎるまで、吾輩はいつものように寝たふりを決めこむことにした。
と、サラは吾輩の前で、ふと脚を止めた。
「なによ、ゴン太。まだ午前中だっていうのに、もうお昼寝?」
馬鹿にしたその口調にカチンとしながらも、それをぐっと堪え、吾輩は片眼を薄く開けてサラを見た。
彼女はすぐ眼の前にちょこんと坐り、見下すように吾輩を見ている。
その口許には、不敵な笑みさえ浮かんでいる。
吾輩が襲いかかってくることはないと高を括っているのだ。
その態度がはなはだ憎たらしい。
だが、ここは我慢である。
鼻の頭に刻まれた傷を、好きこのんで増やすことはない。
「アンタは、食うか寝るか吠えるか、それしかないのね」
(なにッ!)
その言葉には、さすがに腹が立つ。
むむ、いや、こ、堪えるのだ。
耐え、忍べ。
「まあ、それだけでも、あるだけまだマシかもね」
(なな、なんだと!……)
いやいや、抑えるんだ。抑えろ!
「起きてるんでしょ? ゴン太」
(いったいなんだよ。さっさと、どっかへ行けっての……)
吾輩は相手にせず、無視することにする。
「ちょっと、シカトしないでよ。能なしゴン太」
(うぐぐぐッ、能なしだとう……)
吾輩は、むくりと起き上がった。
「なんだ、やっぱり起きてるんじゃない」
「吾輩になにか用か?」
「別に」
「別にって、おい。用がないならどこかへ行くことだな。吾輩の牙が、おまえのその喉元を噛み切る前に」
吾輩は口端をつり上げ、牙を見せつけてやった。
しかし、傲慢なサラが、そんなことでビビるはずもない。
「あら、アンタにそんな勇気があるの? そのチンケな鼻先に、もうひとつ傷をつけてあげてもいいのよ」
サラはすうっと前脚を上げると、鋭利な鉤爪を覗かせた。
(!!!――)
ビビったのはやはり吾輩のほうで、思わず身を退いた。
「あ、いや、吾輩はその、少し考えごとをしていたものだから、それを邪魔されたくないだけさ」
「あら、そう。アンタのその小さい脳ミソでも、考えることがあるなんて驚きだわね」
サラは挑発するように嘲る。
(うぐぐッ、もう許せん!……)
吾輩は身を低くし、臨戦態勢をとって小さく唸った。
「なによ、やろうっての。上等じゃない。相手になってやるから、かかってきなさい」
サラは、背中の毛を逆立て威嚇した。
吾輩はたちまちたじろいた。
「いや、待った、待った。吾輩はいま体調が悪い。朝から腹痛がひどいんだ」
「フン、なにが腹痛よ。腰が引けてるじゃないのよ、バカ犬」
「バ、バカ犬とはなんだ!」
さすがの吾輩も、「バカ犬」と言われては怒り心頭である。
「あら、怒ったの?」
「当然だ!」
吾輩は怒りのダンスを披露する。
「なによ、その間抜けな踊りは。ま、でもそうね。確かにバカ犬は言いすぎたわ。失言を撤回する。アンタは能なしだけど、決してバカじゃないものね。悪かったわ。ごめんなさい」
素直に謝られ、吾輩は拍子抜けした。
「いや、いいさ。吾輩は寛容だからな」
謝られて悪い気はしないが、どこかしっくりこないのは気のせいであろうか。
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