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日本剣豪ランキング 5位〜1位 もはや神か鬼ぞ… 行き会えば鬼神も避くる漢達
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いよいよベスト5の発表!
ここまでくれば剣技は皆互角、勝負を分かつは、勝利への美学と矜持のみ
さぁ御賞味あれ
第五位 沖田総司(そうじ)
戦国にも勝る動乱期であった幕末に誕生した剣客集団が新撰組である。中でも新撰組一番組組長は新撰組内で一番腕の立つ剣士が抜擢される習わしであった。その一番組組長を誰にも譲らず逝った男が、沖田総司である。この一事でも沖田の剣の天禀が窺い知れる。
その出自は陸奥白河藩の武士、沖田勝次郎の長男として生まれた。母に関しては詳細不明。父勝次郎も総司三歳の時死去。天涯孤独の総司が、どのような経緯か、江戸市ヶ谷、天然理心流・試衛館の内弟子となったのがわずか九歳の時だった。総司が秘めていた剣の才気はすぐさま煥発した。白河藩御指南番を手もなく破ったのが十二歳。後の新撰組、鬼の副長・土方歳三でさえ総司の前では赤子の手を捻るような扱いであったと云う。十二歳といえば、今なら小学六年生である。まさに神童の名に相応しい。
文久三年(1863)、近藤勇、土方歳三等試衛館グループと共に浪士組に参加。後日、新撰組と改名し、京都守護職、会津藩主・松平容保(かたもり)御預となる。
元治元年(1864)六月五日、洛中は祇園会の宵々山であったその夜、新撰組は、尊攘の志士が参集する池田屋を急襲した。維新を三年遅らせたとされる「池田屋事件」である。総司も先頭となって斬り込んだが、戦闘中、結核による大喀血で戦闘不能となった。
鳥羽伏見の戦いの後、江戸に帰還した近藤勇等は、甲陽鎮撫隊と改称し、甲斐(現在の山梨県)にて官軍を待ち構えよとの命を受けた。総司も従軍しようとしたが、結核はもう致命的な状態にあり、断念せざるを得なかった。慶応四年、千駄ヶ谷(現在の千代田区千駄ヶ谷)にて死去した。(享年二七歳)
沖田総司の愛刀は、備前福岡一文字派の名工則宗が鍛えた「菊一文字則宗」だが、総司が佩用したかどうかの確証は無い。
第四位 宮本武蔵
剣術を志す者だけでなく、己が目指す道で一流たらんとする者すべてが、崇拝して止まない剣豪である。生涯で六十回にも及ぶ真剣勝負を無敗で通した。
有名な対決、二天一流・宮本武蔵と巌流・佐々木小次郎の巌流島(当時は船島)の戦いでは、刀ではなく櫂を削りだした木刀で戦った。なぜ、武蔵は刀剣ではなく櫂を削った木刀を用いたのだろうか。これには複数の説がある。
・そもそも、この決闘は、武蔵にとって不本意であった。小倉藩主・細川忠興の肝入で渋々承知した。以前より剣客として佐々木小次郎を尊敬しており、彼を殺傷する気は最初からなかったとする説。
・剣術の戦法として櫂から削った木刀を用いた。理由は、佐々木小次郎の愛刀「物干し竿」は1メートルを超える長刀であった。当時の日本刀の刀長は60~70㎝が標準であった。つまり、小次郎は、30㎝も外の間合いから斬りかかれた。それは圧倒的優位である。故に武蔵は、「物干し竿」よりさらに長い木刀を使ったとする説。
・巌流島の決闘自体がフィクションであり、宮本武蔵との尋常の果たし合いを隠れ蓑にした小倉藩が仕組んだ佐々木小次郎暗殺事件とする説等々
美濃伝の刀工が鍛えた刀身に武蔵自身が拵えを造ったとされる銘 和泉守兼重、関刀工の祖金重が南北朝時代に作刀した無銘金重、鎌倉時代の刀匠大和国住国宗。これらが武蔵の愛刀であったといわれている。無銘金重と大和国住国重は、武蔵が晩年を過ごした肥後細川藩のお膝元熊本の島田美術館に収蔵されている。
第三位 柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)
年配の方の中には、柳生と聞くとあまり良いイメージ持たれない方もおられるかもしれない。創成期の徳川幕府の裏方で暗躍し、いわば、幕府のCIA的な役処を遂行した家柄と思われている。
柳生石舟斎宗厳の嫡子が柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)で、柳生家の流儀であった「柳生新陰流」を徳川将軍家御家流にまで押し上げた政治家であった。また、柳生但馬守宗矩の子が、テレビ、映画等で有名な柳生十兵衛三厳(やぎゅうじゃうべいみつよし)である。
さて、本題の石舟斎宗厳について語ろう。
元々、柳生氏は、大和国柳生ノ庄(現在の奈良県奈良市柳生町)の国人に過ぎない。弱小国人の例にもれず、宗厳も筒井氏、三好氏、松永氏と畿内の旗色に応じて主を変えざる得ない状態が長く続いた。ただ、宗厳と他の国人土豪と一線を画したのが、剣であった。高名な剣豪を柳生に招き、教えを請うた。特に上泉信綱とは深い親交を持った。最初、宗厳は、信綱との立合いを所望したが、信綱は高弟との立合いを指示した。宗厳は惨敗したが、上泉信綱の直弟子となる許しを得られた。
柳生石舟斎宗厳といえば無刀取り(我は徒手で相対し、相手の剣を奪い取り、勝ちを得る剣技)の創始者だが、師匠・上泉信綱から無刀取りの公案(課題)を与えられ研鑽に努め、習得したと云われる。のちに、徳川家康の御前において「無刀取り」を披露し、賞賛を得た。これが「柳生新陰流」が将軍家御家流として隆盛する端緒となった。
柳生石舟斎宗厳の愛刀は、天下五剣の一振である「大典太光世」との説もあるが、如何であろうか…
第二位 上泉信綱(こういずみのぶつな、かみいずみのぶつな)
上泉信綱の詳細は不明な部分が多い。上野(こうづけ)国(現在の群馬県)大胡城主・上泉秀綱の一子であるといわれている。
弘治元年(1555)、大胡城は、小田原城主・後北条氏康によって落城、かろうじて逃げ落ちた信綱は、箕輪城主、猛将で名高い長野業正(ながのなりまさ)に仕官した。この間に、愛洲久忠(あいすひさただ)が創始した「陰流」を学び、遂には自らで創意工夫をした「新陰流」を編み出した。
長野家は業正の死後、嗣子・業盛の代に武田信玄によって滅亡してしまうが、信綱の才を惜しんだ信玄は、幾度となく家臣にしようと働きかけた。しかし、信綱は固辞した。固辞した信綱は弟子と共に諸国武者修行の旅にでた。自家の落城や主家の滅亡を目の当たりしてきた信綱には期する所があったのかもしれない、
諸国武者修行中も剣豪上泉信綱の高名を知る武芸者の挑戦が後を絶たなかった。大和国柳生の国人・柳生宗厳も挑戦者の一人だった。柳生石舟斎宗厳でさえ、信綱でなく、高弟・疋田景兼にいいようにあしらわれる始末であった。すぐさま、宗厳は弟子入りを志願した。「柳生新陰流」創設の端緒となる出来事といえる。
上泉信綱の華々しい事績として、室町将軍家・足利義輝の上覧と正親町天皇の天覧の栄誉に浴した唯一の剣豪である。
また、それまでは木刀による稽古が常態で怪我や事故が多発した。信綱が、現代に残した大きな功績の一つとして、竹を割って束ねた「袋竹刀」を考案がある。安全に稽古ができる現代の竹刀に繋がる物である。
第一位 塚原卜伝(つかはらぼくでん)
鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の「鹿島の太刀」を古来より伝承してきたのは「国摩真人(くになずのまひと)」の末裔である吉川氏である。
吉川左京覚賢(あきかた)の次男、吉川朝孝(ともたか)は塚原家に養子に入り、のちの剣聖塚原卜伝高幹(ぼくでん たかもと)の誕生である。
鹿島神流(鹿島古流、鹿島中古流)、天真正伝香取神道流を学んだ。十六歳で諸国修行に旅立ち、十四年にわたる修行行脚で剣技は上達したが、死と隣合わせの暮らしの中で憔悴して鹿島に帰郷する。鹿島神宮に千日間参籠し精神を鍛え直し、剣技のさらなる研鑽に努めた。鹿島大神より「心を新たにして事に当たれ」との御神示が下され、鹿島新当流を創始した。同時に名乗りを「塚原卜伝」とした。
生涯において「真剣勝負十九回、戦働き三七回、一度も不覚を取らず矢傷六ヶ所のみ刀傷一つなし、立ち合いで敵を討ち取ることニ一ニ人」の伝説が残っている。また、室町幕府十三代将軍・足利義輝や伊勢国守護・北畠具教に剣技を教示し、「一之太刀」の奥義を伝授した。
塚原卜伝は「無手勝流」を唱えたとして有名である。「無手勝流」とはいかなる流儀であろうか… 端的に云えば、「戦わずして勝つ」である。つまり、戦いの前に知略政略戦略を立て、万事遺漏なく万端を整え、敵に戦っても勝てないと悟らせ、敵の戦意を削ぐ。それが「無手勝流」の真髄と知れる。 前記したように、塚原卜伝は、数多く修羅場をくぐり抜けた結果、剣聖と呼ばれるまでの名声を得た。逆説的に云えば数多くの人命を奪ってきた結果で得た名声なのである。ここからは筆者の想像であるが、多くの人命を奪った結果で得た名声に辟易したのではないかと。人命を奪わない勝ち方こそが真の兵法ではないかと。
読者の方々には、第一位は、なぜ宮本武蔵ではないのか…、いや、柳生一族が最終勝者だ、勝ち残った者こそ最も強い。とのご意見があるのも至極当然のこと。あえて、私が塚原卜伝を第一位にしたのは、戦わずして勝つとの境地にまで至った彼の思想に敬意を払うためである。
戦争は政治の敗北である
最後に、この言葉を「ウラジミール プーチン」に贈るとともに、ロシア、ウクライナ両国に一日も早い和平が訪れんことを祈ります。
ここまでくれば剣技は皆互角、勝負を分かつは、勝利への美学と矜持のみ
さぁ御賞味あれ
第五位 沖田総司(そうじ)
戦国にも勝る動乱期であった幕末に誕生した剣客集団が新撰組である。中でも新撰組一番組組長は新撰組内で一番腕の立つ剣士が抜擢される習わしであった。その一番組組長を誰にも譲らず逝った男が、沖田総司である。この一事でも沖田の剣の天禀が窺い知れる。
その出自は陸奥白河藩の武士、沖田勝次郎の長男として生まれた。母に関しては詳細不明。父勝次郎も総司三歳の時死去。天涯孤独の総司が、どのような経緯か、江戸市ヶ谷、天然理心流・試衛館の内弟子となったのがわずか九歳の時だった。総司が秘めていた剣の才気はすぐさま煥発した。白河藩御指南番を手もなく破ったのが十二歳。後の新撰組、鬼の副長・土方歳三でさえ総司の前では赤子の手を捻るような扱いであったと云う。十二歳といえば、今なら小学六年生である。まさに神童の名に相応しい。
文久三年(1863)、近藤勇、土方歳三等試衛館グループと共に浪士組に参加。後日、新撰組と改名し、京都守護職、会津藩主・松平容保(かたもり)御預となる。
元治元年(1864)六月五日、洛中は祇園会の宵々山であったその夜、新撰組は、尊攘の志士が参集する池田屋を急襲した。維新を三年遅らせたとされる「池田屋事件」である。総司も先頭となって斬り込んだが、戦闘中、結核による大喀血で戦闘不能となった。
鳥羽伏見の戦いの後、江戸に帰還した近藤勇等は、甲陽鎮撫隊と改称し、甲斐(現在の山梨県)にて官軍を待ち構えよとの命を受けた。総司も従軍しようとしたが、結核はもう致命的な状態にあり、断念せざるを得なかった。慶応四年、千駄ヶ谷(現在の千代田区千駄ヶ谷)にて死去した。(享年二七歳)
沖田総司の愛刀は、備前福岡一文字派の名工則宗が鍛えた「菊一文字則宗」だが、総司が佩用したかどうかの確証は無い。
第四位 宮本武蔵
剣術を志す者だけでなく、己が目指す道で一流たらんとする者すべてが、崇拝して止まない剣豪である。生涯で六十回にも及ぶ真剣勝負を無敗で通した。
有名な対決、二天一流・宮本武蔵と巌流・佐々木小次郎の巌流島(当時は船島)の戦いでは、刀ではなく櫂を削りだした木刀で戦った。なぜ、武蔵は刀剣ではなく櫂を削った木刀を用いたのだろうか。これには複数の説がある。
・そもそも、この決闘は、武蔵にとって不本意であった。小倉藩主・細川忠興の肝入で渋々承知した。以前より剣客として佐々木小次郎を尊敬しており、彼を殺傷する気は最初からなかったとする説。
・剣術の戦法として櫂から削った木刀を用いた。理由は、佐々木小次郎の愛刀「物干し竿」は1メートルを超える長刀であった。当時の日本刀の刀長は60~70㎝が標準であった。つまり、小次郎は、30㎝も外の間合いから斬りかかれた。それは圧倒的優位である。故に武蔵は、「物干し竿」よりさらに長い木刀を使ったとする説。
・巌流島の決闘自体がフィクションであり、宮本武蔵との尋常の果たし合いを隠れ蓑にした小倉藩が仕組んだ佐々木小次郎暗殺事件とする説等々
美濃伝の刀工が鍛えた刀身に武蔵自身が拵えを造ったとされる銘 和泉守兼重、関刀工の祖金重が南北朝時代に作刀した無銘金重、鎌倉時代の刀匠大和国住国宗。これらが武蔵の愛刀であったといわれている。無銘金重と大和国住国重は、武蔵が晩年を過ごした肥後細川藩のお膝元熊本の島田美術館に収蔵されている。
第三位 柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)
年配の方の中には、柳生と聞くとあまり良いイメージ持たれない方もおられるかもしれない。創成期の徳川幕府の裏方で暗躍し、いわば、幕府のCIA的な役処を遂行した家柄と思われている。
柳生石舟斎宗厳の嫡子が柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)で、柳生家の流儀であった「柳生新陰流」を徳川将軍家御家流にまで押し上げた政治家であった。また、柳生但馬守宗矩の子が、テレビ、映画等で有名な柳生十兵衛三厳(やぎゅうじゃうべいみつよし)である。
さて、本題の石舟斎宗厳について語ろう。
元々、柳生氏は、大和国柳生ノ庄(現在の奈良県奈良市柳生町)の国人に過ぎない。弱小国人の例にもれず、宗厳も筒井氏、三好氏、松永氏と畿内の旗色に応じて主を変えざる得ない状態が長く続いた。ただ、宗厳と他の国人土豪と一線を画したのが、剣であった。高名な剣豪を柳生に招き、教えを請うた。特に上泉信綱とは深い親交を持った。最初、宗厳は、信綱との立合いを所望したが、信綱は高弟との立合いを指示した。宗厳は惨敗したが、上泉信綱の直弟子となる許しを得られた。
柳生石舟斎宗厳といえば無刀取り(我は徒手で相対し、相手の剣を奪い取り、勝ちを得る剣技)の創始者だが、師匠・上泉信綱から無刀取りの公案(課題)を与えられ研鑽に努め、習得したと云われる。のちに、徳川家康の御前において「無刀取り」を披露し、賞賛を得た。これが「柳生新陰流」が将軍家御家流として隆盛する端緒となった。
柳生石舟斎宗厳の愛刀は、天下五剣の一振である「大典太光世」との説もあるが、如何であろうか…
第二位 上泉信綱(こういずみのぶつな、かみいずみのぶつな)
上泉信綱の詳細は不明な部分が多い。上野(こうづけ)国(現在の群馬県)大胡城主・上泉秀綱の一子であるといわれている。
弘治元年(1555)、大胡城は、小田原城主・後北条氏康によって落城、かろうじて逃げ落ちた信綱は、箕輪城主、猛将で名高い長野業正(ながのなりまさ)に仕官した。この間に、愛洲久忠(あいすひさただ)が創始した「陰流」を学び、遂には自らで創意工夫をした「新陰流」を編み出した。
長野家は業正の死後、嗣子・業盛の代に武田信玄によって滅亡してしまうが、信綱の才を惜しんだ信玄は、幾度となく家臣にしようと働きかけた。しかし、信綱は固辞した。固辞した信綱は弟子と共に諸国武者修行の旅にでた。自家の落城や主家の滅亡を目の当たりしてきた信綱には期する所があったのかもしれない、
諸国武者修行中も剣豪上泉信綱の高名を知る武芸者の挑戦が後を絶たなかった。大和国柳生の国人・柳生宗厳も挑戦者の一人だった。柳生石舟斎宗厳でさえ、信綱でなく、高弟・疋田景兼にいいようにあしらわれる始末であった。すぐさま、宗厳は弟子入りを志願した。「柳生新陰流」創設の端緒となる出来事といえる。
上泉信綱の華々しい事績として、室町将軍家・足利義輝の上覧と正親町天皇の天覧の栄誉に浴した唯一の剣豪である。
また、それまでは木刀による稽古が常態で怪我や事故が多発した。信綱が、現代に残した大きな功績の一つとして、竹を割って束ねた「袋竹刀」を考案がある。安全に稽古ができる現代の竹刀に繋がる物である。
第一位 塚原卜伝(つかはらぼくでん)
鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の「鹿島の太刀」を古来より伝承してきたのは「国摩真人(くになずのまひと)」の末裔である吉川氏である。
吉川左京覚賢(あきかた)の次男、吉川朝孝(ともたか)は塚原家に養子に入り、のちの剣聖塚原卜伝高幹(ぼくでん たかもと)の誕生である。
鹿島神流(鹿島古流、鹿島中古流)、天真正伝香取神道流を学んだ。十六歳で諸国修行に旅立ち、十四年にわたる修行行脚で剣技は上達したが、死と隣合わせの暮らしの中で憔悴して鹿島に帰郷する。鹿島神宮に千日間参籠し精神を鍛え直し、剣技のさらなる研鑽に努めた。鹿島大神より「心を新たにして事に当たれ」との御神示が下され、鹿島新当流を創始した。同時に名乗りを「塚原卜伝」とした。
生涯において「真剣勝負十九回、戦働き三七回、一度も不覚を取らず矢傷六ヶ所のみ刀傷一つなし、立ち合いで敵を討ち取ることニ一ニ人」の伝説が残っている。また、室町幕府十三代将軍・足利義輝や伊勢国守護・北畠具教に剣技を教示し、「一之太刀」の奥義を伝授した。
塚原卜伝は「無手勝流」を唱えたとして有名である。「無手勝流」とはいかなる流儀であろうか… 端的に云えば、「戦わずして勝つ」である。つまり、戦いの前に知略政略戦略を立て、万事遺漏なく万端を整え、敵に戦っても勝てないと悟らせ、敵の戦意を削ぐ。それが「無手勝流」の真髄と知れる。 前記したように、塚原卜伝は、数多く修羅場をくぐり抜けた結果、剣聖と呼ばれるまでの名声を得た。逆説的に云えば数多くの人命を奪ってきた結果で得た名声なのである。ここからは筆者の想像であるが、多くの人命を奪った結果で得た名声に辟易したのではないかと。人命を奪わない勝ち方こそが真の兵法ではないかと。
読者の方々には、第一位は、なぜ宮本武蔵ではないのか…、いや、柳生一族が最終勝者だ、勝ち残った者こそ最も強い。とのご意見があるのも至極当然のこと。あえて、私が塚原卜伝を第一位にしたのは、戦わずして勝つとの境地にまで至った彼の思想に敬意を払うためである。
戦争は政治の敗北である
最後に、この言葉を「ウラジミール プーチン」に贈るとともに、ロシア、ウクライナ両国に一日も早い和平が訪れんことを祈ります。
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