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名将の名刀第一章 戦国を駆け抜けた漢(おとこ)達の傍らには
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徳川家康と「妙純傳持(みょうじゅんでんじ)ソハヤノツルキウツスナリ」
茎に刻まれた銘文「妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ」の意味は諸説があり、確証のある答えはまだない。一説には、所有者の美濃国(現在の岐阜県中南部)守護代斎藤妙純が亡き後、縁故者が刀剣の指表(さしおもて)に妙純傳(伝)持と刻んだ。同じ指表に刻まれたソハヤノツルキ(ギ)と指裏に刻まれたウツスナリは、坂上田村麻呂の伝説の刀剣・素早之剣(そはやのつるぎ)を写したとの意味で刀工が刻んだと伝わる。
刀工は、鎌倉時代中期、筑後国(福岡県南部)の三池典太光世(みいけてんたみつよ)。天下五剣の一振、「大典太光世」を世に送り出した名工である。地鉄には高品質な玉鋼を使用しており、広い身幅の鎬(しのぎ)造。刀身拵えともに古刀の趣を感じさせる。
元和元年(1615)、大坂夏の陣で豊家が滅亡し、元和偃武(げんなえんぶ・元和元年のこの戦いを最後に全国的争乱が止んだこと)が定まった。それでも西国諸大名に内在する謀反の火種は燻り続けたままだった。元和二年(1616)四月、死期を覚った家康は、「我亡き後は、ソハヤノツルキウツスナリの切先を西国に向けて立てておくように」と遺言し、幕府と子孫の安寧を名刀に託した。
当初、家康は駿河国(静岡県東部)の久能山に安置された。ソハヤノツルキウツスナリもここに奉納され、社宝として今に伝わる。乱世を生き抜き最終的な覇者となった家康には、この名刀が持つ言い知れぬ力を見抜いていたのかもしれない。現に徳川幕府に約260年もの泰平を永続させ、終には徳川に仇なす者は西国から興った。
福島正則と「福島兼光」
備前長舩兼光は、南北朝時代前期の備前長船(現在の岡山県瀬戸内市)を代表する名工である。相伝備前という備前伝本来の作風に相州伝を取り入れたのが特徴である。大太刀などの豪剣を得意とした。初めは、父景光の影響により直刀や片落ち互の目の落ち着いた作風が目立つ。後には、のたれに互の目が混じった優雅な作風に変わった。太刀表には草の剣巻き竜、裏には三文字の梵字が刻まれている。銘は「備州長舩住兼光」「観応元年八月日」。
この太刀が「福島兼光」と呼ばれるようになったのには次の逸話がある。関ヶ原の戦の勲功により安芸広島の主となった福島正則が藩内にあった日蓮宗本国寺を罰し、寺が所蔵していた兼光を没収し愛刀とした。元和五年(1619)広島城の普請を公儀に対し無許可で行った罪で、安芸備後五十万石を召し上げられた。減封の地・信州川中島まで愛刀を携えていった。
正則の死後、「福島兼光」はどのような経緯を経てか加賀前田家の所有になった。寛永十二年(1635)、前田家から本阿弥家に鑑定依頼が出され、金十五枚の折紙(鑑定書)がつけられた。現在は、東京国立博物館の所蔵となっている。
加藤清正と「加藤国広」
堀川国広は、安土桃山時代から江戸時代初期の刀工である。当初は日向国(現在の宮崎県)飫肥城主伊東家の刀工。天正五年(1577)、伊東氏の滅亡により全国流浪の身の上となった。慶長四年(1599)頃より京都堀川一条に居住し、多数の弟子を育てた。居所から堀川国広と称された。堀川派は新刀(慶長元年1596以降に作刀された刀剣)の一大勢力となった。
国広作の一振が、肥後(現在の熊本県)熊本城主、加藤清正の愛刀になったことにより、「加藤国広」と通称された。板目肌がよく詰まった鎬(しのぎ)造。刃文は大きなのたれが見られ、表のやや棟寄りに「國廣」の二字銘がある。
清正の娘、八十姫の紀州徳川頼宜への輿入れ時、「加藤国広」は嫁入り道具として紀州徳川家の所蔵となった。その後、紀州藩五代藩主徳川吉宗の徳川宗家相続並び八代将軍職就任により将軍家へ、さらに「加藤国広」の流転は続き、「加藤国広」は徳川宗家から田安徳川家へ受け継がれた。その時期は、享保十四年(1729)九月、吉宗の次男徳川宗武の元服、従三位 左近衛権中将兼右衛門督の叙任時、もしくは享保十六年一月、江戸城田安門内に田安徳川家の創設時のどちらかといわれている。近代に入り、三井家が田安家より購入し、現在は「三井美術館」の所蔵となっている。
池田輝政と「大包平」
勝れた武勇と卓越した処世観で姫路五十二万石の初代藩主となった池田輝政をして「一国にも替えがたき大名物」と言わしめた名刀、それこそが「大包平」である。姫路城を現在の気品に溢れ、威風堂々たる姿に改修した池田輝政がこの名刀の所有者である。
刀工は、平安時代の備前鍛冶の包平。同じく備前鍛冶の助平、高平を併せて「古備前三平」と称されるほどの名工といわれている。その名声は、平家物語に散見される。
「享保名物帳」にも「寸長き故名付」と銘の由来が書き記されている。刀身の長さだけではなく名刀中の名刀であることを「大」の文字で表現している。
輝政は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と三人の天下人に仕えた武人らしく刀に対する思い入れも深く、正月の具足始めに「大包平」を飾ることを池田家の習いにした。鎬造で庵棟、猪首鋒になって、反りが高く身幅も広い勇壮な造りになっている。まさに猛将輝政が好む太刀姿である。刀長があるにも関わらず重ねが薄く仕上がっているため重量は1.35㎏しかない。作刀技術の高さの証となるだろう。そればかりか、手に持ち、構えた時に感じる刀身全体のバランスの良さも大名物の大名物たる所以だろう。現在は東京国立博物館所蔵となっている。
茎に刻まれた銘文「妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ」の意味は諸説があり、確証のある答えはまだない。一説には、所有者の美濃国(現在の岐阜県中南部)守護代斎藤妙純が亡き後、縁故者が刀剣の指表(さしおもて)に妙純傳(伝)持と刻んだ。同じ指表に刻まれたソハヤノツルキ(ギ)と指裏に刻まれたウツスナリは、坂上田村麻呂の伝説の刀剣・素早之剣(そはやのつるぎ)を写したとの意味で刀工が刻んだと伝わる。
刀工は、鎌倉時代中期、筑後国(福岡県南部)の三池典太光世(みいけてんたみつよ)。天下五剣の一振、「大典太光世」を世に送り出した名工である。地鉄には高品質な玉鋼を使用しており、広い身幅の鎬(しのぎ)造。刀身拵えともに古刀の趣を感じさせる。
元和元年(1615)、大坂夏の陣で豊家が滅亡し、元和偃武(げんなえんぶ・元和元年のこの戦いを最後に全国的争乱が止んだこと)が定まった。それでも西国諸大名に内在する謀反の火種は燻り続けたままだった。元和二年(1616)四月、死期を覚った家康は、「我亡き後は、ソハヤノツルキウツスナリの切先を西国に向けて立てておくように」と遺言し、幕府と子孫の安寧を名刀に託した。
当初、家康は駿河国(静岡県東部)の久能山に安置された。ソハヤノツルキウツスナリもここに奉納され、社宝として今に伝わる。乱世を生き抜き最終的な覇者となった家康には、この名刀が持つ言い知れぬ力を見抜いていたのかもしれない。現に徳川幕府に約260年もの泰平を永続させ、終には徳川に仇なす者は西国から興った。
福島正則と「福島兼光」
備前長舩兼光は、南北朝時代前期の備前長船(現在の岡山県瀬戸内市)を代表する名工である。相伝備前という備前伝本来の作風に相州伝を取り入れたのが特徴である。大太刀などの豪剣を得意とした。初めは、父景光の影響により直刀や片落ち互の目の落ち着いた作風が目立つ。後には、のたれに互の目が混じった優雅な作風に変わった。太刀表には草の剣巻き竜、裏には三文字の梵字が刻まれている。銘は「備州長舩住兼光」「観応元年八月日」。
この太刀が「福島兼光」と呼ばれるようになったのには次の逸話がある。関ヶ原の戦の勲功により安芸広島の主となった福島正則が藩内にあった日蓮宗本国寺を罰し、寺が所蔵していた兼光を没収し愛刀とした。元和五年(1619)広島城の普請を公儀に対し無許可で行った罪で、安芸備後五十万石を召し上げられた。減封の地・信州川中島まで愛刀を携えていった。
正則の死後、「福島兼光」はどのような経緯を経てか加賀前田家の所有になった。寛永十二年(1635)、前田家から本阿弥家に鑑定依頼が出され、金十五枚の折紙(鑑定書)がつけられた。現在は、東京国立博物館の所蔵となっている。
加藤清正と「加藤国広」
堀川国広は、安土桃山時代から江戸時代初期の刀工である。当初は日向国(現在の宮崎県)飫肥城主伊東家の刀工。天正五年(1577)、伊東氏の滅亡により全国流浪の身の上となった。慶長四年(1599)頃より京都堀川一条に居住し、多数の弟子を育てた。居所から堀川国広と称された。堀川派は新刀(慶長元年1596以降に作刀された刀剣)の一大勢力となった。
国広作の一振が、肥後(現在の熊本県)熊本城主、加藤清正の愛刀になったことにより、「加藤国広」と通称された。板目肌がよく詰まった鎬(しのぎ)造。刃文は大きなのたれが見られ、表のやや棟寄りに「國廣」の二字銘がある。
清正の娘、八十姫の紀州徳川頼宜への輿入れ時、「加藤国広」は嫁入り道具として紀州徳川家の所蔵となった。その後、紀州藩五代藩主徳川吉宗の徳川宗家相続並び八代将軍職就任により将軍家へ、さらに「加藤国広」の流転は続き、「加藤国広」は徳川宗家から田安徳川家へ受け継がれた。その時期は、享保十四年(1729)九月、吉宗の次男徳川宗武の元服、従三位 左近衛権中将兼右衛門督の叙任時、もしくは享保十六年一月、江戸城田安門内に田安徳川家の創設時のどちらかといわれている。近代に入り、三井家が田安家より購入し、現在は「三井美術館」の所蔵となっている。
池田輝政と「大包平」
勝れた武勇と卓越した処世観で姫路五十二万石の初代藩主となった池田輝政をして「一国にも替えがたき大名物」と言わしめた名刀、それこそが「大包平」である。姫路城を現在の気品に溢れ、威風堂々たる姿に改修した池田輝政がこの名刀の所有者である。
刀工は、平安時代の備前鍛冶の包平。同じく備前鍛冶の助平、高平を併せて「古備前三平」と称されるほどの名工といわれている。その名声は、平家物語に散見される。
「享保名物帳」にも「寸長き故名付」と銘の由来が書き記されている。刀身の長さだけではなく名刀中の名刀であることを「大」の文字で表現している。
輝政は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と三人の天下人に仕えた武人らしく刀に対する思い入れも深く、正月の具足始めに「大包平」を飾ることを池田家の習いにした。鎬造で庵棟、猪首鋒になって、反りが高く身幅も広い勇壮な造りになっている。まさに猛将輝政が好む太刀姿である。刀長があるにも関わらず重ねが薄く仕上がっているため重量は1.35㎏しかない。作刀技術の高さの証となるだろう。そればかりか、手に持ち、構えた時に感じる刀身全体のバランスの良さも大名物の大名物たる所以だろう。現在は東京国立博物館所蔵となっている。
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