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第十四節

かすみは鷹丸の頬に唇を寄せ、次々と涙を吸い取った。 「人の温もりの味がする。鷹丸、私も初めてだよ。ありがとうな」

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承前


香取へ

 鷹丸とかすみは曳間宿の外れの空堀を飛び越えようとしていた。
 鷹丸が先に飛び、かすみが鷹丸を目がけて飛んだ。弾みで鷹丸とかすみは一緒になって堤下まで転がった。立ち上がった鷹丸は追手の有無を確かめながら、
「平気か」
 返事代わりにかすみは素早く立ち上がってみせた。
 かすみの背を汚す土を払ってやりながら鷹丸が、
「陽が中天前に天竜川沿いに山に入ろう」と云い、
 今度は鷹丸の髪に付いた枯草を摘みとりながら、
「うん」
 小さくかすみが頷いた。
 人目につく東海道を避け、遠回りだが天竜川河畔で北に折れ、信濃国伊那谷(いなだに・現在の長野県飯田市付近)を抜け、東山道(現在の中央道)に入るつもりだった。信濃(長野県)から甲斐(山梨県)、武蔵(埼玉県)を抜けて下総(千葉県北部)香取へ向かう途を二人は選んだ。
 今朝、曳間を後にしたかすみが口にした地名は香取だった。過去を捨てたかすみの行き先は、更なる過去の地、記憶にも定かでない父母の地、香取だった。鷹丸は、かすみが望むならどこまでも行くと腹を決めていた。
 鍛えられて育った二人の脚ならば三日後には香取に着く筈だ。


 天竜川を遡上する二人は、中天前に瀬尻ノ瀧を目前にする所まで来ていた。
「山中に入って道も険しくなってきたな。これからは道も無くなり谷を這い上がる。ついて来いな」
「全然平気だよ。息切れするのも楽しくて楽しくて。鷹丸、さっ、行こ」
 無邪気に出されたかすみの手に自分の手を重ねかけた鷹丸だった。しかし、子供の時分より胸の内に秘めてきたかすみへの有り余る慕情が溢れ気後れしてしまった。
「何してんの。早く手をつないでよ。どんどん道が険しくなるよ」
「よしわかった、しっかり握って離すなよ」
 鷹丸が出した手をかすみはなんの躊躇(ためら)いも無く強く握った。そのまま二人は瀧を迂回する急な坂を上り始めた。


伊那谷

 遠州と信州の国境(くにざかい)の谷道は思いの外に険しかった。今日の目的地の伊那谷に着いたのは戌(いぬ)の刻(午後八時)を過ぎていた。
 途中で実成りの良い木通(あけび)を採り、沢で手掴みした山女魚(やまめ)を夕餉にするつもりだった。 宿は人里から離れた廃屋を見つけた。
 裏戸を潰して囲炉裏の焚きつけにした。
 鷹丸が枝刺しにした山女魚を火の端に並べた。やがて滴る脂の香ばしい匂いが辺りを埋めた。一方、かすみは木通の実を裂き、食べ易くした。乳白色の実が覗ける切れ目から秋山の生気を含んだ芳しい香りもまた、二人の鼻腔をくすぐった
 寡黙に食べる習いが染みついた二人はただ手と口だけを使った。五尾焼いた山女魚の最後の一尾を鷹丸はかすみに譲った。枝から山女魚を抜き、かすみはそれを半身に分け鷹丸に戻した。
 それもまた、振舞われる量に限りがある糧を皆で分合わなければ生きてこられなかった子供等の悲しい習性(さが)であった。食べている間もその後も会話は無かった。喰ったら寝るのみだった。乱破の日常は必要最小限の行為に集約されている。そこに人らしい安らぎや潤いなどが入り込む余地は絶無だった。筵床(むしろゆか)の上に横になり、獣の毛皮を被る。寝るにしても二人がおよそ一刻(二時間)ずつ交代であった。先にかすみが寝る。鷹丸は土間に立ち廃屋の外に注意を払った。
「うっ…さわるな…ころ…すぞ」
 かすみが呻いた。
 鷹丸がギョッとしてかすみを返り見た。
「寝言か…」
 なんと悲しくも恐ろしい寝言だろうか…。これからは誰にも虐げられず、意に沿わぬ男に抱かれる怖れも無く、誰かを殺す務めもない筈なのに…。かすみの心は未だ不毛の地を抜け出せないでいる。鷹丸は、かすみと二人して一日でも早く安息の地へ辿り着きたかった。
 寝言を云いながら寝返ったかすみの肩が毛皮から外れてしまっていた。
 外を一瞥した鷹丸はかすみの肩の毛皮を直した。
 直す拍子にかすみの肩に触れた。
「えっ…なんだ」
 今、かすみの躰から肩を通して鷹丸の指先、ついには鷹丸の躰に至った感覚…今まで誰とも感じた事のない感覚。
 幼い頃より兄妹同然に育ってきた二人だ。取っ組み合いの喧嘩もしたし、病になればお互いに痛みを撫で擦りあった。だが、過去に感じたのと全く違う、言葉で表すなら、二つの魂の間に不断の絆が結ばれたと表すべきだろうか…
(そっか、俺達はこれからは夫婦(めおと)になるんだ)
 そう思った途端、鷹丸の躰の芯がカッと熱くなった。眠っているかすみの腰に腕を回し抱き上げた。
「どした、鷹…丸」
 驚いて目覚めたかすみの唇に口を寄せた。一度は見開かれたかすみの瞼は、ゆっくりと閉じられた。鷹丸の唇がかすみのそれに触れた。芯が更に燃え立った。鷹丸の躰がかすみに覆い被さった。襟から入れた指先に豊かなふくらみを感じた。
「やめろ…」
 かすみが力無く云った。だが、鷹丸はもっと深くわけ入り、強く揉みしだいた。襟から手を抜き、帯に手をかけた。
 それまで成すがままだったかすみの躰に強い力がこもった。
「ごめん。できない…鷹丸、できないよ」
 云うなり鷹丸の躰をかすみは突き飛ばした。鷹丸が筵の上を転がり尻をついた。
「私、男女の事は務めだった。嫌悪だった。情愛で抱かれるなんて無かった」
「お前に惚れている。いままでの男達とは違う、全然違う。わかるだろ」
「そんなのわかってるよ。お前が大好きだ、強く抱かれたい。でも…でも…やはり無理だよ。怖いんだよ」
 鷹丸は尻もちのままかすみの呻吟(しんぎん)を術も無く聴いていた。
 聴きながら鷹丸の両眼から滂沱(ぼうだ)たる涙が滴った。
「なんだこれは…俺の目から流れる水…、なんだこの水は…」
 鷹丸は生まれて初めて泣いた。
 人らしい感情の波立ちは気を弱くするとの修練を受けて育った子供は、泣くことも笑うことも忘れてしまうのだった。
「教えてくれ…かすみ、頼む…この水はなんだ」
 問いに答えず、かすみは鷹丸の頬に唇を寄せ、次々と涙を吸い取った。
「人の温もりの味がする。鷹丸、私も初めてだよ。ありがとうな」

 

 翌朝まで二人はただ抱(いだ)き合って眠った。少年少女に戻ってただ眠った。
 先に目が覚めたのは鷹丸だった。鷹丸の気配でかすみも目覚めた。
「おはよう」
 ぎこちなく鷹丸が云った。
「痛っ」
 かすみが力任せに鷹丸の鼻を齧った。
「おまえは犬か猫か…」
 続けて囓ろうと首を伸ばしてきたかすみの鼻に鷹丸が吸い付いた。
 ひとしきり転げ回って子犬か子猫のように二人は戯れあった。
 うつ伏せになったかすみに馬乗りになった鷹丸が
「もう参ったと云え、なら、許してやる」
「重いじゃねぇか、降りろ馬鹿。それよか、腹減った、なんか食わせろ」
 手足をバタつかせてかすみが毒づいた。
「沢に降りて山女魚か岩魚を獲ってくる。火を熾(おこ)して待ってろな」
「なら私は里に行って菜か芋を分けてもらってくる」
 少し険しい顔を浮かべた鷹丸が、
「里には降りるな。どこで足がつくかわからないからな。木通か山芋があれば採ってくる。里はだめだ」
「わかったよ、大人しく待ってる。お前も気をつけてな」
「大物を捕まえてくる。腹すかせて待ってろ、じゃぁな」
 頭の上で手をヒラヒラ廻して鷹丸が藪に消えた。
 それを見送ったかすみは小屋の内を物色し始めた。探し物の竹籠はすぐに見つかった。そして、襟首の糸を解き、そこに縫い込んであった僅かな銭を出した。
「鷹丸はあぁ云ったけど、芋くらい食べさせてやりたい。男だからうんと腹が空くよね」
 銭との交換なら芋くらい手に入れられるとかすみは踏んだのだった。竹籠を抱え里への坂道をかすみは下って行った。





早魚は当方にて預かった

返して欲しくば、明朝卯の刻、中田島まで来られたし

必ずや密書所持の上、香取玄明同道の事


結城玄蕃友成殿

           才賀丸


 魚を獲って帰ってきた鷹丸が見つけたのは、柱に打ち付けられた半紙だった。


次回ヘ続く

 

中田島とは、

中田島砂丘(なかたじまさきゅう)は、静岡県浜松市の南部、天竜川以西に位置し、南北約0.6km、東西約4kmに渡って広がる砂丘で遠州浜(遠州大砂丘)の一部。日本三大砂丘の一つとして有名。その他2ヶ所は、鳥取砂丘(鳥取県)と吹上浜(鹿児島県)。




※この物語は史実をベースにしておりますが、筆者の創作も多分に盛り込まれております。読者諸兄には何卒ご了承くださいませ


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