1 / 13
プロローグ
しおりを挟む 裏の井戸へと瓶を手にやって来て、ぐるるる……と弱り気味に喉を鳴らし、耳を寝かせた挙げ句に溜息を吐いた。背を丸め冷たい水を汲み取り、柄杓で一杯飲み干す。
「冷えてきたな」
肌に感じる温度や空気の乾き、森に生きる生き物の鳴き声からして、もうすっかり夜であると知った。瓶を水で満たし庵へと戻ると、篤実は十兵衛の姿を認めて彼を呼んだ。
「十兵衛」
「飯は、口に合いましたか、若君」
「ちと、塩が強かった」
「この辺の味噌は、都に比べるとそうかもしれねえ。次は薄く……」
「いや、そんなことはしなくてよい、十兵衛」
篤実は碗を手に立ち上がった。つられて十兵衛が顔を上げると微かに笑むような吐息が聞こえた。
「これが其方の味なのだな。此の儘で良い。して……何処に下げれば良い」
「いや、若! 儂が片付けます、どうかごゆるりと」
十兵衛は水瓶を足元に置き、篤実の気配のする方へ手探りで進む。その手を篤実が取り、空になった碗を握らせた。
「では、余は先に休む。十兵衛、寒いのは余は好まぬ故」
「はい、湯湯婆を……」
「いや」
するり……と十兵衛の着物の上から、冷えた薄い掌が撫でた。そうして、肘の辺りが摘ままれる。
「余に添い寝せよ、十兵衛。その方が良い」
篤実の言葉に十兵衛は無い目を瞠った。
「…じゃが、若君、儂は…」
「余の命が聞けぬか?」
十兵衛の脳裏には、五年前に見た若者が首を傾げながら自分を睨め付ける様がありありと再生できた。息を詰め、眉間に皺を寄せた後渋々頷く。
「――御意、若君」
篤実の手が十兵衛の着物の袖を再びキュッと握った後、手の甲を名残惜しげに撫でて離れていく。
とさりと横に鳴る音を聞いて、十兵衛は掻き込むように夕餉を済ませた。
湯を沸かし、熱い茶を飲んだ後に布団に近付くと、篤実は大人しくしていたがその僅かな気配の違いから狸寝入りをしているのがばればれであった。なにせ十兵衛は盲になった分気配に敏いのだ。
「……失礼します」
布団をめくり、潜る。五年振りにして、初めて褥を共にする若君の背は、こうして並ぶと以前よりも伸びている。それでも頭が十兵衛の胸元に収まり、つま先はすねの辺りまでしかない。
「十兵衛」
「はい」
囁く声に十兵衛は擽ったさをおぼえて、狼の立ち耳をぴるるるっと震わせる。
「余を抱きしめよ」
ぶわぁっと毛皮が逆立った。
「さ…すがに、そんな無礼はできねぇ、若君」
「……よい。余とそなたしかおらぬ」
布団の中で十兵衛よりも細い身体が擦り寄せられる。己と違い毛皮の無いつるりとした肌。濃縮されたひとのにおい。
あの戦場で庇い、抱き締めた若君のにおい。ずっと嗅いでいたい、生き物の本能に絡み付くにおいがする。
「余は――におう、か? 十兵衛」
その台詞に、この人は己の心を見抜く目を持っているのだと、十兵衛はかえって恥ずかしくなった。
「あ、明日、湯を沸かしましょう。それか風呂を借りに」
「……そうか」
獣の匂いをまとわりつかせた若君が腕の中に身を落ち着けて、十兵衛は尚のこと眉間の皺を深くした。あまりにもその匂いが濃くて、近い。横を向いた十兵衛は後ろ向きであるらしい若君の身体に腕を回し、意識を静かに眠らせていった。
「冷えてきたな」
肌に感じる温度や空気の乾き、森に生きる生き物の鳴き声からして、もうすっかり夜であると知った。瓶を水で満たし庵へと戻ると、篤実は十兵衛の姿を認めて彼を呼んだ。
「十兵衛」
「飯は、口に合いましたか、若君」
「ちと、塩が強かった」
「この辺の味噌は、都に比べるとそうかもしれねえ。次は薄く……」
「いや、そんなことはしなくてよい、十兵衛」
篤実は碗を手に立ち上がった。つられて十兵衛が顔を上げると微かに笑むような吐息が聞こえた。
「これが其方の味なのだな。此の儘で良い。して……何処に下げれば良い」
「いや、若! 儂が片付けます、どうかごゆるりと」
十兵衛は水瓶を足元に置き、篤実の気配のする方へ手探りで進む。その手を篤実が取り、空になった碗を握らせた。
「では、余は先に休む。十兵衛、寒いのは余は好まぬ故」
「はい、湯湯婆を……」
「いや」
するり……と十兵衛の着物の上から、冷えた薄い掌が撫でた。そうして、肘の辺りが摘ままれる。
「余に添い寝せよ、十兵衛。その方が良い」
篤実の言葉に十兵衛は無い目を瞠った。
「…じゃが、若君、儂は…」
「余の命が聞けぬか?」
十兵衛の脳裏には、五年前に見た若者が首を傾げながら自分を睨め付ける様がありありと再生できた。息を詰め、眉間に皺を寄せた後渋々頷く。
「――御意、若君」
篤実の手が十兵衛の着物の袖を再びキュッと握った後、手の甲を名残惜しげに撫でて離れていく。
とさりと横に鳴る音を聞いて、十兵衛は掻き込むように夕餉を済ませた。
湯を沸かし、熱い茶を飲んだ後に布団に近付くと、篤実は大人しくしていたがその僅かな気配の違いから狸寝入りをしているのがばればれであった。なにせ十兵衛は盲になった分気配に敏いのだ。
「……失礼します」
布団をめくり、潜る。五年振りにして、初めて褥を共にする若君の背は、こうして並ぶと以前よりも伸びている。それでも頭が十兵衛の胸元に収まり、つま先はすねの辺りまでしかない。
「十兵衛」
「はい」
囁く声に十兵衛は擽ったさをおぼえて、狼の立ち耳をぴるるるっと震わせる。
「余を抱きしめよ」
ぶわぁっと毛皮が逆立った。
「さ…すがに、そんな無礼はできねぇ、若君」
「……よい。余とそなたしかおらぬ」
布団の中で十兵衛よりも細い身体が擦り寄せられる。己と違い毛皮の無いつるりとした肌。濃縮されたひとのにおい。
あの戦場で庇い、抱き締めた若君のにおい。ずっと嗅いでいたい、生き物の本能に絡み付くにおいがする。
「余は――におう、か? 十兵衛」
その台詞に、この人は己の心を見抜く目を持っているのだと、十兵衛はかえって恥ずかしくなった。
「あ、明日、湯を沸かしましょう。それか風呂を借りに」
「……そうか」
獣の匂いをまとわりつかせた若君が腕の中に身を落ち着けて、十兵衛は尚のこと眉間の皺を深くした。あまりにもその匂いが濃くて、近い。横を向いた十兵衛は後ろ向きであるらしい若君の身体に腕を回し、意識を静かに眠らせていった。
3
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
義妹からの嫌がらせで悪役令嬢に仕立て上げられそうになった挙句、旦那からモラハラ受けたのでブチギレます。~姫鬼神の夫婦改善&王国再建記~
しろいるか
恋愛
隣国との関係性を高めるために結婚した私と旦那。最初はうまくいってたけど、義妹の身を弁えない異常な金遣いの荒さとワガママのせいで、王国が存亡の危機に瀕してしまう。なんとかしようと諌めようとすると、それをよしとしない義妹の嫌がらせがはじまり、私は悪人に。そしてとうとう、旦那までモラハラしてくるようになってしまった。
精神的に追い詰められていた私に、また旦那のモラハラが始まる。もう、我慢の限界!
「旦那様。今から殴ります」
私はそう宣言した――!
これは、夫婦の絆を力で取り戻すと同時に、傾いた王国をたてなおすやり直しの痛快物語である。

私はあなたの癒しの道具ではありません
琴乃葉
恋愛
モラハラ婚約者との生活に不満を募らせるリリーアン。婚約者のカージャスは、疲れた、俺を労われと悪態をつき、気分が悪ければあたり離散らしてばかり。
こんな生活がずっと続くなんてとリリーアンは婚約解消を申し出るがうまくはいかず…。
そんなリリーアンを助けたのは彼女にずっと想いを寄せていたルージェック。
ちょっと腹黒なルージェックにいつの間にか外堀を埋められ、溺愛されていくリリーアンは無事、モラハラ男から逃げれるのか…。
小説家になろうにも投稿しています

《完結》愛する人と結婚するだけが愛じゃない
ぜらいす黒糖
恋愛
オリビアはジェームズとこのまま結婚するだろうと思っていた。
ある日、可愛がっていた後輩のマリアから「先輩と別れて下さい」とオリビアは言われた。
ジェームズに確かめようと部屋に行くと、そこにはジェームズとマリアがベッドで抱き合っていた。
ショックのあまり部屋を飛び出したオリビアだったが、気がつくと走る馬車の前を歩いていた。

職業『お飾りの妻』は自由に過ごしたい
LinK.
恋愛
勝手に決められた婚約者との初めての顔合わせ。
相手に契約だと言われ、もう後がないサマンサは愛のない形だけの契約結婚に同意した。
何事にも従順に従って生きてきたサマンサ。
相手の求める通りに動く彼女は、都合のいいお飾りの妻だった。
契約中は立派な妻を演じましょう。必要ない時は自由に過ごしても良いですよね?

【完結】傷跡に咲く薔薇の令嬢は、辺境伯の優しい手に救われる。
朝日みらい
恋愛
セリーヌ・アルヴィスは完璧な貴婦人として社交界で輝いていたが、ある晩、馬車で帰宅途中に盗賊に襲われ、顔に深い傷を負う。
傷が癒えた後、婚約者アルトゥールに再会するも、彼は彼女の外見の変化を理由に婚約を破棄する。
家族も彼女を冷遇し、かつての華やかな生活は一転し、孤独と疎外感に包まれる。
最終的に、家族に決められた新たな婚約相手は、社交界で「醜い」と噂されるラウル・ヴァレールだった―――。

氷の貴婦人
羊
恋愛
ソフィは幸せな結婚を目の前に控えていた。弾んでいた心を打ち砕かれたのは、結婚相手のアトレーと姉がベッドに居る姿を見た時だった。
呆然としたまま結婚式の日を迎え、その日から彼女の心は壊れていく。
感情が麻痺してしまい、すべてがかすみ越しの出来事に思える。そして、あんなに好きだったアトレーを見ると吐き気をもよおすようになった。
毒の強めなお話で、大人向けテイストです。

【完結】6人目の娘として生まれました。目立たない伯爵令嬢なのに、なぜかイケメン公爵が離れない
朝日みらい
恋愛
エリーナは、伯爵家の6人目の娘として生まれましたが、幸せではありませんでした。彼女は両親からも兄姉からも無視されていました。それに才能も兄姉と比べると特に特別なところがなかったのです。そんな孤独な彼女の前に現れたのが、公爵家のヴィクトールでした。彼女のそばに支えて励ましてくれるのです。エリーナはヴィクトールに何かとほめられながら、自分の力を信じて幸せをつかむ物語です。

聖女は魔に転じて世界を狂わす
白雲八鈴
恋愛
少女の小さな世界は平和だった。両親がいて、幼馴染のロビンがいて、村のみんなは優しく何もかもが幸せだった。
高貴な人を助けるまでは・・・。
そこから全てが狂っていった。聖女と呼ばれ、人々から崇められ、今までの温かな幸せが崩れていった。
聖女の悲しみの先には・・・。
*「番とは呪いだと思いませんか」の同じ世界感になります。本作を読んでいなくても全く支障ありません。
*主人公の少女は脳内花畑です。ネジが一本転がっている感じです。苦手な読者様はバックでお願い致します。
*残酷的な表現があります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる