君の記憶が消えゆく前に

じじ

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美弥が1日のうちの大半、僕を忘れるようになった。
もう今では、思い出している時間の方が奇跡に近い。

「おはよう、美弥」
「誰よ、あなた」
「君の夫だ」

気づいたことがある。彼女は僕のことを覚えていないが、一度納得すれば元に戻るまでは僕のことを認知できる。そして、いつの頃からか…多分、1日の4分の3以上忘れるようになった頃から、僕への問いただしかたが少し穏やかになった。
いや、症状が出てない時ですら感情が平坦になったと言うべきか。
嬉しいことがあれば、子どものように喜んで、悲しいことがあれば涙を流していた彼女の天真爛漫な性格はなりをひそめた。

忘れるたびに叫ばれたり怒鳴られなくなって良かったと思うべきなのだろうか。

「うそよ。私に夫なんていない」
「華と詩の父親はだれか覚えているのか」
「…」
「分からないのは覚えていないからだ。君は愛盗病なんだ。君が忘れているのは僕なんだよ」

優しく説明する。彼女はしばらく考え込んだあと、納得したように頷いた。
でも、これも彼女が記憶を取り戻すと、また忘れてしまうやり取りだ。

正直、もう辛かった。彼女が僕を覚えている時間が短くなるにつれて、彼女を失いたくないと言う気持ちだけでなく、早く終わって欲しいという気持ちが芽生えるようになった。
行き場のないその思いは、僕の中に黒い染みのように広がり続けた。そんなことを考える自分の残酷さに嫌気がさしては落ち込み、しかし一方で、美弥に忘れられた悲しみを癒すことにもなった。

桜の舞うある日曜日。それは彼女が僕を初めて忘れた日からちょうど一年だ。
彼女は先程、僕に誰何した後、夫だと納得してくれた。
今日が彼女の最期になることを僕は知っていた。永遠に来ないでくれと願う一方で早く楽になりたいと待ち望んでしまった日。

「散歩に行こうか」
「華と詩は?」
「もちろん一緒だよ」
「あなたがパパなのよね」
「ああ」
「今日で最後なの?」
「ああ、さっき説明した通りだ」

四人で川原の桜並木に向かう。子ども二人は舞い散る桜を掴もうと嬉しそうに飛び跳ねている。
二人で並んでその光景を見る。久しぶりの穏やかな時間。僕は一年間の話だけでなく、僕と美弥が出会った頃からの話を全て彼女に聞かせた。
彼女の人生に僕も存在したことを覚えたまま、せめて旅立って欲しかった。
これほど彼女を深く愛した男がいたと言うことを知っていてほしかった。

話し終えた僕を見て、彼女は一筋涙を流した。
不意に一枚の花びらが彼女の頭に舞い落ちた。僕はそっと彼女の髪の毛に触れ、優しく花びらをつまんだ。彼女は微笑みながら目を閉じた。

「ありがとう。私は幸せよ。」

そして、深呼吸して続けた。

「私はきっと今日、あなたとの記憶を取り戻すことはできないと思う。でも、あなたが聞かせてくれた私とあなたの話は本当に幸せそうだわ。私が心から愛しているのがあなただって、ちゃんと分かるもの。思い出せなくて、そしてそんな状態であなたの前からいなくなること謝るわ。でもね、私はきっとあなたのことをとても愛して、信頼していたわ。」

僕は耐えられなくなった。さっきから涙がとめどなく溢れ、止まらない。

「忘れるのも辛いけれど、忘れられる方がきっと辛いわよね。一年間本当にありがとう。今度はあなたが、私のことを忘れて幸せになってね。」


僕は、この日を、この光景を一生忘れないだろう。
その日の夜、彼女は眠っている間に静かに息を引き取った。




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みんなの感想(1件)

2023.05.17 ユーザー名の登録がありません

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じじ
2023.05.17 じじ

感想ありがとうございます!

楽しんで頂けるように頑張りますので、ぜひまたお読み頂けると嬉しいです。

解除

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