16 / 16
冬
15
しおりを挟む
美弥が1日のうちの大半、僕を忘れるようになった。
もう今では、思い出している時間の方が奇跡に近い。
「おはよう、美弥」
「誰よ、あなた」
「君の夫だ」
気づいたことがある。彼女は僕のことを覚えていないが、一度納得すれば元に戻るまでは僕のことを認知できる。そして、いつの頃からか…多分、1日の4分の3以上忘れるようになった頃から、僕への問いただしかたが少し穏やかになった。
いや、症状が出てない時ですら感情が平坦になったと言うべきか。
嬉しいことがあれば、子どものように喜んで、悲しいことがあれば涙を流していた彼女の天真爛漫な性格はなりをひそめた。
忘れるたびに叫ばれたり怒鳴られなくなって良かったと思うべきなのだろうか。
「うそよ。私に夫なんていない」
「華と詩の父親はだれか覚えているのか」
「…」
「分からないのは覚えていないからだ。君は愛盗病なんだ。君が忘れているのは僕なんだよ」
優しく説明する。彼女はしばらく考え込んだあと、納得したように頷いた。
でも、これも彼女が記憶を取り戻すと、また忘れてしまうやり取りだ。
正直、もう辛かった。彼女が僕を覚えている時間が短くなるにつれて、彼女を失いたくないと言う気持ちだけでなく、早く終わって欲しいという気持ちが芽生えるようになった。
行き場のないその思いは、僕の中に黒い染みのように広がり続けた。そんなことを考える自分の残酷さに嫌気がさしては落ち込み、しかし一方で、美弥に忘れられた悲しみを癒すことにもなった。
桜の舞うある日曜日。それは彼女が僕を初めて忘れた日からちょうど一年だ。
彼女は先程、僕に誰何した後、夫だと納得してくれた。
今日が彼女の最期になることを僕は知っていた。永遠に来ないでくれと願う一方で早く楽になりたいと待ち望んでしまった日。
「散歩に行こうか」
「華と詩は?」
「もちろん一緒だよ」
「あなたがパパなのよね」
「ああ」
「今日で最後なの?」
「ああ、さっき説明した通りだ」
四人で川原の桜並木に向かう。子ども二人は舞い散る桜を掴もうと嬉しそうに飛び跳ねている。
二人で並んでその光景を見る。久しぶりの穏やかな時間。僕は一年間の話だけでなく、僕と美弥が出会った頃からの話を全て彼女に聞かせた。
彼女の人生に僕も存在したことを覚えたまま、せめて旅立って欲しかった。
これほど彼女を深く愛した男がいたと言うことを知っていてほしかった。
話し終えた僕を見て、彼女は一筋涙を流した。
不意に一枚の花びらが彼女の頭に舞い落ちた。僕はそっと彼女の髪の毛に触れ、優しく花びらをつまんだ。彼女は微笑みながら目を閉じた。
「ありがとう。私は幸せよ。」
そして、深呼吸して続けた。
「私はきっと今日、あなたとの記憶を取り戻すことはできないと思う。でも、あなたが聞かせてくれた私とあなたの話は本当に幸せそうだわ。私が心から愛しているのがあなただって、ちゃんと分かるもの。思い出せなくて、そしてそんな状態であなたの前からいなくなること謝るわ。でもね、私はきっとあなたのことをとても愛して、信頼していたわ。」
僕は耐えられなくなった。さっきから涙がとめどなく溢れ、止まらない。
「忘れるのも辛いけれど、忘れられる方がきっと辛いわよね。一年間本当にありがとう。今度はあなたが、私のことを忘れて幸せになってね。」
僕は、この日を、この光景を一生忘れないだろう。
その日の夜、彼女は眠っている間に静かに息を引き取った。
完
もう今では、思い出している時間の方が奇跡に近い。
「おはよう、美弥」
「誰よ、あなた」
「君の夫だ」
気づいたことがある。彼女は僕のことを覚えていないが、一度納得すれば元に戻るまでは僕のことを認知できる。そして、いつの頃からか…多分、1日の4分の3以上忘れるようになった頃から、僕への問いただしかたが少し穏やかになった。
いや、症状が出てない時ですら感情が平坦になったと言うべきか。
嬉しいことがあれば、子どものように喜んで、悲しいことがあれば涙を流していた彼女の天真爛漫な性格はなりをひそめた。
忘れるたびに叫ばれたり怒鳴られなくなって良かったと思うべきなのだろうか。
「うそよ。私に夫なんていない」
「華と詩の父親はだれか覚えているのか」
「…」
「分からないのは覚えていないからだ。君は愛盗病なんだ。君が忘れているのは僕なんだよ」
優しく説明する。彼女はしばらく考え込んだあと、納得したように頷いた。
でも、これも彼女が記憶を取り戻すと、また忘れてしまうやり取りだ。
正直、もう辛かった。彼女が僕を覚えている時間が短くなるにつれて、彼女を失いたくないと言う気持ちだけでなく、早く終わって欲しいという気持ちが芽生えるようになった。
行き場のないその思いは、僕の中に黒い染みのように広がり続けた。そんなことを考える自分の残酷さに嫌気がさしては落ち込み、しかし一方で、美弥に忘れられた悲しみを癒すことにもなった。
桜の舞うある日曜日。それは彼女が僕を初めて忘れた日からちょうど一年だ。
彼女は先程、僕に誰何した後、夫だと納得してくれた。
今日が彼女の最期になることを僕は知っていた。永遠に来ないでくれと願う一方で早く楽になりたいと待ち望んでしまった日。
「散歩に行こうか」
「華と詩は?」
「もちろん一緒だよ」
「あなたがパパなのよね」
「ああ」
「今日で最後なの?」
「ああ、さっき説明した通りだ」
四人で川原の桜並木に向かう。子ども二人は舞い散る桜を掴もうと嬉しそうに飛び跳ねている。
二人で並んでその光景を見る。久しぶりの穏やかな時間。僕は一年間の話だけでなく、僕と美弥が出会った頃からの話を全て彼女に聞かせた。
彼女の人生に僕も存在したことを覚えたまま、せめて旅立って欲しかった。
これほど彼女を深く愛した男がいたと言うことを知っていてほしかった。
話し終えた僕を見て、彼女は一筋涙を流した。
不意に一枚の花びらが彼女の頭に舞い落ちた。僕はそっと彼女の髪の毛に触れ、優しく花びらをつまんだ。彼女は微笑みながら目を閉じた。
「ありがとう。私は幸せよ。」
そして、深呼吸して続けた。
「私はきっと今日、あなたとの記憶を取り戻すことはできないと思う。でも、あなたが聞かせてくれた私とあなたの話は本当に幸せそうだわ。私が心から愛しているのがあなただって、ちゃんと分かるもの。思い出せなくて、そしてそんな状態であなたの前からいなくなること謝るわ。でもね、私はきっとあなたのことをとても愛して、信頼していたわ。」
僕は耐えられなくなった。さっきから涙がとめどなく溢れ、止まらない。
「忘れるのも辛いけれど、忘れられる方がきっと辛いわよね。一年間本当にありがとう。今度はあなたが、私のことを忘れて幸せになってね。」
僕は、この日を、この光景を一生忘れないだろう。
その日の夜、彼女は眠っている間に静かに息を引き取った。
完
15
お気に入りに追加
4
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(1件)
あなたにおすすめの小説
春の記憶
宮永レン
ライト文芸
結婚式を目前に控えている星野美和には、一つだけ心残りがあった。
それは、遠距離恋愛の果てに別れてしまった元恋人――宝井悠樹の存在だ。
十年ぶりに彼と会うことになった彼女の決断の行方は……
蝶々結びの片紐
桜樹璃音
ライト文芸
抱きしめたい。触りたい。口づけたい。
俺だって、俺だって、俺だって……。
なぁ、どうしたらお前のことを、
忘れられる――?
新選組、藤堂平助の片恋の行方は。
▷ただ儚く君を想うシリーズ Short Story
Since 2022.03.24~2022.07.22
俺の大切な人〜また逢うその日まで〜
かの
恋愛
俺には大切な人がいた。
隣にいるのが当たり前で、
これからもずっとそうだと思ってた。
....どうして。なんで。
.........俺を置いていったの。
叶うのならば、もう一度。
野菜ばたけ@既刊5冊📚好評発売中!
ライト文芸
今年30になった結奈は、ある日唐突に余命宣告をされた。
混乱する頭で思い悩んだが、そんな彼女を支えたのは優しくて頑固な婚約者の彼だった。
彼と籍を入れ、他愛のない事で笑い合う日々。
病院生活でもそんな幸せな時を過ごせたのは、彼の優しさがあったから。
しかしそんな時間にも限りがあって――?
これは夫婦になっても色褪せない恋情と、別れと、その先のお話。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈@12/27電子書籍配信中
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
本日、私の大好きな幼馴染が大切な姉と結婚式を挙げます
結城芙由奈@12/27電子書籍配信中
恋愛
本日、私は大切な人達を2人同時に失います
<子供の頃から大好きだった幼馴染が恋する女性は私の5歳年上の姉でした。>
両親を亡くし、私を養ってくれた大切な姉に幸せになって貰いたい・・・そう願っていたのに姉は結婚を約束していた彼を事故で失ってしまった。悲しみに打ちひしがれる姉に寄り添う私の大好きな幼馴染。彼は決して私に振り向いてくれる事は無い。だから私は彼と姉が結ばれる事を願い、ついに2人は恋人同士になり、本日姉と幼馴染は結婚する。そしてそれは私が大切な2人を同時に失う日でもあった―。
※ 本編完結済。他視点での話、継続中。
※ 「カクヨム」「小説家になろう」にも掲載しています
※ 河口直人偏から少し大人向けの内容になります
わからなくても
テキイチ
ライト文芸
彼氏と別れた翌日、私を失意のどん底に突き落とした、あの男が帰ってきた。男は笑いながら言うのだ。「俺が悪かったから、許して」と。
里芋の煮っ転がし、握り合う手、コスモス。きっと、なんとかなる。本当に好きなものも、これから先も、わからなくても。
※小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも公開しています。
※表紙の素敵な絵は那月結音さん(@natsuki_yuine)に描いていただきました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
退会済ユーザのコメントです
感想ありがとうございます!
楽しんで頂けるように頑張りますので、ぜひまたお読み頂けると嬉しいです。