夜の底からの通信

歌川ピロシキ

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いたたまれない日々

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「……ひゅぅあっ!?」

 喉から声にならない音を発しながら 目を開けた。
 目の前にあるのは血なまぐさい戦場ではなく、古臭い天井。夕暮れ時の光が仕切りのカーテンをオレンジ色に染めていた。

「夢……」

 呆然とつぶやく自分の声が、情けないくらいに掠れていた。それでも黄昏時の静まり返った空気の中、妙に反響してからあたしの耳に戻ってくる。

「そっか……入院してたんだっけ……」

 故郷の村近くにあるちょっとした街の、廃校舎を利用して作られた小さな病院。ここにはあたしたちみたいな帰還兵ばかりが入院している。
 戦後すぐはここにも患者が溢れかえっていたけど、今は重症者を除いて家に帰されたり、普通の病院に移されてしまった。この病室も元々は六人部屋だけど、今はあたし一人で使ってる。

 ここに残っているのはほとんどが寝たきりの重傷者。手足の一本や二本吹っ飛んじゃって、自分ではもう歩くことも起き上がる事すらもできずに、ただ一日中天井を眺めているだけの人達。
 残りは「普通の生活」ができなくて、故郷からここに送り返された連中。例えばあたしみたいに。

 終戦後、あたしは晴れて故郷に帰ることができた。
 もう平和になったんだ。これで安心して家族と一緒に元通りの暮らしができる。
 そう思っていたあたしは馬鹿だった。
 骨の髄まで戦争が染みついてしまったあたしたちが、普通の暮らしなんかできるはずがなかった。
 家の外を車が通っただけで怯えて物置に潜り込み、掃除機の音で暴れまわり、パンクの音で家を飛び出した。
 母さんも兄さんも、最初のうちは「かわいそうに」といたわってくれたものだ。けど、ものの二か月としないうちに音をあげた。

「いつまで戦争気分でいるんだ!?」

 何度もそう兄さんに怒鳴られたけど、あたしにはどうしようもなかった。
 戦場ではたった一秒の迷いが命取り。
 豪胆ぶって物音を気にせず悠々と構えていた奴からどんどん死んでいったんだ。聞き間違えて逃げ出したって、後で笑い話にすればいい。命あっての物種だもの。

「やっぱり、まだ恨んでいるんだね。お前をあんなところに送った私たちを」

 こう言って何度も母さんに泣かれたっけ。

「あの時は、こんなに大変なことになるなんて思わなかったんだ。戦争なんてすぐに終わるって話だったし、まさか女の子をあんなに危険な最前線に送り込むなんて、夢にも思わなかった」

 いつもいつも、そうやって自分は何も知らなかった、悪くなかったと言い訳を並べるだけ。違うでしょ、恨んでるのはあたしじゃない。母さんと兄さんの方。

「もう戦争は終わり。これからは明るい未来しかない。だから嫌なことはみんな忘れて前を向こう!」

 母さんと兄さんはそう言ってあげられないあたしを恨んでるんだ。あたしがいつも身にまとっている、戦場の空気を憎んでる。
 いつまでも自分達の罪を見せつけられてると勝手に思い込んで。

 冗談じゃない。
 いくら壊れた街をきれいに直したって、死んだ人たちは誰一人として帰って来ない。砲弾で汚染されて、麦が実らなくなった畑も元には戻らない。山や野原に埋まった地雷はそのまま通りがかるものの生命を奪い続けているし、爆撃で枯れてしまった泉にも水は戻ってこない。
 何もかも、なかったことになんかできないのに、必死で見ないふりをして、都合の良いものだけ欲しがるから、何もかもがおかしくなるんだ。

 そんな平和ごっこに家族もあたしも耐えられなくて、結局はここに戻ってきた。
 ここは街からも離れているからとても静か。近くの川を流れる水の音がさらさらと聞こえてくるくらい。あとは虫の大合唱。
 残念ながら小鳥の歌は聞こえない。戦争でここいらもだいぶ荒れたから、戦闘を嫌って逃げてしまったのか、巻き込まれてみんな死んでしまったのか。
 その代わりに虫たちが大繁栄して、我が世の春を謳ってる。彼らの歌は安全の印。人が足を踏み入れたとたん、彼らはぴたりと黙るから。
 お陰であたしもここに来てからは暴れることも怯えることもなく、心穏やかに過ごせてはいる。代わりに心が空っぽになって、何をしたいのか、何をすべきなのか、まったく見当がつかないんだけど。
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