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鉄の臭い
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むくむくと湧き上がる入道雲は純白に輝き、うっかり見上げた瞳にいつまでも紫の影を灼きつけた。灼けつくような日差しにじっとりと浮かんだ汗を乱暴に拭う。無遠慮な光にあぶられた皮膚はひりひりと痛みすら感じていた。
この五年間であたしを取り巻く何もかもがすっかり変わってしまったが、夏のこの日差しと暑さだけは変わる事がないようだ。
村へと向かう細い細い林の中の道をたどっていると、ブルブルという古いエンジンの音がゆっくりと近付いてきた。振り向くと、一台のおんぼろトラックが歩くよりは少しだけマシといった速度でのろのろと進んでくる。
あたしは邪魔にならないように林の中に入ってトラックが通り過ぎるのを待とうとした。
「おい、どこに行くつもりだ? こっから先は何もないぜ?」
「あら、カグルって村があったはずなんだけど。まさかなくなっちゃったの?」
短い金髪の若い男が追い越しざまに声をかけてきた。何もないということは、東部の村々と同じようにあたしの故郷も跡形もなく焼かれてしまったのだろうか?
この周辺で大きな会戦があったという話は聞かないから安心していたのに。
もっとも、辺境の小さな村が住民ごときれいさっぱり消えてなくなるなんて、国中の至るところで起きていた。別に珍しくもなんともない。
「あるけど、何もない村だぜ? よそ者が一体何の用だ?」
「よそ者って……あたし帰って来たのよ、五年ぶりに。まさか、あたしも死んだことにされちゃってたの?」
故郷が消えていなかったことに安堵するも、今度はよそ者扱いにモヤモヤする。そういえば重傷を負って故郷に送り返された戦友が、自分よりも先に故郷に戦死の公報が届いたせいで、帰り着いたら自分の墓ができていたと手紙でぼやいていたっけ。
「五年ぶりって……まさか、マーシャ!?」
「あんた、イヴァンなの?」
ひょろひょろと頼りなかった隣家の少年は、すっかり筋肉質の頼もしそうな青年へと成長していた。彼ははにかみながらもあたしをトラックの荷台に乗せてくれた。
狙撃兵としてあちこちの前線を転々としてきたあたしにとっては歩いた方がよほど早い気がするのだが、好意を無碍にするのはなかなか難しい。
何しろこの五年というもの、あたしが目にしてきたのは敵意と殺意、悪意ばかりだったから。
故郷には何とか帰り着いたものの、あれほどまでに待ち望んだ平和な日々は、あたしに不安と苦痛をもたらすだけのものだった。
軍服と軍靴を脱いでスカートと木靴に替えさせられたあたしは、足もとのすかすかした頼りない感触に戸惑うばかり。足にまとわりつく長いスカートに足を取られて転びそうになったり、頼りない木靴でつまずきそうになったり。
軍服に軍靴を履いた上にきっちりとゲートルを巻いて大地を踏みしめていた、あの重々しい感覚が懐かしくてたまらない。
いや、それがないと不安なんだ。自分が生きていると言う実感が持てなくて。
ちょっとした物音に飛び上がっては軍外套を引っ掴み、愛用のライフルを探ってしまう。こんなもの必要ないと、家に帰ってすぐに母さんに捨てられてしまったのに。
そんなものの代わりに鍋や包丁を扱えるようになりなさい、と焦げ付いた鍋を大量に渡された。
よく洗った鍋を錆びないようにたき火でしっかりあぶって水分を飛ばす。
そして更にしっかり加熱すると、鉄の表面に青黒い皮膜ができて釘もネジもさびにくくなるのだ。
おばさんに言われた通り、あたしはのろのろと空の鍋を火にかける。
そして鍋がすっかり熱くなると、懐かしくも心揺さぶられるあの臭いが漂ってきた。明らかに無機的なのに、どこか生々しく生命の息遣いを感じるあの臭い。
鉄よ、鉄の臭いよ! 鉄が灼けてるんだわ……灼けた鉄が臭ってるんだ!
思わず身を乗り出すと、熱く灼けた鍋に顔を突っ込むようにして臭いを嗅ぐ。
ああ、銃身が破裂する一歩手前まで撃って撃って撃ちまくったライフルの臭い。
深夜に森を踏みしだいて行軍した魔導戦車の臭い。
そして温かいものをまき散らし、次第に動かなくなっていく戦友たちが最期に漂わせていた臭い……
ああ、生命の匂いがする。あたしは生きている。
「な……なんだよ、気持ち悪い。そんなに鉄の臭いが良ければ……血の臭いが良ければ、自分のを嗅げばいいじゃないか!」
無意識のうちに何か口走っていたらしい。
イヴァンが蒼ざめた顔を引きつらせながら、上ずった声で言う。
ああ、なんていい考えだろう。
血の臭いが嗅ぎたければ、自分のを嗅げばいい。
「ふふ。あんた、天才ね」
「ま、マーシャ。おまえ一体何を……」
調理用の研いだばかりの包丁を、腹部に思い切り差し込んでやる。
腹の奥深くに突き刺さったきっ先を支点に、大きく円を描くように柄をくるりとまわすと、温かいはらわたがあたしの手を濡らしてくれる。
「ああ、こんなに温かい。ふふ。ふふふふふ。とぉってもあったかいわ!」
「ひ……ひぃっ……」
溢れる鉄さびの臭い。心地よいはらわたの温もり。
「ふふふふふ。もっと早くにこうすればよかったんだわ。ああ、なんてしあわせなのかしら」
あたしは彼の震える手に自らの手を伸ばすと三回大きく縦に振って握手した。
「ありがとう、おかげですっきりしたわ!」
「……っ」
手を放した途端にぺたりと尻餅をつくイヴァン。鼻を衝くアンモニアの臭い。
あらら、粗相しちゃったのね。みっともない。
せっかく自分の血とはらわたで温まったはずなのに、なぜだか手足が冷たくなってきた。
でも、これでいい。どうせここにいたって、あたしの心はいつまでも泥だらけで地べたに伏せたまま、草やら葉っぱやらを頭からかぶっていつ訪れるともわからない敵を待ち伏せてるんだ。
ここはあたしの生きる世界じゃない。鉄の臭いがしない、明るくまっさらな世界。
あたしはあの真っ暗な泥の中で、獣の糞と共にべちゃりと潰されて消えていくのがふさわしいんだ。
「あたしが死んだら、沼地にでも捨てといて。お墓なんて上等なもん、居心地が悪くてたまんないわ」
次第に薄れ行く意識の端っこに、何かの吠える声が引っかかった。
でもそれっきり。あたしの意識は心地よい闇に沈み行き、二度と浮かび上がることはなかった。
この五年間であたしを取り巻く何もかもがすっかり変わってしまったが、夏のこの日差しと暑さだけは変わる事がないようだ。
村へと向かう細い細い林の中の道をたどっていると、ブルブルという古いエンジンの音がゆっくりと近付いてきた。振り向くと、一台のおんぼろトラックが歩くよりは少しだけマシといった速度でのろのろと進んでくる。
あたしは邪魔にならないように林の中に入ってトラックが通り過ぎるのを待とうとした。
「おい、どこに行くつもりだ? こっから先は何もないぜ?」
「あら、カグルって村があったはずなんだけど。まさかなくなっちゃったの?」
短い金髪の若い男が追い越しざまに声をかけてきた。何もないということは、東部の村々と同じようにあたしの故郷も跡形もなく焼かれてしまったのだろうか?
この周辺で大きな会戦があったという話は聞かないから安心していたのに。
もっとも、辺境の小さな村が住民ごときれいさっぱり消えてなくなるなんて、国中の至るところで起きていた。別に珍しくもなんともない。
「あるけど、何もない村だぜ? よそ者が一体何の用だ?」
「よそ者って……あたし帰って来たのよ、五年ぶりに。まさか、あたしも死んだことにされちゃってたの?」
故郷が消えていなかったことに安堵するも、今度はよそ者扱いにモヤモヤする。そういえば重傷を負って故郷に送り返された戦友が、自分よりも先に故郷に戦死の公報が届いたせいで、帰り着いたら自分の墓ができていたと手紙でぼやいていたっけ。
「五年ぶりって……まさか、マーシャ!?」
「あんた、イヴァンなの?」
ひょろひょろと頼りなかった隣家の少年は、すっかり筋肉質の頼もしそうな青年へと成長していた。彼ははにかみながらもあたしをトラックの荷台に乗せてくれた。
狙撃兵としてあちこちの前線を転々としてきたあたしにとっては歩いた方がよほど早い気がするのだが、好意を無碍にするのはなかなか難しい。
何しろこの五年というもの、あたしが目にしてきたのは敵意と殺意、悪意ばかりだったから。
故郷には何とか帰り着いたものの、あれほどまでに待ち望んだ平和な日々は、あたしに不安と苦痛をもたらすだけのものだった。
軍服と軍靴を脱いでスカートと木靴に替えさせられたあたしは、足もとのすかすかした頼りない感触に戸惑うばかり。足にまとわりつく長いスカートに足を取られて転びそうになったり、頼りない木靴でつまずきそうになったり。
軍服に軍靴を履いた上にきっちりとゲートルを巻いて大地を踏みしめていた、あの重々しい感覚が懐かしくてたまらない。
いや、それがないと不安なんだ。自分が生きていると言う実感が持てなくて。
ちょっとした物音に飛び上がっては軍外套を引っ掴み、愛用のライフルを探ってしまう。こんなもの必要ないと、家に帰ってすぐに母さんに捨てられてしまったのに。
そんなものの代わりに鍋や包丁を扱えるようになりなさい、と焦げ付いた鍋を大量に渡された。
よく洗った鍋を錆びないようにたき火でしっかりあぶって水分を飛ばす。
そして更にしっかり加熱すると、鉄の表面に青黒い皮膜ができて釘もネジもさびにくくなるのだ。
おばさんに言われた通り、あたしはのろのろと空の鍋を火にかける。
そして鍋がすっかり熱くなると、懐かしくも心揺さぶられるあの臭いが漂ってきた。明らかに無機的なのに、どこか生々しく生命の息遣いを感じるあの臭い。
鉄よ、鉄の臭いよ! 鉄が灼けてるんだわ……灼けた鉄が臭ってるんだ!
思わず身を乗り出すと、熱く灼けた鍋に顔を突っ込むようにして臭いを嗅ぐ。
ああ、銃身が破裂する一歩手前まで撃って撃って撃ちまくったライフルの臭い。
深夜に森を踏みしだいて行軍した魔導戦車の臭い。
そして温かいものをまき散らし、次第に動かなくなっていく戦友たちが最期に漂わせていた臭い……
ああ、生命の匂いがする。あたしは生きている。
「な……なんだよ、気持ち悪い。そんなに鉄の臭いが良ければ……血の臭いが良ければ、自分のを嗅げばいいじゃないか!」
無意識のうちに何か口走っていたらしい。
イヴァンが蒼ざめた顔を引きつらせながら、上ずった声で言う。
ああ、なんていい考えだろう。
血の臭いが嗅ぎたければ、自分のを嗅げばいい。
「ふふ。あんた、天才ね」
「ま、マーシャ。おまえ一体何を……」
調理用の研いだばかりの包丁を、腹部に思い切り差し込んでやる。
腹の奥深くに突き刺さったきっ先を支点に、大きく円を描くように柄をくるりとまわすと、温かいはらわたがあたしの手を濡らしてくれる。
「ああ、こんなに温かい。ふふ。ふふふふふ。とぉってもあったかいわ!」
「ひ……ひぃっ……」
溢れる鉄さびの臭い。心地よいはらわたの温もり。
「ふふふふふ。もっと早くにこうすればよかったんだわ。ああ、なんてしあわせなのかしら」
あたしは彼の震える手に自らの手を伸ばすと三回大きく縦に振って握手した。
「ありがとう、おかげですっきりしたわ!」
「……っ」
手を放した途端にぺたりと尻餅をつくイヴァン。鼻を衝くアンモニアの臭い。
あらら、粗相しちゃったのね。みっともない。
せっかく自分の血とはらわたで温まったはずなのに、なぜだか手足が冷たくなってきた。
でも、これでいい。どうせここにいたって、あたしの心はいつまでも泥だらけで地べたに伏せたまま、草やら葉っぱやらを頭からかぶっていつ訪れるともわからない敵を待ち伏せてるんだ。
ここはあたしの生きる世界じゃない。鉄の臭いがしない、明るくまっさらな世界。
あたしはあの真っ暗な泥の中で、獣の糞と共にべちゃりと潰されて消えていくのがふさわしいんだ。
「あたしが死んだら、沼地にでも捨てといて。お墓なんて上等なもん、居心地が悪くてたまんないわ」
次第に薄れ行く意識の端っこに、何かの吠える声が引っかかった。
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