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閑話1
春を呼ぶ竜
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「ふぅ、今日も冷えるね」
深夜の巡回中、思わずぼやいてしまった。
三月のイリュリアは寒暖の差が激しく天気も崩れがちで、春分を間近に控えたこの日も冷たい雨が音もなく降っている。
今日は市街地の中心を東に外れ、畑や草地の中にゴミや下水などの処理場などの施設が点在するあたりの担当だ。
街灯もなく自分たちの持つランタンの灯りだけが頼りの状態はいつにも増して心細く、夜明け前の冷え込んだ空気が余計に身に沁みる気がする。
「花冷えだな。風邪をひかないうちにさっさと帰投してすぐに着替えた方が良さそうだ」
珍しくエサドが弱音を吐いた。
二人とも軍外套のフードをしっかりかぶって襟元のフラップをしっかり閉めているが、それでも寒さが身に染みる。
きちんと防水処理された外套を着ていなければ、寒さだけでなく雨までが沁み込んで、さぞや惨めな気分になっていた事だろう。
「うん。きっとドレインたちがコーヒー淹れて待ってくれてるよね。風も強くなってきたから心配してるかも」
北東から吹く風も次第に強くなってきていて、ますます体感温度が下がってきたようだ。
今日は街の西側の担当でなくて本当に良かった。海岸沿いの崖を巡回している時にこんな強風に見舞われたら、風に煽られて大変なことになるかもしれない。
「ああ。さすがに街のこちら側ではそうそう事件も起きないだろう。早く帰ってあいつらを安心させてやらないと」
二人でぼやきながらも巡回はしっかり続け、街の外れのし尿処理場にさしかかった。汚水の最終処理場でもある遊水池ではみっしりと生えたクレソンとミントが白い小花を無数につけていて、夜の闇の中でもほのかに浮き上がって見える。
「やっぱりどうしても臭うね」
「ああ、その代わり少し温かいがな」
堆肥の発酵熱であたりの空気が少し温められ、処理場の周辺だけ寒さが和らいでいる。
おかげで周囲の道端や草地にはクロッカスや待雪草といった早春の花だけでなく、クレピスや鈴蘭、アネモネなどの暖かくなってから咲くはずの花々も咲き乱れていて、昼間に訪れると目に華やかだ。
代わりにすさまじい臭いが辺りに漂っているので、ゆっくり花を愛でるには向かない場所ではあるのだが。
「プランタジネットの田舎では堆肥を地中に埋めて発酵させて、その熱で温室を温めてるところもあるんだって。埋めちゃうと少しは臭いもマシなのかな?」
「どうしてここではそうしないんだ?」
「処理しなければならない量が全然違うからね。発酵にかけられる時間も違うし、充分に空気に触れさせて早めに完熟させないと」
「つまり田舎でなければ出来ない方法だと」
「うん。プランタジネットでも首都ルンデンヴィックは人口も密集してるから屎尿の量も莫大で、処理場を作る場所もないからそのまま川に流してるみたい」
実は大陸西部のオクシデント地方ではし尿を堆肥として処理している都市はあまり多くない。大抵は下水でそのまま河川や海に流してしまっているのだが、お陰で大都市を流れる川はどこも汚染されて酷い悪臭を放っている。
最近ではそれが感染症の流行の原因になっているのではないかという問題提起がなされるようになって、各国の政府を悩ませているらしい。
「それ、大丈夫なのか?」
「全然大丈夫じゃない。川が汚染されてコレラや赤痢が蔓延したり、河の下流や河口付近で魚が捕れなくなって大変みたいだよ。赤潮や青潮が発生して魚が大量死することもあるみたいだし。イリュリアはそこまで人口も多くないし、街の周囲に広い湿地帯があって処理場を作れたんだ。おかげでこうやって汚水を綺麗にしてから河に戻せるんだよね」
「……シュチパリアが小国で良かったな」
「うん。ちなみにイリュリアで屎尿を堆肥として利用する習慣が根付いているのは砂漠王国オスロエネの支配が長かったからだよ。おかげで市内は比較的清潔に保たれているんだ。それでも五十年くらい前に地下下水道を作った時はイリュリアでも汚泥を川に垂れ流して、やっぱり感染症が蔓延して大変なことになっちゃったんだけど」
「それでこんな大規模な処理場を作る事になったのか。もし人口が急増してまた処理許容量を超えたらえらいことになりそうだな」
今では街の区画ごとに沈殿槽を設けて汚泥を取り除くようにして、最終的に処理場でろ過した汚水を周辺の湿地帯に設けた遊水地に流している。
遊水地では水質浄化作用があるとされているクレソンとミントを栽培しており、収穫したものは薬の材料として使われる。
もちろん除去した汚泥もそのまま埋め立てる事はなく、発酵させてから公衆浴場の燃料として焼却し、灰を肥料として加工して農家に安価に販売しているのだ。
「うん。もし人口が一気に増えたらイリュリアでも処理しきれなくなりそうだから今から対策を考えとかないとね」
今後も処理能力を超えた下水のせいで病気が蔓延して苦しむ人が出ないように、人口増加に備えた処理場の拡充のみならず、汚水の能率の良い処理方法の開発を急がねばなるまい。
そんなとりとめもない話をしながら遊水地を一通りまわった時のことだ。
「あれ?何だろう?」
「どうした? 何だあれは……?」
繁茂したクレソンの茂みの中に何か大きなものがうずくまっているのを見つけた。暗くてよくわからないが、かなりの大きさだ。
二人でそっと近づくと、その何かは急に立ち上がった。
グァアアアアアアッ!!
獣の咆哮のような声を上げたそれは後ろ脚だけで立ち上がった。
大きい。ゆうに三メートルはあるんじゃないだろうか。
ランタンのわずかな灯りを反射して鈍く光る、金属のような光沢のあるウロコ。背に腹はコウモリのような一対の翼があり、目はギラギラと黄金色に光っている。
「何あれ?熊……にしても大きすぎない?」
「それに体型が全然違う。羽まで生えているとは、いったいどういう事だ?」
とっさにランタンを道端に置き、二人で武器を構えて警戒するが、その黒っぽいモノは意に介さずこちらに突進してきた。巨体に似合わず実に素早い。
すぐに飛びのきながら槍斧をくるりと回転させ、斧の部分を巨体に叩きつけるが……
「何これ、硬い……っ!!」
がきりと鈍い音がして槍斧を握る手に鈍い痺れのような感覚が伝わって来ただけで、相手の身体に食い込んだような手ごたえが一切ない。
そのまま振り回して振り切るように弾き飛ばすと、そいつは今度はエサドに飛び掛かった。
「ぐっ!! なんて硬さだ!?」
がッと重いものがぶつかり合うような鈍い音が響くと、ソレの爪を剣で受け止めたエサドが相手の腹を蹴飛ばして距離を取る。
間近に見たソレは蜥蜴のような爬虫類独特の瞳や鱗を持つものの、体型も大きさもまるで違う。むしろそれはまるで伝説に出て来る……
「まさか……ドラゴン……!?」
「にわかには信じがたいが……」
そう。ドラゴンそのものだ。
そう言えば年に一度、春分の頃に姿を現すドラゴンがいて、その年に最初に出くわした者を食い殺すという伝説があったような。そうして生贄を喰らい尽くすと凄まじい南風に変化して春を連れて来るのだ。
その竜は黒光りする鱗に黄金の瞳、太い四肢に小さなコウモリのような翼……
そう。ちょうど今僕たちの眼前にいるこの生物のような姿をしているという。
「やだ……本当に邪毒竜に出くわすなんて……」
訳の分からない存在を前にして、ついひるみそうになる。
伝説の通りならば生贄を喰らい尽くすか斃すまでは毒のヨダレをまきちらして周囲の水源を汚染し、長引く悪天候を引き起こして感染症を蔓延させると言う。
こいつが僕たちを春を招くための生贄にするつもりなら、おとなしく喰われた方が市民のためになるのだろうか。
「まだ邪毒幼竜といっただろう。たいした大きさではないし、何より頭は一つだ」
冷静なエサドに諭され乱れかけた呼吸が元に戻った。
竜という非現実的な存在を前におかしな方向に思考が飛んでしまったが、もし万が一こいつが伝説の竜だとしても斃してしまえばどうという事もないはずだ。
異様に硬い鱗に弾かれなかなか攻撃が通じそうにないが、何か工夫してダメージを与える方法を考え出さなければ。
「ヴォーレ! ぼうっとするな!!」
エサドの叱咤に我に返ると、鋭い風切り音と共に目の前を太い尻尾が通り過ぎた。
飛びのきざまに槍斧を叩きつけて斧部分で斬り落とそうとするが、やはり硬い鱗に弾かれてしまう。エサドも隙を見つけては腹やわきの下などの柔らかそうなところを狙って斬りつけているが、鱗に弾かれたり刃が滑ったりしてダメージを与えることができずにいる。
もう槍斧で斬る事を考えず、鈍器として使って殴りつけるような使い方の方がまだ有効かもしれない。
そう考えて、軽く息を吐きながら斧部分の重さと柄の長さを活かして遠心力で振り回した。
「……っ」
狙い過たず愛用の槍斧は尻尾を振りぬいて若干バランスを崩した邪毒幼竜の腹をしたたかに叩きつけよろめかせる。肌に傷はつけられずとも、内臓が受けた衝撃は簡単には逃がせないのだ。
奴が態勢を立て直す前に手元に引き戻した槍斧でさらに頭を横殴りにすると、さすがに脳震盪でも起こしたのか邪毒幼竜の動きが目に見えて鈍くなった。
ギャァアアアアッ!!
その分、邪毒幼竜の怒りを買った様子で、邪毒幼竜は僕に狙いを定めて大きく口を開け咆哮を上げながら威嚇してくる。
伝説通りならばここで毒を大量に含む涎をふきつけてくるところだが、その隙を与えず槍斧の鉤部分でアゴの一部を引っかけると手前に引き寄せた。
そのまま大きく開いた口に左手で抜き払った猫闘刃を喉の奥まで突き刺してやる。
グアァアアアアッ!!
のたうち苦しむ邪毒幼竜がしゃにむに振り回してくる爪や尻尾に当たらないよう身をかわしながら、なおも猫闘刃を押し込んでいたが、大きく振り回された尻尾に弾かれそうになって已む無く剣を竜の咥内に残したまま大きく飛び退る羽目になった。
「くぅっ。あと少しなのに」
「だいぶ弱っているようだ。何とかして口の中に再度斬りつけられれば……」
二人で竜をけん制しながら奴が体力を消耗しきるのを待っていると、雨が小降りになってきて、東の方の空がやや明るくなってきた気がする。
「もう夜明けか……随分長くかかってしまったな」
「急がなくちゃ……農家の人が仕事に出る間に片を付けないと巻き込んじゃう」
咥内に刺さったままの剣を引き抜こうと暴れる竜の勢いは衰えることなく、かといって硬い鱗を貫いてまで改めて決定的なダメージを与える事も能わず、刻一刻と過ぎる時間に焦りが募った頃。
コッケコッコ~~~~ッ!!!
「に、ニワトリ!?」
鋭く響く雄鶏の声がしたかと思うと、鮮やかな赤や金、黒のふわふわした塊が飛んできて暴れる邪毒幼竜に飛び掛かった。
そのままギラギラと光る黄金色の目を鋭い嘴でつつくと、邪毒幼竜はたまらずのたうち回る。
唖然とする僕たちをしり目にその鶏は邪毒幼竜にしきりに飛び掛かっては鱗で守られていない目や咥内を鉤爪で引っかき、蹴飛ばし、鋭い嘴でつついて翻弄した。
そうこうするうちに次第に邪毒幼竜の動きがだんだんと鈍くなり……
時間にするとほんの数分の出来事だったと思う。東の空がすっかり明るくなり、夜の闇が薄れた頃には邪毒幼竜はピクリとも動かなくなっていた。
コッケコッコ~~~~ッ!!!
誇らしげに響く雄鶏の声。
すると不思議な事に邪毒幼竜の死骸は跡形もなく消え去り、代わりに南からすさまじい勢いで温かく湿った風が吹き始める。
「うわ、すごい風!!」
「それにしても温かい風だな。伝説の通りだ」
そう言えば、伝説では邪毒幼竜や邪毒竜は雄鶏の姿をした竜人に斃されるんだっけ。
吹き荒れる風に雨雲も吹き飛ばされてしまったのか、いつの間にか空は綺麗に晴れ渡っていた。
「お前、まさか竜人なのか?」
とりあえず武器を収めて誇らしげに胸を張っている雄鶏に問いかけると、元気に「コケーッ!!」と鳴いたが、これはいったいどう解釈すれば良いのやら。
そのままバサバサッとこちらに飛んでくるので慌てて抱きとめると、上機嫌ですりすりと擦り寄って来た。
「うわ、ふわふわであったかい」
思わずサラサラした手触りの羽毛をそっと撫でると、雄鶏は気持ちよさそうに「ククク……クルルルル」と喉を鳴らした。
「うわ、可愛い。鶏って飛べないんじゃなくて、飛ぼうとしないだけなんだね」
「今の一部始終から出て来る感想がそれか!?」
「いやなんかあまりに現実離れしてて、何を言ったらいいのやら」
ランタンを拾いあげたエサドと共に何とも締まらない会話をしながら連隊本部への帰路につく。
ふわっふわの鶏をしっかり抱きしめたまま。
いや、すぐ放さなきゃと思っていたんだけど、なんだか上機嫌で大人しくしてるものだから、つい下ろすのが可哀そうになってそのまま抱っこしてたら気がつくと連隊本部に帰り付いていただけなんだけど。
「証拠も何も消えてしまったし、こいつに証言してもらうか?」
「……この子、人語しゃべれるかな?」
結局、雄鶏は上官に向かって熱心に「コッコッコッ、コケーッ!!」と話しかけていたが全く意味が通じるはずもなく。
小隊長は、エサドと僕の説明に首を捻りながらも「今朝は春一番が吹いたから邪毒竜が出てもおかしくないのかもな」と疲れた顔で苦笑しながら「二人ともすぐ休息を取るように。報告書は不要だからさっさと寝ろ」と厳命した。
大人しく小隊長の命に従って宿舎に戻った僕たちの後をついてきた雄鶏は、どこかに帰ることなくそのまま連隊本部に居ついてしまった。
彼はのちにのちに「アギーミツ」と名付けられ、部隊のマスコットのような存在になるのだが、それはまた別のお話である。
深夜の巡回中、思わずぼやいてしまった。
三月のイリュリアは寒暖の差が激しく天気も崩れがちで、春分を間近に控えたこの日も冷たい雨が音もなく降っている。
今日は市街地の中心を東に外れ、畑や草地の中にゴミや下水などの処理場などの施設が点在するあたりの担当だ。
街灯もなく自分たちの持つランタンの灯りだけが頼りの状態はいつにも増して心細く、夜明け前の冷え込んだ空気が余計に身に沁みる気がする。
「花冷えだな。風邪をひかないうちにさっさと帰投してすぐに着替えた方が良さそうだ」
珍しくエサドが弱音を吐いた。
二人とも軍外套のフードをしっかりかぶって襟元のフラップをしっかり閉めているが、それでも寒さが身に染みる。
きちんと防水処理された外套を着ていなければ、寒さだけでなく雨までが沁み込んで、さぞや惨めな気分になっていた事だろう。
「うん。きっとドレインたちがコーヒー淹れて待ってくれてるよね。風も強くなってきたから心配してるかも」
北東から吹く風も次第に強くなってきていて、ますます体感温度が下がってきたようだ。
今日は街の西側の担当でなくて本当に良かった。海岸沿いの崖を巡回している時にこんな強風に見舞われたら、風に煽られて大変なことになるかもしれない。
「ああ。さすがに街のこちら側ではそうそう事件も起きないだろう。早く帰ってあいつらを安心させてやらないと」
二人でぼやきながらも巡回はしっかり続け、街の外れのし尿処理場にさしかかった。汚水の最終処理場でもある遊水池ではみっしりと生えたクレソンとミントが白い小花を無数につけていて、夜の闇の中でもほのかに浮き上がって見える。
「やっぱりどうしても臭うね」
「ああ、その代わり少し温かいがな」
堆肥の発酵熱であたりの空気が少し温められ、処理場の周辺だけ寒さが和らいでいる。
おかげで周囲の道端や草地にはクロッカスや待雪草といった早春の花だけでなく、クレピスや鈴蘭、アネモネなどの暖かくなってから咲くはずの花々も咲き乱れていて、昼間に訪れると目に華やかだ。
代わりにすさまじい臭いが辺りに漂っているので、ゆっくり花を愛でるには向かない場所ではあるのだが。
「プランタジネットの田舎では堆肥を地中に埋めて発酵させて、その熱で温室を温めてるところもあるんだって。埋めちゃうと少しは臭いもマシなのかな?」
「どうしてここではそうしないんだ?」
「処理しなければならない量が全然違うからね。発酵にかけられる時間も違うし、充分に空気に触れさせて早めに完熟させないと」
「つまり田舎でなければ出来ない方法だと」
「うん。プランタジネットでも首都ルンデンヴィックは人口も密集してるから屎尿の量も莫大で、処理場を作る場所もないからそのまま川に流してるみたい」
実は大陸西部のオクシデント地方ではし尿を堆肥として処理している都市はあまり多くない。大抵は下水でそのまま河川や海に流してしまっているのだが、お陰で大都市を流れる川はどこも汚染されて酷い悪臭を放っている。
最近ではそれが感染症の流行の原因になっているのではないかという問題提起がなされるようになって、各国の政府を悩ませているらしい。
「それ、大丈夫なのか?」
「全然大丈夫じゃない。川が汚染されてコレラや赤痢が蔓延したり、河の下流や河口付近で魚が捕れなくなって大変みたいだよ。赤潮や青潮が発生して魚が大量死することもあるみたいだし。イリュリアはそこまで人口も多くないし、街の周囲に広い湿地帯があって処理場を作れたんだ。おかげでこうやって汚水を綺麗にしてから河に戻せるんだよね」
「……シュチパリアが小国で良かったな」
「うん。ちなみにイリュリアで屎尿を堆肥として利用する習慣が根付いているのは砂漠王国オスロエネの支配が長かったからだよ。おかげで市内は比較的清潔に保たれているんだ。それでも五十年くらい前に地下下水道を作った時はイリュリアでも汚泥を川に垂れ流して、やっぱり感染症が蔓延して大変なことになっちゃったんだけど」
「それでこんな大規模な処理場を作る事になったのか。もし人口が急増してまた処理許容量を超えたらえらいことになりそうだな」
今では街の区画ごとに沈殿槽を設けて汚泥を取り除くようにして、最終的に処理場でろ過した汚水を周辺の湿地帯に設けた遊水地に流している。
遊水地では水質浄化作用があるとされているクレソンとミントを栽培しており、収穫したものは薬の材料として使われる。
もちろん除去した汚泥もそのまま埋め立てる事はなく、発酵させてから公衆浴場の燃料として焼却し、灰を肥料として加工して農家に安価に販売しているのだ。
「うん。もし人口が一気に増えたらイリュリアでも処理しきれなくなりそうだから今から対策を考えとかないとね」
今後も処理能力を超えた下水のせいで病気が蔓延して苦しむ人が出ないように、人口増加に備えた処理場の拡充のみならず、汚水の能率の良い処理方法の開発を急がねばなるまい。
そんなとりとめもない話をしながら遊水地を一通りまわった時のことだ。
「あれ?何だろう?」
「どうした? 何だあれは……?」
繁茂したクレソンの茂みの中に何か大きなものがうずくまっているのを見つけた。暗くてよくわからないが、かなりの大きさだ。
二人でそっと近づくと、その何かは急に立ち上がった。
グァアアアアアアッ!!
獣の咆哮のような声を上げたそれは後ろ脚だけで立ち上がった。
大きい。ゆうに三メートルはあるんじゃないだろうか。
ランタンのわずかな灯りを反射して鈍く光る、金属のような光沢のあるウロコ。背に腹はコウモリのような一対の翼があり、目はギラギラと黄金色に光っている。
「何あれ?熊……にしても大きすぎない?」
「それに体型が全然違う。羽まで生えているとは、いったいどういう事だ?」
とっさにランタンを道端に置き、二人で武器を構えて警戒するが、その黒っぽいモノは意に介さずこちらに突進してきた。巨体に似合わず実に素早い。
すぐに飛びのきながら槍斧をくるりと回転させ、斧の部分を巨体に叩きつけるが……
「何これ、硬い……っ!!」
がきりと鈍い音がして槍斧を握る手に鈍い痺れのような感覚が伝わって来ただけで、相手の身体に食い込んだような手ごたえが一切ない。
そのまま振り回して振り切るように弾き飛ばすと、そいつは今度はエサドに飛び掛かった。
「ぐっ!! なんて硬さだ!?」
がッと重いものがぶつかり合うような鈍い音が響くと、ソレの爪を剣で受け止めたエサドが相手の腹を蹴飛ばして距離を取る。
間近に見たソレは蜥蜴のような爬虫類独特の瞳や鱗を持つものの、体型も大きさもまるで違う。むしろそれはまるで伝説に出て来る……
「まさか……ドラゴン……!?」
「にわかには信じがたいが……」
そう。ドラゴンそのものだ。
そう言えば年に一度、春分の頃に姿を現すドラゴンがいて、その年に最初に出くわした者を食い殺すという伝説があったような。そうして生贄を喰らい尽くすと凄まじい南風に変化して春を連れて来るのだ。
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そう。ちょうど今僕たちの眼前にいるこの生物のような姿をしているという。
「やだ……本当に邪毒竜に出くわすなんて……」
訳の分からない存在を前にして、ついひるみそうになる。
伝説の通りならば生贄を喰らい尽くすか斃すまでは毒のヨダレをまきちらして周囲の水源を汚染し、長引く悪天候を引き起こして感染症を蔓延させると言う。
こいつが僕たちを春を招くための生贄にするつもりなら、おとなしく喰われた方が市民のためになるのだろうか。
「まだ邪毒幼竜といっただろう。たいした大きさではないし、何より頭は一つだ」
冷静なエサドに諭され乱れかけた呼吸が元に戻った。
竜という非現実的な存在を前におかしな方向に思考が飛んでしまったが、もし万が一こいつが伝説の竜だとしても斃してしまえばどうという事もないはずだ。
異様に硬い鱗に弾かれなかなか攻撃が通じそうにないが、何か工夫してダメージを与える方法を考え出さなければ。
「ヴォーレ! ぼうっとするな!!」
エサドの叱咤に我に返ると、鋭い風切り音と共に目の前を太い尻尾が通り過ぎた。
飛びのきざまに槍斧を叩きつけて斧部分で斬り落とそうとするが、やはり硬い鱗に弾かれてしまう。エサドも隙を見つけては腹やわきの下などの柔らかそうなところを狙って斬りつけているが、鱗に弾かれたり刃が滑ったりしてダメージを与えることができずにいる。
もう槍斧で斬る事を考えず、鈍器として使って殴りつけるような使い方の方がまだ有効かもしれない。
そう考えて、軽く息を吐きながら斧部分の重さと柄の長さを活かして遠心力で振り回した。
「……っ」
狙い過たず愛用の槍斧は尻尾を振りぬいて若干バランスを崩した邪毒幼竜の腹をしたたかに叩きつけよろめかせる。肌に傷はつけられずとも、内臓が受けた衝撃は簡単には逃がせないのだ。
奴が態勢を立て直す前に手元に引き戻した槍斧でさらに頭を横殴りにすると、さすがに脳震盪でも起こしたのか邪毒幼竜の動きが目に見えて鈍くなった。
ギャァアアアアッ!!
その分、邪毒幼竜の怒りを買った様子で、邪毒幼竜は僕に狙いを定めて大きく口を開け咆哮を上げながら威嚇してくる。
伝説通りならばここで毒を大量に含む涎をふきつけてくるところだが、その隙を与えず槍斧の鉤部分でアゴの一部を引っかけると手前に引き寄せた。
そのまま大きく開いた口に左手で抜き払った猫闘刃を喉の奥まで突き刺してやる。
グアァアアアアッ!!
のたうち苦しむ邪毒幼竜がしゃにむに振り回してくる爪や尻尾に当たらないよう身をかわしながら、なおも猫闘刃を押し込んでいたが、大きく振り回された尻尾に弾かれそうになって已む無く剣を竜の咥内に残したまま大きく飛び退る羽目になった。
「くぅっ。あと少しなのに」
「だいぶ弱っているようだ。何とかして口の中に再度斬りつけられれば……」
二人で竜をけん制しながら奴が体力を消耗しきるのを待っていると、雨が小降りになってきて、東の方の空がやや明るくなってきた気がする。
「もう夜明けか……随分長くかかってしまったな」
「急がなくちゃ……農家の人が仕事に出る間に片を付けないと巻き込んじゃう」
咥内に刺さったままの剣を引き抜こうと暴れる竜の勢いは衰えることなく、かといって硬い鱗を貫いてまで改めて決定的なダメージを与える事も能わず、刻一刻と過ぎる時間に焦りが募った頃。
コッケコッコ~~~~ッ!!!
「に、ニワトリ!?」
鋭く響く雄鶏の声がしたかと思うと、鮮やかな赤や金、黒のふわふわした塊が飛んできて暴れる邪毒幼竜に飛び掛かった。
そのままギラギラと光る黄金色の目を鋭い嘴でつつくと、邪毒幼竜はたまらずのたうち回る。
唖然とする僕たちをしり目にその鶏は邪毒幼竜にしきりに飛び掛かっては鱗で守られていない目や咥内を鉤爪で引っかき、蹴飛ばし、鋭い嘴でつついて翻弄した。
そうこうするうちに次第に邪毒幼竜の動きがだんだんと鈍くなり……
時間にするとほんの数分の出来事だったと思う。東の空がすっかり明るくなり、夜の闇が薄れた頃には邪毒幼竜はピクリとも動かなくなっていた。
コッケコッコ~~~~ッ!!!
誇らしげに響く雄鶏の声。
すると不思議な事に邪毒幼竜の死骸は跡形もなく消え去り、代わりに南からすさまじい勢いで温かく湿った風が吹き始める。
「うわ、すごい風!!」
「それにしても温かい風だな。伝説の通りだ」
そう言えば、伝説では邪毒幼竜や邪毒竜は雄鶏の姿をした竜人に斃されるんだっけ。
吹き荒れる風に雨雲も吹き飛ばされてしまったのか、いつの間にか空は綺麗に晴れ渡っていた。
「お前、まさか竜人なのか?」
とりあえず武器を収めて誇らしげに胸を張っている雄鶏に問いかけると、元気に「コケーッ!!」と鳴いたが、これはいったいどう解釈すれば良いのやら。
そのままバサバサッとこちらに飛んでくるので慌てて抱きとめると、上機嫌ですりすりと擦り寄って来た。
「うわ、ふわふわであったかい」
思わずサラサラした手触りの羽毛をそっと撫でると、雄鶏は気持ちよさそうに「ククク……クルルルル」と喉を鳴らした。
「うわ、可愛い。鶏って飛べないんじゃなくて、飛ぼうとしないだけなんだね」
「今の一部始終から出て来る感想がそれか!?」
「いやなんかあまりに現実離れしてて、何を言ったらいいのやら」
ランタンを拾いあげたエサドと共に何とも締まらない会話をしながら連隊本部への帰路につく。
ふわっふわの鶏をしっかり抱きしめたまま。
いや、すぐ放さなきゃと思っていたんだけど、なんだか上機嫌で大人しくしてるものだから、つい下ろすのが可哀そうになってそのまま抱っこしてたら気がつくと連隊本部に帰り付いていただけなんだけど。
「証拠も何も消えてしまったし、こいつに証言してもらうか?」
「……この子、人語しゃべれるかな?」
結局、雄鶏は上官に向かって熱心に「コッコッコッ、コケーッ!!」と話しかけていたが全く意味が通じるはずもなく。
小隊長は、エサドと僕の説明に首を捻りながらも「今朝は春一番が吹いたから邪毒竜が出てもおかしくないのかもな」と疲れた顔で苦笑しながら「二人ともすぐ休息を取るように。報告書は不要だからさっさと寝ろ」と厳命した。
大人しく小隊長の命に従って宿舎に戻った僕たちの後をついてきた雄鶏は、どこかに帰ることなくそのまま連隊本部に居ついてしまった。
彼はのちにのちに「アギーミツ」と名付けられ、部隊のマスコットのような存在になるのだが、それはまた別のお話である。
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