お飾りの私を愛することのなかった貴方と、不器用な貴方を見ることのなかった私

歌川ピロシキ

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本編

P29 怨念からの解放

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 いったいどれほどの時間が経ったでしょうか。
 何も見えず、聞こえず、痛むこともないかわりに温もりを感じる事もない。
 そんな無の状態から覚醒すると、わたくしは何とも言えぬ憤りにこの身を支配されておりました。
 わたくしは何一つ悪くないのに、あの人はわたくしを愛してはくれない。それどころか、わたくしのせいで多くの人が不幸になったとわたくしを責め立てる。
 
 許せない赦せないゆるせない……

 こんなことがまかり通る世界など、すべて滅んでしまえ。
 壊して毀してこわして……力の限り暴れまわり、目につく全てを破壊して回っても、ただ虚しさが広がるばかり。
 そんな虚無を埋めるためにさらに壊して……

 そんなわたくしをあの人は眼鏡ごしにどこまでも冷たい、しかしどこか哀し気な蒼い瞳で見つめていました。

「もうやめましょう。こんな事をしても何の意味もありません。
貴女の時間はとうに終わっていたんです。もうゆっくりおやすみなさい」

 ふいに柔らかなアルトで呼びかけてきた人物は、その燃えるような真紅の髪をひるがえして一気にわたくしとの距離をつめてきました。
 満月のように丸い琥珀色の瞳がわたくしを真っすぐに見つめたかと思うと、ふと目元を緩めて優しく微笑みかけてきます。
 その愛らしい笑顔に一瞬見惚れてしまったわたくしは、次に身を焦がすような嫉妬にとらわれてしまいました。

 わたくしは誰にもかえりみられることなく惨めに打ち捨てられ朽ち果てたのに、なぜこの人は愛され大切にされ美しいままなのでしょうか。
 なんたる不公平。なんたる不正。こんなことがまかり通って良いものでしょうか。

 狡いずるいズルいズルイ……ユルセナイ。

 心と視界を嫉妬と憎悪に真っ黒に塗りつぶされたわたくしを、誰かが優しく抱きしめました。

「もういいんです。楽になりましょう」

 耳元で心地よいアルトが優しくささやきました。女性にしては低く落ち着いた、男性にしては高く柔らかい、優しい声。

「どこにも居場所がなくて、辛かったですね。寂しくて、だからうわべだけでも求めてくれる人にすがってしまって、本当に大切にしなければならない人と余計に溝ができてしまった」

 思いもかけぬいたわりに満ちた声に、怒りと憎しみに燃え尽き、嫉妬と絶望に凍り付いたわたくしの心がほぐれて、どす黒く染まっていた世界に急速に色が戻ってまいりました。

「誰のせいでもない、あなた自身の行動の結果だから、誰のせいにもできなくて苦しかったでしょう。あなたは誰でもいいから、ここにいて良いよ、と言って欲しかっただけなのに」

 ああ、今まで誰がわたくしにこのような心のこもった、優しい言葉をかけてくれたでしょうか。
 わたくしの周囲にいた人々は、みなお前が悪いと責め立てるか、逆にあなたは何も悪くないと甘い言葉をささやいてすり寄るだけでした。
 本当にわたくしの弱いところ、醜いところも認めた上で、それでも拒絶せずに寄り添ってくれる人など、誰一人いなかったのです。

 だから、何も悪くないと言って、楽しいことに連れ出して、寂しさと虚しさを忘れさせてくれる人に縋ってしまったのです。
 本当は、彼らがわたくしを利用するつもりで近付いてきただけで、わたくしの事を愛してなどいなかったことも、むしろ内心わたくしを嘲笑っていたことも、心のどこかでわかっていたにもかかわらず。

「無知や愚かさは免罪符にはなりません。あなたの犯した罪は何をどう言いつくろっても正当化できるものではない。でもね、だからと言って無知も愚かさも、それ自体は罪ではないし、それゆえに蔑まれたり侮辱されたり、踏みにじられて良いという事にはなりません」

 満月のように円い、琥珀の輝きがわたくしの心を優しく照らします。
 そうです。わたくしは自分の悪いところ劣ったところは認めた上で、それでもそこにいて良いと認めて欲しかったのです。
 自分の至らなさや愚かしさと向き合うために、寄り添ってくれる人がほしかったのです。

 でも、こんなわたくしを認めて寄り添ってくれる人など、いようはずがございません。
 勉学嫌いで努力は長続きせず、いくら頑張っても優秀なお兄様とは比べることすらおこがましい結果しか残せない、愚かで怠惰なできそこない。
 頑張ったところでわたくしよりもずっと優れた人々がいくらでもいるのですもの。愚かで不器用で平凡なわたくしが悪あがきすることに何の意味があるでしょうか。

 わたくしがそう零しますと、その人は満月のような瞳を三日月の形に細めて柔らかく微笑みました。見る人の心を温かくするような、明るく曇りのない、それでいて優しい笑顔です。

 美しいというよりは愛くるしいその笑顔に、わたくしは自分の思い違いに気付きました。この人はわたくしが憎くて妬ましくてたまらなかった、あの方とは全くの別人です。

「僕はね、ずっとクラウディオさんになりたかったんです。綺麗で、優しくて、誰よりも優秀だった、あの人にね」

 ああ、この人もあの方と自分を引き比べて、惨めさに苛まれたことがあるのですね。

「どんなに頑張っても、何ができるようになっても、師匠は僕を認めてくれませんでした。お前など出来損ないだ、クラウディオさんには遠く及ばないと。そんなもの、あの人はもっと簡単に、もっと完璧にやってのけたと。
 無条件で素晴らしいと認められる彼が妬ましくて、とても惨めでした」

 いくら努力しても認められず、比べられて貶められる辛さ、惨めさはよくわかります。

「それでもね、僕は僕なりにできることもあるし、成し遂げてきた事もある。
 僕よりずっと上手にできる人がいても、もっとすごい事を成し遂げた人がいても、その事実は変わらないんです。
 だから、僕は僕のまま、精一杯生きれば良いと思っています。
 だって、僕の居場所をほんとうに作ることができるのは、僕自身を認めることができるのは、僕自身しかいないんですから」

 それでも、この人は己を見失うことなく真っすぐに生きてきたのですね。
 満月のように優しい輝きは、この人の曇りのない心から生まれるのでしょう。
 あの方の黄昏時のようなまばゆい黄金の輝きとは違い、見る人の心を惑わし目を奪う事はありませんが、暗闇にとらわれた迷える心をあえかに照らし、その道をさし示すのです。

「もう、疲れたでしょう?憎むことにも妬むことにも……自分を嫌い続ける事にも。だから、ゆっくり休んで下さい」

 もう楽になっても良いのですね。もう妬むのも、憎むのも、恨み続けることにさえ、疲れ果ててしまいました。
 そっとわたくしの背をさすりながらいたわるように紡がれた言葉に、わたくしは自分でも意外なほど素直に頷くことができました。

 そして薄れる意識の中で、琥珀色の満月が急速に欠けて行き、猫の爪よりも細くなり……やがて全てが影に覆われたかと思うと真紅に染まる姿を見たような気がします。まん丸の、紅い月に照らされるのは巨大なトウヒの樹。

「おやすみなさい。ゆっくり休んで、また生まれ変わることができたら、次は自分で自分を好きになってくださいね」

 最後に意識にのぼったのは優しくいたわるような柔らかなアルト。
 あなたに会えて、本当に良かった。ありがとう……

 その想いを最後に、わたくしの意識は完全に溶けて消えて行ったのでございました。
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