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本編
P25 失ったもの
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悪夢のような一日が終わりました。
あの時、わたくしが恐ろしい激痛に襲われて倒れてしまった後で、あのお方自身はさらにすさまじい勢いで腹部から血を流し始めました。そして次第に目の焦点が合わなくなっていきました。
「ディディ!!」
なぜか響いてきた旦那様の声。
きっとわたくしを助けに来てくださったのだと、そう信じていたのに。
旦那様?なぜその泥棒猫を抱きしめているんですか? わたくしは……あなたの妻はこちらでしてよ?
「……えりぃ……ごめん……」
もう掠れてほとんど聞き取れないあの方の声。
旦那様はとめどなく涙を流しながら、すがりつくようにあの方をきつく抱きしめて、声の限りにその名を呼び続けています。
激痛に苦しみ悲鳴をあげてうずくまっているわたくしには目もくれません。
結局、旦那様はそのままぴくりとも動かなくなったあの方を固く抱きしめたまま、駆けつけた家臣たちに促されて馬車でお帰りになりました。
わたくしも家臣たちに別の馬車に連れ込まれ、屋敷に帰る事になりました。
わたくしが医師の診察と手当てを受けている間、旦那様はもの言わぬあの方をずっと抱きしめて、声を殺して泣いておられました。
あの冷徹さで知られた氷の貴公子が、人目もはばからずに肩を震わせ、絞り出すような声であの方の名を呼びながら、ただただ涙を流し続けておられたのです。
わたくしがあまりの苦痛に意識を失うまで、旦那様が激痛に苦しむわたくしを顧みる事はついぞありませんでした。
わたくしは腹部の激痛とともに、なぜか月のものの時期でもないのに大量に出血をしたことから、医師の緊急手術を受けました。
不思議な事に、わたくしの腹部から子宮と卵巣、腎臓の片方が消えていて、それらの臓器と繋がっていたはずの血管から出血して腹腔内が血塗れになっていたようです。すぐに開腹手術をして止血を行い、腹腔内に溜まった血液を排出しました。
ほぼ丸1日に及ぶ手術のおかげで一命こそとりとめましたが、もう二度と子を産むことはできないそうです。
なんという悲劇でしょう。それもこれもあの泥棒猫の仕業でしょう。最期の最期まで忌々しい人でした。
怒りと憎悪に顔を歪めていても、あの艶やかな髪が無残に切られていても、醜悪にはならずにどこか気高く清廉で美しいまま逝ってしまった。
旦那様は未来永劫、あの方を忘れる事はないのでしょう。
手術が無事に終わったと告げられて、呆然としているうちにどうやらわたくしは眠ってしまったようです。ふと気が付くと、既に日は高く昇っていました。
「お目ざめですか、パトリツァ様」
わたくしの覚醒に気付いて声をかけてきた侍女の声が冷たいのは気のせいでしょうか?
身体は鋼鉄のように重く、喉がかわいてたまりません。声を出すこともままならないわたくしは、ただ瞬きをくりかえして意識があると伝えることしかできませんでした。
侍女はわたくしが喉が渇いていると気付いたのでしょうか?吸い飲みを持ってゆっくりと水を飲ませてくれました。
「少々お待ちください。旦那様をお呼びして参ります」
侍女が出て行ってほどなくして、旦那様がいらっしゃいました。
暗く淀んだ蒼い瞳は憎悪でギラギラと光り、無精ひげがうっすらと生えて、たった1日でまるで別人のような憔悴ぶりです。
「いたい……くるしい……」
わたくしは旦那様にこの理不尽な被害と苦しみをお伝えしようと必死で声を絞り出しました。しかし、旦那様は忌々し気にわたくしを睨み据えると、今まで聞いたこともないような平坦で低く恐ろしい声で一方的にわたくしを断罪します。
「エスピーアが……襲撃の主犯が全て吐いた。お前がディディを強引に連れ出して、あそこに誘き出す役割だったそうだな。しかも確実に殺害するため、彼にしがみついて動きを封じていた」
少しかすれた、何かを押し殺したかのような声は、旦那様の怒りと憎しみのあらわれでしょうか。
「……う……うそ……わたくし……おそわれて……ひがいしゃ……」
「白を切っても無駄だ。居合わせた侍女や護衛、捕らえられた他の賊の証言もある。お前が共犯であることは疑いようもない。今後、罪人として裁きの場に出るか、このまま幽閉することになるかは追って沙汰をする。最低限の手当はするが、あくまで罪人としてだ。今まで通り侯爵夫人として丁重に扱われるとは思わない事だ」
そんな……なんという理不尽。
わたくしは大切な子宮も卵巣も奪われた被害者なのですよ。
いたわり、手厚く看護して心身を癒すために全力を尽くすのが人の道というものではありませんか。
「もともとあの教団の犯罪は近々検挙する予定だったが、お前のおかげで大量の物的証拠が集まった。どうやら予定よりもスムーズに奴らの息の根を止められそうだ。それだけは感謝してやっても良い。……お前の犯した大罪とはとうてい相殺できるものではないがな」
吐き棄てるようにおっしゃると、一秒たりともわたくしの顔は見たくないとばかりに振り向きもせずに部屋を出て行かれました。
「今はとにかく医師の指示におとなしく従って身体を治すことだな。今後の事は、マシューが面倒を見てくれるそうだ」
振り向きもせずに言い残された言葉は、旦那様がわたくしをもはや妻だと認めていない証のようでした。
あの時、わたくしが恐ろしい激痛に襲われて倒れてしまった後で、あのお方自身はさらにすさまじい勢いで腹部から血を流し始めました。そして次第に目の焦点が合わなくなっていきました。
「ディディ!!」
なぜか響いてきた旦那様の声。
きっとわたくしを助けに来てくださったのだと、そう信じていたのに。
旦那様?なぜその泥棒猫を抱きしめているんですか? わたくしは……あなたの妻はこちらでしてよ?
「……えりぃ……ごめん……」
もう掠れてほとんど聞き取れないあの方の声。
旦那様はとめどなく涙を流しながら、すがりつくようにあの方をきつく抱きしめて、声の限りにその名を呼び続けています。
激痛に苦しみ悲鳴をあげてうずくまっているわたくしには目もくれません。
結局、旦那様はそのままぴくりとも動かなくなったあの方を固く抱きしめたまま、駆けつけた家臣たちに促されて馬車でお帰りになりました。
わたくしも家臣たちに別の馬車に連れ込まれ、屋敷に帰る事になりました。
わたくしが医師の診察と手当てを受けている間、旦那様はもの言わぬあの方をずっと抱きしめて、声を殺して泣いておられました。
あの冷徹さで知られた氷の貴公子が、人目もはばからずに肩を震わせ、絞り出すような声であの方の名を呼びながら、ただただ涙を流し続けておられたのです。
わたくしがあまりの苦痛に意識を失うまで、旦那様が激痛に苦しむわたくしを顧みる事はついぞありませんでした。
わたくしは腹部の激痛とともに、なぜか月のものの時期でもないのに大量に出血をしたことから、医師の緊急手術を受けました。
不思議な事に、わたくしの腹部から子宮と卵巣、腎臓の片方が消えていて、それらの臓器と繋がっていたはずの血管から出血して腹腔内が血塗れになっていたようです。すぐに開腹手術をして止血を行い、腹腔内に溜まった血液を排出しました。
ほぼ丸1日に及ぶ手術のおかげで一命こそとりとめましたが、もう二度と子を産むことはできないそうです。
なんという悲劇でしょう。それもこれもあの泥棒猫の仕業でしょう。最期の最期まで忌々しい人でした。
怒りと憎悪に顔を歪めていても、あの艶やかな髪が無残に切られていても、醜悪にはならずにどこか気高く清廉で美しいまま逝ってしまった。
旦那様は未来永劫、あの方を忘れる事はないのでしょう。
手術が無事に終わったと告げられて、呆然としているうちにどうやらわたくしは眠ってしまったようです。ふと気が付くと、既に日は高く昇っていました。
「お目ざめですか、パトリツァ様」
わたくしの覚醒に気付いて声をかけてきた侍女の声が冷たいのは気のせいでしょうか?
身体は鋼鉄のように重く、喉がかわいてたまりません。声を出すこともままならないわたくしは、ただ瞬きをくりかえして意識があると伝えることしかできませんでした。
侍女はわたくしが喉が渇いていると気付いたのでしょうか?吸い飲みを持ってゆっくりと水を飲ませてくれました。
「少々お待ちください。旦那様をお呼びして参ります」
侍女が出て行ってほどなくして、旦那様がいらっしゃいました。
暗く淀んだ蒼い瞳は憎悪でギラギラと光り、無精ひげがうっすらと生えて、たった1日でまるで別人のような憔悴ぶりです。
「いたい……くるしい……」
わたくしは旦那様にこの理不尽な被害と苦しみをお伝えしようと必死で声を絞り出しました。しかし、旦那様は忌々し気にわたくしを睨み据えると、今まで聞いたこともないような平坦で低く恐ろしい声で一方的にわたくしを断罪します。
「エスピーアが……襲撃の主犯が全て吐いた。お前がディディを強引に連れ出して、あそこに誘き出す役割だったそうだな。しかも確実に殺害するため、彼にしがみついて動きを封じていた」
少しかすれた、何かを押し殺したかのような声は、旦那様の怒りと憎しみのあらわれでしょうか。
「……う……うそ……わたくし……おそわれて……ひがいしゃ……」
「白を切っても無駄だ。居合わせた侍女や護衛、捕らえられた他の賊の証言もある。お前が共犯であることは疑いようもない。今後、罪人として裁きの場に出るか、このまま幽閉することになるかは追って沙汰をする。最低限の手当はするが、あくまで罪人としてだ。今まで通り侯爵夫人として丁重に扱われるとは思わない事だ」
そんな……なんという理不尽。
わたくしは大切な子宮も卵巣も奪われた被害者なのですよ。
いたわり、手厚く看護して心身を癒すために全力を尽くすのが人の道というものではありませんか。
「もともとあの教団の犯罪は近々検挙する予定だったが、お前のおかげで大量の物的証拠が集まった。どうやら予定よりもスムーズに奴らの息の根を止められそうだ。それだけは感謝してやっても良い。……お前の犯した大罪とはとうてい相殺できるものではないがな」
吐き棄てるようにおっしゃると、一秒たりともわたくしの顔は見たくないとばかりに振り向きもせずに部屋を出て行かれました。
「今はとにかく医師の指示におとなしく従って身体を治すことだな。今後の事は、マシューが面倒を見てくれるそうだ」
振り向きもせずに言い残された言葉は、旦那様がわたくしをもはや妻だと認めていない証のようでした。
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