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1巻
1-1
しおりを挟む俺の名前はテト。
水の国『バルナ』の第四王子で、魔法の使い手でもある。
魔法の使い手といっても、この国で魔法を使えること自体は珍しくない。
というのもこの国の民は生まれつき、火や水、光といったなんらかの属性を持った魔力を身体に宿しているのが一般的だ。
しかし身に宿す魔力の強さは人によって違う。
さらに言うならそれも生まれついてのもので、簡単に変えることができないものであった。
バルナの王族はその魔力に秀でていた。
複数の属性の魔力を同時に操ることができる者。
魔力の属性を一つしか持たなくても、それが誰も知らないようなとても珍しい属性である者。
そのような者たちが集まっていることで、王族は民衆から崇められ尊敬されているのだ。
――だが、俺は違った。
俺は属性を一つしか持っていない。
しかも、水の国と呼ばれるこの国で一番多く見られる、水属性だった。
父母や兄弟は皆複数の属性を持ち、その中の一つは必ず珍しい属性。
かたや、俺は珍しい力を持っておらず、持っているのも平凡な属性ただ一つ。
周りから比較されるのは仕方ないと思う。
だからといって、魔力に秀でた家族に冷遇されているわけではなかった。
むしろ、そんな俺を家族は支えてくれた。服も食事も住む場所もちゃんと与えてくれたし、両親は兄弟と同じくらい俺を大切にしてくれた。
兄や弟も決して俺のことを見下したり蔑んだりせず、対等に接してくれた。
だけど国民はそうではなかった。
秀でた能力を王族に望む国民は、誰も俺に興味や関心を持たない。誰もが俺に同じ視線を向けてくる。
――王家の四番目は出来損ない。
ただ、俺には水属性を持つ他の人とは違う能力があった。それは大小全ての水脈を読むことができるというもの。
水脈とは、地中を流れる水のこと。
俺はどんなに細かく小さな水脈であっても、それらを地上から完璧に読み取ることができた。
そして、その水脈の上には竜神が姿を現す。
太古からこの世界の水脈を司ると言われ、水の守り神として祀られている竜神。水属性を持つ人ならば竜神を見ることができる。
俺はそれだけでなく、竜神と意思を交わすことかできた。
時折、他国からの干渉や天候の悪化により竜神の力が弱まって、水脈が弱くなり消えてしまうことがある。そうなれば井戸は枯渇し水が手に入らなくなり、生活が成り立たなくなってしまう。
そんなとき、竜神と意思を交わすことで原因を突き止め、水脈を元通りにすることができるのだ。
とはいえここ数百年は平和を保ち続けており、そもそも水の国と呼ばれるほど水が豊富なこの国で、そんなことは滅多に起こらない。
仮に何かしらの問題が起こったとしても、水属性を持つ国民が対処できる程度のことなので、俺の特殊な能力も必要にはならない。数年に一度、民の力だけでは対処できないときだけ、俺が現地に赴きその水脈を読み取り修復し、同時に竜神の声を民に伝えるのだ。
水脈を修復することや雨を呼び寄せるために祈りを捧げること、竜神の声を聞くことには、それ相応の魔力を使う。
俺は幸いにも、体内にある魔力の量は普通の人より多い。
水の少ない地に赴き纏まった雨を降らせることや、枯渇した水脈を短時間であれば蘇らせるほどの魔力を持っているからと、国内で水に関する何かがあれば率先して俺が赴いた。
王位継承権なんて兄が三人もいればないに等しい。王位を継ぐ可能性が高い兄たちの身に何かが起こるよりかはマシだと、父母の反対を押しきって出向くこともあった。
――そんな俺があんなことになるとは、誰が思っていただろうか。
◆
王都から馬を五日ほど走らせた距離にある小さな街。
俺は、その中心にある水脈を調査し修復するために訪れていた。
幼い頃、母によく連れられた記憶がある。母の話によると、父と最初に出会った大切な場所なのだという。
街の上空には優しげで大きな竜神がいつも座していて、訪れるたびに会話を交わすくらい、その竜神と仲良くしていた。
他所の竜神よりも気さくに話をしてくれていたが、この地を守護ってくれていたその竜神を、なぜか今の俺は見ることができない。
街のどこを捜しても、どれだけ目を凝らしても、その影さえ拾うことができなかった。
俺の記憶では、この街の中心には竜神を祀る小さくも美しい白壁の神殿があり、その地下にはこんこんと水が涌き出す泉があったはずだ。
この街の住民は地下から水を汲み上げて使っているのだが、今、街の入り口にある水溜め場には、街の生活用水を辛うじて賄えるくらいの水しかない。
それだけの量では畑に水が行き渡らず、この街の作物はいずれ全て枯れ果ててしまうだろう。
街の中に入った俺は乗ってきた馬を預けるとすぐに神殿へ赴き、神殿長の案内で水脈を見に地下へと向かった。
城からついてきたのは二人の屈強な騎士。
王に上奏された話を聞き、旅支度もそこそこに王宮を飛び出した俺を、慌てて追いかけてくれたのだから頭が下がる。
俺は竜神の気配を探りながら、出迎えてくれたすらりと背の高い神殿長と名乗る男に案内されながら、カツンカツンと石の螺旋階段を下りて神殿の最下層に向かった。
ひんやりとした地下にある、石で丸く組まれた泉は、やはり枯渇する一歩手前だった。
「神殿長にはおわかりかもしれませんが、ここには竜神の加護がありません……俺が今から水脈の補整を行うので数ヶ月は水量が戻りますが、それは魔力で無理やり水量を戻すということで、水脈にもかなりの負担がかかってしまいます」
神殿の長であるならば、わかっているだろうけれど、と思いながらも俺は静かに注意を促す。
「ですから、水量が戻っている間に再度祈りを捧げ、竜神の加護をいただいてください。それは王族ではなく、神殿がやらなければ意味がないので」
街を見た限り、泉が枯れてしまう理由は明白だった。
この神殿の泉には竜神の加護がない。竜神への信仰心が薄い証拠だ。
一見穏やかに見える神殿長だが、きっと見えないところで私腹を肥やすばかりで、ろくに祈りも捧げなかったのだろう。竜神から見放されたようだ。
だが俺たち王族に、この神殿長を罷免する権利はない。神殿は王族からは独立した機関だからだ。
一応、俺の魔力で竜神を呼び寄せることもできなくはない。
ただ信仰の薄い土地に竜神を無理に縛りつけてしまうと、竜神自体の力が弱ってしまう。
竜神と意思疎通できる俺にとって、無理に土地に縛りつけられて苦しむ彼らの呪詛の声を聞くのは耐えがたい。
だから、やらない――いや、やりたくない。
こちらが気付かないとでも思っているのか、微かに顔をしかめた神殿長をよそに、俺は泉の前に膝を折り、ゆっくりと身体に魔力を巡らせてから水脈を直し始める。
そして、こぽこぽと涌き始めた水を確認するため泉の縁に手を置いて覗き込んだ瞬間、強く背中を突き飛ばされた。
いったい何が、と思う間もなく俺は泉の中に落ちる。上から重しでものせられたのだろうか、身体が浮き上がらない。泉は深く地中まで伸びているようで、徐々に視界が暗くなっていく。
『何が神殿の仕事だ。お前が竜神様の生け贄になれば水なんてすぐにでも復活するだろう。出来損ないの王族ならばそのくらい役に立ってみせろ』
――あぁ、俺の人生はこれで終わりなのか。
肺に入り込んでくる水に苦しさを覚えながら、俺はごぽりと空気を吐き出した。
◆
……熱い。喉が焼けるように痛い。
渇きを通り越して、ちりちりと燻るような感覚。経験したことのない感覚に意識を浮上させた。
――俺、さっき水の中に落ちて……
そう認識すると、途端にぼんやりとしていた意識が目覚め、俺は飛び起きた。
眼前に広がるのは見たことのない景色――見渡す限りの砂だ。
どうやら俺は小高い砂の山の頂上にいるようだ。呆然として俺は視線を下げる。
風に巻き上げられビシビシと手に当たる細かな砂が、地味に痛い。
見慣れた青々と繁った木々や水がなく、ここはまるで死後の世界かと思ったがどうやら違うようだ。
風が撫でるたびに表情を変えていく地表は、王宮の書物で読んだことがある『砂漠』というものではないだろうか。
俺は仕方なくその砂の上に立ち上がる。履き物の下で動く砂は初めての感覚で気持ちが悪い。
砂の上を渡り吹き上げる風は、熱を孕みじりじりと肌を焼き、立っているだけの俺の体力をどんどん削っていく。
――あぁ、何もない。
水だけなら自力でなんとかなりそうだけれど。
そう思いながら砂粒の交じった空を見上げると、かなり遠くに竜神が見えた。それをぼんやりと見ていると、突然、頭上が陰り怒声が降ってきた。
「おい、そこで何をしている!」
掛けられた声で、俺はハッとした。
「あ、えっと……何も? と言うか迷子……なの、かな?」
今この状況がよくわかっていない俺の口から零れた言葉は情けないものだった。
声の先に視界をやると、そこにいたのは馬に跨がった青年だった。頭からすっぽりと外套を被っているため顔はわからないが、その声は若く張りのあるはっきりとした低音。
「火膨れになるぞ。外套はないのか?」
「あー……ないです」
俺の答えに一つ溜め息をついた彼は、麻の袋をバサッと投げつけた。
「予備の外套が入っている、被れ。なぜこんなところにいるかは知らないが、このまま死なれたら寝覚めが悪いからな、近くの街まで運んでやる。さっさとしろ」
言われるがまま開いた麻袋の中には青年の身に着けているものと同じ外套が入っていた。ごわごわとしていて、肌触りは良いとは言えない。
だがないよりかはマシだと、俺は外套を取り出し羽織った。
羽織った直後に無言で差し出された水袋は、飲め、という意味だろう。
遠慮なく受け取り俺は水を口に含んだが、その不味さに思わず顔をしかめた。
俺はその水を飲むのをやめ、水袋の中身を魔力で増やし冷たい水に変えてから青年に返した。
水袋が重くなったのに気付いたのだろう。彼は怪訝そうに水袋を持ち上げ、中の水を少量掌に垂らし匂いを嗅ぎ始めた。
俺が何か混ぜたと思ったのだろうか。俺はにこりと笑って相手の刺すような鋭い視線をやり過ごすと、促された馬に跨がる。
「お願いします」
青年の背中に腕を回して抱きつくような恰好になると、青年は水袋を馬の鞍にくくりつけ、軽く馬を操り、標のない砂漠を駆けた。
馬上からでもわかるほど、砂漠は過酷だ。
草木は見える範囲に全くなく、あのまま助けられなかったら、あまり時間が経たないうちに危険に晒されていただろう。
だが、こうなってしまえば仕方ないと俺は腹をくくり、見慣れない砂の景色を楽しく見ていた。
「綺麗だ……」
刻々と形を変えて同じものは二つとない景色に、感嘆の呟きを零す。
それに答えはなく、ただ、馬がザッザッと砂を駆ける音がするだけ。
青年との間に会話がないまましばらく行くと、一粒だけ俺の頬にぽつりと雫が落ちた。
見上げるとそこには竜神がいて、俺たちに挨拶をするように尻尾をパタパタと振ると、ゆっくりと飛び去ってしまった。
「……あの竜神も、どこかの街を見放しちゃったのかな」
近いうちに水が枯渇しちゃうのが心配だ、と呟いた瞬間、青年が突然振り向いた。眦は吊り上がり、手を震わせて短刀を握っている。
「貴様、それはどういうことだ!」
いきなりのことに俺は言葉もなく驚き、姿勢を崩してしまう。危ない、と思った瞬間にはぐらりと身体が傾いた。
目を瞑って強い衝撃に耐えようとするも砂が衝撃を吸収したのか、水の国の土の上で落馬をしたときほどの痛みはない。それでも一瞬、痛みで息が止まった。
まさか俺が落ちるとは思っていなかったのだろう、青年は慌てた様子で馬を止めて降りると短刀を腰に下げた鞘にしまった。
「竜神……街の上から……去ったので」
俺は身体を丸め咳き込みながら、なんとか言葉を吐き出す。
「水の、守り神……は……っ……」
上手く喋れない。直に喉へ熱風が入り込んで、上手く呼吸ができないのだ。
「いなく……なったら……水、枯渇……」
荒い息を沈めるために深呼吸をしようとすると、大きな手が口を塞いだ。
「馬鹿か、深く息を吸ったら熱波で肺がやられるぞ……ん?」
俺の口を覆う青年の手は熱い。
「なんでお前の肌はこんなにも冷たい……ここは砂漠だぞ?」
彼の手を退けてから自分の掌を上に向け、魔力を集めて水を作り出すとそれを飲み、喉を冷やす。
喉を落ちていく水は甘露となり、何度か喉を潤すうちにやっとひと息つけた。
「お前、それ!」
「あぁ……水です。飲んで……みますか」
もう一度水を掌に出現させると、男は驚きながら自分の掌に水を受け、恐る恐る口にした。
「まだ冷たくて美味しいでしょう? 失礼ですが、先ほどいただいた水はあまり良い水ではありませんでしたから、水袋の中身を浄化しておきました。さすがにもう温くはなっているでしょうが」
ひと息ついて唇を拭っていると、青年は小走りで馬まで戻った。そして鞍につけた水袋を手に取り中の水を口にした直後、愕然としたようだった。
「なんだ、これは……」
「だから、水です。俺は水しか作れないので」
残念ながら水属性を持つ者なら誰でもできることだから、誇ることはできないけれど……
「水しか……か。それがどれだけ大切か、喉から手が出るほど欲しい能力かわかっているのか……まぁいい行くぞ」
痛みを逃がしていると何か聞こえた気がしたが、一際強く吹いた熱風が掻き消した。
顔を上げると、青年は先に馬に跨がって俺に手を差し伸べている。俺は痛む身体を奮い立たせ、青年の助けを借りてなんとか馬に跨がった。馬が再び駆け出し、砂漠を颯爽と走り続けると、遠くに街のようなものが見えてきた。
砂粒程度の大きさだった街が、くっきりと建物の外壁の柄まで認識できるほどの大きさになり――
「えっ、あれっ⁉」
馬はその街を通り越してしまった。もう街は後方にある。
てっきり俺は、今通り過ぎた街で降ろされると思っていたんだけど……
「俺、あの街で降ろされるのではありませんか? 近い街って……」
さっき、この青年は近い街で降ろすと言ったはずだ。それなのに、その街には一切寄らず通り過ぎるなんて、何かまずいことでも言ってしまったのか。
あまり考えたくはないが、どこの街からも遠く、どこにも辿り着けないような何もない場所に捨てられるのか?
「煩い、黙っていろ」
「……はい」
質問も駄目なのだろうか、と俺は内心呟きながら、熱風を深く吸い込まないよう浅く呼吸を繰り返す。先ほど落馬をしたときに打ちつけたところに痛みが走る。二度目の落馬は避けたい、と俺は仕方なく彼の背中にしっかりと掴まり身体を預けて、目を閉じた。
馬の足音に耳を傾けて振動に身を任せていると、砂が頬を叩く感覚が薄くなっていき――
「……い、おいっ!」
身体を揺さぶられて目を覚ました。どうやら意識が飛びかけていたらしい。
「ごめんなさい、着いた……のかな……」
俺は謝るとぼんやりとした思考のまま目を開いた。視界に飛び込んできたのは、陽の光を反射して輝く白い建物。
いつの間に砂漠から脱したのか、と安心して馬から降りようとした瞬間、俺は頽れた。硬そうな地面が近づき思わず目を閉じたが、衝撃はいつまで経っても来ず、ふわりと抱き上げられる。
バタバタと何人かが走る音や、どこかで「医者を連れてこい!」と叫ぶ声。騒がしいなと思いながら俺は再び目を開いた。
「ごめんなさい……すぐにここを出ていきますから……」
そう告げてはいるが痛む身体を動かせず、視界はぼんやりとして上手く定まらない。ただわかったのは、俺を抱き上げている人は、燃え立つ炎よりも赤く波打つ髪と、肉食獣を思わせるような金色の瞳を持つ、美しい人ということ。
それを確認して、俺はまた意識を失った。
あぁ、今度こそ駄目なのかなぁ……最後に見ることができたのが綺麗な人だったから良かった……のかな?
そういえば死ぬ前は過去の思い出が走馬灯のように見えると言うが、全くそんなことはないのだなと、ふと思った瞬間、全身にズキンと痛みが走った。
「痛っ⁉」
今までに味わったことのないような痛みで、一気に覚醒した。
痛みに歯を食いしばりながら視線を上げるとそこにいたのは、赤髪の青年だった。少しだけ笑みを含ませた表情と煌めく金色の瞳で、俺をじっと見つめていた。
「目が覚めたか?」
「……あなたは?」
すっとんきょうな声を出して俺は瞬きを繰り返す。
「砂漠で拾ってやっただろう?」
「あ! ……えっ⁉」
あのとき顔は見えなかったが、目の前の青年の声は、俺を砂上で叱責した青年の声と同じで。
「あぁ、すみません……手間を取らせて……」
そこまで言って俺は、あ、と思い出す。
まだここがどこかも、バルナの近くかどうかもわからない。ただ、わからないが、生きるために衣食住のどれかは欲しい。
「あの、すぐに出ていきますので、できたらどこか働き口とか、住む場所の口利きをお願いできたらありがたいのですが……」
駄目もとで頼んでみると、目の前の青年はきょとんとしてから笑い出した。
「はは! 面白いな。俺を見てまずそれか」
目の前の青年は馬上では尖った印象だったが、笑うと柔らかな雰囲気になる。
「俺の名前はカイル」
覚えておけと、男性は腕を軽く組みながらそう言った。
「お前は落馬の衝撃で鎖骨が折れて、さっき魔力で骨を接いだところだ。十日ほどは安静が必要とのことだ。それまでは介護の人間をつけてやるから、それが治ってから次のことを考えろ」
トントンと、組んだ腕を解いて男性は自分の鎖骨あたりを指でつつく。それを見て俺も自分の鎖骨のあたりを見やる。
「えっ⁉ 骨が? ありがとうございます」
さすがに折れているとまでは思わなかった。いや、落馬の怪我がその程度で済んだのは良かったほうだろうか。
確かに先ほど痛みで目を覚ましたが、思うとあれは骨を接いでもらったときの痛みだったのかもしれない。
俺は昔から痛みや熱、病気には耐性があるようで、普通ならぐったりするような高熱でも、元気に動き回れた記憶がある。
だが、今回はさすがに駄目だったらしい。
「お医者様……に、頼んでくださったのですか? ありがとうございます……俺、何もできないのですが必ず何かお返しをします……」
だからすぐには放り出さないでくれたらいいな。そう思いながら俺は青年を見上げた。
「馬鹿か。今は治すことを考えろ、話はそれからだ。とりあえず休め……」
青年の優しい言葉が嬉しくて、頬が緩む。
「俺、テトと言います。ありがとう……ございます」
安心からなのか、それとも痛み止めか治療薬の副作用なのだろうか。強烈な眠気が襲ってきて、俺はゆっくりと目を閉じた。
「テト様、本日よりお仕えさせていただく、アスミタと申します」
俺が目を覚ますと側に控えていたのだろう。柔らかな薄桃色の髪をきっちりと撫でつけた青年――アスミタが頭を下げた。
紺のチュニックに白のズボン、足元はサンダルという軽装だが、それを自然と着こなしている柔らかな雰囲気の青年だった。
「カイル様より、テト様の身の回りのお世話を仰せつかりました」
「カイル……様?」
「はい、この国の王太子であるカイル様ですよ」
王太子? 俺は動きを止める。アスミタの口から放たれた言葉が信じられなかったのだ。
カイルというのは、俺を助けてくれた赤髪の人の名前のはずだ。彼が名乗ったのをこの耳で聞いている。でも、王太子というのは本当なのだろうか。
そもそも自分がいるここはどこなのだろう。
「あの、この国の名前を聞いても?」
「アルーディア王国です」
アスミタの口から出たのは、俺の知識にはない国名だった。単に俺が知らないだけかもしれないが。
この世界では戦いなどの様々な理由で新しい国ができて消えてを繰り返しているから、俺が聞いたこともないような国があってもおかしくはない。
バルナにあった地図にもなかったはずだから、まだ生まれたての新しい国なのだろうか。だけど、王宮の様相は華美ではないが美しく、長い歴史を持つようにも見えた。
そもそも砂漠という言葉はおとぎ話でしか聞いたことがないし、砂漠に囲まれた国など今まで聞いたことがない。
そういえばバルナには、どういう風に砂漠ができるのかを調べる学者がいたのを思い出した。俺が首を傾げていると、アスミタに声を掛けられた。
「テト様、お飲み物はいかがですか?」
「ありがとう……もらおうかな」
昨日からほとんど何も食べていないのだ。
少し空腹を感じて何か少し食べられるものをもらおうと、寝台の横の円卓を見て、思わず溜め息を零した。
文字通り山のように積み上げられた瑞々しい果物に、艶めくタレを絡ませたマトンのメインディッシュ。少し視線をずらすと、甘い砂糖の香りを漂わせる小麦菓子が綺麗に盛り付けられた大皿。
どれだけ空腹であったとしても、俺一人では食べきれないほどの量の食事がそこにあった。
「アスミタ、俺に付けられた侍従は他にいる? 専用の料理人とか……。俺はこんなには食べられないから、残ったものはその人たちに分けてほしいんだけど」
「問題ございません」
「じゃあ、ちょっとだけもらうね」
「はい、ありがとうございます。テト様はどんな飲み物がお好みですか?」
俺が山のような食事に圧倒されている間に、ワゴンを隣の部屋から運んできたアスミタは、ガラスのチェイサーに入った様々な飲み物を薦めてくる。
普通の水から果実水、ジュース、茶葉の浮かぶ淹れたてのお茶。
「……果実水で」
少し悩み果実水を選んだ俺が寝台から円卓の椅子に移動すると、アスミタは俺の前に鮮やかなピンク色の果実水を置いた。
綺麗な透明のグラスにたっぷりと注がれた果実水は、見るからに美味しそうだ。俺はアスミタの差し出したグラスを受け取り、口をつけた。
甘い香りも柔らかな風味もするが、なんだか味がぼんやりとしている気がして、首を傾げた。
「アスミタ、そっちの普通の水を一口もらってもいいかな?」
俺は透明な液体を指さしてアスミタに頼む。
俺の気のせいかもしれないけれど、水に問題があるのかもしれない。率直に言って、果実水が美味しくない。いや、ただ俺の舌に合わないだけなのかもしれない。
「お口に合いませんでしたか?」
「ううん? そんなことはないけど、アスミタもちょっと試してみて。この水と果実水、普段と一緒?」
アスミタは空いたグラスに水を注ぎ、怪訝そうに俺に手渡した。
それを飲んだ俺の口に広がるのは、甘味も何も全くない硬く感じる水だった。冷えていないのが余計に飲み込むのを辛くさせている。せっかく飲むなら美味しい水のほうがいいと思う。
「失礼して」
アスミタは侍従用の小さなグラスを取り出して、俺が飲んだものと同じ水と果実水を口にした。
「私にはいつもと同じかと……」
「じゃあ、そのチェイサーを貸してもらってもいい?」
水と果実水、それぞれのチェイサーをアスミタから受け取り、そっと魔力を込めて俺は水の成分を変化させた。
木属性がないから、果実の味は変えられないけれど。
「毒見みたいで悪いけど、もう一度だけ飲んで、どっちが好きか教えてくれる?」
俺は自分のグラスに成分を変化させた水を注いで飲み干すと、アスミタのグラスにも注ぐ。
うん、俺はこっちが飲みやすいかな。果実水もこくりと飲んでみて、やっぱり最初のやつより水を変化させたほうが好きだな、と一人黙って頷いた。アスミタはどうだろうか。
アスミタはもともとの水を選ぶ可能性もある。これは味覚の問題で仕方ないことなのだけど。
果実水をゆっくりと味わってからアスミタを見上げると、驚いた表情で固まっていた。
彼の反応に、何か余計なことをしてしまったのだろうかと不安になる。
「テト様、これ……何か入れましたか? 全く味が違います!」
「どっちが美味しい? やっぱり飲み慣れたほう?」
アスミタが口元を押さえたのを見ながら、俺は訊ねる。
「いえ。テト様に入れていただいたほうが、柔らかな優しい味がして美味しいです」
「良かった。ちょっと俺の属性で水の味を調えてみたんだけど大丈夫そうかな?」
「は、はい!」
「じゃあ、他の人たちにもどちらの味が好きか聞いてほしいんだ。特に、よく水を使う料理人に聞きたいんだけど……」
料理の味を決めるのは水なのだ。
料理人がどう判断するかはわからないが、味に厳しい彼らにちょっと聞いてみたい。
それから俺は、水を口に含むたびに驚くアスミタと楽しく会話や食事をしながら、これからのことをゆっくり考えていた。
ご飯を食べ終えた俺の皿を下げるためアスミタが部屋を出て少し経つと、アスミタは一人の男性を連れて戻ってきた。
「テト様、料理人を連れて参りました」
「ありがとうアスミタ」
「初めまして、料理人のランスと申します」
頭を下げたのは料理人にしては大きな体躯の、緑髪を短く刈り込んだ男性。白のコックコートを身に纏い、調理しやすいようにだろうか、袖を捲っていた。
さっそくアスミタは料理人を連れてきてくれたようだ。
俺は飲みかけのティーカップを円卓に置いて、ランスに視線を向けた。
「こんにちは、俺はテトと言います……時間をいただいてすみません。アスミタから話は聞いてますか?」
「はい。水がとても美味しくなったと」
「普通に飲む分にはたぶん今までの水で良いんだけど、料理に使うにはどうかなって思いまして。だからランスさんには料理人としての意見を聞かせてほしいんですが」
そうお願いすると、緊張した面持ちのランスに「テト様はカイル様の客人なんですから、自分なんかには丁寧な言葉は使わず、呼び捨てで構わないです」と言われてしまった。座るようにも勧めたが、とんでもないと断られて彼は立ったままだ。
俺からお願いをして来てもらったんだから気にしなくていいのにと思いながら、アスミタの手を借りて飲み比べを始めることにした。
「じゃあアスミタ、お願いします」
円卓にはいくつかの小さなショットグラスが並べられていて、様々な水が注がれている。
もともとアルーディアで飲まれていた水の成分を、俺が変化させたもの。俺が魔力で作り出したものや、一度煮沸させたものなどがそこに置かれているはずだ。
というのも、どの水にあたるかはアスミタにしかわからない。グラスには数字が書かれているだけで、俺もどのグラスにどの水が入っているかは知らないのだ。
「全部ただの水ですが、味が違います。ランスがいいと思ったものを選んでください」
アスミタがランスに向けて促す。俺やアスミタには水の味はわかったけれど、その水が料理に合うかは料理する人にしかわからない。
飲んでみてと、俺も円卓の上にある水を勧める。ランスは不思議そうに首を傾げてグラスに口をつけていったが、何種類か飲むうちに表情が変わっていった。
ランスはひと通り水の味を確認すると、その中からいくつかを選んで、また味を確認していく。
そしてランスが最終的に選んだ水のグラスに書いてあった番号と、アスミタのメモを照らし合わせる。ランスが選んだものは、普段使っている水を軟水の成分に変化させたものだった。
「普通に飲むだけであれば他のものを選びますが、料理に使ってみたいのはこれですね」
「じゃあ、今までと同じ水と、この水で作り比べてみてくれる? 俺にはこんなことしかできないけど……」
「わかりました。ゼリーであれば少量の水でいくつか作れますし、シンプルな分、味の違いがわかりやすいでしょう」
「うん、お願いします」
ランスはにこりと笑みを浮かべ「任せてください」と胸を叩き、頭を下げて部屋を出ていく。その後を追うように、アスミタが水の入ったチェイサーを持って部屋から出ていった。
二人がはりきって出ていったドアを見て、俺は自分の中に充足感があることに気が付いた。自分の能力がこんなに人を嬉しくさせるのは、初めてかもしれない。
俺は自分の手に視線を下ろした。
もしかしたら俺がここにやってきたのは、この『出来損ないの水属性』を使うよう竜神様が課した運命なのかもしれない。
でもこれで良かったのかもしれない。水の国に帰るよりも、自分の能力が活かせるのだから。
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せっかくファンタジーの世界に転生したんだから魔法も使えたり?と思ったら、我が家に代々伝わる上位氷魔法が俺にだけ使えない?
しかも俺に使える魔法は氷魔法じゃなく『神聖魔法』?というか『神聖魔法』を操れるのは神に選ばれた愛し子だけ……?
どうせ余命幾ばくもない出来損ないなら仕方ない、お荷物の僕はさっさと今世からも退場しよう……と思ってたのに?
偶然騎士たちを神聖魔法で救って、何故か天使と呼ばれて崇められたり。終いには帝国最強の狂血皇子に溺愛されて囲われちゃったり……いやいやちょっと待て。魔王様、主神様、まさかアンタらも?
……ってあれ、なんかめちゃくちゃ囲われてない??
―――
病弱ならどうせすぐ死ぬかー。ならちょっとばかし遊んでもいいよね?と自由にやってたら無駄に最強な奴らに溺愛されちゃってた受けの話。
※別名義で連載していた作品になります。
(名義を統合しこちらに移動することになりました)
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