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第三章
龍王丸、化け物と対峙す(雅次視点)
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兄上が入るよう促すと、普段よりも上等な小袖と袴を着た龍王丸が部屋に入ってきた。
客人に会うと知らされていたのか、いつもより畏まった顔をして、兄上の隣にちょこんと腰を下ろし、「伊吹高雅が嫡子、龍王丸です」と元気よく挨拶した。
その姿に、家房の頬がだらしなく下がるとともに、股間がいよいよ怒張する。
その光景にまた吐き気がして、初めて家房の前に引き出された時のことが脳裏を過ぎった。
あの時、自分は……怖くてたまらない己に、これは兄上を守るためだと自分に言い聞かせ、泣き叫びたいのを堪えて言いなりになるしかなかった。
龍王丸は――。
「龍王丸。この方は、お爺様の大事な盟友で、叔父上の義理の父上に当たられる高垣家房様。今日はお前とぜひ話をしたいとおっしゃっておられる」
「お話?」
「そうだ。ゆえに、己の思ったまま、素直にお答えするように。偽りを申してはならんぞ」
兄上は龍王丸の目を見つめ、真顔でそう告げた。
龍王丸は何かを探るように、兄上の顔をまじまじと見つめ返したが、しばらくして何かを感じ取ったのか、こくんと頷いて家房に向き直った。そして、開口一番。
「お久しゅうございます」
そう言って頭を下げた。家房をはじめ、兄上も俺も目を見開いた。
「はて、龍王丸殿。お会いするのはこれが初めてのはずだが」
「はい。お話するのは初めてですが、会うのは二回目です。前に、おれが原っぱで虎千代といるところを見ている、家房様を見ました」
家房はいよいよ目を丸くした。
「確かにわしは一度、龍王丸殿を遠目に見たことがある。されど、虎千代と遊んでいる最中、わしの姿を認めただけでなく、今まで覚えてもいたとは。さようにわしのことが忘れられなんだか」
弾んだ声で家房が尋ねると、龍王丸はこくこく頷いた。
「はい。おれは次の次の当主さまだから、家来たちの顔も領民の顔も皆覚えています。よそ者はすぐに分かるし、顔もしっかり覚えておきます。後々、何かあるかもしれないから」
屈託のない口調だったが、俺は小さく息を詰めた。
己が領土の人間全てを把握している?
よそ者の顔は後々のために覚えておく?
あの歳の童はそんな思考回路はしていないし、実際にできるものでもない。それなのに。
しかし、家房はと言えば、龍王丸の愛らしさに目が眩んでいるのか、そのようなことには目が行かないようで。
「当主……龍王丸殿。こなたの叔父、雅次殿が山吹になったことを知っているか」
「はい」
「では、イロナシの弟が山吹になった場合、イロナシの嫡子は廃嫡にされ、弟が家督を継ぐことは」
「存じております」
無邪気にそう答える龍王丸に、家房は「おやおや」と破顔した。
「こなたの父が廃嫡されてしまったら、こなたは当主にはなれぬぞ? 雅次殿が家督を継いだなら、その次の当主は雅次殿の子である虎千代じゃ」
ここで、龍王丸が思い切りしかめっ面をした。自分が当主になれないと、今初めて気づいたということか。
「それは……」
「龍王丸殿、聞きなさい」
何か言おうとする龍王丸を遮り、家房が畳みかける。
「これまでずっと当主となるべく励んできたというに、突如駄目だと言われて怒りたくなる気持ちはよう分かる。されどな、これも運命。しかたのないことじゃ」
「……しかたない?」
「そうじゃ。山吹に変異するなど、人の力ではどうすることもできぬ。御仏の御業じゃ。誰も恨んではならぬ。ゆえにな、こう考えてはどうであろう? こなたも父上も、もう当主としての精進を重ねなくともよい。気楽に楽しく生きていけると」
龍王丸の口が思い切りへの字に曲げた。納得がいかないらしい。
それでも、家房はさらに言い募る。
「それでな。父上にも今話したが、こなた、わしのところに来ぬか? わしのところにくれば、玩具もお菓子も好きなだけ与えてやる。虎千代から聞いておるぞ。こなた、玩具を一切もらえず、たくさん玩具を持っている虎千代を羨むばかりの日々を過ごしておると。それを聞いて、可愛いこなたがさような悲しい思いをするのは不憫と思うてな。どうじゃ、嬉しいであろう?」
滑稽なまでの猫撫で声で龍王丸を誘う。だが、誘い文句は実に適当で、こう言えば子どもはすぐ引っかかると舐め腐った心情が透けて見える。
自分の時もそうだった。
そして、どんなに嫌でも嫌だとは言えなかった。
いくら声音が優しく、顔が笑っていても、目は獲物を見据える獰猛な獣そのものだったし、傍らにいる父親は助けを求めても助けてくれないと分かっていたから。
その時の絶望感が思い出され、当時と同じように全身が震えた、その時。
「お断りいたします」
隣に座る父親の顔色を窺うこともなく、龍王丸は真顔で言い放った。
客人に会うと知らされていたのか、いつもより畏まった顔をして、兄上の隣にちょこんと腰を下ろし、「伊吹高雅が嫡子、龍王丸です」と元気よく挨拶した。
その姿に、家房の頬がだらしなく下がるとともに、股間がいよいよ怒張する。
その光景にまた吐き気がして、初めて家房の前に引き出された時のことが脳裏を過ぎった。
あの時、自分は……怖くてたまらない己に、これは兄上を守るためだと自分に言い聞かせ、泣き叫びたいのを堪えて言いなりになるしかなかった。
龍王丸は――。
「龍王丸。この方は、お爺様の大事な盟友で、叔父上の義理の父上に当たられる高垣家房様。今日はお前とぜひ話をしたいとおっしゃっておられる」
「お話?」
「そうだ。ゆえに、己の思ったまま、素直にお答えするように。偽りを申してはならんぞ」
兄上は龍王丸の目を見つめ、真顔でそう告げた。
龍王丸は何かを探るように、兄上の顔をまじまじと見つめ返したが、しばらくして何かを感じ取ったのか、こくんと頷いて家房に向き直った。そして、開口一番。
「お久しゅうございます」
そう言って頭を下げた。家房をはじめ、兄上も俺も目を見開いた。
「はて、龍王丸殿。お会いするのはこれが初めてのはずだが」
「はい。お話するのは初めてですが、会うのは二回目です。前に、おれが原っぱで虎千代といるところを見ている、家房様を見ました」
家房はいよいよ目を丸くした。
「確かにわしは一度、龍王丸殿を遠目に見たことがある。されど、虎千代と遊んでいる最中、わしの姿を認めただけでなく、今まで覚えてもいたとは。さようにわしのことが忘れられなんだか」
弾んだ声で家房が尋ねると、龍王丸はこくこく頷いた。
「はい。おれは次の次の当主さまだから、家来たちの顔も領民の顔も皆覚えています。よそ者はすぐに分かるし、顔もしっかり覚えておきます。後々、何かあるかもしれないから」
屈託のない口調だったが、俺は小さく息を詰めた。
己が領土の人間全てを把握している?
よそ者の顔は後々のために覚えておく?
あの歳の童はそんな思考回路はしていないし、実際にできるものでもない。それなのに。
しかし、家房はと言えば、龍王丸の愛らしさに目が眩んでいるのか、そのようなことには目が行かないようで。
「当主……龍王丸殿。こなたの叔父、雅次殿が山吹になったことを知っているか」
「はい」
「では、イロナシの弟が山吹になった場合、イロナシの嫡子は廃嫡にされ、弟が家督を継ぐことは」
「存じております」
無邪気にそう答える龍王丸に、家房は「おやおや」と破顔した。
「こなたの父が廃嫡されてしまったら、こなたは当主にはなれぬぞ? 雅次殿が家督を継いだなら、その次の当主は雅次殿の子である虎千代じゃ」
ここで、龍王丸が思い切りしかめっ面をした。自分が当主になれないと、今初めて気づいたということか。
「それは……」
「龍王丸殿、聞きなさい」
何か言おうとする龍王丸を遮り、家房が畳みかける。
「これまでずっと当主となるべく励んできたというに、突如駄目だと言われて怒りたくなる気持ちはよう分かる。されどな、これも運命。しかたのないことじゃ」
「……しかたない?」
「そうじゃ。山吹に変異するなど、人の力ではどうすることもできぬ。御仏の御業じゃ。誰も恨んではならぬ。ゆえにな、こう考えてはどうであろう? こなたも父上も、もう当主としての精進を重ねなくともよい。気楽に楽しく生きていけると」
龍王丸の口が思い切りへの字に曲げた。納得がいかないらしい。
それでも、家房はさらに言い募る。
「それでな。父上にも今話したが、こなた、わしのところに来ぬか? わしのところにくれば、玩具もお菓子も好きなだけ与えてやる。虎千代から聞いておるぞ。こなた、玩具を一切もらえず、たくさん玩具を持っている虎千代を羨むばかりの日々を過ごしておると。それを聞いて、可愛いこなたがさような悲しい思いをするのは不憫と思うてな。どうじゃ、嬉しいであろう?」
滑稽なまでの猫撫で声で龍王丸を誘う。だが、誘い文句は実に適当で、こう言えば子どもはすぐ引っかかると舐め腐った心情が透けて見える。
自分の時もそうだった。
そして、どんなに嫌でも嫌だとは言えなかった。
いくら声音が優しく、顔が笑っていても、目は獲物を見据える獰猛な獣そのものだったし、傍らにいる父親は助けを求めても助けてくれないと分かっていたから。
その時の絶望感が思い出され、当時と同じように全身が震えた、その時。
「お断りいたします」
隣に座る父親の顔色を窺うこともなく、龍王丸は真顔で言い放った。
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