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第三章
あの子(家房視点)
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「わあ。爺さま、ありがとう!」
手渡した木馬の玩具を抱き締め、目を輝かせて喜ぶ虎千代に、家房は頬を綻ばせた。
「はは。虎千代、さように嬉しいか」
「うん! だってあいつ、ごみしかくれないんだもん」
「あいつ? 父上のことか? 虎千代、いかんぞ。父上のことをさように言うては」
「よいのです、父上」
窘める家房を、反物を見比べていた蔦がやんわりと制した。
「妻や子に、ひもじい思いをさせても平気な顔をして下っ端で居続けて、山吹に変異しても世継ぎにしてももらえないあんな男、あいつ呼ばわりで十分ですわ」
「蔦。そなたまで」
「何ですの? 父上。私、帰ってきてはいけませんでした? あんな甲斐性なしの道連れになればよかったと?」
本来なら、叱り飛ばしている。
理由はどうであれ、嫁が窮地の夫を見捨てて勝手に出戻ってくるなど、外聞が悪くてしかたない。嫁入り前に孕んだことといい、お前はどこまで頭と尻が軽い女なのだ。
しかし、今回は「よくぞ戻ってきてくれた!」と、大いに褒めた。
蔦が虎千代を連れ帰ってくれたおかげで、いよいよ伊吹家を潰す駒が揃ったのだから。
今頃、芳雅は家房が送った文で発狂し、雅次を殺すと騒ぎ立て、家中はますます荒れていることだろう。
実に喜ばしいことだ。
精々、とうの立った年増同士、醜く殺し合えばいい。
だが一つだけ、どうにも我慢ならないことがあった。
役立たずの馬鹿どもが、龍王丸拐しに失敗したことだ。
全く。たかが六つの童一人満足に攫って来られないなんて、どれだけ無能なのだ。
高雅は相変わらず「先日、息子が何者かに襲われました。心配です」などと馬鹿丸出しの文を送ってくるので、家房が目論んだと露見する心配はなさそうだが、龍王丸は城に引き籠ってしまい、手が出せなくなってしまった。
ついにこの手に抱けると臨戦態勢で待ち焦がれていたというのに。
こんな仕打ちがあろうか。
だからついつい、虎千代に龍王丸のことを根掘り葉掘り聞いてしまう。
「龍王丸はねえ。すっごくみすぼらしい猿なの! 着てる着物は安っぽいし、玩具一つも持ってないし、家来や百姓なんかと遊んで泥だらけになって……この前なんてね。百姓の婆に命令されて、木に登って柿を取ってやってたんだよ! 信じらんない。みっともないって言ってやったら殴って来て……ほんと大嫌い!」
どうやら、龍王丸は相当ひもじい暮らしを強いられているようだ。
さもありなん。
山吹が生まれるまでの穴埋めでしかない高雅は、いつでも廃嫡にできるようにと、低い禄しか与えられていないそうだから。
そんな暮らしぶりならきっと、菓子や玩具を与えてやればすぐ懐くに違いない。
それなのに、龍王丸は我が手に落ちぬまま。
口惜し過ぎて、高雅からの文を毎夜一物に擦りつけて己を慰めているが、それだけでは到底足りない。
龍王丸が欲しい。今すぐ!
こうなったら、頭の中がお花畑の高雅に直談判して龍王丸をもらい受けよう。
それが一番手っ取り早い。
そう思って内密に会いたい旨を昨日書き送ったのだが、果たして……。
『申し上げます。ただいま、伊吹高雅様より文が参りました』
その声が聞こえた瞬間、家房は虎千代を放り出し、駆け出していた。
性急に文を開く。すると、「ぜひお会いしたい」との返事。
やった! これで、龍王丸が手に入ると小躍りしたが、ふと……家房の胸に言いようのない悲しみが押し寄せてきた。
「あの子」のことを、思い出したのだ。
家房があの子と出逢ったのは、家房が十二、あの子が四つの時。あの子が伊吹の家から高垣家に人質に来たのがきっかけで知り合った。
初めてあの子を見た時のこと、今でも鮮烈に覚えている。
この世にこんなに綺麗で愛らしいものがあるのかと驚嘆し、気がついたら勃起していた。
そして、すぐさま「兄様と面白い遊びをしよう」と小さな手を引いて――。
その日から始まった、めくるめく愛欲の日々は至福のひと時だった。
何もかも家房の意のままに出来て、家房が与えてやる刺激全てに泣いて善がる。
可愛くてしかたなかった。骨の髄まで可愛がった。
この世の全てを与えてやっても構わぬと思うほど。
この愛は、永遠に続くものだと思っていた。
しかし、あの子が伊吹の家に戻り、十数年ぶりに再会した時。
それまで抱いていた想いは雲散霧消した。
目の前に現れたのは、可憐なあの子とは似ても似つかぬ、ごつくて不格好な石ころだった。
しかも、「兄さま、兄さま」と野太い声で気持ち悪い猫撫で喋りをしながら、あの子のようにまとわりついて来る。おぞましいことこの上ない。
わしの可愛いあの子を返せ! この醜い石ころめっ。
散々罵り足蹴にすると、石ころは「兄様、嫌いにならないで」と泣いて縋ってきた。
気持ち悪くてしかたない。
だが、「何でもするから」となおも縋ってくるので、ならば……と、散々こき使ってやった。
伊吹が決して高垣に歯向かえぬよう、枠組みも整えた。
さすがに潰すことまではできなかったが、伊吹家は家房の下僕となった。
けれど、それがなんだと言うのだ。
あの子はもういない。
他の童を適当に抱き漁ってみたが、あの子以上にこの心を揺さぶる逸材はなかなか見つけられず。
あの子に会いたい。
ぐちゃぐちゃになるまで抱き潰したい。
そう思っていた矢先、家房は月丸に出会った。
あの子のような溌溂さはないが、不憫でか弱くて、思わず抱き締めたくなるような可愛い子。
すぐに夢中になった。血が滾り、心が躍った。
だが、今回も甘い蜜月は数年で終わりを迎え、可愛い月丸はどこかへ消えて、顔色の悪い年増だけが残った。
そして今回、龍王丸に巡り会った。
ずっと探し続けた「あの子」そっくりの童。
全身の血液が沸き立った。是が非でも手に入れたい。可愛がりたい。
心からそう思った。けれど、それと同時に、こうも思う。
どうせ、龍王丸もすぐにどこかへ消えてしまう。
ああ。なんと悲しき我が運命。
しかし、嘆いてばかりもいられない。
今のうちに、龍王丸の「次」を思案せねば。
ゆえに、息子や家臣たちからどんなに伊吹を潰そうと進言されても、完全に潰すことをよしとできない。
今回のことで、さすがに分かったのだ。
伊吹家からでなければ自分の理想の童は現れない。
だから、どんなに好機であろうと、伊吹家を潰すことはできない。
とはいえ、蔦の報告によると、雅次は夫婦になって七年、女どころか男さえ一度も寄せ付けたことはないと言う。雅次本人も、家房以外はいらぬと言ってきかない。
子作りしなければ捨てると言えば励むかもしれないが、あまり期待できそうにない。
そうなると、残っているのは――。
家房は再度、手にしていた高雅への文に目を落とした。
本来、高雅は始末せねばならない。
虎千代を旗頭に伊吹全てを掌握するためには、高雅の存在は邪魔以外の何物でもない。
けれど……と、手にしていた文へと目を落とす。
家房を信じ切り、「こんな時にまで気にかけてくださりありがとうございます」と感謝の言葉を書き連ねられた高雅の文。
ああ。本当に、なんと純真で愛らしいのだろう。
大人になっても人を疑うことを全く知らないこの無垢さゆえに、息子もあのように愛らしいのだろう。だったら。
ここで、家房の脳裏にある光景が広がった。
無上の極楽ともいうべき世界が。
……できるだろうか? いや、できる!
高雅は幼稚でお人好しだし、何より、どんなに邪険に扱おうが「家房様のことが好き。何でもするから捨てないで」と縋りついて来るあの石ころや年増と同じ血が流れているのだ。
言うことを聞かせるくらい、造作もない。
「手に入れてみせる。必ず」
高鳴る鼓動を抑えつつ、家房はいそいそと待ち合わせ場所の寺へと向かった。
手渡した木馬の玩具を抱き締め、目を輝かせて喜ぶ虎千代に、家房は頬を綻ばせた。
「はは。虎千代、さように嬉しいか」
「うん! だってあいつ、ごみしかくれないんだもん」
「あいつ? 父上のことか? 虎千代、いかんぞ。父上のことをさように言うては」
「よいのです、父上」
窘める家房を、反物を見比べていた蔦がやんわりと制した。
「妻や子に、ひもじい思いをさせても平気な顔をして下っ端で居続けて、山吹に変異しても世継ぎにしてももらえないあんな男、あいつ呼ばわりで十分ですわ」
「蔦。そなたまで」
「何ですの? 父上。私、帰ってきてはいけませんでした? あんな甲斐性なしの道連れになればよかったと?」
本来なら、叱り飛ばしている。
理由はどうであれ、嫁が窮地の夫を見捨てて勝手に出戻ってくるなど、外聞が悪くてしかたない。嫁入り前に孕んだことといい、お前はどこまで頭と尻が軽い女なのだ。
しかし、今回は「よくぞ戻ってきてくれた!」と、大いに褒めた。
蔦が虎千代を連れ帰ってくれたおかげで、いよいよ伊吹家を潰す駒が揃ったのだから。
今頃、芳雅は家房が送った文で発狂し、雅次を殺すと騒ぎ立て、家中はますます荒れていることだろう。
実に喜ばしいことだ。
精々、とうの立った年増同士、醜く殺し合えばいい。
だが一つだけ、どうにも我慢ならないことがあった。
役立たずの馬鹿どもが、龍王丸拐しに失敗したことだ。
全く。たかが六つの童一人満足に攫って来られないなんて、どれだけ無能なのだ。
高雅は相変わらず「先日、息子が何者かに襲われました。心配です」などと馬鹿丸出しの文を送ってくるので、家房が目論んだと露見する心配はなさそうだが、龍王丸は城に引き籠ってしまい、手が出せなくなってしまった。
ついにこの手に抱けると臨戦態勢で待ち焦がれていたというのに。
こんな仕打ちがあろうか。
だからついつい、虎千代に龍王丸のことを根掘り葉掘り聞いてしまう。
「龍王丸はねえ。すっごくみすぼらしい猿なの! 着てる着物は安っぽいし、玩具一つも持ってないし、家来や百姓なんかと遊んで泥だらけになって……この前なんてね。百姓の婆に命令されて、木に登って柿を取ってやってたんだよ! 信じらんない。みっともないって言ってやったら殴って来て……ほんと大嫌い!」
どうやら、龍王丸は相当ひもじい暮らしを強いられているようだ。
さもありなん。
山吹が生まれるまでの穴埋めでしかない高雅は、いつでも廃嫡にできるようにと、低い禄しか与えられていないそうだから。
そんな暮らしぶりならきっと、菓子や玩具を与えてやればすぐ懐くに違いない。
それなのに、龍王丸は我が手に落ちぬまま。
口惜し過ぎて、高雅からの文を毎夜一物に擦りつけて己を慰めているが、それだけでは到底足りない。
龍王丸が欲しい。今すぐ!
こうなったら、頭の中がお花畑の高雅に直談判して龍王丸をもらい受けよう。
それが一番手っ取り早い。
そう思って内密に会いたい旨を昨日書き送ったのだが、果たして……。
『申し上げます。ただいま、伊吹高雅様より文が参りました』
その声が聞こえた瞬間、家房は虎千代を放り出し、駆け出していた。
性急に文を開く。すると、「ぜひお会いしたい」との返事。
やった! これで、龍王丸が手に入ると小躍りしたが、ふと……家房の胸に言いようのない悲しみが押し寄せてきた。
「あの子」のことを、思い出したのだ。
家房があの子と出逢ったのは、家房が十二、あの子が四つの時。あの子が伊吹の家から高垣家に人質に来たのがきっかけで知り合った。
初めてあの子を見た時のこと、今でも鮮烈に覚えている。
この世にこんなに綺麗で愛らしいものがあるのかと驚嘆し、気がついたら勃起していた。
そして、すぐさま「兄様と面白い遊びをしよう」と小さな手を引いて――。
その日から始まった、めくるめく愛欲の日々は至福のひと時だった。
何もかも家房の意のままに出来て、家房が与えてやる刺激全てに泣いて善がる。
可愛くてしかたなかった。骨の髄まで可愛がった。
この世の全てを与えてやっても構わぬと思うほど。
この愛は、永遠に続くものだと思っていた。
しかし、あの子が伊吹の家に戻り、十数年ぶりに再会した時。
それまで抱いていた想いは雲散霧消した。
目の前に現れたのは、可憐なあの子とは似ても似つかぬ、ごつくて不格好な石ころだった。
しかも、「兄さま、兄さま」と野太い声で気持ち悪い猫撫で喋りをしながら、あの子のようにまとわりついて来る。おぞましいことこの上ない。
わしの可愛いあの子を返せ! この醜い石ころめっ。
散々罵り足蹴にすると、石ころは「兄様、嫌いにならないで」と泣いて縋ってきた。
気持ち悪くてしかたない。
だが、「何でもするから」となおも縋ってくるので、ならば……と、散々こき使ってやった。
伊吹が決して高垣に歯向かえぬよう、枠組みも整えた。
さすがに潰すことまではできなかったが、伊吹家は家房の下僕となった。
けれど、それがなんだと言うのだ。
あの子はもういない。
他の童を適当に抱き漁ってみたが、あの子以上にこの心を揺さぶる逸材はなかなか見つけられず。
あの子に会いたい。
ぐちゃぐちゃになるまで抱き潰したい。
そう思っていた矢先、家房は月丸に出会った。
あの子のような溌溂さはないが、不憫でか弱くて、思わず抱き締めたくなるような可愛い子。
すぐに夢中になった。血が滾り、心が躍った。
だが、今回も甘い蜜月は数年で終わりを迎え、可愛い月丸はどこかへ消えて、顔色の悪い年増だけが残った。
そして今回、龍王丸に巡り会った。
ずっと探し続けた「あの子」そっくりの童。
全身の血液が沸き立った。是が非でも手に入れたい。可愛がりたい。
心からそう思った。けれど、それと同時に、こうも思う。
どうせ、龍王丸もすぐにどこかへ消えてしまう。
ああ。なんと悲しき我が運命。
しかし、嘆いてばかりもいられない。
今のうちに、龍王丸の「次」を思案せねば。
ゆえに、息子や家臣たちからどんなに伊吹を潰そうと進言されても、完全に潰すことをよしとできない。
今回のことで、さすがに分かったのだ。
伊吹家からでなければ自分の理想の童は現れない。
だから、どんなに好機であろうと、伊吹家を潰すことはできない。
とはいえ、蔦の報告によると、雅次は夫婦になって七年、女どころか男さえ一度も寄せ付けたことはないと言う。雅次本人も、家房以外はいらぬと言ってきかない。
子作りしなければ捨てると言えば励むかもしれないが、あまり期待できそうにない。
そうなると、残っているのは――。
家房は再度、手にしていた高雅への文に目を落とした。
本来、高雅は始末せねばならない。
虎千代を旗頭に伊吹全てを掌握するためには、高雅の存在は邪魔以外の何物でもない。
けれど……と、手にしていた文へと目を落とす。
家房を信じ切り、「こんな時にまで気にかけてくださりありがとうございます」と感謝の言葉を書き連ねられた高雅の文。
ああ。本当に、なんと純真で愛らしいのだろう。
大人になっても人を疑うことを全く知らないこの無垢さゆえに、息子もあのように愛らしいのだろう。だったら。
ここで、家房の脳裏にある光景が広がった。
無上の極楽ともいうべき世界が。
……できるだろうか? いや、できる!
高雅は幼稚でお人好しだし、何より、どんなに邪険に扱おうが「家房様のことが好き。何でもするから捨てないで」と縋りついて来るあの石ころや年増と同じ血が流れているのだ。
言うことを聞かせるくらい、造作もない。
「手に入れてみせる。必ず」
高鳴る鼓動を抑えつつ、家房はいそいそと待ち合わせ場所の寺へと向かった。
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