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第三章
もう終わり(雅次視点)
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俺は慌てて広げられた文に目を向けた。
すると、そこに書かれていたのは。
「『愛しの月丸。これはどうしたことか。お前への愛を示すために高雅を殺してやる。邪魔な龍王丸はわしが引き取ってもやると言うたに、なにゆえ邪魔をした』」
「……!」
「『わしの愛が信じられぬのか。近々二人きりで逢おう。そこで今度こそ、わしがどれだけお前を想うているか、その身と心に教えてやる。返事をもらいたし。家房』」
「あ、ああ……そ、れは」
兄上が読み上げた文言に戦慄するばかりの俺に、兄上はあっさりとこう言った。
「つい先ほど、お前の陣所近くで張っていた網にまんまとかかった、家房の間者が持っていたものだ」
混乱した。
兄上が家房からの文を持っていること自体もそうだが、入手した方法が……まるで最初から、俺と家房が通じていることを知っていたと言わんばかり――。
「雅次」
兄上が再び俺へと顔を向ける。
その顔には、俺のよく知るあの笑みが貼りついている。
それが、尋常ではないほどに怖い。
兄上のこの笑顔は裏表のない心からの笑みだと、昔から信じて疑ってもいなかった。
だが、本当は――。
「俺は、言うたな? 『もう金輪際、家房と二人きりで会うな。何か言ってきたらすぐ俺に知らせてくれ』と。そしたら、お前はこう言った。『俺が家房に抱かれたら、兄上は俺のこと嫌いになりますか』と。そこで、俺は思ったよ。ああ、こやつは自分の体を使って家房を抱き込む気だと」
「! さ、さようなこと……っ」
とっさに否定しようとした。しかし。
「こやつならやる。俺をとびきり立派な名将に仕立て上げるために作左と結託して、己の天恵全てを俺に注ぎ込むこやつならやりかねない」
全身の血の気が引く。
そんなことまで、気づかれている。
どこまでだ。
どこまで勘づかれているっ?
混乱する頭で必死に考えていると、
「七年前、お前は言ったな。『俺は兄上とものの考え方が違うし、信じることもできない。それでも兄上が好きだ。そばにいさせてほしい』と。俺はそれでも構わない。ともにいようと答えた。本音を晒し合って、互いの違いを認め合っていこうという意味でな」
兄上の顔から笑顔が消えた。
「だから、俺はいつも腹を割ってお前に話してきたし、お前も本音をぶつけてくれていると思って……できるだけ、お前の希望を叶えてきた。お前にはたくさん幸せになってほしかったから、お前が妻子との慎ましやかな暮らしを一番に望むなら……お前の武将としての才に気づいていながら目を瞑って、俺一人で気張って行こうと」
「……っ」
「お前は俺を馬鹿なお人よしと思っているが、確かにそのとおりだ。お前に対しては特にな」
全身が滑稽なほどに震え始める。
この震え、覚えがある。七年前、俺が兄上を内心馬鹿にしていたことを見抜かれていたと分かった時と同じものだ。
あの時、俺は自分の浅はかさを心底恥じて、兄上は決して馬鹿ではなかったと思い知ったはずだ。
それなのに、また……俺は兄上を馬鹿なお人よしだと侮った。
今度は、兄上が信じてやまない作左がいるのだ。絶対ばれない。現に、兄上は……俺や作左が吐く数え切れない嘘を、何の疑いもせず鵜呑みにしているからと。
それは、兄上が俺のことを信じよう。俺に幸せになってほしいという優しさによるものだと気づきもしないで。
兄上のためとはいえ、俺はまた、兄上からの信頼と気持ちを踏みにじり続けた。
そのことをようやく理解した刹那、
「雅次、もう無理だ」
聴こえてきた、その言葉。
「お前が俺に隠れて全てを擲ち、挙げ句あの男に抱かれるというのなら、俺はもう、お前の言うことは一切信じない。言うことも聞かない。そばにも置いておけない」
息が止まった。
もう何を言っても信じてもらえない。聞いてももらえない。その上、そばにいることさえできない。
そんなの、死刑宣告に他ならない。
兄上がいるから、俺はこんな醜い世でも息をしているのに。
「もういっそ、俺をお前の中から消してくれ」
「……っ」
殺された。ぐさりと、心の臓を刺し貫かれた。
そんな気がした。
でも、生きている。
本当に死ねればよかったのに。本気でそう思うほど、
「お前にそんなふうに想われても、何をされても、俺は決して幸せにはならない」
浴びせられる言葉が、あまりにも痛くて、やるせなくて、
「地獄に堕ちるだけ、辛いだけなんだよ。だから……っ」
気がつけば、俺は兄上の胸倉を掴んでいた。そして、
「そんなふうに想われても? あなたに……あなたにだけは言われたくないっ」
そう、叫んでいた。
「俺は、言った。強くて立派な兄なんかいらない。今のまま、優しくて温かい俺だけの兄上でいてくれればそれでいいって。なのに、あなたは聞いてくれなかった。弟を守れない兄なんか嫌だと泣いて、どんどん……俺の望まない兄上になっていって!」
どうしてこんなことを怒鳴っているのか、自分でも分からない。
俺は、失敗した。
兄上には絶対バレてはいけなかったことをいくつも露呈させた。
だから、兄上に拒絶され、切り捨てられる。
これは当然の結果。自業自得。
頭ではそう、分かっているのに、どうして昔のことを詰っているのか。
分からない。それでも、止まらない。止められなくて――。
「あなたこそ、俺を傷つけてばかりじゃないかっ。イロナシでも頑張れば認められるだなんて夢物語を馬鹿みたいに信じて、俺を十年もほったらかしにして、俺だけの兄上じゃなくなって、危ないことばかりして、そのくせ……ずっと、俺の大好きな兄上で居続けて!」
掴んだ胸倉を揺さぶり、みっともなく喚き散らす。
「こんなことはもうやめろ。俺の中のあなたを消せと言うなら、俺の大好きな兄上じゃない誰かになってくれっ。大嫌いだと思わせてくれっ」
「……っ」
「じゃなきゃ、やめたくても……やめらない」
「……」
「どうしてもやめられないっ。何度も嫌いになろう。こんな馬鹿なことはやめたい。そう思っても……苦しくても、寂しくても、あなたを想わずにはいられない。それを……っ」
俺は思い切り、目の前の男を睨みつけた。
限界まで見開かれた、惚けた黒い瞳が憎たらしくてしかたない。
「人の気も知らないで勝手なことばかり。どうせ、あなたには死ぬまで分からない。清くて綺麗なあなたには、薄汚い俺の気持ちなんか分かるわけない……っ」
止まらなかった口が、ぴたりと止まった。
至近距離まで迫ってきた黒い瞳。唇に感じる柔らかな感触。これは……っ。
すると、そこに書かれていたのは。
「『愛しの月丸。これはどうしたことか。お前への愛を示すために高雅を殺してやる。邪魔な龍王丸はわしが引き取ってもやると言うたに、なにゆえ邪魔をした』」
「……!」
「『わしの愛が信じられぬのか。近々二人きりで逢おう。そこで今度こそ、わしがどれだけお前を想うているか、その身と心に教えてやる。返事をもらいたし。家房』」
「あ、ああ……そ、れは」
兄上が読み上げた文言に戦慄するばかりの俺に、兄上はあっさりとこう言った。
「つい先ほど、お前の陣所近くで張っていた網にまんまとかかった、家房の間者が持っていたものだ」
混乱した。
兄上が家房からの文を持っていること自体もそうだが、入手した方法が……まるで最初から、俺と家房が通じていることを知っていたと言わんばかり――。
「雅次」
兄上が再び俺へと顔を向ける。
その顔には、俺のよく知るあの笑みが貼りついている。
それが、尋常ではないほどに怖い。
兄上のこの笑顔は裏表のない心からの笑みだと、昔から信じて疑ってもいなかった。
だが、本当は――。
「俺は、言うたな? 『もう金輪際、家房と二人きりで会うな。何か言ってきたらすぐ俺に知らせてくれ』と。そしたら、お前はこう言った。『俺が家房に抱かれたら、兄上は俺のこと嫌いになりますか』と。そこで、俺は思ったよ。ああ、こやつは自分の体を使って家房を抱き込む気だと」
「! さ、さようなこと……っ」
とっさに否定しようとした。しかし。
「こやつならやる。俺をとびきり立派な名将に仕立て上げるために作左と結託して、己の天恵全てを俺に注ぎ込むこやつならやりかねない」
全身の血の気が引く。
そんなことまで、気づかれている。
どこまでだ。
どこまで勘づかれているっ?
混乱する頭で必死に考えていると、
「七年前、お前は言ったな。『俺は兄上とものの考え方が違うし、信じることもできない。それでも兄上が好きだ。そばにいさせてほしい』と。俺はそれでも構わない。ともにいようと答えた。本音を晒し合って、互いの違いを認め合っていこうという意味でな」
兄上の顔から笑顔が消えた。
「だから、俺はいつも腹を割ってお前に話してきたし、お前も本音をぶつけてくれていると思って……できるだけ、お前の希望を叶えてきた。お前にはたくさん幸せになってほしかったから、お前が妻子との慎ましやかな暮らしを一番に望むなら……お前の武将としての才に気づいていながら目を瞑って、俺一人で気張って行こうと」
「……っ」
「お前は俺を馬鹿なお人よしと思っているが、確かにそのとおりだ。お前に対しては特にな」
全身が滑稽なほどに震え始める。
この震え、覚えがある。七年前、俺が兄上を内心馬鹿にしていたことを見抜かれていたと分かった時と同じものだ。
あの時、俺は自分の浅はかさを心底恥じて、兄上は決して馬鹿ではなかったと思い知ったはずだ。
それなのに、また……俺は兄上を馬鹿なお人よしだと侮った。
今度は、兄上が信じてやまない作左がいるのだ。絶対ばれない。現に、兄上は……俺や作左が吐く数え切れない嘘を、何の疑いもせず鵜呑みにしているからと。
それは、兄上が俺のことを信じよう。俺に幸せになってほしいという優しさによるものだと気づきもしないで。
兄上のためとはいえ、俺はまた、兄上からの信頼と気持ちを踏みにじり続けた。
そのことをようやく理解した刹那、
「雅次、もう無理だ」
聴こえてきた、その言葉。
「お前が俺に隠れて全てを擲ち、挙げ句あの男に抱かれるというのなら、俺はもう、お前の言うことは一切信じない。言うことも聞かない。そばにも置いておけない」
息が止まった。
もう何を言っても信じてもらえない。聞いてももらえない。その上、そばにいることさえできない。
そんなの、死刑宣告に他ならない。
兄上がいるから、俺はこんな醜い世でも息をしているのに。
「もういっそ、俺をお前の中から消してくれ」
「……っ」
殺された。ぐさりと、心の臓を刺し貫かれた。
そんな気がした。
でも、生きている。
本当に死ねればよかったのに。本気でそう思うほど、
「お前にそんなふうに想われても、何をされても、俺は決して幸せにはならない」
浴びせられる言葉が、あまりにも痛くて、やるせなくて、
「地獄に堕ちるだけ、辛いだけなんだよ。だから……っ」
気がつけば、俺は兄上の胸倉を掴んでいた。そして、
「そんなふうに想われても? あなたに……あなたにだけは言われたくないっ」
そう、叫んでいた。
「俺は、言った。強くて立派な兄なんかいらない。今のまま、優しくて温かい俺だけの兄上でいてくれればそれでいいって。なのに、あなたは聞いてくれなかった。弟を守れない兄なんか嫌だと泣いて、どんどん……俺の望まない兄上になっていって!」
どうしてこんなことを怒鳴っているのか、自分でも分からない。
俺は、失敗した。
兄上には絶対バレてはいけなかったことをいくつも露呈させた。
だから、兄上に拒絶され、切り捨てられる。
これは当然の結果。自業自得。
頭ではそう、分かっているのに、どうして昔のことを詰っているのか。
分からない。それでも、止まらない。止められなくて――。
「あなたこそ、俺を傷つけてばかりじゃないかっ。イロナシでも頑張れば認められるだなんて夢物語を馬鹿みたいに信じて、俺を十年もほったらかしにして、俺だけの兄上じゃなくなって、危ないことばかりして、そのくせ……ずっと、俺の大好きな兄上で居続けて!」
掴んだ胸倉を揺さぶり、みっともなく喚き散らす。
「こんなことはもうやめろ。俺の中のあなたを消せと言うなら、俺の大好きな兄上じゃない誰かになってくれっ。大嫌いだと思わせてくれっ」
「……っ」
「じゃなきゃ、やめたくても……やめらない」
「……」
「どうしてもやめられないっ。何度も嫌いになろう。こんな馬鹿なことはやめたい。そう思っても……苦しくても、寂しくても、あなたを想わずにはいられない。それを……っ」
俺は思い切り、目の前の男を睨みつけた。
限界まで見開かれた、惚けた黒い瞳が憎たらしくてしかたない。
「人の気も知らないで勝手なことばかり。どうせ、あなたには死ぬまで分からない。清くて綺麗なあなたには、薄汚い俺の気持ちなんか分かるわけない……っ」
止まらなかった口が、ぴたりと止まった。
至近距離まで迫ってきた黒い瞳。唇に感じる柔らかな感触。これは……っ。
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