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第二章
ひどい誤算(雅次視点)
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帰る道すがら、俺の頭の中はもう兄上のことしかなかった。
この縁談の話を聞いたら、俺をやたらと不憫がっていた兄上はきっと喜んでくれる。
「そうか! あの雅次が俺と同じように恋をしたのか」と褒めてくれる。
もう、俺のことを「独りぼっちの憐れな弟」という目で見なくなる。
「俺のように、どんな手を使ってでも手に入れたいと思える女と結婚できるのか。おめでとう!」と、歓んでくれて、昔のように屈託なく笑いかけてくれる。
そう、信じて疑いもしなかった。
だから、この時の俺は相当浮かれていて、
「兄上だって、義姉上様を早々に孕ませて、義姉上様を手に入れたではないですか。ゆえに兄上の真似をして、蔦殿に仕込んだ次第で」
「俺も早く所帯が持ちたくなったのです。兄上が義姉上様との仲睦まじいさまを見せつけてくるから」
と、鼻高々に語り、石のように固まってしまった兄上を小気味よく眺めた。
驚きが薄れれば、必ず笑顔を浮かべ、盛大に祝ってくれるものだと確信していたからだ。
だが、ふと目が合って、「さあ褒めてくれ」とばかりに笑ってみせた時、それは起こった。
突如、兄上が箸と茶碗を無造作に放って立ち上がったのだ。
どうかしたのかと訊きかけ、俺は息を呑んだ。
見上げた兄上の顔が、悪寒が走るほどに凍てついていたから。
「兄、上……?」
思わず声が漏れた。
だが、兄上は何も言わないどころか、俺に一瞥さえくれず、ひどく乱暴な足取りで出て行ってしまった。
……無視、された?
あの、いつだって優しい兄上に?
信じられないことだった。
「あ……どうして、なんで」
天地がひっくり返っても起こるはずがない事態に呆然とすることしかできない俺に、義姉が口を開いた。
「……違うのです」
「え? 何、が……」
「高雅様が私に惚れて、嫁にと望んだのは嘘」
「……!」
「本当は、高雅様の意に添わぬ政略結婚。私にとっては、違いますけど」
「そ、それは、どういう」
意味が分からず訊き返すと、義姉は沈痛な面持ちで俯いた。
そのまま黙っていたが、しばらくして、意を決するように深い息を吐いた。
「三年前、京で戦がありました。喜勢家は名門といえど力のない貧乏な家ですから、私どもは戦火を逃れるため京を離れました。そこで……私は、野盗に捕まってしまいまして」
「……っ」
「野盗に女子が捕まれば……まあ、そういうことになります。高雅様は、その野盗のねぐらを討伐された際、私を見つけたのです。見るに堪えぬ私を」
俯いたまま、義姉は震える声を振り絞り、続きを聞かせてくれた。
義姉を保護し、そのまま護衛を命じられた兄上は、それはそれは心身ともに傷ついた義姉を労わったのだという。
それも、何の気負いも感じられない、極々自然な体で。
「他の者たちは……報せを聞いて、駆けつけてきた弟でさえ、私を腫物のように扱ってきたというのに、あの方だけ。ですから、あの方と一緒にいる時だけ、私は野盗に捕まる前の、普通の姫でいられた。それがあまりにも居心地が良くて……この方のおそばにずっといられたら、だなんて……単純でしょう?」
自嘲する義姉。
だが、俺には義姉の気持ちがよく分かった。
武家の姫が下賤の者に辱めを受けた。
これはとてつもない醜聞だ。
本人に一切の比がなくとも、「ふしだらな女」「穢れた女」と責められる。格調高い京ではなおさら。
それを思えば、義姉と自然に接すると言うのはかなり困難なことだろう。
義姉を大事に想う人間は特に。
しかし、兄上はそのようなことで態度を変えたりしない。
相手の今、あるがままを見て接する。
兄上の、夢のように綺麗な心のなせることだろう。
そのような兄上に好意を抱き、そばにいたいと願うのは自然なことだ。
「そしたら、私のその想いを貞保が察して……あ。貞保とは私の弟なのですけれど、とても姉想いの子で、私のために一計を案じてくれまして」
――姉上、それがしにお任せください!
貞保はそう言うと、義姉がいる部屋の隣部屋に兄上を呼び出し、義姉を嫁にしてほしいと頼んだのだという。だが。
「弟は生まれながらの山吹です。物心ついた時から天才だ何だと持て囃されてもおりました。なので、当時まだ八つだったのですが、やたらと知恵が回るといいますか、理に勝ちすぎるといいますか、そういうところがありまして」
――貴殿らが、姉上の秘密を黙っていてくれる確証はどこにもなく、安心できません。ゆえに、貴殿が姉上を娶ってはくださいませんか? それならば、貴殿らが口を割ることは決してない。また、喜勢家の姫を嫁にとなれば、貴殿の地位は格段に上がり、喜勢家との繋がりもできる。悪い話ではないでしょう?
澄まし顔で、義姉を娶る益について力説し、促したのだとか。
正論ではある。
だが、清廉な兄上にその説得は悪手以外の何物でもない。
「すると、あの方はいきなり貞保の両肩を掴んで、こう言ったのです」
――そのような話に乗る男に、決して姉君を娶らせるなっ。さようなつまらぬ男が、あれほどの人を幸せにできるわけがない。
「あの子は呆気に取られていました。高雅様のような、利では動かぬお方に会ったことがなかったので」
そうなのだ。
普通、いないのだ。あんな男。
「続けて、高雅様はこうも言ったのです。『そのように自分を責めるな』と」
――姉君が辛い目に遭ったのは、貴殿のせいではない。それに、姉君はかような小細工をせずとも十分幸せになれるお方。大丈夫。大丈夫だから。
優しくそう言って、肩を叩いた。
すると、貞保は泣き崩れてしまったのだという。
「あの子も、ずっと辛かったんです。自分が守れなかったばかりに私を傷つけたと、自分を責め続けて、だから……せめて、姉の恋だけでも叶えてやりたいと思い詰めていたんです。あの方だけがそれを見抜かれて……私の時と同じ」
その言葉に、何とも兄上らしいと思いながらも、俺は何とも言えぬ苛立ちを覚えた。
次々と人の心を鷲掴んでおきながら、そのことに気づいてもいない無邪気さと性悪さに……と、思っていたら、
「高雅様は泣きじゃくる貞保のそばにずっとおられました。『あっちへ行け』と貞保は邪険にしておりましたけれど、『貴殿を見ていると弟を想い出す。放っておけぬ』とおっしゃられて」
思わぬ言葉にどきりとして、思わず悔しさで唇を噛んだ。
全く、兄上は本当に性質が悪い。
そんな俺の胸の内が見えたのは義姉は小さく苦笑した。
それから、改まったように息を吐いた。
「私も弟もそのようなありさまでしたし、程なく……私が身籠っていることも分かって、父は高雅様を私の婿にと推したのです。私のような女を受け止め、大事にできる男は高雅様以外おらぬと」
それは……確かに、そのとおりだ。
義姉には何の落ち度もないとはいえ、野盗に狼藉を働かれた……しかも、そんな輩の子を宿した女を優しく受け止めることができる男なんて、兄上ぐらいしかいない。
俺が義姉、あるいは義姉の父や弟の立場だったとしても、婿にはぜひ伊吹高雅をと熱望しただろう。
けれど、兄上は? 兄上のお心は……。
この縁談の話を聞いたら、俺をやたらと不憫がっていた兄上はきっと喜んでくれる。
「そうか! あの雅次が俺と同じように恋をしたのか」と褒めてくれる。
もう、俺のことを「独りぼっちの憐れな弟」という目で見なくなる。
「俺のように、どんな手を使ってでも手に入れたいと思える女と結婚できるのか。おめでとう!」と、歓んでくれて、昔のように屈託なく笑いかけてくれる。
そう、信じて疑いもしなかった。
だから、この時の俺は相当浮かれていて、
「兄上だって、義姉上様を早々に孕ませて、義姉上様を手に入れたではないですか。ゆえに兄上の真似をして、蔦殿に仕込んだ次第で」
「俺も早く所帯が持ちたくなったのです。兄上が義姉上様との仲睦まじいさまを見せつけてくるから」
と、鼻高々に語り、石のように固まってしまった兄上を小気味よく眺めた。
驚きが薄れれば、必ず笑顔を浮かべ、盛大に祝ってくれるものだと確信していたからだ。
だが、ふと目が合って、「さあ褒めてくれ」とばかりに笑ってみせた時、それは起こった。
突如、兄上が箸と茶碗を無造作に放って立ち上がったのだ。
どうかしたのかと訊きかけ、俺は息を呑んだ。
見上げた兄上の顔が、悪寒が走るほどに凍てついていたから。
「兄、上……?」
思わず声が漏れた。
だが、兄上は何も言わないどころか、俺に一瞥さえくれず、ひどく乱暴な足取りで出て行ってしまった。
……無視、された?
あの、いつだって優しい兄上に?
信じられないことだった。
「あ……どうして、なんで」
天地がひっくり返っても起こるはずがない事態に呆然とすることしかできない俺に、義姉が口を開いた。
「……違うのです」
「え? 何、が……」
「高雅様が私に惚れて、嫁にと望んだのは嘘」
「……!」
「本当は、高雅様の意に添わぬ政略結婚。私にとっては、違いますけど」
「そ、それは、どういう」
意味が分からず訊き返すと、義姉は沈痛な面持ちで俯いた。
そのまま黙っていたが、しばらくして、意を決するように深い息を吐いた。
「三年前、京で戦がありました。喜勢家は名門といえど力のない貧乏な家ですから、私どもは戦火を逃れるため京を離れました。そこで……私は、野盗に捕まってしまいまして」
「……っ」
「野盗に女子が捕まれば……まあ、そういうことになります。高雅様は、その野盗のねぐらを討伐された際、私を見つけたのです。見るに堪えぬ私を」
俯いたまま、義姉は震える声を振り絞り、続きを聞かせてくれた。
義姉を保護し、そのまま護衛を命じられた兄上は、それはそれは心身ともに傷ついた義姉を労わったのだという。
それも、何の気負いも感じられない、極々自然な体で。
「他の者たちは……報せを聞いて、駆けつけてきた弟でさえ、私を腫物のように扱ってきたというのに、あの方だけ。ですから、あの方と一緒にいる時だけ、私は野盗に捕まる前の、普通の姫でいられた。それがあまりにも居心地が良くて……この方のおそばにずっといられたら、だなんて……単純でしょう?」
自嘲する義姉。
だが、俺には義姉の気持ちがよく分かった。
武家の姫が下賤の者に辱めを受けた。
これはとてつもない醜聞だ。
本人に一切の比がなくとも、「ふしだらな女」「穢れた女」と責められる。格調高い京ではなおさら。
それを思えば、義姉と自然に接すると言うのはかなり困難なことだろう。
義姉を大事に想う人間は特に。
しかし、兄上はそのようなことで態度を変えたりしない。
相手の今、あるがままを見て接する。
兄上の、夢のように綺麗な心のなせることだろう。
そのような兄上に好意を抱き、そばにいたいと願うのは自然なことだ。
「そしたら、私のその想いを貞保が察して……あ。貞保とは私の弟なのですけれど、とても姉想いの子で、私のために一計を案じてくれまして」
――姉上、それがしにお任せください!
貞保はそう言うと、義姉がいる部屋の隣部屋に兄上を呼び出し、義姉を嫁にしてほしいと頼んだのだという。だが。
「弟は生まれながらの山吹です。物心ついた時から天才だ何だと持て囃されてもおりました。なので、当時まだ八つだったのですが、やたらと知恵が回るといいますか、理に勝ちすぎるといいますか、そういうところがありまして」
――貴殿らが、姉上の秘密を黙っていてくれる確証はどこにもなく、安心できません。ゆえに、貴殿が姉上を娶ってはくださいませんか? それならば、貴殿らが口を割ることは決してない。また、喜勢家の姫を嫁にとなれば、貴殿の地位は格段に上がり、喜勢家との繋がりもできる。悪い話ではないでしょう?
澄まし顔で、義姉を娶る益について力説し、促したのだとか。
正論ではある。
だが、清廉な兄上にその説得は悪手以外の何物でもない。
「すると、あの方はいきなり貞保の両肩を掴んで、こう言ったのです」
――そのような話に乗る男に、決して姉君を娶らせるなっ。さようなつまらぬ男が、あれほどの人を幸せにできるわけがない。
「あの子は呆気に取られていました。高雅様のような、利では動かぬお方に会ったことがなかったので」
そうなのだ。
普通、いないのだ。あんな男。
「続けて、高雅様はこうも言ったのです。『そのように自分を責めるな』と」
――姉君が辛い目に遭ったのは、貴殿のせいではない。それに、姉君はかような小細工をせずとも十分幸せになれるお方。大丈夫。大丈夫だから。
優しくそう言って、肩を叩いた。
すると、貞保は泣き崩れてしまったのだという。
「あの子も、ずっと辛かったんです。自分が守れなかったばかりに私を傷つけたと、自分を責め続けて、だから……せめて、姉の恋だけでも叶えてやりたいと思い詰めていたんです。あの方だけがそれを見抜かれて……私の時と同じ」
その言葉に、何とも兄上らしいと思いながらも、俺は何とも言えぬ苛立ちを覚えた。
次々と人の心を鷲掴んでおきながら、そのことに気づいてもいない無邪気さと性悪さに……と、思っていたら、
「高雅様は泣きじゃくる貞保のそばにずっとおられました。『あっちへ行け』と貞保は邪険にしておりましたけれど、『貴殿を見ていると弟を想い出す。放っておけぬ』とおっしゃられて」
思わぬ言葉にどきりとして、思わず悔しさで唇を噛んだ。
全く、兄上は本当に性質が悪い。
そんな俺の胸の内が見えたのは義姉は小さく苦笑した。
それから、改まったように息を吐いた。
「私も弟もそのようなありさまでしたし、程なく……私が身籠っていることも分かって、父は高雅様を私の婿にと推したのです。私のような女を受け止め、大事にできる男は高雅様以外おらぬと」
それは……確かに、そのとおりだ。
義姉には何の落ち度もないとはいえ、野盗に狼藉を働かれた……しかも、そんな輩の子を宿した女を優しく受け止めることができる男なんて、兄上ぐらいしかいない。
俺が義姉、あるいは義姉の父や弟の立場だったとしても、婿にはぜひ伊吹高雅をと熱望しただろう。
けれど、兄上は? 兄上のお心は……。
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