そして、弟は兄を殺すことにした。

第二章

恥ずべき所業（高雅視点）

「……え」

「乃絵のことだ。確かに、本当のことを話して乃絵の恥を晒すのは忍びない。琴のことも変な目で見られたくない。そう思ったが、話さなかった一番の理由は……お・前・に・失・望・さ・れ・る・の・が・怖・か・っ・た・からだ」

「……！」

「傷ついた女の弱味に付け込む下卑た縁談を突っぱねることもできなければ、この件がなければ、俺は一応とはいえ世継ぎになっていないし、ここへ帰っても来られなかった」

「あ、兄上……」

「十年頑張っても、このありさま。そんな己が嫌で、恥ずかしくて……っ」

　この縁談を命じられた時、本当に……嫌でしかたなかった。

　戦場で使い捨てにされる身の上ではあったが、もし結婚するなら、武家に生まれた以上、政の駆け引きとして妻を娶ることになると覚悟はしていた。

　それでも、この縁談だけは真っ平御免だと思った。

　彼女の護衛を任されていた俺はずっと、乃絵が傷つきながらも、こんなことで自分は負けたりしないと己を奮い立たせ、懸命に前を向こうとしているのをそばで見てきた。
　そんな彼女の強さに感服し、一・人・の・人・間・と・し・て・好意を抱き、胸を張って生きていってほしいと心から願っていた。

　それなのに、彼女はもはや傷物。孕まされていたと知っても、それさえ利用しようとする連中の片棒を担ぐなど、彼女への侮辱以外の何物でもないし、何より……彼女を踏み台にして、己の地位を確立させるのが嫌だった。そんなクズにはなりたくない。

　だから、喜勢氏から内々に呼び出され、俺に乃絵を嫁にと言われた時、突っぱねた。もっと娘の幸せを考えてやってほしいとも言った。すると、

　――乃絵のためにそのように怒ってくれる貴殿だからこそ、嫁にもらってほしいと思うのですよ。
　そう言われた。嫁にしてしまったら、この怒りはただの薄汚い偽善になるとも返したが、

　――貴・殿・に・は・確・か・、・同・腹・の・弟・御・が・お・ら・れ・ま・し・た・な・。
　喜勢氏は唐突に言った。

　なぜ、ここで雅次の名が出てくる。
　意味が分からず訝しむ俺に、続けて告げられたのは驚くべきものだった。

　――我が手の者の報告によれば、今の弟御の境遇は、貴殿にとってすこぶる良うない。というのも、伊吹殿は毎日、弟御を「兄はかように優れておるのに弟の貴様はそんなに駄目なのか」といたぶり、家臣たちにもそれを徹底しているご様子。

　――これが、何を意味しているか分かりますか？　もし万が一、山吹の世継ぎが出来て貴殿が邪魔になった時、弟・御・に・貴・殿・を・始・末・さ・せ・る・つ・も・り・なのですよ。子殺しは体裁がよくないが、兄弟で勝手に殺し合い、なおかつ、共倒れしてくれれば一石二鳥……分かりますか？　貴殿の父親は、貴殿ら兄弟をその程度にしか考えていない。

　ぞっとした。

　喜勢氏が推測した策。犬畜生にも劣るものだし、果たして父がそこまで考えているか判然としないが、それでも……俺に対して、これ以上の策はない。

　俺を殺す相手として、雅次ほどの適任はいないだろう。

　たとえ、雅・次・を・殺・さ・な・け・れ・ば・俺・を・殺・さ・れ・る・と・い・う・状・況・に・な・っ・た・と・し・て・も・、・俺・は・…・…・雅・次・を・殺・す・こ・と・な・ど・、・決・し・て・で・き・な・い・のだから。

　そして、今この瞬間も雅次は俺のことでいたぶられ続けているかもしれないと思うと、腸がちぎれそうだ。

　今すぐにでも静谷へ戻りたい。
　だが、父の勝手のいい捨て駒でしかない俺にはそんなことはできない。
　力がなければこの乱世、何もできやしない。だったら。

　――出奔する気がないのであれば、どんな手を使ってでも、すぐに故郷へお戻りになることをお勧めします。手遅れになる前に。

　こうして、俺はこの縁談を受け、喜勢家という後ろ盾を得るとともに、喜勢家の婿としての箔づけのため一応ではあるが、伊吹家世継ぎの地位を手に入れて、ようやく静谷の地に戻ってくることができた。

　結果として、この判断は間違っていなかったと思う。

　あの縁談を頑なに突っぱね続けたら、俺も雅次も、俺の家臣たちも今頃どうなっていたか、分かったものではない。

　乃絵のことも……どんな形であれ夫婦となった以上、腹の子も含め、二人を生涯大事にする。その覚悟で祝言を挙げた。

　その後も、できるだけいい夫、いい父になろうと日々努力している。
　そんな俺に、乃絵は時折「あなたに嫁いでよかった」と笑ってくれる。

　だから……よかったのだ、これで。
　何度も、自分に言い聞かせた。

　だが、どうしても……俺・は・下・種・な・こ・と・を・し・た・。・雅・次・が・慕・っ・て・く・れ・た・兄・で・は・な・く・な・っ・て・し・ま・っ・た・という思いが拭えず苦しかった。だから。