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第二章
弟を縛る男(高雅視点)
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部屋に入ってきた雅次は先ほどの澄まし顔が嘘のような怯え顔で、完全に縮こまっていた。
「兄上。申し訳ありません」
俺が何か言うより早く、雅次は頭を下げてきた。
どうして謝るのかと尋ねると、雅次はますます縮こまって、
「義姉上様から聞きました。兄上と義姉上様が結婚した、真の理由」
震える声でそう言うものだから、俺ははっとした。
「乃絵が? どうして」
「兄上は義姉上様と琴殿のことを慮り、決して言わない。けれどそのせいで、これ以上俺たち兄弟の溝が深まるのは嫌だと申されて」
「! それは……っ」
思わず唇を噛んだ。
俺は遠征先で、偶々かの地に逗留していた乃絵と早々に関係を結んだ挙げ句、乃絵を嫁に欲しくて京に上った。
それは、父たちが都合よくでっち上げた嘘。
確かに、俺は……遠征先で、偶々出会った。
俺が討伐した野盗のねじろで、拐され、狼藉を働かれた直後の乃絵と。
乃絵が自身のことを黙っていたので、長らく正体が分からなかったが、持ち物から乃絵が名門喜勢家の姫君だと知った父は、俺に乃絵を京まで送り届けるよう命じてきた。
『下賤の者に穢されたなどと知れたら嫁の貰い手もあるまい。黙っていてやる代わりに……分かっておろうな?』
乃絵が野盗どもに何をされたのか全部知っている俺を護衛につけることで、乃絵の父である喜勢氏に脅しをかけようとしたのだ。
そんな矢先、乃絵の妊娠が発覚した。
どう考えても、父親はあの野盗の誰か。しかも、無理に堕ろせば乃絵の命が危ないという薬師の見立て。
結局、胎児の父親は俺ということで話は進んでいった。
野盗に孕まされたことにするよりも、俺に孕まされたことにしたほうがまだましだと。
生まれてくる子も、もし女なら俺の子として育て、男だったら死産だったことにして寺にでもやろうことが、淡々と取り決められた。
あの喜勢家に傷物を引き取ってやったと多大な恩を売れる上に、縁戚関係にもなれる。この好機を逃す手はない。
嬉々として縁談を進める父に吐き気がした。
乃絵のことも、胎児のことも何だと思っているのか。
こんなこと、雅次に言えるわけがなかった。
こんな……乃絵が心身ともに受けた疵を抉り、琴の将来を脅かすようなこと。
それに。
「申し訳ありませんっ。真面目で責任感の強い兄上が、嫁入り前の姫と事に及ぶなどありえぬと、少し考えれば分かること。それなのに」
「……」
いや、きちんと説明しなかった俺が悪い。
本来なら、そう言って然るべきところだが、その一言が口にできない。
多分、俺は心のどこかで期待していたのだ。
何も言わなくても、雅次は分かってくれているはずだと。
でも、そうではなかった。
そのことにがっかりして、怒りさえ覚えている。
こう考えると、自分勝手なことこの上ない……と、自己嫌悪に陥っていると、
「俺は、いつもそうだ。兄上のこと、何も分かっていない……いや、分かろうとしない。そのせいで、こんな……っ」
「雅次……?」
何やら様子がおかしい雅次の名を呼ぶと、雅次は黙った。
それから、何かに怯えるようにぶるぶると体を震わせた後。
「義姉上様に、こうも言われました。兄上は、俺が……兄上の言うことなど少しも信じていない。それどころか、周囲の人間と親しくする兄上を心底馬鹿にして、腸を煮えくり返らせていることに、気づいておられた」
震える声でそういうものだから、俺は目を瞠った。
「そして、そこまで馬鹿にして、いらつく自分のそばにいるのは、ただ寂しいから。そう、申しておったと」
乃絵、どうしてそんなことまで話してしまったのか。
動揺していると、雅次は畳に額を擦りつけるほどに頭を下げてきた。
「確かに、俺は兄上を侮り、腹を立てておりました。兄上は何も分かっていない。あんなごみ蠅のような奴らの煽てにまんまと乗って、馬鹿が過ぎると」
「っ……雅次」
「でもっ、さようなことは、ただの言い訳だったのです。己の醜さから、目を背けるための」
俺がはっと息を呑むと、雅次は余計に縮こまった。
「ねえ、兄上。俺はどうしようもなく醜く、愚かで、賤しいのです。それを認めたくなくて……この世の全ては汚物で、そんなものと仲良くしている兄上は馬鹿だ。そう、思わぬと」
「雅次、いい。もういいから」
「そうしないとっ……お慕いしてやまぬ兄上のそばに、いられなかった」
「……っ」
「滅茶苦茶なのは、自分でも分かっているのです。でも……俺は、兄上が好きなのです。兄上に捨てられたと思った十年間、どんなに嫌いになろうと思うても好きで、好きで。寂しかったからしかたなくだなんて、さようなことは断じてないっ」
悲鳴のように告げられたその言葉に、胸が掻きむしられる。
雅次がこの十年、自分は兄に捨てられたと思い込まされた上に、兄に比べてどうしてお前は駄目なのかと、延々責められ、いたぶられ続けてきたと、知ってはいた。
そして、そんな境遇にありながらも、俺のことを好きでい続けてくれたことに感謝もしていたし、嬉しかった……そう、嬉しいばかりだった。
そこにどれだけの葛藤と苦悩があったのか、考えもしなかった。
浅はかな自分が腹立たしい。だが、それ以上に俺の心を占めたのは父への激しい怒り。
これほどまでに、雅次の心を縛りつけるとは……っ。
――貴様にやる。わしはいらん。
言うたではないか。
己はいらぬゆえ、俺にくれると。それなのに、こんな……。
「だから……また一緒にいたいと言われて、死ぬほど嬉しかった。もう、離れたくない。生涯おそばにおりたい。そう思いました。でも、それなら……俺は兄上にとって価値のある人間でなければならない。そうでないと、おそばに置いてもらえない。それゆえ、馬鹿な兄上には俺が必要だと思うことにして」
お前は屑の厄介者。だから兄に捨てられた。
父に植え付けられた嘘に侵された考えを、うわ言のようにまくし立てて……!
「今はもう、承知しております。兄上は十年もかけて、立派な兄上になられました。でも、俺は屑で醜くて……兄上のように、この世を見ることができない。兄上と同じには、生涯なれない。兄上の、おそばにいるべきじゃない……」
「雅次……っ」
思わず身を乗り出す。
雅次の背後に、歪な笑みを浮かべた父が立っているような気がした。
このままでは、雅次を父に取られる。
手を伸ばそうとした。
だが、それより先に、雅次が俺の袖を掴んできた。そして。
「そう思うても、なお……兄上のおそばにいたいのです」
震える声で呻くように言われたその言葉に、目を瞠った。
「ゆえに、兄上と同じことをしようと思うたのです。兄上と同じことをして、同じ立場になれば、兄上は俺を一人前になったと認めてくれる。俺のこと、独りぼっちの憐れな奴と思わなくなって……兄上が見ている世界が少しは分かるかもしれない。そう、思うて……っ」
「馬鹿」
血を吐くような声で訴えてくる雅次を見ていられず、思わず抱き締めた。
それでも、雅次は止まらない。
「申し訳ありません。兄上は十年も頑張ったのに、俺はこんなっ。でも……兄上とまた、こうしてともにいられて、それだけで俺は嬉しい。幸せなのですっ。それでは、駄目ですか? 同じじゃないなら、汚いなら、また離れ離れにならなきゃならない……」
「すまんっ」
震える体をきつく抱き締めて、俺は呻いた。
「俺は、お前に己を偽った」
「兄上。申し訳ありません」
俺が何か言うより早く、雅次は頭を下げてきた。
どうして謝るのかと尋ねると、雅次はますます縮こまって、
「義姉上様から聞きました。兄上と義姉上様が結婚した、真の理由」
震える声でそう言うものだから、俺ははっとした。
「乃絵が? どうして」
「兄上は義姉上様と琴殿のことを慮り、決して言わない。けれどそのせいで、これ以上俺たち兄弟の溝が深まるのは嫌だと申されて」
「! それは……っ」
思わず唇を噛んだ。
俺は遠征先で、偶々かの地に逗留していた乃絵と早々に関係を結んだ挙げ句、乃絵を嫁に欲しくて京に上った。
それは、父たちが都合よくでっち上げた嘘。
確かに、俺は……遠征先で、偶々出会った。
俺が討伐した野盗のねじろで、拐され、狼藉を働かれた直後の乃絵と。
乃絵が自身のことを黙っていたので、長らく正体が分からなかったが、持ち物から乃絵が名門喜勢家の姫君だと知った父は、俺に乃絵を京まで送り届けるよう命じてきた。
『下賤の者に穢されたなどと知れたら嫁の貰い手もあるまい。黙っていてやる代わりに……分かっておろうな?』
乃絵が野盗どもに何をされたのか全部知っている俺を護衛につけることで、乃絵の父である喜勢氏に脅しをかけようとしたのだ。
そんな矢先、乃絵の妊娠が発覚した。
どう考えても、父親はあの野盗の誰か。しかも、無理に堕ろせば乃絵の命が危ないという薬師の見立て。
結局、胎児の父親は俺ということで話は進んでいった。
野盗に孕まされたことにするよりも、俺に孕まされたことにしたほうがまだましだと。
生まれてくる子も、もし女なら俺の子として育て、男だったら死産だったことにして寺にでもやろうことが、淡々と取り決められた。
あの喜勢家に傷物を引き取ってやったと多大な恩を売れる上に、縁戚関係にもなれる。この好機を逃す手はない。
嬉々として縁談を進める父に吐き気がした。
乃絵のことも、胎児のことも何だと思っているのか。
こんなこと、雅次に言えるわけがなかった。
こんな……乃絵が心身ともに受けた疵を抉り、琴の将来を脅かすようなこと。
それに。
「申し訳ありませんっ。真面目で責任感の強い兄上が、嫁入り前の姫と事に及ぶなどありえぬと、少し考えれば分かること。それなのに」
「……」
いや、きちんと説明しなかった俺が悪い。
本来なら、そう言って然るべきところだが、その一言が口にできない。
多分、俺は心のどこかで期待していたのだ。
何も言わなくても、雅次は分かってくれているはずだと。
でも、そうではなかった。
そのことにがっかりして、怒りさえ覚えている。
こう考えると、自分勝手なことこの上ない……と、自己嫌悪に陥っていると、
「俺は、いつもそうだ。兄上のこと、何も分かっていない……いや、分かろうとしない。そのせいで、こんな……っ」
「雅次……?」
何やら様子がおかしい雅次の名を呼ぶと、雅次は黙った。
それから、何かに怯えるようにぶるぶると体を震わせた後。
「義姉上様に、こうも言われました。兄上は、俺が……兄上の言うことなど少しも信じていない。それどころか、周囲の人間と親しくする兄上を心底馬鹿にして、腸を煮えくり返らせていることに、気づいておられた」
震える声でそういうものだから、俺は目を瞠った。
「そして、そこまで馬鹿にして、いらつく自分のそばにいるのは、ただ寂しいから。そう、申しておったと」
乃絵、どうしてそんなことまで話してしまったのか。
動揺していると、雅次は畳に額を擦りつけるほどに頭を下げてきた。
「確かに、俺は兄上を侮り、腹を立てておりました。兄上は何も分かっていない。あんなごみ蠅のような奴らの煽てにまんまと乗って、馬鹿が過ぎると」
「っ……雅次」
「でもっ、さようなことは、ただの言い訳だったのです。己の醜さから、目を背けるための」
俺がはっと息を呑むと、雅次は余計に縮こまった。
「ねえ、兄上。俺はどうしようもなく醜く、愚かで、賤しいのです。それを認めたくなくて……この世の全ては汚物で、そんなものと仲良くしている兄上は馬鹿だ。そう、思わぬと」
「雅次、いい。もういいから」
「そうしないとっ……お慕いしてやまぬ兄上のそばに、いられなかった」
「……っ」
「滅茶苦茶なのは、自分でも分かっているのです。でも……俺は、兄上が好きなのです。兄上に捨てられたと思った十年間、どんなに嫌いになろうと思うても好きで、好きで。寂しかったからしかたなくだなんて、さようなことは断じてないっ」
悲鳴のように告げられたその言葉に、胸が掻きむしられる。
雅次がこの十年、自分は兄に捨てられたと思い込まされた上に、兄に比べてどうしてお前は駄目なのかと、延々責められ、いたぶられ続けてきたと、知ってはいた。
そして、そんな境遇にありながらも、俺のことを好きでい続けてくれたことに感謝もしていたし、嬉しかった……そう、嬉しいばかりだった。
そこにどれだけの葛藤と苦悩があったのか、考えもしなかった。
浅はかな自分が腹立たしい。だが、それ以上に俺の心を占めたのは父への激しい怒り。
これほどまでに、雅次の心を縛りつけるとは……っ。
――貴様にやる。わしはいらん。
言うたではないか。
己はいらぬゆえ、俺にくれると。それなのに、こんな……。
「だから……また一緒にいたいと言われて、死ぬほど嬉しかった。もう、離れたくない。生涯おそばにおりたい。そう思いました。でも、それなら……俺は兄上にとって価値のある人間でなければならない。そうでないと、おそばに置いてもらえない。それゆえ、馬鹿な兄上には俺が必要だと思うことにして」
お前は屑の厄介者。だから兄に捨てられた。
父に植え付けられた嘘に侵された考えを、うわ言のようにまくし立てて……!
「今はもう、承知しております。兄上は十年もかけて、立派な兄上になられました。でも、俺は屑で醜くて……兄上のように、この世を見ることができない。兄上と同じには、生涯なれない。兄上の、おそばにいるべきじゃない……」
「雅次……っ」
思わず身を乗り出す。
雅次の背後に、歪な笑みを浮かべた父が立っているような気がした。
このままでは、雅次を父に取られる。
手を伸ばそうとした。
だが、それより先に、雅次が俺の袖を掴んできた。そして。
「そう思うても、なお……兄上のおそばにいたいのです」
震える声で呻くように言われたその言葉に、目を瞠った。
「ゆえに、兄上と同じことをしようと思うたのです。兄上と同じことをして、同じ立場になれば、兄上は俺を一人前になったと認めてくれる。俺のこと、独りぼっちの憐れな奴と思わなくなって……兄上が見ている世界が少しは分かるかもしれない。そう、思うて……っ」
「馬鹿」
血を吐くような声で訴えてくる雅次を見ていられず、思わず抱き締めた。
それでも、雅次は止まらない。
「申し訳ありません。兄上は十年も頑張ったのに、俺はこんなっ。でも……兄上とまた、こうしてともにいられて、それだけで俺は嬉しい。幸せなのですっ。それでは、駄目ですか? 同じじゃないなら、汚いなら、また離れ離れにならなきゃならない……」
「すまんっ」
震える体をきつく抱き締めて、俺は呻いた。
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