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第二章

雲に隠れた月(中編)(高雅視点)

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『高雅様。少々、よろしゅうございますか』
 乃絵の声だ。

 俺は顔に無理矢理笑みを形作り、入るよう促した。
 そして、何事もなかったかのように、「琴は今、お昼寝中か」と笑顔で声をかけたが、

「先ほど、ひどく思い詰めた顔をした作左が、この部屋から出てくるところを見かけまして」
 そう言われて、笑顔が固まった。さらには、

「雅次様のことですね」
 追い打ちをかけられたものだから、思わず瞬きしてしまった。

 これは、誤魔化せる感じではない。
 とはいえ、察しが良過ぎる。

「雅次と何かあったのか?」
 訊き返すと、今度は乃絵が目を瞬かせた。

「いえ。あの方は一生懸命、私に優しく接しようとしてくださっています。でも」
 しばしの逡巡の後、乃絵は意を決するように息を吐くと、俺に向き合うように座し、居住まいを正した。

、雅次様にお話になったほうが良いと思います」

「っ……どうした、急に」
 予想外の言葉に驚く俺に、乃絵は項垂れるように俯いた。

「初めて雅次様に引き合わせていただいた時、雅次様はこうおっしゃっておられました。『あなた様は、兄上が何をしてでも手に入れたいと想うたお方』と。雅次様は信じているのです。あなたが私に惚れ抜いて嫁にしたというを」

「それは」

「私が雅次様だったら、こう思ってしまいます。と」
 乃絵のその言葉に、俺は小さく息を詰めた。

「雅次様はそのことを懸命に考えないようにしているご様子。でも、あなたに大事にされている私を見るとどうしても考えずにはおれぬようで、見ていて痛々しゅうございます」

「……」

「このことが、雅次様がお心を閉ざしていらっしゃる一番の原因ではないでしょうか。それでしたら……どうせ、あなたの大事な弟君なれば、いつかは話さねばならぬこと。ならば、私への気遣いは無用でございます。

「ありがとう」
 苦しげに訴えてくる乃絵の手を握り、俺はできるだけ優しい声で言った。

「雅次のことを、そこまで気にかけてくれて。だが、言う必要はない」

「! でも、このままだと」

「厳密に言うと、

「え……」


 俺のその言葉に、乃絵は目を丸くした。俺は唇を噛みしめ、頭を下げた。

「すまん。気を悪くさせた」

「……いえ。お続けになって?」
 言葉少なにそう言って先を促してくるので、俺は「ありがとう」と小さく礼を言い、話を続けた。

「山吹の世継ぎ以外いらない伊吹の家に、イロナシとして生まれてきた我ら兄弟は、城中の人間に虐げられて育った。いらない子のイロナシなんて、どう扱おうが構わないとばかりにだ」

「……」

「俺だけが、その家を出ることになった。そして、イロナシばかりの、イロナシであることが当たり前の世界で、普通の人間として扱われ、生きることができた。だが、雅次は」

 あの城から出たことがない雅次にとって、あの城が世界の全て。

 世界中の人間から『イロナシのお前はいらない子』と蔑まれ、甚振られて生きてきたも同義だ。しかも、父の命により、明確な悪意の許に行われたいたぶり。

 地獄のような日々だったと思う。だから。

「この世の人間全てが、悪意に満ちた敵。あなたやご自分に向けられる好意は全て嘘。陥れ、利用するための見え透いた方便……汚物にしか見えない。と?」

「……そうだ」

「で、でも、あなただけは違うのでしょう? でしたら、一人苦しんでいる雅次様を放置して、私欲しさに京に行ったわけではないと、雅次様にお伝えすれば、雅次様のお心は救われる……」

「それならまだ、よかったんだがな。違う」

「え……」



 ここで、俺は深い溜息を吐いた。
 思い出したのだ。あの、どこまでも凍てついた辛辣な視線を。

 表面上は、「俺の家臣は皆良い人たちだ」「たくさん気にかけてくれる」と言い、「こんなに立派になって兄上はすごい」と褒めてくる雅次。

 だが、そういうことを口にする時、顔は笑みを形作っているが、目は全く笑っていない。それどころか、怒りと蔑みに満ちていて、俺にこう言ってくる。

『なぜ、あんな見え透いた世辞に気づかない? あんな奴らにいいように担がれて、馬鹿な兄上!』

 そんなことはない。あやつらは心から俺を慕ってくれている。この十年、苦楽をともにしてくれた、信頼できる家臣たちだ。
 乃絵のこともだ。俺に生涯添う覚悟で妻になってくれた人だ。

 そんな言葉が何度も喉元まで出かかったが、すんでのところで飲み込む。
 こんなこと、言葉を尽くせば尽くすほど、白々しくなるだけだ。

 そう思いつつ笑顔で調子を合わせていると、雅次の瞳はますます暗く淀んでいく。

『こんな適当な世辞さえ見抜けないなんて。だから、あいつらの魂胆も俺の心も見抜けないのだ』
『何も見えていない。何も分かっていない。馬鹿な兄上!』

 雅次にそう思われるようになったのは、自業自得だ。

 十年前、俺の考えなしな行動のせいで雅次を辛い目に遭わせただけでなく、あんな……地獄のような城に一人置き去りにしてしまったのだから。

 分かっている。それでも、負の感情に満ち満ちたその視線が、本当にきつい。

 可愛い弟にそんなことを思われていることもそうだが、直接口に出して言ってもらえないことが何より辛い。
 おべっかで本心を隠すほど、雅次の心は俺から遠く離れてしまったのかと思うと。とはいえ――。

「そこまで気に入らぬなら、俺のことも嫌いになって拒めばいい。だが、できない。己を好いていると唯一確信できる俺を失うては寂しいから、できぬのだ」

 俺が静谷に戻ったあの日、独りぼっちで泣いていた……そして、もう一度仲良くしてほしいと訴える俺に、しがみついて泣きじゃくった雅次が脳裏を過る。

 この世の全てが、自分を厭い、傷つけてくる敵で汚物。大嫌いだ。
 誰の心にも、残りたくない。

 そう思っていてもやはり、雅次は寂しい。独りぼっちが辛いのだ。

 だから、俺と心を通わせ、寄り添い合って生きた二人きりの思い出が、たった一つの希望で……再会した俺が、変わらず自分のことを好きでいたことを知ってあんなにも喜んだ。
 
 だが、その喜びも俺とまたともに過ごしたことで、脆くも打ち砕かれてしまった。

 汚物と仲良くする俺といても、当時のように心は満たされない。それどころか、ますます気持ちが荒んでいく。苦しいだけ。

 それでも、おべっかを使ってでも俺のそばにいる。
 唯一信じられる俺からの好意に縋りつく。

 そしてほんの一瞬、心が満たされた気になる。
 そんなものはすぐ、霞ごとく掻き消えて、身を切られるような虚しさと孤独だけが残ると知っていても、なお。

 だから、どれだけ俺と一緒にいて、何をしても、独りぼっちだという顔をする。どうしても埋めることができない孤独にもがき苦しんでいる。

 そんな雅次が、とても悲しい。
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