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第一章

別離の理由(高雅視点)

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 十年ぶりに戻った故郷は、驚くほど温かく、笑顔で俺たちを出迎えた。
 だから、俺も笑顔で応えた。

 日々の仕事を中断してまで、俺たちを出迎えてくれた領民たちは言うに及ばず、伊吹の家臣や侍女に至るまで、笑顔には笑顔を返し、

 ――心を込めてお世話した龍王丸様がかように立派な武将になられて、鼻が高こうございます。
 俺たち兄弟を散々いたぶり、口汚く罵ってきたその口でそんなことを言われても黙って聞いた。

 父が十年前の俺の初陣を世にも麗しい美談として妻に上機嫌に語り、目に薄っすらと涙まで浮かべて、

 ――そなたのような世継ぎを持って、わしは果報者じゃ。これからも期待しておるぞ。
 俺の手まで握り、そう言ってきても笑顔で応えた。

 そのことを聞き、俺に初陣の時から付き従ってくれた家臣たちは咽び泣いた。

 ――諦めず精進を重ねれば、イロナシでも認めてもらえる日が来るという、若様のお言葉は本当だった。嘘ではなかった。
 ――若様について来て、本当に良かった。

 父が初陣の時に宛がってくれた者たちは皆、俺と同じく……山吹の弟が生まれてお払い箱になった。出来が悪くて見放された。など、様々な理由から「いらない子」扱いされている子どもたちだった。

 なので、俺に付き従って参戦するよう命じられた時、「自分たちは厄介払いされるために集められたんだ。戦場で殺されるんだ」と泣き叫んで……すでに、通夜のような状態だった。
 だから、俺は言ったのだ。父が俺にお前たちを宛がったのは、お前たちの力を認めているから。力を合わせれば必ず勝てると。

 その戦に勝った後も、言い続けた。
 俺たちは強い。皆で力を合わせれば誰にも、山吹にだって負けない。何でもできる。それを、俺たちを馬鹿にした連中にも分からせてやろう。

 そう、ずっとずっと言い聞かせてきた。
 だからこそ、今日父に言われた言葉を聞いて、家臣たちは号泣した。

 努力すれば、イロナシでも認めてもらえる。自分たちは価値ある存在だった。
 その言葉が実現したと心から実感できた。これまで若様についてきて本当によかった。
 無邪気にそう喜ぶ家臣たちを、俺は宴を開いて大いに労った。

 ――我が事のように喜んでくれて嬉しい。だが、俺は満足していない。俺がここまでになれたのは、お前たちの頑張りによるもの。お前たちあっての俺だ。だから、俺だけじゃなくてお前たちの名も世に轟かせたい。その時まで、また一緒に頑張ってくれると嬉しい。
 と、心からの礼を言い、一人一人酌をして回って……。

 この時も、確かに笑っていたと思う。
 もてなした最後の一人を見送り、一歳過ぎの娘、琴をあやす妻の乃絵と二人きりになってもだ。しかし。

「今日は、父上への謁見から宴に至るまで、色々面倒をかけてすまなかったな。疲れたろう」
「いいえ。あなたも皆様も、とても良くしてくださいましたから平気です」

 どう考えても疲れていないはずないのに、澄まし顔でそう答えてくるものだから、俺は琴を受け取りつつ苦笑した。

「はは。相変わらず強気でいらっしゃる。それもあなたの良さだが……これからは、弱音を吐くことも覚えてほしい。あなたが生まれ育った京の都とこの静谷国は気候から風習まで違うことが多い。無理をすればすぐ体を壊してしまう。そうなると、俺と琴はとても悲しい。だから、俺と琴のためと思って、何かあったらすぐに言うてくれ」

 彼女はとても気丈な人だ。弱音というものをほとんど吐いたことがない。
 初めて会った時、彼女はとても悲惨な状況にあった。それでも懸命に涙を堪え、喜勢家の姫としての矜持を失わず、毅然と振舞おうとしていた。
 そういう人だから何とも心配で、宥めるように伝えると、乃絵は少し考える素振りを見せてから、黒い大きな瞳をこちらに向け、こう言ってきた。

「では、お言葉に甘えて一つだけ、申し上げてもよろしいでしょうか?」

「勿論。ありがとう。何でも言ってもらって……」

「今日は、何だかずっと浮かぬお顔でしたわね」
 不意に返されたその言葉にどきりとした。

「そう見えたか」と、思わず訊き返すと、

「弱音を吐いてほしいとおっしゃるなら、まずは手本を見せてくださいませ。やり方が分かれば、私も言えるようになると思いますわ」
 笑顔でそう返されては、笑うしかなかった。

 こう言われては白状するしかないだろう。だが、どこまで話すべきか。
 少し考えて、俺はこう答えることにした。

「俺に同腹の弟、月丸がいることは知っているか?」

「はい。父より承っております。でも、あなたからは一言も」

「それは、この十年仲違いをしているからだ」

「まあ。あなたが、弟君と十年も仲違い?」

「うん。しかも、全面的に俺が悪い」
 声まで上げて驚く乃絵に頷いて、俺はまた、抱いている琴へと目を向けた。

 目が合っただけでにっこりと笑いかけてくれる。そのさまが、月丸と初めて会った時のことを思い出させて、俺の胸は詰まった。

「兄弟ゆえか何なのか、月丸は生まれた時からやたらと俺に懐いてくれてな。俺の指をいつまでも握って離さなかったし、琴みたいに、俺と目が合うといつもにこにこ笑ってくれた。それが嬉しくて、たくさん世話を焼いて」
 そう言うと、乃絵は思わずと言ったように「ああ」と声を漏らした。

「だから、赤子の扱いがかようにお上手なのですね。不思議だったんです。殿方なのに、あまりにも上手くて。でも……かように心を込めてお世話をしたのでしたら、大きゅうなられてからも、さぞあなたに懐かれたでしょうね」

「……うん。大きくなってからも、『兄上、兄上』と俺を呼びながら、どこでもついて来て……この世で一番可愛い。本気でそう思うくらい、可愛くてしかたなかった。だがなあ、それがまずかった」

「まあ。どうして」

「月丸が酷い目に遭わされたら、我慢ができないんだ。それがたとえ、父が集めた世継ぎ候補の山吹が相手だろうと」

 そこまで言って、俺は唇を噛んだ。
 鮮明に、脳裏に蘇ってきたのだ。世継ぎ候補として山吹の自分たちが呼ばれた以上、イロナシのお前たちが家督を継ぐことは万に一つもない。今のうちに媚び諂ったらどうだと蹴りつけてきた、山吹たちの醜悪な顔が。

「月丸が虐められるたび、俺は連中に殴りかかった。それが悪いことだなんて微塵も思わなかったし、痛めつけられても構わなかった。『イロナシだからどう扱おうが構わない』と月丸を虐める輩に、どうあっても屈したくなかった。でも、月丸は違った」

 ――ねえ兄上。今度あいつらが来たら、おれを置いて一人で逃げてね。おれは足が遅いから、絶対逃げられないもの。でも、兄上だけなら。
 ――おれ、大好きな兄上がおれのせいで殴られるのいやだよ。

「自分のせいで俺が殴られるくらいなら、自分だけが殴られたほうがいい。そう思う子だったんだ。でも、俺はその言葉を聞いても……こんなにも優しい子が虐められるなんて可笑しいと、ますます腹が立つばかりで、月丸の心を慮ることができなかった」

「……」

「俺はまた逃げずに殴りかかった。月丸は逃げろと言ったが、逃げないんだ、あやつは」

 ――兄上が逃げないなら、おれも逃げない。痛いのも平気。
 月丸は、いつもそう言って笑っていた。その上、二人が殴られずに済むにはどうしたらいいか、あれこれ考えてくれた。
 足の遅い自分でも逃げられるよう、逃げ道を作るだとか、隠れ家を作るだとか。
 いったん連中に従う振りをするという案まで出してきた。

 俺の身を守ろうと、幼いながらに一生懸命考えてくれた月丸。
 それなのに、俺は月丸の案を突っぱね続けた。

 どうして逃げなければならない。月丸は何も悪いことをしていないし、駄目でもないのに! 
 そうとしか、思えなかったのだ。

 そんなある日、月丸がふいっといなくなった。
 どこへ行ったのか。心配になって探し回っていると、ぼろぼろと涙を流しながら歩いてくる月丸を見つけて、俺は慌てて駆け寄った。どうしたのかと尋ねてみると、

 ――母上がね、出てっちゃった。父上とじゃ、イロナシしか産めないからって。
 思ってもみなかった言葉に絶句する俺に、月丸は言葉を振り絞る。

 ――おれ、出て行く母上を偶々見つけて、ちょっと待っててって言ったの。兄上もきっと、母上のお見送りしたいって思うからって。そしたら……いらないって。
 ――兄上も、お前もいらない。イロナシなんか、いらないって……ううう。

 とうとう月丸は泣き出した。当然だ。実の母親に面と向かってそんなことを言われて、平気でいられるはずがない。
 かく言う俺も、立ち尽くすことしかできなかった。母は俺を愛していないと、とっくの昔に分かっていたことなのに、身を切られるように悲しい。

 ――兄上。おれ、兄上と遠くへ行きたい。
 ひとしきり泣いた後、月丸はそう言った。

 ――どんなに頑張ったって、皆絶対、兄上もおれもいらないって言うよ。イロナシなんかいらない。山吹じゃなきゃって。頑張らなくたって分かる。おれたちを産んだ母上さえ、そう言うんだもの。絶対にそう。
 ――兄上。おれ、もうここ嫌だよ。兄上と二人きりがいい……ああああ。

 俺にしがみつき、声を上げて泣きじゃくる。
 いつも、目に涙は浮かべても決して泣こうとはしない、気丈な月丸が。

「十二と六つの童二人でこの乱世を生きていけるわけがない。そんなこと、利発な月丸は分かっていたはずだ。それでも、言わずにはいられないくらい、月丸はもう限界だった」

「……はい」

「今なら分かる。だが、あの時の俺には分からなくて」

 ――俺は、こんなに可愛くて、いい子のお前がイロナシだからいらない、駄目だと言う連中に負けたくない。
 いつもと同じ調子で、そう答えてしまったのだ。そしたら。

 ――おれがいい子だから、兄上はここから逃げられないの……?
 不意に聞こえてきた、その言葉。

 ――……そうか。おれが、いい子だから……兄上。
 ひどく悲しそうにそう言ったかと思うと突然、月丸に突き飛ばされた。
 思わぬことに対処できず、俺は盛大な尻餅をついた。

 ――おれがいい子だから、兄上がずっと虐められ続けるなら、おれ悪い子になる! 兄上のことも……き、嫌いになる!
 ――お、おれと一緒にここから出て行くって言ってくれたら、また……いい子に戻って、好きになってあげる!

「『兄上なんか大嫌い』。泣きながらそう叫んで、走って行ってしまって……それきりだ」

 そこまで話して、俺は深い溜息を吐いた。すると、それまで黙っていた琴が「とーと?」と声をかけてきた。
 黒色の瞳が、俺を見上げている。俺は笑って、小さな頭を撫でた。

「イロナシだから駄目だなんて間違っている。その考えは、今でも変わらない。月丸は、俺の家臣たちは、乃絵は、琴は……駄目じゃない。価値ある存在だ」

「……はい」

「だが、あの時の俺はやり方を間違えた。独りよがりの馬鹿だった。そのせいで、月丸に辛い思いをさせて……俺をごみのように扱ってきたことなど綺麗に忘れて、今日、俺に調子よくおもねってくるような、あんな連中の巣窟に一人置き去りにしてしまった」

「……」

「この十年、月丸はどんな思いでこの城で独り過ごしてきたのか。それを思うとな。連中に調子を合わせて愛想笑いを浮かべるのがやっと……そう、思っていたが、あなたにバレてしまった。はは。俺もまだまだということ……っ」

「大丈夫」
 自嘲していると、頬に手を添えられた。

「気づいているのは私だけ。あなたのことを誰よりも見ている私だから気がついたの。後は、誰も気づいていません」

「……そうかな?」

「はい。今日のあなたは、誰に対してもとても立派でした。だから大丈夫。今のあなたは、十年前のあなたとは違います」
 きっぱりと、言い切ってくれた。

 その瞬間、胸のあたりが妙に軽くなった気がした。
 どうやら、俺はこの期に及んで不安になっていたらしい。
 自分はちゃんと変わることができたのか。再び、月丸に関わってもいい男になれたのかと。
 自分でも、気がつかなかった。でも、これで……迷いは消えた。

「ありがとう。あなたほどの人を妻に持って、俺は果報者だ」
 思ったままを口にした。すると、それまでの凛とした表情が嘘のような、恥じらった顔をしてみせる。
 そのさまに頬を綻ばせていた時だ。

「若様、若様っ」
 今しがた帰ったはずの家臣たちが三人ほど、血相を変えて庭に駆け込んできた。

 俺はすぐさま、抱いていた琴を乃絵に渡して立ち上がった。
 縁側に出て、何かあったのかと尋ねてみると、

「そ、それが、あの……弟君が」

「っ……月丸に何かあったのかっ?」
 前のめりになって訊くと、相手は視線を右往左往させた。

「じ、実は忘れ物に気がついて引き返してきましたところ、この城に通じる道に弟君が立っておられまして」
「……月丸が?」

「はい。で、何度も同じところを行ったり来たり」
「それがしには、若様を訪ねようか否か、迷っているように見えました」
 口々に言われたその言葉に、胸が熱くなった。

 月丸が俺を訪ねようとしてくれた!
 今ここにいないということは、結局帰ってしまったということだが、それでもすぐそこまで来てくれた。それだけでも嬉しい。
 なんて、浮き立つ心で思ったが。

「結局、弟君はそのまま立ち去られたのですが、その……弟君、何やら泣いておられたご様子」

「! 泣いて、いた……?」

「はい。それも、嬉しくてと言うよりは、ひどく悲しげな」
 じわじわと、胸に焦燥が広がっていく。

「しかも、歩き出された方角が本城とは反対の、下山に向かう道でしたので、これは何やらまずいのではないかと思い、こうしてご報告を……あ」

 それ以上、聞いていられなかった。
 俺は文机に駆け寄り、あるものを取り出し懐に入れて、
「行ってくる」

 乃絵に一言言い置き、駆け出した。
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