よぞら至上主義クラブ

とのずみ

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本編ー総受けエディションー

26:ゆゆ島よぞらが知ってる人と知らない人

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 何かに感動した時、同時に相反する感情が襲い掛かる。そして、それを上手く消化できず繰り返す瞬間を幾度も経験すると、とうとう飽きが生じてしまい、投げやり、もしくは諦めという目隠しを作り出してしまう。
 
 これが、モヤッとした俺の感覚で――憶測だが外からみる俺の変化だ。
 
 感覚を内に求めず無くしてしまえば至った経緯など関係ないと、湧き上がる何処かに在る自分が言う。
 厨二っぽく「感情など無い」なんて――恥ずかしさ満点な台詞は言えないけど、全部「そっか」で話を落とすことはよくあった。だって。先が見当たらない。
 
 俺はみの虫みたいに、布団にくるまる。

 それは、溶け損じた氷みたいな泥眠さから這い出ようとする際に良く思うことだった。


 雨上がりの午後。古びた部屋、四角い窓のカーテン越しに、ゆらゆらと動く人影が映っていた。
 最初は、ぴらぴらのカーテンが見せる単なる目の錯覚で、黒いちらつきが見えているのかと放っておいたが。どうやら届く光に嘘は無かったらしい。再び窓を凝視すると確かにそらは人影で、蠢いていたのが分かった。
 
 しばらくその揺らぎを観察していた俺だったが、ふと正体に思い当たり、玄関のドアを開けて外へ出ることにした。

 サンダルをひっかけてやって来たのはアパートの中庭で。建物の方から回り込むと枯れ始めた雑草に混じり、予想通りの人物が背中を丸めていた。
 
 こちらまで気配が届いていたのだろう。ついでにがっつり物音も聞こえていたのか、俺が声をかける前にその人物は振り返る。
 
 草むしりに励んでいた――大家さんが俺の名前を呼んだ。
 
「おやあ、ゆゆ島くん」

 曲がりかけた腰を伸ばし、ゆっくりとしゃがれた喉を震わせたじーちゃんは、このアパートの大家さんだ。

「おー、じーちゃん! おはようございまー」

 彼は近くの一軒家で暮らしていて、こうして良く掃除やら点検やらをしにやって来る。
 よくあるシチュエーションでは、箒を持った巨乳の女性が大家さん、もしくは管理人で、入居しているぼんくらな俺と甘酸っぱい出会いがあるはずなんだけとま……まあそんなに世の中は甘くはない。良い年のじーちゃんだ。
 
 でもあまり残念に感じないのは、人の良いじーちゃんだからだった。
 
 元々は兄経由で貸してもらった部屋で、入居当日まで顔も出さなかった俺に愛想の良い大家さんは、多分分け隔てない、距離の取り方が上手い人なんだろう。
 もっとも、おもしれーじじいだなと俺が思うのと同様に、彼もおもしれーガキだなと思っていたんだとかいないとか。

 そうして、このじーちゃんは、よれよれのシャツみたいな挨拶をした俺にも特に気にすることなく愉快だと返してくれる。

「――もう昼は過ぎたがな。おはようおはよう。なんじゃ、ゆゆ島くんの顔が見れるとは。縁起がいいのう」
「おもしろいこというね、このおじーちゃんは。今日は草むしり?」
「おう、そうそう。雨上がりの土が柔らかい時が抜きやすいからの」
 
 そういうと彼は、白い軍手が泥にまみれて茶色くなっているのにも構わず汗を拭うと、抜き終えた草が入ったごみ袋を指さした。

「わ、すご。もうこんなに」
 
 雑草は字のごとく雑に強い。少しでも楽できるタイミングを狙って年甲斐もなく元気なじーちゃんは動き回っていたという訳か。

「これだけ抜いてもまだこれだけあるから先は長いわい、じじいは長生きせんとな」
「ふははっ、いいね、じーちゃん死ぬまで生きてね……って、あ、それやるよ」

 よいしょとじーちゃんがジジイ臭い……この場合は合ってるか。掛け声を上げ、ゴミ袋をひとまとめにしようとしたのを代わりに引き受ける。パンパンのごみ袋を抱えると、

「いいんかい、頼んじゃっても」
「いーよいーよ。半分そのために顔出したみたいなもんだし。抜くのも手伝う」
「そうかい? じゃあ頼んじゃおうかね」
「あーい」
「やー、あと50年くらい若かったら惚れとった!」
「そりゃ残念!」

 ほんとにちょっぴり残念。今でも中身がイケメンなじーちゃんなのに、50年前なら相当良い漢に違いない。
 
「それにしても、越してきた当初はえらい美形な兄弟で面食らってたもんじゃ」

 何か思い出したのか、ガハハと豪快に笑う。

「――いやあ、わしはてっきり連れ込み宿にでもするんかと思っとったけど……まさかエッチなビデオゲームだったとは!」
「なーにを言い出すかと思えば……やめておじーちゃん、俺のライフはもう0よ……」

 急にこっぱずかしい話を暴露されて、一気に脱力する。で、それと同時に俺はじーちゃんの言う『笑い話』も――思い出してしまった。

 そうだ。丁度、あん時も草むしりしてたわ、そういえば。

 ――引越しして、しばらくガチ引きこもりでエロゲ三昧してた頃。
 使っていたイヤホンが劣化で断線してしまい、音声が聞けなくなってしまって。外に行くのが死ぬほど億劫だった俺は、スピーカーに切り替えて真っ昼間からどぎついシーンを垂れ流していたんだけど……。
 常識の欠如と一人暮らしの油断。まさかゲームの喘ぎ声が漏れてたとは夢にも思うまい。
 
 そしてそこに偶然も加わるとか――。

 たまたま、今日と同じように草むしりに来てたじーちゃんは、その音声を聞いて俺が女の子を連れ込んでエッチしてると思って窓から覗き込んで――

「……窓越しにじーちゃんと目が合った時、俺は無いと思った天国が見えたね……」
 
 三途の川とこんにちはして帰ってきた俺は壁の薄さを舐めていた――つまりおバカだったという訳だ。
 
「ガハハッ!」
「にはは……」
 
 いや……マジ恥ずいよね、洗おうとしたオナホを風呂に置きっぱにしてそれが親にバレるくらいにやってしまった感がある。
 その後一応誤解は解けたが――ぐっと親指を立てたじーちゃんの笑顔は一生忘れないだろう。
 
 まさか漏れるエロゲの喘ぎ声がきっかけでエロ話するようになるとは……そして、このじーさん。下ネタがあんなにも好きとは……。言い方は古いが猥談に非常にノリノリだった。
 
「じーちゃんのデカマラ伝説毎度すごいな」

 抱いた女は数知れず。地主パワー全開。性欲強い男ほど仕事が出来るっていうのホントなんだなあ。裏付けるかのように湧き出る武勇伝と未だ現役な竿に俺は敬意の念を抱いた。
 
「性欲だけはじじいになっても枯れんからの」
「タフだねえじーちゃん、ちんこも心もデカいし最強かよ」
「ゆゆ島くんも、ガンガン使っとるかい」

 コレ、と股間を親指で指さすじーちゃんは超笑顔だ。

「画面の向こうの女の子に使いまくってる」

 アレ、と親指を立てて後ろを指さす俺は若干くたびれた笑顔でじーちゃんの真似をした。

「はは、ゆゆ島くん男前なのに勿体無い」
「ホメホメしても何もでねー……ってか、じーちゃんはおこぼれが欲しいだけでしょ」
「ここに来る人はみんな男前じゃから」

 美男には美女が付き物だというだろう? そこを狙って――とお茶目なウインクまでしてみせる、全く逞しい老人だ。
 
「ゆゆ島くんのお兄さんじゃろ、ああ時々弟くんも。お友達のニコニコした子……それに」
 
 じーちゃんが次々名前を挙げる。最後に考えを巡らせ「こおんな」と手を頭上にかざし喉の奥を揺らした。
 
「背の高い子もおったな。その子がまた、わしの手伝いを良くしてくれての。いやあ助かる」
 
 マジか。
 
 見覚えのある高さに、あの美青年が俺の知らない所で色々お助けしているのを知ってしまった。負けじと俺もゴミ捨て頑張っちゃおうかな。
 ちょっとだけやる気を出して捨ててきた後、軍手を分けてもらい短時間ながら草むしりにも参加することにした。
 
 外は居残った厚い雨雲で日中も少し薄暗い。じーちゃんの白髪と、俺の金髪と、枯れ草が風で細く揺れる。
 
「今日は、おでかけかい?」
「これからバイト――手伝うーって言ったのにあんま出来なくてごめんね」
「そうかいそうかい、いつもえらいねえ。じじいは掃除じゃ、ゆゆ島くんのために綺麗にしとくわね」
 
 そう言ってじーちゃんは慣れた手つきで雑草を草刈り鎌で刈っていく。
 
「いやあそれにしても嬉しいねえ」
「ん?」

 ザクザクと土の掘る音がする。
 
「ちょいと前は、滅多に顔なんぞ見れんで大層寂しかったのよ」

 世間話に笑うじーちゃんの声を聞いて、その言葉を脳内で反芻した。
 成る程、そういう寂しいもあるのか。
 最近感じた自分の寂しいとは違う色に、俺も力を入れて足元に根付いた雑草を1つ引っこ抜く。
 
 自分では内面の、今回で言えばエロゲに没頭して引きこもる俺しか俺だと分からない。で、外側の俺は他人から見た俺だから、当然俺にはわからないし、逆もしかり。
 
 つまるところ、どれだけ考えても在るだけの存在で。日陰に俯く向日葵のようで。
 
「今は可愛い顔が見れて嬉しいわい」
 
 へしゃげた花は可哀想なのか、美しいのか。倒れそうな向日葵はどう見えるのか。この人と話していると、正解のない無意識に日がな一日微睡んでいた贅沢な時間とその匂いを少し思い出して。

「ふは、じーちゃんやっぱりイケメンだね」

 この人の寂しいを、可愛いなと思った。
 
 

 しばらく抜いていると、裸になった地面の上に蟻の隊列が出来ているのを発見した。小さい集合体ってなんだか不思議だと両手についた土を払う。
 
 前に見たヘンテコな虫の夢もそうだった。――――アリの巣コロリを手に持つと、それに群がる蟻に手を噛まれて。驚いた衝動でそれを地面に落としたら、蟻は標的をそばにいたムカデに変え、攻撃し始める。ムカデは食糧にされて……。
 
「お兄さんは元気かい」
 
 雲の翳りで地面が黒い。意味もない夢は消え、じーちゃんの言葉に耳を傾けた。うーんと上唇を突き出して鼻につけると鼻の頭が冷えてるのが分かった。
 
「んー兄さんは仕事詰め? だってさ」
「そーかい、いつも世話になってて礼も言えんなんて寂しいからね。――ゆゆ島くんも。こんなボロ家に住んでくれるなんてねえありがとう」
「こっちのが落ち着くし最高よ。じーちゃんマジあんがと」

 正しく安住の地って感じ。俺の軽口にじーちゃんも楽しげに肩を揺らす。
 
「ハッハ! ここが最高って! ゆゆ島くんもそうかいそうかい! 互いに曰く付きというわけだ」
「そそ。知らんけどね~」

 俺は小さく息を吐くとゆっくりと屈伸し、パシ、と膝を打って立ち上がった。変な姿勢で座っていたからか軽い立ちくらみで倒れそうになるが、それも一瞬だ。目の裏の砂嵐を払い、視界の隅にいたじーちゃんをチラリと捉えると彼も分かっていたかのように立ち上がった。

「おや、もう時間か」
「ん、また今度お茶でもしよ」
「じじいの生きてる内にな、頼むね」
「ふはっ、じーちゃんと生きる時間が合わなさ過ぎる。じゃーね、いてきまー」
「いってらっしゃい」
 
 軍手を返し、新たに増えた重いゴミ袋を抱えた俺は手を振るじーちゃんにさよならをした。

 
    ◇  ◇
 
 
「俺に客?」

 何故だか俺に用がある人が来たらしい。バイトに入るとすぐさま折り畳まれたメモを渡された。
 
 話によるとこの雑居ビルのオーナーさんらしいが、店長じゃなくて俺にという辺りで怖くなったので貰った連絡先のメモは読まずにエプロンのポッケに食べてもらった。用があるならまた来るだろう。

 昼休憩を回している時間は大概1人。月末の金曜以外の平日は基本ゆるい時間が流れるだけなのだが、今日から予約開始の作品があるしちょっとバタバタしそう。何しろ人気タッグの、数年ぶりのビックタイトル。界隈も、俺も大いに賑わっていた。まだ予約特典もぼんやりとしか決まっていないが早めに動こうかな。店長と先日決めた打ち合わせ通り、先行予約キャンペーンのポスターを裏へ取りに行く。

 ――延期……発売延期だけはどうかありませんように。
 
 ゲーム会社も流通も店も、そしてユーザー。全てが損をする魔の呪文。
 俺は無事マスターアップしますようにと祈りながらペタペタポスターを貼り付けた。
 
 
「あの――」
 
 しばらく棚に埋もれて在庫チェックしていると、足元に影が差した。

「ぁっ? ……あーはは、いらっしゃいませ」
 
 不意打ちで驚いた声を出してしまう。へんな声出しちゃった……誤魔化し笑いで挨拶をすると、お客さんが申し訳なさそうな顔をしていた。あ、この人たまに来店してくれる人だ。
 
「すみません……」
「いえこちらこそ。えっと……――ああ! ……ってすみません」

 彼の視線が俺の向こうに逸れたのを見てピンとくる。俺が突然声のボリュームを上げたからか、彼を動揺させてしまい慌てて謝罪してへにょりと笑った。

「……はは」
「失敬しっけい。なんか謝ってばっかりですね。ちょっとお待ちください」

 久々とあって半年前から予約受付だ。俺はガッテン承知と受付用紙を取りに行って必要事項を説明する。

「延期しないのを祈るのみ……っと。えーとこちらにご記入お願いします」
「――っ」
「あ、」
 
 用紙とペンを渡すと冷たい指先が触れ合う。ぎこちない相手の緊張と自分の体の熱にこそばゆい笑みを浮かべると彼はたじろいで目を逸らした。でも口元は緩んでるから不快な訳では無さそう。

 レジ横の記入台でボールペンの音が響く。呼ばれたのでレジの方から覗き込むと、特典テレカの絵柄についてだった。
 
「あー……実はですね」

 特典のキャラだけは決定しているのだが、詳細の打ち合わせはまだでカミングスーン状態なのだ。一応説用のポスターを指さして説明をしておく。
 
「絵柄はまだ決まって無いんですけど……うちはこの子で行こうかなーって話してて」

 お客さんはうちの特典の子が推しなのか顔がデレデレしている。そうだろうそうだろう、俺も可愛いと思う。こちらを見てる彼に勝手に共感してたらボソリと呟きが1つ。

「……かわいい」
「――ねー。このキャラ俺も今のイチオシで、」
「……店員さん」
「この子は――って俺?」

 おおい、ゲームの話じゃなかったんかい。

 彼は目を見開いて「あ……」と息が漏れ、ぱっと煙になって音が立ち上っていった。

 

 
「ゆゆ島ちゃんそんなあっさり名前教えちゃいかんよ」
 
 彼が帰った後、少し年配のお客さんが声をかけてきて荷物を動かそうとした俺は立ち止まる。

「おっちゃんいらっしゃいませ」
 
 あ、見てたのね。

 ――実はあの後名前を訊かれ、名無しの権兵衛の状態のままでも良かったんだけど慌てふためくオニーサンの顔がちょっとイケメンだったもんだから笑って絆されてたのだ。

「あはは」
 
 やり取りを見てたおっちゃんにとりあえず愛想良く笑いかけると、流されてくれたのかヘラッと相好が崩れた。

「はーやっぱいいねゆゆ島ちゃんの癒しビジュアル……わざわざ店に来たかいあった」
「ふはっ、いつもありがとうございます」
「ねえねえ今度は何つけるの? 犬耳?」

 急にえらい違和感のある単語が飛び出て引っかかるが、すぐに前の販促でやったコスプレもどきのことかと行き着く。そもそも着けるなんてルールは無いんだけど……好評だったから次もやりそう。
 
「いやあ、ゲーム次第」

 さあどうだろと、はぐらかしても執拗に訊いてくるのでエッチなおっさんだなあと突っついてやったら、エロゲ好きだからねとドヤられた。そこは威張るとこじゃあ、ない。

「ゆゆ島ちゃん今度飲みに行こーよ」
「おっちゃーん俺飲めない」
「いいよ飲まんで。飯だけ」
「やだよー素面で酔っぱらいの相手なんて」

 だめーとバッテンを作ると彼は可笑しそうに体を揺らす。どうやら頑なな相手を崩すのが楽しいみたいなのか、肩透かしを食らっても全然へこたれない。

「かわいい女の子と行きゃあいいのに……おっちゃんカッコいいし金あるからモテるっしょ」
「おじさんはね、エロゲの話と若い子両方いいとこ取りしたい生き物なんだよ」
「あ、そう……」
 
 真面目におかしいこと言い出す男を白けた目で見てしまったが、実際のところ清潔で見目も悪くない。普通に誘ってもついてくる子はいるのは俺が見ても分かる。ということは……。

「まあ~女の子と猥談は中々難しいよね」

 エロゲ買いに来てる時点でお察しか……おっちゃんにちょびっとだけ親近感を覚えそうになって、世間話に付き合った。


 
 そうして、度々来る新作予約の対応と、おっちゃんとのダラダラトークを繰り広げていたら、不意に背後から声がかかり――俺の両肩に腕がまわされた。

「流石予約開始ともなると忙しないですね」
「わ、あ、……知南風(しらはえ)先輩……?」
「お久しぶり」
 
 唐突な登場に驚いた声が分割されて出ちゃった。後ろから引き寄せられ、もたれ掛かるように見上げると見知った顔が瞳に映る。

 知南風先輩だ。
 この顔おひさしブリーフとか言いたかったんだろうなとか、適当な事考えていたら、目の前のおっちゃんの口が開く前に先輩の声が聞こえた。

「すみません。この子、僕が先約なので」

 お誘いはまた今度――そう言って、先輩は俺の髪を一房手に取る。くる、と彼の長い指に巻き付いて、するりと解けた。
 
「……」
「…………。……えぇ……そうかあ。残念だけどそれならしょうがないなあ」
 
 イケメン君には敵わないわ。そうやってボリボリと頭を掻くおっちゃんに、俺は目をきょとりとさせる。あれだけしぶとかったのに白旗をあげるとは。
 
 遮られたような形になったおっちゃんは肩をすくめ、後ろ髪を引かれながら店を出た。

「全く大変ですね」
 
 喋るタイミングも掴めず只その姿をぼんやり見送っていたら、上から良い声が降ってきた。
 
「――せーんぱい。ウッスウッス」

 見上げた先輩はどう見てもオシャレな服屋にいそうな人だ。ここがエロゲ屋だからか、目の錯覚に時空が歪む。とてつもない違和感に眩暈が襲うが明朗快活、結構結構コケコッコーで踏ん張った。

「どーも。先輩、今日は予約ですか」
「はい。――どうでしょう、スタートダッシュは」
「いやはや嬉しい悲鳴というか。うちは店頭予約の伸びがすごそうです」
「――はは、お客さんは――うん。そうですよねえ」

 当たり障りの無い会話。のはずだったんだけど。俺は少し違和感を感じる。なんだか先輩はソワソワしてる? いつもの滑らかな喋りじゃない気がする。
 
「あ、そか、先輩も――って紙が切れちゃってる」
 
 ソワってるのはゲームが気になるからかなと思って予約用紙を渡す為に机を見るが、準備不足だったのか用紙が切れていた。名護くんあんだけやっといてって言ったのに、コピーしたまま放置してるじゃん……。
 
「……ゆゆ島君――」
「――はい?」

 急いで無くなった用紙とペンを用意していると、先輩に呼びかけられる。
 顔を上げると、巷で騒がれるイケメンと謳われる顔はどこかぎこちなく、今度はハッキリと、言い悩んだように顎に手を当てていた。

「? あれ何か別の用でした?」

 俺は珍しい表情に窺うような声色になる。
 
「んー――…………」
 
 先輩の思案げな瞳が行き来する。何も言わずに言葉を待っていると何度か往復してから――ふ、と細く嘆息した。
 
「…………いえ……。――……すみません。なんでもない、なんて気になるでしょうが今のはなかった事にして置いてくれませんか」

 彼は、濁した物言いに不躾ですみませんと謝り、僕にも予約用紙頂けますか? と手を差し出した。
 
「はーい」
「はは、」
 
 落とし所を見つけたのか、まどろっこしい会話をやめた先輩に用紙を渡す。言いたくなったら言うだろう。変な先輩、と思わんでも無いが――あ、彼は前から変だったな。

「――今、何か含みのある思念が……ゆゆ島君の方から、」
「とんでもないなんでもないです」
 
 ニコリ。わざとらしく微笑まれたのでレジ前で直立した。

 
    ◇  ◇ 

 
 雨の中、街で菊を見た。と言っても花の名前では無い、同級生の菊日和(きく ひより)のことだ。俺の中ではメガネが印象的な彼。

 あんまり付き合いは無い。でも全く知らないでも無くて。そして――俺は彼に嫌われてて。

 目が合うと睨まれ、避けられる。大学でさえ滅多に見かけないのにこんな所で見るとは。いや俺が居なさそうだから居るのか。

 ツンデレツンな彼に会うなら引く力加減が重要なのかも。そうそう機会は無いが、もしもの場合に備えて頭にメモしておいた。

「菊ちゃん、なんで怒ってんだろ」
 
 知り合い以上知人未満の菊。
 
 嫌いなのに無関心では無く。含みのある言葉を言い去る彼は不明だが、俺も、見かけても何もしないから同じだ。曖昧で明確な同じことを繰り返している彼とそれを見る俺は、すぐに忘れる微妙な鼓動の苦しさがある。
 
 致死量に満たない毒なんて、毒じゃない糞以下だ。見かける度にちょっと息苦しいとか取りすぎたカフェインみたいというか、もう耐性がついて麻痺しちゃってる。

 出来る影の形が弱くなった雨上がり。下を向いて歩くと10円玉を拾った。100万とかならともかく、少額なら警察には届けない派の俺はありがたく頂戴する。
 
 手にした硬貨は雨水と砂利がついていて、指で拭うと茶色く濁りじゃりじゃりと引っかかった。

 
 
 
 苦い感覚をがじくじくと後を引いていたら、何だかコーヒーの口になってしまって。

 このまま放って置いても欲求が収まりそうに無いと自然に足を運んだのは近くのファーストフード店。

「380円です」
 
 味に拘りは無いが、缶コーヒーと冷たいコーヒーが何故か飲めないんだよなあ。だから外で飲む時はこうして店で頼むんだけど。全く、同じ飲み物なのに贅沢な話だ。

「あちらでお待ちください」
 
 微笑まれて俺もつられて会釈する。美味しいコーヒーを淹れられるのに、にこやかに接客まで出来るなんてすごいなあ。
 言われるままに横の受け取り口でぼんやりスタッフのピアスを目で追ってると、視界に虫がチラついた。手で払いそうになったが、よく見るとメニュー表のテカリで反射した光だった。
 
 隣に誰か並ぶ気配がしたので、恥ずかし……と手をさりげなく下ろす。
 
 挽かれた豆の香りが漂い始めると羞恥心は鈍り、何だか眠くなる。多分アロマの香り? なのかな。のんびり欠伸をしてまたピアスを追った。

「すみません、おひとりですか?」

 店で溢れる会話を聞き流し、ラテを受け取りそのまま外へ出る。んん、いー香り。あわあわなの美味しいよね。くんくん嗅ぎながら傘立てで自分の傘を探していると、また人の気配がして――さっき耳にした同じ声を聞いた。
 
「あの」
「……」
「あ、」
「――……もしかして、俺?」
「はい」
 
 え、――って若っ。

 呼ばれて振り返って、ギョッとする。やけに丁寧でみずみずしい声だと思ったら彼はなんと学生服を着てた。驚く俺に少年も驚いたのかスラックスをぎゅっと握って同じような反応を返す。

「!」
「あっ、――ごめんね、……声掛けてたの俺だと思ってなくて」
「いえ、……こちらこそ急にすみません」
「え~と…………」
「……あ、」
「?」
「あ、あの……」

 その後の言葉が出ず、彼は吃りを繰り返し、キョロキョロ視線を彷徨わせ、――強く目をつぶって頭を下げた。

「――デートしてくださいっ」

 ど平日のど真ん中でナンパされた。

 
 
 
「塩味(えんみ)が欲しくなっちゃって」

 俺は、さっきのファーストフード店で頼んたポテトを摘む。

 なんというか――甘いシチュエーションにコーヒーじゃ追いつかなくて。セリフを吐いたっきりプルプル震える彼。店の前で固まる俺。

 しん、と波打った静寂にどうしたもんかと見下ろした時、ああしょっぱいもの食べたい――そんな感じで店に舞い戻ったのだ。

 道路側のカウンター席に少年と並んで座った俺は、君も食べてとトレーにデカいサイズのポテトを広げる。数本束にして食べるとサクサクと良い音をさせていた。
 パラ、と指についた塩を舐めると美味しくて、体に悪い味がする。

「――で、どったの少年。学校は?」
「今日はテストで……早く終わったんです」
「おーそっか。お疲れ様」

 照れた顔がかわいい。あ、目を逸らした。
 
 世間話も交えながら何故俺に声をかけたのかを訊くと、非常にシンプルだった。

 俺を街で見て、つい気になって――。
 
「――それで、俺につられて店に入ったと」
「はい……」

 本人も勢いあまってのことだったのか、恐縮して縮こまっている。俺は、くすくすと手に持った紙コップを揺らした。頭いっぱいにコーヒーの香りを漂わせてる時にそんなことがあったとは。
 一見真面目そうなのにとんだキュートな若気の至りもあったもんだ。
 
 ソーダ水の氷が溶ける音に目を向けると、映るのは――将来有望株の美少年。

 敬語と落ち着いた大人っぽい雰囲気なのに、いざ接すると未成熟でアンバランス……。
 俺はイエスロリコンノータッチの呪文を心で唱えて平静を保つ。いや、俺は年下に弱いだけ何も悪いことはしてない……してないよね。

「ほら、あーん」

 こうやって中々食べようとしないポテトを口へ突っ込んでるだけだ。

「ね、塩味いいでしょ」
「……はい」

 最初は目を白黒させていたが、やがて恥ずかしそうにもぐもぐ咀嚼し始める。緊張した顔に俺はもう一本食べさせた。

「俺なんか気になってもいいことないよ、折角カッコいいのに――って聞いてるかい少年?」
「お兄さんもお1つどうですか」
「――む」

 うま。――あ。差し出されたポテトを食べてしまった。まだちっこいがこの順応力、さっきまでとは違う落ち着きにこいつは大物になりそうだとポテトを口に入れたまま唸る。
 その後も、なんか騙されてるんじゃないのと諭すが彼は吹っ切れたのかいい笑顔で、いいんですと言い切っていた。

 好きと言う言葉は1番わかりやすくて、シンプルなのかもしれない。

「連絡先を知りたいです、お兄さん」

 別れる間際に彼が言う。その顔が寂しそうに見えて、ああこの寂しいもかわいいなあと思った。

 
    ◇  ◇  

 
「あーッ!! その金髪! アンタッ!」
「……あちゃー」
 
 たまーに用事で足を延ばすと、知らない知り合いに出会ったりする。

「最近運動不足な気がしてチャリ漕いでたのが不味かったか……」

 この日は、久々に本が読みたくなってチャリチャリと古本屋まで向かっていたのだが。あーあ、逃げ遅れた。全く知らないヤンチャなにーちゃんにイチャモンつけられて俺も苦笑いするしかない。

 足がある――せーくんか日野出にでも連れてって貰えば良かったなあ。だがしかし、店には1人で行きたい。そう過去の行いを後悔している内に声の主は駆け足でやってきた。

「アンタッ! あれから死んだって言われたんだけどっっ!?」
「……なはは~」

 すっ呆けて笑い流したが男のその台詞で、そういや昔少しだけ訳アリのお手伝いをしてた時期があったっけっていう記憶が蘇って……それで、あん時も絡まれて適当に嘘をでっち上げて逃げた――、ぼやけた輪郭の面影に泡みたいな断片的な情報がぷつぷつと浮かんできた。
 結局嘘の連絡先を教えて、しかも対応してくれる人たちには『俺は死んだ』設定にしてもらったっていうね。

「さんっざん探したんだけどクソッふざけんなよッ!」
 
 なんでか未だに探されていたみたいだ。このにーちゃんに恨まれるようなこと、なんかしたっけ……。よれよれのシャツを掴まれそうになって、避けながら考えるが分からない。けど、分からない中で1つ判明してるのは、目の前の相手は面倒くさいんだなってこと。
 大概こういう相手に死んだ設定を多用してるから、覚えてなくてもなんとなく分かる。
 
 そして俺は覚えてなくても、金髪が頭に残るのか目印がわりにしつこく探されるのは……うん、多いな。
 
「――って、ッおぅ、わ」
 
 ちょっと雲行きが怪しくなってきたぞ~ってもう曇ってたか~。なんて現実逃避をしてると相手は段々ヒートアップしてきた。まあまあちょっと待ってよと自転車を降りて人通りの少ない逃げやすそうな陰へ往く。

 長い夕焼けは終わり、多めの雲が浮かぶ空に、夜の帳が下り始めている。人呼ばれたり奥に連れ込まれると面倒だ。火のないところに煙は立たないって言うでしょ。厄介ごとは避けるに限る。あんまし騒ぎになって警察沙汰にでもなってみろ……正直俺の方がひっじょうに、困る。
 
 殴りかかりそうな勢いのにーちゃんに、俺は飛んできた手を掴んだ。

「しー」

 ツンツンした男の口許に指を当てる。
 
「! なッ……!」
 
 ズル、と力が一瞬抜けたのでゆっくりと掴まれた指を外しながら「事情があって……」と言外に匂わせると急に大人しくなった彼は締まりのない顔になった。

 一発殴られてやられ勝ちでもいいけど、殴られ損は不味い……どのみち相手には応えられないのでさっさとトンズラしよう。

「……っぱ天使だ……」

 意味深な雰囲気をでっち上げて相手を黙らせるとボソボソ天使だの呟きが聞こえてくる。いやいや、チャリンコに乗った天使なんかいねえよ。でもあまりにバカらしくて笑えたので――――今度は逃げずに話を聞いてしつこい男は嫌われるぞと腹の中で呟きながら、「生きてたことは内緒だよ?」と天使ごっこに興じた。


    ◇  ◇  
 
 
 先日行けなかった古本屋へ再訪し、古書ならではの巻かれたグラシン紙の手触りを指で確かめる様に触れて、俺は、ほおと息をつく。欲しい本っていうのは確かにあるんだけど、それだけじゃなくて周囲の本棚に並べられた知らないタイトルを見るのもまた楽しいんだって俺はね、思う。
 
 特にBGMが流れるでもなく、無音の室内をさ迷い、たまに本を手に取って。
 そうして、長居してたら暗くなっていた。
 
 店内の明るさに慣れていたからか、穴みたい夜だなあと自転車を押しながらぼんやり歩く。ぽっかり空いた暗がり。

 可愛い幼馴染とワンコたちと戯れるあの作品みたいな、ひたすら優しい繭に包まれた地続きのプロローグみたいな――散歩日和っていう言葉がぴったりな夜だった。

 んで、あんまりゆっくり帰っていたからか、酒飲みのじーちゃんに話しかけられちゃったりもした。

 立ち話に、ふーんとかへーとか話を聞き流してたら気が大きくなったじーちゃんは競馬で勝ったからと、コンビニで肉まんとピザまんとカレーまんを奢ってくれた。やった。
 
 もう少し付き合うか、と老人の後をついていく。
 
 小さな公園のベンチに腰掛け、ホカホカの袋を開ける。ふぅと白い湯気が見え、俺は生地の甘い香りに頬が緩んだ。

「じーちゃんごちー」
「こんなんでいいんか、酒はいらんのか?」
「だーかーらー俺飲めないんだってば」

 孫に執拗に菓子をすすめる爺の図だ。酔っぱらいは言っても聞かないよね……ホント。俺は何度も同じ言葉を繰り返す。

「そういや知ってるかい?」
「多分知らない」
「ガハハ! まあ聞け! アンタもうすぐ皆既月食らしいぞ」
「へー」

 日食じゃなくて月食なのか。カレーまんを最初に食べると後全部カレー味になりそうだったので味を考慮して、肉まんから食べ始めた。
 
「なんかと合わせて400年以上ぶりだとよ! めでたいねえ」
「そうだねえ……うまいよじーちゃん」

 月みたいな肉まんを頬張りながら老人の話に相槌を打った。寒空の肉まんってなんでこんなに美味しいんだろう。
 ハフハフ頬張っていたら、俺の髪色が目についたのか、やたらと褒めて月に住む天女とまで言い出した。酔っぱらいってすごいな。

「そん次は何百年も後だ! これ見逃すと俺は御陀仏ってことだよなあ兄ちゃん!」
「多分みんな御陀仏だから安心して」

 仲良く皆んな死んでるよーと、ピザまんを一口。微かに伸びるチーズとトマトソースが甘酸っぱくて俺はとろけた。個人的にチーズは添えるくらいの主張がベストだ。
 
「ガハハ! そらそうか!」

 俺の返答が面白かったのか、単にアルコールで脳がイカれたのか。酒焼けした笑い声が豪快に夜空に響く。それと重なって着信音が鳴るのに気づいてメッセージを確認した。
 気にせずワンカップを飲むじーちゃんは俺の知らない人の話を始めて、各々自由、って奴だなあと、へえへえ返事をしながら最後のカレーまんを頂く。
 
 あむ――。カレーまんはキーマカレーイズベスト。裏切らないスパイスの美味しさと生地の黄色が食欲をそそる、つまり神。裏のシートを剥がし3口で食べ切った。
 
「そろそろ帰らないと」
 
 ゴミを丸めて、ついでに買ったあったかいお茶を飲み干した。手をパンパンと軽く払う。

「なんだもう帰るんかにいちゃん」
「月の遣いのお迎えが来ちゃうからね」

 天女は帰らないといけないのよ~。そんな俺の冗談にそりゃそうかと納得する酔っぱらい。
 もう一度ありがとうと言い、バイバーイとさよならをしたら爆音のバイバイが返ってきてひとしきり笑っちゃったわ。
 

 

 ――カラカラと車輪が回る。

「迎えに来てくれたの?」

 公園の入り口まで来ていたみたいだ。おいでと手招くと、怪しさ抜群のサングラスに帽子の彼が現れた。夜なのに徹底しているなあとマジマジ見てたら、きょとん、と首を傾げたので小さくかぶりを振って何でもないよと誤魔化した。

 所々のパーツは整ってるから本来の顔面偏差値は高い……はず。でも頑なに外そうとしない彼は、うん。夜にこの胡散臭さは目立つよね。うっかり職質されませんようにと心の中で居もしない神様に願いながら気持ち足早になる。彼ももそれに合わせて歩く。

「酔っぱらいは良く分かんないねえ」
 
 面白いんだけどね――と、さっきの老人の話を後方の彼に話す。返事が無いので後ろを見やると俺の言葉に口をつぐんだ彼は何とも言えない雰囲気でこちらを見ていた。

「どったの」
「――食べ物でつられちゃ、」
「…………コホン。――これ、兄さんには秘密な」

 あ、これチクられる奴だ。別に釣られてなんかは無いし悪い事は断じてしてないが、斜め15度くらいに首を傾げて、念に念を入れてお願いした。
 
 進む2人分の足音。耳を澄ませると聞こえる夜の音はあまりくっきりとはしていない、境界が弛んだ感じ。そして、その弛みに沿って車のライトが時折過ぎ去る。
 
 俺が見ている境界線が彼にも見えているのかと思わせるくらい寄り添って歩く青年は、ふと上を見上げた。

「月、満月に近いですね」
「そだねえ。さっきのじーちゃんもさ、もうすぐ皆既月食だって言ってた」

 知ってた? と話を振ると彼も、ハイと上下に首を動かす。みんな物知りだなあ。

「そういや酔っぱらいには俺、天女に見えるんだってさ」

 まだあのじーちゃんはボケてないはずなんだけどな。

「そうですね」
 
 苦笑いで老人の妄想を思い返しているとまた同じ反応が返ってきた。
 
「…………酔ってる?」
 
 思わず失礼な確認をしてしまう。とするとなんだ、同じ括りにされたのか天女さんは。
 
 ――この話題はよしておこう。
 可哀想だなと居もしない天女を嘆いてその話はそれっきりになった。
 
 自転車のライトが道を細く照らす。
 
「……鍵を」
「ん?」

 彼の声がした。聞き返すともう一度繰り返された。
 
「ゆゆ島さんは、いつも鍵を閉め忘れてます」

 一定の距離を保ちながら聞こえる声は凛として澄んでいる。話が飛んで一瞬解らなかったが――空を見ずに彼の問いを考えた。

 鍵って……家のか。
 
「あーね。――俺鍵閉めるのが苦手でさあ」

 鍵はかけないことが大半だ。それも、家だけでなく全てのもの――あ、これ内緒ね。
 
 いざ開ける時にワンステップあるのが非常に苦手で。あと安心感より、開けられなくなった時の方が気になってしまうというか。閉じ込められるのってあんまり好きじゃない。そんなこんなで、防犯はどうしたと呆れられちゃうんだけど……普通にそのまま家を出る。
 ボロアパートに鍵があったところで意味はないし。取られるものもないからね。あ、大家のじーちゃんには内緒な。

 オートロックの建物では俺、生きられないねって笑うと、神経質なのか彼は思った通り良い顔をしなかった。歩幅は変わらないが、淀みを含んだ口元は硬い。
 
 俺はハンドルから片手を離して人差し指で彼の下唇を押し上げた。
 
「――ぅ、」
「いいんだよ。誰か閉めるんだから。君も持ってるでしょ? 俺んちの鍵」
「…………」
 
 ――コクリ。
 
 人によっては理解し難い考えなのは俺も解る。解ってる、つもり。
 
 どんな言葉を選んだところで、得られる反応は同じだ。物を持つのも、着飾るのもぱっと消えるくらいに意味は無い。鍵だって、そう。
 
 だから、それでいいんだ。

「あんがとね」
 
 俺は伏目がちに笑った後、ひたすらいっぱいに詰め込まれるよりはゆとりがある方が楽なんだよって、彼に言った。
 
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