よぞら至上主義クラブ

とのずみ

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本編ー総受けエディションー

23:よぞら、友、はちぶくコインランドリー上

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 近くのコインランドリーにやってきたのは、平日の夜更けだった。
 
 ぼお、ぼお、と頭の中で木霊する。跳ねない雨。音が無いのにじとりと濡れ、膜が体を覆う。耳の穴から、段々と空気が遠くなる。聴覚の異常で鼻が詰まりそうな気持ち悪さだ。血液が流れるサア、という音が耳の後ろから響き、だらりと腰かけたまま回るリネンから外へと視線を動かした。
 
 今も――けぶるような小糠雨が続いている。

 当たり前だが、雨が続くと洗濯物が乾かない。けれど1人暮らしのよぞらが乾燥機に頼らなければならない程洗濯物があるかといわれると、首を捻る。そりゃそうだ、乾かす量などたかがしれている。普段は部屋干しで充分間に合う。

 それなのに。
 珍しくこんな時間に降り注ぐ雨の中、珍しく出歩いてしまった俺。なんとなあく夜中に洗濯物を回し、せっせと袋に詰め、トコトコ歩きここまで来てしまった。
 ほんのりと蛍光灯が照らす、熱が発せられた室内。洗濯機が1つと、乾燥機は――大きい○(マル)が3つに小さい○が上下2段に3つずつ。その内1つだけ赤い数字の点滅が続き、自分の洗濯物がぐるぐると乾かされていた。
 
 24時間営業のコインランドリーには誰もいない。誰かが使った柔軟剤シートの香りだけが残っているだけで人の気配は無く、丸みを帯びた背もたれの椅子と俺だけ。
 コツン。軽い冷たさを感じながらガラス窓へ頭を預けた。後ろ髪がぐにゃりと歪む。やってきた空回りと、間違えた選択肢。それを思い出して、上から見下ろす自分が嫌そうにボソボソと責立てる。たまに好きになって、すぐに嫌おうとするから。
 自意識過剰というのだろうか。その落差による重さが思ったよりも堪えた。どうしたら良いのかわからなくて、布団にくるまり寝てしまおうかと思ったが、そうするとまた夕方まで寝てしまう気がして悩む前に俺は起き上がったんだ。

 考えたら、終わりな訳よ。やなこと見たら悲しいし、怖いこと聞いたら後ろを振り返る。でも見てたらキリが無い。冷たいかもしれないが、どうにもできないのに安易に知る方が悪い。そういう時は希薄さを垂れ流しながら自分から逃げ続ける。――それは纏めると『寂しい』になって。

「……だらけちゃう」

 雨だけは優しく、音は聞こえない。皮膚に伝わるのはふかふかを思わせる温風。鼻から息を吸うとお腹まで温かくなり上下に動いて吐き出す。洗濯物が乾くのが待ち遠しくなった。
 なんにしても、自分でやるよりも他に任せた方が余程良い結果になると俺は思う。中華屋の炒飯が高火力で美味しいように、洗濯物を乾燥させるのだって、部屋干しではコインランドリーの大きいドラム乾燥機には敵わない。そして俺は、数十分の誘惑に普段ぐるぐる巻きの財布の紐が緩み、そのためだけに外に出ていた。ぬくもりってすごい。
 
 冷たいガラスに後頭部をこすりつけ、天井を見上げた。小さい虫が飛び回っている。逆光で黒くなった点と照明を見つめていると、その明るさで、ふ――と瞼が閉じてきた。気づいて押し上げる際に、睫毛がやわやわと皮膚に当たるのが気持ち良くて何度も瞬きをした。

「ちゃんとしなくても死なないんだよ、こわいねえ」
 
 呟いた後にもう一度、……もう一度瞼が上下して。すぐに感触がわからなくなった。
 
    ◇  ◇

 霧みたいな雨だから、傘は要らないと思った。だが、目的を果たすには必要だった。

 日野出は面倒ながらも傘を差してコインランドリーへと辿り着く。所々ぶつけたり、ややせっかちな動作は雨への苛立ちか、それとも、数日溜めた洗濯物に目を背けていた自分へか。大学生の、しかも男の1人暮らしだ。必然と家事は後回しになり、どんどんかさんでいくが止められるのは日野出自身しかいない。
 でも、だってと日野出は1人でいい訳を浮かべ、すぐに引っ込めた。
 やらないと困るのは自分だ。マンションの迷惑になりそうな時間帯に冷や冷やしながらも洗濯し、小銭と傘を引っ提げてここまでやって来た。
 
 靴裏に付いた泥を擦り取り、流れ落ちない程度の雨粒を払い建物の出っ張りに傘を立てかける。視線を上げたところで、見慣れたブロンドが瞳に映った。

「――ゆゆ島」

 ゆゆ島が居る。
 
 彼とよぞらの住む場所は然程遠い距離ではない。ここで会うのも初めてではなく、普段なら「なんだ居たのか」と軽い挨拶を交わすくらいだが、こんな時間に会うのは殆ど無くて不意を突かれた。
 自動ドアが開き、日野出は中へと入る。外から見たゆゆ島は後ろ姿だったので分からなかったが、窓ガラスに寄りかかったまま彼は目を閉じ眠っていた。浮かび上がるような金髪はセットしていないのか、耳の後ろに流されておらず自然に顔へとかかり導線の役目を果たしている。日野出はつられるようにそちらへ目をやった。

 いつも伏せがちなパーツが良く見え、薄い唇は淡く少しだけ開いている。貌が美しい。我ながら安直で恥ずかしいが、同性を褒める言葉は上手く出ず目から知り得た情報を口にし、ひたすら見惚れることしか出来なかった。

「――よぞら」

 日野出は彼の名前を呼ぶ。

 あの日、内部生ばかりだった、まだ良崎晴朗がいない頃。何気なく一緒になった帰り道、自然とクラス内で話をした時に合う目線。今よりも幾分幼い輪郭の日野出とよぞらの、割と仲の良いありふれた友達の図。
 
 ――知人、友達、親友。よぞらは、それを同義として区別することなく使い、気が知れるにつれ、くだけたあだ名や下の名前で呼ぶようになった。

 手を伸ばすと握り返す。
 
 でもその意味に何も含みを持たないのは、あくまでよぞらの場合で。日野出は、果たしてそうであったのだろうか。
 
 伸ばした手は、掴めず内側を滑り落ちていく。

 不意に呼気を感じる。湿った息が吐かれ、よぞらから寝息が聞こえた瞬間、日野出は目を逸らした。こちらの劣情を煽ったよぞらから……違う。勝手に自分が欲情したその醜さから、逸らした。

 緩い。――緩いよぞらは、ずるい。いつの間にかいなくなりそうで。近くにいるといつも遠くに感じるし、でも昔を思い出して嬉しさで手が伸びそうになって、――ずりぃ。
 
 日野出は手のひらをぎゅっと握りしめた。
 
 ……ほんと、最悪だ。だから遠くで、良い友達でいようって――でも周りは? お前の兄弟は? あの変な先輩は? ――んで、一番近い良崎は? 誰もちっとも気にしねえ。そんなのおかしいだろ、俺ばっかり怯える。倫理観もクソも無い。

 大きな円の中に水が張っているとする。
 水に指で触れると濡れる、蒸発し水蒸気になると軽くなる。冷えると凍って。そんな接し方のよぞらと。――俺は?
 
 他者の円が重なりできた波紋の大きさと違いのズレ。よぞらがふざけて呼ぶ声と、日野出の受け取る照れ笑いの意味。それはどちらもイコールでは無く、また彼には上手く捉えて波に触れることは出来なかった。
 
 だからこそ、もどかしさをぶつけてしまった。
 
 ――一度だけだから、何も言わず、頼む……。

 全てが紙芝居に見え、紙の重なりが動く。
 
 薄さを掻い潜るとすぐだ。日野出が友達と天秤に掛けた、あの日から。今に近い過去になる。
 名前で呼び合わなくなった、あの日から。

 眩暈にたたらを踏んで耐える。荒だった波を潜ませ、唯一動いている乾燥機の1つ隣に、日野出は自分の洗濯物を放り込みに行った。扉を閉め、硬貨を数枚入れるとゆっくりと機械は動き出す。真下に青いPP樹脂のバッグを置くとザリ、と音を立て、肩紐が隣の同じ青いバッグへもたれ掛かった。

 設置されている空調が日野出の髪の毛を靡かせる。今、こんなにも近い。見えるよぞらと、見えていた過去の残骸が、何もかも煌めいて見える。
 近いけど、遠かった。それは物理的な意味だけではなく日野出がよぞらに対する印象も含まれていて。遠いからこそ保てる感情と、満足していると思わせていた自分にも当てはまる長さ。
 脳内で渦巻く言葉が全て逆説していく。

 丁度良い距離感、――

「んなもんあるか」

 ある訳がない。日野出は即座に否定した。適切な距離だなんて、あるわけない。
 力んだ言葉は低く、想像以上に地を這い静かな空間に響いた。

 よぞらの隣に腰かける。男一人の重みに椅子が軋むが、眠りから覚めることはなかった。何処でも寝るのも昔から変わらない。あのときも、そのときも、今も。
 かつて見た今のままを、日野出はここで、惚けたように魅入っていた。

「――狂おしい、って奴だな」
 
 静かに眠るよぞらの体に影がかかる。

 刺々しい物言いは身を潜め、視線は丸い。外の暗さと、店内の青白い照明の差が日中よりも内面を分かりやすく照らす。動く日野出の口元は、――やっぱり、狂ってる。
 
 タバコの火を押し付ける様に、日野出は唇を重ねた。

「――っ、ふ、……」

 若干ズレた位置になった日野出の唇は、かさつきと柔らかい段差の間で生々しい感触を拾う。押し付けた力によぞらの顔が動くもどかしさに、日野出は顎に指を添えよぞらの顔を固定させ下唇を食んだ。

「ん。……ぅぁ……」
 
 眠りが浅いのか、よぞらの腰がびくつき鼻がかった息が漏れ、ぴくり、と日野出の指に力が籠る。
 
 食んでは離れを繰り返す。柔らかな刺激がじわじわ定期的にやってきて、腰に響くようなじんと痺れが起き、くっつく角度が変えられる。よぞらは時折息を漏らし、背に走ったむず痒さから無意識に逃げるが小さい抵抗を押し付け日野出は強請る様に口づけた。
 寝ている彼の反応に嫌でも欲情する自分。どろどろで、それでいて止まりそうに無い浅ましさ。タールのようなねばついた背徳の気配に動悸が重く激しくなる。

 ――まずい……。
 
 日野出の喉から吐息に混じってポトリ、と溢れ落ちた。
 
     ◇  ◇

「――……ん、ぅ……?」

 ――何か熱いものが唇に押し付けられている。そう気づいたのは息苦しさと柔い衝撃が繰り返され、居眠りから覚めかけた時だった。
 
 咄嗟に出たと思われる、目の前のひとりごとに俺が反応したからだろうか。男は驚きのあまり動きが停止し、次いでぎこちなく脱力していった。
 
「あれ……? ひので……」
 
 徐々に輪郭が見えてきた俺は、寝起きの口で舌ったらずを引きずりながら、その人物の名を呼んだ。
 
「……起きてたのか……」
「んや、――」
 
 いいえ、全然。というか、日野出がちゅっちゅするから起きたんだけど。こちらの状況としては今、相手が日野出だと認識したところだ。ワンテンポずれているのが会話の齟齬で分かる。
 それを聞き、気まずげに彼が離れていくのを俺は瞼をゆっくりと上げながら追った。朧げに捉えたのは……ポーカーフェイスのその裏、内心冷や汗が流れまくっている、そんな日野出の心情だった。
 
 何なに。――キスされてた俺より動揺してるんだけど。
 
「だいじょうぶ?」
 
 間伸びしながら見上げ、案じる。だっていつもの落ち着いた雰囲気の彼にしては珍しい行動と表情だ。
 寝起きでぽやぽやしている俺に日野出は、黙って見逃せと言わんばかりに奥歯をぎりぎりとさせ、羞恥が勝った顔を背ける。今回は自分の失態だと認めているからだろう。ほんのり耳が赤らんでいた。
 
「……ゆゆ島はそんなことより自分の心配をしろ。なんでこんな場所で居眠りなんかしてんだ」
「む、だって乾燥機見張って無いとパンツ盗られるかも……しれないじゃん?」

 日野出の問いに疑問形で答えたが、実は過去に何度か盗られた経験があったりする。いや、なんだろうなあ、これ。
 もっと色気のある下着を盗めよと思わんでも無いが……男のパンツも油断してたら無くなるということだ。
 ともあれ、俺はコインランドリーでは出来る限り、その場で待つことにしていた。
 
「…………寝こけてたら意味無いだろうが」
 
 困っちゃう、とおちゃらけた俺に対して日野出は眉間を指で揉み、たっぷりと間を取った後、低い声でつっこみを入れる。しかも夜中一人で……変な奴が来たらどうすんだ、と。
 自らの行動は棚に上げ、日野出はくどくどと説教し始め、段々と俺の背が縮こまる。

「大体ゆゆ島は――」
「……待て待て日野出。俺、成人男性。パンツも――ほら、お金も盗られてない」

 薄いフードジャケットのポケットを叩き、小銭の所在も確認。
 
「ね? オッケー。なんも盗られてない。今のところ被害はちゅーの、み……」
「…………」
「…………」
 
 しかし日野出は黙って俺を睨み付けるだけ。俺はすごすごと体を丸めながら反論を取り下げ、小言全てに「ごもっとも」と返した。

「ったく、しゃんとしろ、しゃんと」
「しゃんっ。……あでっ」

 口でちゃんと「しゃん」としたのに、無言で叩かれた。……ちょっとムキムキだからって、すーぐ暴力で訴える。そういうとこ良くないよ日野出くんは。

「ててて……」

 勿論そんなことを言ったらまたドパチコ食らうので愚痴は内心に留め、頭を撫でながら猫みたいに1つ伸びをして誤魔化した。
 
「くあ……んぁーてか、日野出いつ来たの? 乾燥終わってる? ……ってまだか」

 硬貨の投入口のすぐ上で赤く光る数字は0には程遠い。早寝早起き偉い、俺。そう自分で褒め、寝ぼけ顔の目尻を人差し指でごしごしと擦った。
 
「そういや、どしたんこんな時間に」
「お前こそ――こんな天気じゃ溜まった洗濯物が乾かないから、ここに来た、お前と違って忙しいんだ俺は」
「さいで」

 俺のおざなりな返事に日野出は見向きもしない。そういや、日野出の家はここの近くだっけ。
 俺と彼、コインランドリー。生活圏内の丁度良い距離にあるこの場所は、すこぶる便利で都合が良い。

「じゃあ俺と似たようなもんじゃん」
 
 2台のドラム乾燥機が静かに動く。

「俺はね俺はねえ、なんとなく洗濯したら乾かしたくなったんだよねえ……」
 
 座ったまま、だらりとなんとなくが溢れ、伏せ目がちに視線を下ろした。
 
「だから、一緒だろ? ――って?」
「そそ」

 ぬほほ、と笑う。日野出が気持ち悪い笑い方をするなと窘めるが、否定の意は唱えなかった。
 同じ思考、小さな偶然。暗い道を歩いてコインランドリーへ。曖昧な笑いになるのも許してほしい。
 
 彼の方を見上げたら、ふとガラス窓の向こう側が目に入る。細い雨が橙の街灯の滲みに混じって途切れた白い斜線が流れていた。
 
「夜も雨だね」

 今日は日中も夕方も霧の雨が降り続いていた。明るい内は雲で光が拡散して見えるものが全て白く、泣いちゃいそうな雨は目視しづらかった。
 
「……」

 日野出を横目で見て、前を向いた。2つの乾燥機はぐるぐる回っている。

「どしたの、カッカした顔して」
「……カッカってなんだよ」
「黙ってるから……ふは、いやそれはいつも何だけど」
「………………」
「なあんか、腑に落ちないって怒ってる顔、してる」
「……」
「ふは、……ほら、おでこ。貸してみ……」
「っ……おい」

 そう言って、焦る日野出を他所に「俺はお手当しましょうねえ」とやや高い位置にあるおでこを手のひらで覆った。

「こうして手を当てると気持ちも落ち着くんだってさ」

 まさにお手当だ。ちょっとだけ冷たいおでこが気持ちよくて、じんわりと、互いに無言の時間が続いた。空気を吸い込み、日野出の喉が鳴る。はくり、と唇が動いた。
 
「……ん?」
「――こうして2人で会うのは久しぶりだな、って……思ってた」
「ん。――……そういや、そうかも」

 雨を隠れ蓑にできず、日野出は観念したように吐き出した。俺と彼だけの空間。ありそうで、なかった本当の話だ。
 
 日野出は俺の家にも、バイト先にも来ない。大学内で会っても必ず晴朗が一緒だ。偶然会うコインランドリーだって、2、3会話を交えるくらいで2人でゆっくり腰を据えて話すことはほとんどなかった。

 俺は俯き加減で首を僅かに前へ倒し、瞼をゆっくりと半分下ろした。

「みこと」
 
 彼が呼ぶなと言った理由を知らずにいるのを知らないふりをして、わかったと頷いた時から。
 手を離し、触れた記憶の断片を思い出すように、俺は小さく命(みこと)と口にした。――日野出命(ひのでみこと)。昔呼んでいた彼の名を。――1つずつ区切る様に呼んだ。

「みことは、真面目ちゃんだなあ」
「……なんだよ」
「きっとせーくんは知ってるよ」
「…………」
「全部」
「…………分かってる。だからネチネチ言ってんだろ、アイツ」

 日野出は頭を乱暴に掻き、叱られた子供みたいに口を尖らせる。俺はぽろりと笑みが溢れた。
 
「っふは、日野出っちは賢いおバカさんだなあ」

 俺と晴朗に遠慮していて、更に周りから一歩引いて全てから遠慮している、優しくて真面目でおせっかいで、心配性なおバカさん。
 
「……馬鹿はお前だ」
「む……」
 
 制止するように俺の口を手のひらで塞ごうとしてきたので、体を傾けて避けながら日野出の肩まで頭を近づけ、そっと耳打ちをした。
 
「寝てる隙にキスしてたのに?」
「……」

 揶揄いの言葉と俺の唇が、彼の耳輪を掠める。吐息混じりだったからだろうか。薄らと、そこに熱が帯びた。
 
「こういうの、珍しいというか……あん時以来だろ」
「……あぁ」

 一度だけ、頼まれたあの日だけ。
 
「――それは、もうやめることにした」
「やめる?」

 やめるって、何を。彼の指すそれが分からず疑問符が浮かんだが、日野出の目の奥に見えた高揚で直ぐに理解した。
 傾いた天秤から目を逸らし、一度だけ友情の文字を外したあの日。舐め合って、腰から溶けるようなどろどろに塗れたセックスをした――あの日。
 
「正直、俺が勝手に遠慮しただけで、面倒と常識に寄っただけだったんだ」

 晴朗と日野出。各々が抱える面倒な気持ちと、その他一般常識に倫理観……などなど。逞しい背中に背負い込もうとするのは想像以上に重く、荷崩れを起こした。
 
「いいんだ、それに良崎(ややさき)は知ってる」

 やはり、彼は全部知ってる。
 
「……みこと」
 
 殊更小さく、俺は彼の名を呼ぶ。

「良崎に言われたよ。――『シンデレラの意地悪な姉妹みたいにガラスの靴を待ってるだけだね』って。『たった1人しか認められないのに、それが自分にも訪れると、――数え切れないくらいの中から、きっとみつけてくれるって待ってるだけの、幸せな頭だ』ってな。その時は待ってなんかないって否定したけど、――結局その通りだ」

 誰よりも日野出は自分を一番否定していた。見えすぎて、段々とのめり込み取り返しがつかなくなった。客観的に見れば小さな事だが、本人には大きく、そして見えない闇から抜け出せない。パニック症状に怯え、自分でなんとかしよう、そうしている内にどんどん増え、気持ちが溢れかえった。
 
「自分で自分を救えない事もあるんだぜ」

 1人でしか出来ないこともあるが、1人では出来ないこともある。目が回っていると分かるのは、目を回している本人を見ている他人だ。
 
「……ほんとは、ただ嫉妬してただけだ」

 ――狂ってる奴らを見てて、ずりぃって指咥えてただけだ。
 日野出は分かってる、と脱力し緩んだ空気に首を掻いた。
 
「君たちはねえ、喧嘩してないのにケンカしてんの怖すぎなのよ」

 俺は、ケラケラと笑う。ちらりとみた日野出はそれには応えず続けた。
 
「良崎は、――あいつは正反対だ。もしゆゆ島が死んでも病気になっても、誰とどうあろうが、自分とどうあろうとも、笑ってるに決まってる。どんなお前でも良崎は受け入れる。それは、見てて思ったし、実際にも言われた。――でも俺は違う。俺は、絶対に死んで欲しくないし苦しんで欲しくないし消えてほしくない……友達には、キスも、セックスもしない。って。決めた、」

 ――、……ぐしゃり。
 
 思考が飛び飛びになり、想いがほつれ出た。
 同じものでも、日野出には負債になって、重さに潰れた彼は。
 馬鹿みたいに1人で悩む日野出を他所に、俺は呑気に言った。

「それはしゃーない」
 
 ダメだけど、ダメじゃ無い。しちゃダメだけど、最悪殺してでもやりたきゃヤればいい。いや、ほんとダメなんだけどね。でも、暴力的な解決を視野に入れて、もう少し息を吐いて考えるのもいいんじゃないかと思う。

 俺は沈黙が生まれた隙間に、他人事だからこそ言える薄い提案をした。
 
「ていうかね」
 
 そして、俺はそれよりも。
 
「死ぬな、生きろっていうけど、それで生きるのは日野出じゃなくて、俺自身だろ。そんなん言っちゃってさ、――俺を背負う覚悟できてんの?」

 ほんと、日野出はすーぐ俺を殺す。
 すーぐ殺そうとする。

 死んだ話って、結局本人ではなくて残された側が勝手に話しているだけだ。死んだ本人はそこで話は尽きている。いわば残された側の怨念だ。
 俺に縋られてもきっと千切れるし、何もない。
 
 日野出の心に住み着いた俺は、彼の畏敬する天使様じゃあない。
 
「――とっくにあったよ」

 彼の答えは苦く、しかし迷いなく飛んできた。
 あったけど、必死で奥に追いやっていた。だからお前の寝汚なさまでひっくるめて、ある。そう彼は言った。

「ふはっ。日野出は優しいし、やっぱ馬鹿だ」

 俺は吹き出す。腹の奥がくすぐったい。日野出からしてみれば俺がそうさせたのかもしれないのに。おもしれー男って奴だろうか。
 
「笑うな」
「日野出のばーかばーかちんこ」

 苦い、眉をしならせて歪みと焦りが見える顔。赤く染まる耳に、ヒーヒーとひとしきり引き笑いをした後、

「ま、俺なんかにちんこ勃つなら、それはもう真理だねえ」
 
 いいなぁ、俺もそんな気持ちになって可愛い女の子とエッチしたいなあと、日野出の元気さを羨ましく思いながら笑いで滲み出た涙を拭った。
 
 彼は俺の言葉を聞き、一瞬ぽかんとした。静かに回っている乾燥機の音が2人を包む。
 しばらくして、日野出は何かを握るように手の内を丸め、片眉を上げて鼻で笑った。

「――んなの、無理だろ。女にお前なんか荷が重すぎる」

     ◇  ◇ 

 片方の乾燥機から、終了の案内音声が流れた。点滅する赤い光を横目に、隣で回っている日野出の洗濯物を見ると、俺の2倍はありそうな量がぐるぐるしていた。

「日野出のはまだ……って、量多っ。どんだけ溜め込んでたの」
「ゆゆ島が少なすぎるんだ。このドラムの大きさなら普通、だ。普通。……ほらそっち、終わるぞ」

 緩やかな回転がクールダウンに入り、中の衣類がふわりとバウンドする。熱を冷ますように段々と遅く、遅くなって、――止まった。
 ほかほかの予感に、俺は喜びの声を上げる。扉を開け、自分の洗濯物をぺ、ぺ、と適当に取り出していると日野出が横から割り込んだ。
 
「……お前、それ裏返ってる」
「わー……出たよ出たでた。裏返った靴下は裏返ったままでいいと思います……思いません?」
「思わねーよ」
 
 履ければいいと思って適当にくるくる丸めていた俺を見て、覗き込んだ日野出は心底嫌そうに眉を歪めた。こだわりの無い無地の靴下に裏も表も大した差は無いと思うんだけど。
 
「めんどくせー男……」
「……お前はもう靴下履くな、靴下に失礼だ」
「え、素足の方がいいって? やだあ日野出のエッチ」
「……」
「……っぬぁ! あーっごめんなさい靴下捨てないでっ! あーっ、鬼ー!」
 
 靴下が無言でゴミ箱に投げつけられた。
 
「ドイヒ……」
 
 俺は鬼畜生の所業に泣きながら回収し、しくしくと靴下を裏返す。視線を感じて日野出を見ると、まだ眉を寄せ今度は腑に落ちない顔で俺と洗濯物を交互に訝しんでいた。
 
「どーした?」
「……お前、服はよれよれなのに下着だけ一人前なの、なんなんだ」

 彼が指をさししているのは俺の下着――所謂ハイブランドのボクサーパンツだった。知らない人から見ればいいパンツ穿いてんねぇくらいだろうが、日野出は俺の性格を分かっている。だからこそ、より違和感に感じたのだろう。
 どう考えても俺が選んだとは思えないソレに、俺もなんともいえない笑みが浮かぶ。はてさて、どう説明しようか。
 
「え? ……ああ、これねえ。いやね、――定期的に送ってくるんだわ、コレが……」

 ストーカーならぬ見守りくんやら、兄さんやら後――……色々。何故か俺の下着を新調したがる。ただ古いのが無くなるでなく、新品がきちんと送られてくる完璧交換仕様で。
 盗られたまんまだと困るから怒ることも出来るが、こうされてしまうと文句のつけるのが難しい。てか、面倒くさい。
 俺は無駄に気合の入ったパンツたちがいつの間にか下着入れに並んでいた光景を思い出して一瞬気が遠くなり、諦めの境地で力なく笑った。入れ替わったお古(パンツ)の行方は追えまい。
 
「おい、それヤバすぎるだろ……」
「プロの犯行は、それはそれはもう素晴らしいのよ……とほほ」

 素晴らしき人々に乾杯。

 訊いたのを何処かで後悔したとでも言いたげに日野出は俺の頭をぐしゃぐしゃにした。乾杯がわりってか。うん、その心のこもった力加減、嫌いじゃないよ。
 大人しくされるがままになっていたら、ふわ、と日野出の手元から甘いベリーのような匂いが漂ってきた。

「日野出タバコ変えた?」
「ああ? ……ああ。でもなんで」
「前までくっさいの吸ってんな、って思ってたけど今は甘いから」

 煙が嫌だとか臭いがどうこうではないが、残り香のベクトルがあまりにも違い、自然と口から出た。
 
「なんか秘密の匂いがするかも」

 近くに寄ると分かる秘密。それは彼の心境の変化を表すようで、甘い含みが俺の頬を緩ませた。
 
「っふ、ふはっ」
「何だよ」
「いや、いやあねえ……っふ」
「……別に意味はねえよ」
「……俺はこっちのが、好き」
「…………そーかよ。別にお前のためじゃねーよ」
「ははーん図星かあ、そっかあ」
「っ……やめろ、うざい、つつくな」
「ふははっ」

 吸わない身としてはそこまでするならやめればいいのにって思うけど、そう言うと日野出はそれとこれとは別だと言葉を濁した。

「ふうん? 口寂しいって奴?」
 
 多分、だ。口寂しさが残り、手持ち不沙汰で繰り返す習慣の欠如。恐らく喫煙者じゃないと分からない感覚。日野出は、渇きの欠乏を想像できない俺の指へと手を伸ばし、掌ごと握った。
 
「……日野出くーん、この手はなんだい?」
「…………」
「みこっちゃーん?」
「タバコの代わりになるもん、……無いことも無い」
「そーなのかー……って」
「ゆゆ島、……」
「――おバカ、っここ、コインランドリー。……でもって、監視カメラ……」

 小声で近づいてきた顔を押し止めながら、手を解き、日野出の額に当てた。じんわりと熱がうるさいくらい伝わる。どことなく待てを命じられた犬みたいで、ちょっぴり可愛いなと思いながら、うりうりと擦り付けるようにおでこの裏の前頭葉を刺激した。全く、唐突に空気を変えないで欲しい。

 キスされといて今更だが、それでも意識が無い時とある時の差はデカい。そもそも第三者も訪れる場所だ。
 あと数センチの距離で不自然に見つめ合った。
 
「よぞら」
「みこ……、――ふはっ」
 
 珍しく食い下がる日野出に堪え切れず俺は噴き出す。程よく鍛えられた日野出の胸をぽん、と叩いた。
 

     ◇  ◇
 
 
「日野出の家はせーくんちより近いねえ。歩いていけて、ラクチンラクチン」

 ほかほかの中身が入ったバッグの持ち手を肩にかけ、傘を差し歩く。リネンの香りが傘の煩わしさを紛らわせてくれ足取りは来た時よりも軽い。水溜まりはなく、濡れて油膜が虹色にテカるアスファルトとその路側帯として敷かれた白い線。俺は綱渡で白い上を歩きながら猫撫で声を出した。
 
「なあなあ~おれフライドオニオンとピクルスたっぷりのザクザク盛り盛りホットドッグ。食べたい。なあ~日野出っち~」
「……店行け、店」

 気分で食べたい物をつらつら連ねるていると、口の端をひくひくさせながら日野出が言い放った。
 
「一人暮らしの家に、んなもんがある方がおかしいだろ……」
「――店だって、もうどこも閉まってるってーの。日野出っちは冗談通じないなあ、もー」
「……。……家にラーメンがあるからそれで我慢しろ」
「マジ? もち、日野出が作ってくれるよね? ん、作ってくれるって? 卵~たまごたまご」
「はぁ? …………あー、くそ……」

 超嬉しい、涙が出そうなくらい嬉しいと声を震わせたら、ぐっと襟首を引っ張られた。

「ぬあ、」
「――電柱……お前、ほんと、本っ当に気をつけろよ……」
「ぬはは……助かった、ありがと」
 
 気づいたら目の前に電柱があった。日野出のおかげで衝突は避けられたが、痛い思いをするところだったと体を震わせる。
 暗いのもあって完全に油断していた俺は日野出の声にそう返し、へらりと笑う。ひやひやさせるなと引き寄せられると傘同士が当たり、骨組み部分がしなって小さな雫がポロポロと落ちた。

「あーやべやべ、電柱とちゅーするとこだっ――」

 言い切る前に壁に押し付けられ、開いていた隙間からぬるりと舌が差し込まれる。
 
 そのまま日野出が覆い被さり、唇を塞がれた。
 
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