よぞら至上主義クラブ

とのずみ

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本編ー総受けエディションー

16:ゆゆ島よぞらと夜の軒下、大人の暇潰し。上

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 流れる雲のスピードが速い。
 
 ゆゆ島よぞらは空を仰ぎ見、立ち止まる。ずん、と重い雲が右へ右へと押し流されていく。

 その速さに、わあ、とわざとらしい声を上げると、開いた口が水のにおいを吸い込み鼻まで到達した。目に見えない水と土の湿ったにおい。

 ああ、やはり。来るよねえ。

 こんなに急いで流転しているのに、嵐が来ない訳がない。

「ひゃああ押されるー」
 
 強い風に流され、足が勝手に前に行く。こんな時、徒歩だと気が楽だ。免許も無い身分としては、やはり職場は近いに限ると、こうしてトコトコのんきに歩きながら考える。昔通っていた学園の距離だとこんな呑気にしていられないだろうな。バイト先のゲーム屋や、せーくん達の通う大学に近いとこを選んで偉いぞと過去の自分を褒め、風で乱れた髪を手で撫でつけながら、ここからでは見えない景色を思い浮かべた。

 街と街にはそれぞれを繋ぐ、いくつかの橋が架かっている。

 俺の住む場所は川の河口が近く、街自体もある種孤島の様な立ち位置だ。基本的に橋を渡らなければどこにも行くことはできない。
 ただ、橋の上には遮るものがないもんだから風はビュービュー吹いてるし、雨はザーザー降り注ぐ。風が強ければ、霧が濃ければ橋は封鎖――最大の敵は天気という勝ち目のない相手だった。

 実家へ帰る時は常に負け確、橋のブリッジを立ちこぎして風に抗う。電車でも使えばいいじゃないと言われるけども、いやいやズルをしちゃいけない。普段動かない分ここで運動を兼ねて頑張って自転車を漕いで帰るのがいいんだ。あとお金も無い。

 まあそれは兎も角として、やや不便な事を除けばこの辺りは静かだし、海も川も両どりで暮らすだけなら最高な場所だ。橋から見る景色も高くて、飛んでいけそうな気がする。

 何かを掴むものも無い。
 
 うっすらと青みの残った空には月が浮かんでいて、俺が動くと月も動き音も無く後をついてくる。雲の流れを追った後で目が慣れてしまったのか、はたまた、きちんと認識していなかったからか。空の面から点へとスライドさせると、焦点が合わず色収差でフチが赤と緑にブレて見え、月は漂白剤で色が抜けたように点となっていた。

「ぬあー! 風で髪がボサボサになる……」
 
 面白いものでも無いし、特に何かある訳ではないが。今日は月を見て、そんなことを考えていた。

 
    ◇  ◇ 


 唸る雨風、――吹き荒ぶ嵐。

 外の騒がしさに続いて休憩室から出てきた店長の一言がフロアに響いた。
 
「こりゃあ店じまいだな」
「でしょうね」

 ぼんやりと、そしてこそこそと閉店準備をしていた俺は予想していた言葉に死ぬほど同意する。
 天気予報でも口が酸っぱくなるほど今後の見通しが繰り返していたし、予想の最新情報がネットで随時更新もされていた。
 ちなみに、今日出勤していた名護月は念のため先に上がってもらっている。遠距離だといつ帰れなくなるか分からないし。
 最も、彼自身は酒飲んでゲームできるー! と叫びながら帰っていったが。本当、名護くんはスーパーパリピで羨ましい。

「ひゃっほー店じまいフィーバータイムだあ」
「喜ぶな」

 俺も名護くんみたいになれるかと真似して叫んでみたが、そんな訳は無く。窘めるように丸めたノートで頭を殴られただけだった。ぱこりと軽く、そして無性に空しく響き、すぐにしん……と無音になる。2人きりの店内だ。俺は下手をしそうで黙り込んでしまう。
 繋ぎ目が無く並んだ棚に、飾られた商品。それに比べると密度が小さくぽつんと点在していて、矢張り今日の様な日は、より寂しく感じられた。

「……しかし、逸れそうな感じだったのに、ぎゅんっと進路変えてコッチに来ましたね」

 暴風域ギリギリの所だと予報では伝えられていたが、磁石でもはめ込まれているのか急にこちらへ向かってグイグイやってきたではないか。
 おかげで今日の出勤が早まったんだからなと俺はムッと口を尖らせつつ、こっちからこっち、と両手で荷物を移動させるように奇妙なポーズをとって台風の進路変化を伝えた。

「さっきまで気象情報見てたが……嫌がらせにしか思えない進路だな、ありゃ……」

 俺の仕草を見て吹き出したものの、客足も途絶えたし散々だと最後にため息をつく店長。
 面倒だけど店の主としては営業するのも大事だし……なんていうか、大変だ。俺は、確かに確かにと同情しながら、幸い月末の金曜で無かったのが救いか、新作の発売と被らなくて良かったねと互いに顔を見合わせるに至った。

「もし被ってたらヤバかったですよねえ」

 ゆゆ島よぞら、ギャルになります――と言わんばかりにヤバい、ちょ、マジヤバいを連呼する。
 
 何がヤバいって、こんな天気の中エロゲを買いに来るとか、正気かって話なんだが――いやいや、一般的には、んな訳あるか……と思うかもしれないが、オタクは弱くて強い生き物なのを忘れてはならない。目的の物が有れば台風だろうが戦地へ向かう、そんな選ばれし者が多数いることを。
 俺だって欲しいエロゲの発売日に? 店が開いてるかもしれないってなったら? ――そりゃいくでしょ勿論。――て、なる。多分。

「まあ、今日は何も無い日だ。スーパーじゃあるまいし、こんな天気の中来る奴なんていないだろう」
「ですよねえ」
「余程好きで、アホの馬鹿騒ぎしたい奴は別だろうがな」
「よねえ」
 
 口の悪い店長の声と俺の薄っぺらい相槌が微妙なテンポで響く。雨の音がピンクノイズの代わりになり雑音を遮断し、そして店内のBGMの代わりになった。普段そこまで世間話をしない店長も今日ばかりはいつもより饒舌で、しばし2人でダラダラと下らない話をした。
 
 次第にビルを叩きつけるような音が聞こえ始め、俺は雨の様子をテナントの窓ガラスから見た。気になるのか隣で店長も同じように顔を覗かせると、外は普段が可愛く思えるくらいの横殴りの雨で陽は落ち黒く色づいていた。見えない怖さがじわり、と肌につく。これ、店が終わってもすぐに帰れそうに無いかもなぁ。分かっていたが矢張り体験して認識すると分かりたくなかった部分が見え、フゥ、と俺は息を吐き出した。

 このままだと外との温度差で窓ガラスが曇りそうだ。俺は離れるとレジ前まで戻り、コピー用紙を取り出してそこにマジックペンを滑らせた。キュ、とペン先を鳴らし『早じまいのお知らせ』と書き終えると店長に向かって叫んだ。

「てんちょー! 入り口の看板とか大きいのは仕舞っときましたけど、一階の出入り口とかに出してる奴はまだなんで! 片付けてこの張り紙してきまっす」
「大丈夫か」
 
 手伝おうかと、気遣う店長に俺はかぶりを振る。

「いんや、大丈夫っす。外の様子も気になるし、すぐなんで行ってきまーす」
「バカやってケガするなよ」

 呆れた風な声色に「はーい」と返事し振り返ると、片眉を上げ目を細めた店長の顔には『お前の思考、モロバレ』だと書いてあった。
 はわわ。俺はドジッ子美少女よろしく成人男子が到底言わない口癖で誤魔化すと、何とも言い難い顔で苦笑され、にははでやり取りを終わらせた。
 
 なにしろ年に数える程しかないイレギュラーな日だ。怖いもの見たさから何時にも増して積極的に動いているのは怪しさ満点だったのだろう。そんな俺に、店長はやれやれと大きな手で頭を雑に撫でるとつむじを押し、早く行けと俺の背中を押した。


    ◇  ◇

 
 エプロンのポケットにガムテープやら、ハサミやらを入れ、膨らみを押さえながら一階へ下りる。手元からフロアへ顔を上げると、上で聞いていた時よりすさまじい風の音が耳に入り、次いで意志とは関係なく揺り動かされてる木々や飛び損ねた看板が見え、有り体に言えば酷い荒れ模様だった。

「流石に、しとしととは訳が違うな」
 
 どこかしら、何かしら動いている風景を微動だにしない建物の中から眺めていると、逆に冷静になってくる。というか、この構図に対する興味が薄れてしまったというか。
 はしゃぎ様が、わー! から、わー……まで落着き、一瞬で溶けた氷みたいにぬるく外を眺めていた。

「てか停電しませんよーに……」

 ぼんやり、そんな事を呟いていると、

 ――ガタンッ。

「……うぉ、」

 突然の物音が響く。すんでの所で大声にはならず、響き渡ることは無かったが、一応誰もいないはずのフロアを見回した。自分の油断した姿を見られるのは赤面ものなのだ。

 玄関口のガラスドアはピタリと閉められており、震えながら流れ落ちた雨粒で黒い景色が所々湾曲して見えた。たまに点滅する信号機が赤と緑の光を放ち、中の蛍光灯は青白い。先程の物音はもう聞こえず、変わりない嵐の声だけが響いている。

 兎に角、さっさと張り紙を貼ってしまおう。そう切り替えると俺は扉の方へ近づき、内側から紙の四隅をぺっぺと簡単にガムテープで貼り終えた。一息つきながら出来栄えをチェックする為半歩下がり視野を広く見ると、張り紙の向こう側に黒い物陰が見え俺は目をパチリと瞬きした。
 こちらからだとよく分からないが、そう言えば外に傘立てを出しっぱなしにしていた気がする。多分それだろう。名護くんは片していないから、そのままだったはずだ。

「よっ…………ん?」
 
 ドアの取手に手をかけると風圧で蓋のされたドアは予想より重く、開きかけたドアは閉じてしまった。あれ、こんなに風吹いてたっけ。てか、どんだけ非力なんだ俺。
 もう一度握った手に力を――この半年くらいで1番力を込めてこじ開ける。

「ふん、――ぬっ!」
「――、わっ」
「っひあっ!?」

 ぐっと掛け声を漏らすと同時に人の声が聞こえて、俺は腰の抜けた声をあげてしまった。

 え、なになに何の音? というか声?
 状況的には正にホラーの盛り上がるシーンそのもの。視界の悪さと音の恐怖の中、遭遇する未知。

「…………」

 突然の事で動けないまま2対の目が合った。心構え? 無い無い。突然の事で赤面どころか顔は真っ青だ。

 ――目の前にはずぶ濡れの美青年。咥えたタバコ、呆然とした表情。
 ――片や俺も、寝起きみたいな間抜け顔。
 
 数秒の間に、様々な情報が雪崩れ込んできて脳内は大混乱だ。そうして俺が、開いた目の乾きに我慢できず瞬きをした瞬間。
 
「……っ、」
 
 それに反応したのか、カッと目を見開いたずぶ濡れの美青年は口に咥えていたタバコを――ポロリと落とした。
 
 え、え、なんだ。どうした。
 
 混乱しながらもとりあえず、俺はどんな言葉をかけるべきか模索しながら、まだ火もついていない真新しいタバコを拾い上げ、男性へと渡す。

「これ、どぞ……」
「――あ、」

 まさか本当に好奇心旺盛な、店長の言葉を借りるとアホの馬鹿騒ぎ? な人だったりするのだろうか。見た目的にうちのゲーム屋に用がありそうにも思えないし……。うーん、ちょっと俺、田んぼの様子見てきます。……いや違う! いやというか!

「めちゃくちゃ、濡れてるじゃないですか……」

 ――そうだ。アホなこと考えてる場合じゃない。目の前のお兄さん、この台風の中突っ立ってましたとでも言うような濡れ具合じゃないか。水も滴るいい男とは良く言うが……滴る度合いが過ぎている。

「あー……と、おにーさん? 俺、ここに入ってる店で働いてるんですけど、――ちょっと待ってて貰えますか? ダッシュでタオル持ってくるんで」

 今日は予期せぬことの話連続で、冷めた俺の興奮も再熱したのかもしれない。ビルの軒下で雨宿りをしている男にそう言う否や、いつになく機敏な動きでタオルを取りに店へと舞い戻った。
 

    ◇  ◇

 
 俺が再び戻ってきても後ろ姿はそのまま、ガラスに輪郭がぼんやりと映っていた。
 ふ、と安堵の息を漏らしながら近づくと開け放した入り口から煙の匂いが立ち込め鼻を擽り、煙の流れを辿る。どうやら彼は吸い損ねたタバコをふかしていたようだった。
 
 荒れた天気に濡れた男が片手にタバコ。そんな映画のワンシーンみたいな光景に、また非日常を見た気がして少しだけその場で立ち止まる。
 
「…………」
 
 ゆっくり立ち上る白い煙と、黒く、暗い荒れ模様。

 両者時間の流れが余りにも違い、つい眺めてしまう。混ざると一体どうなるのだろう。全部取り上げられたかの様に、消えてしまうのだろうか。それとも、暗闇に飲まれてしまうのだろうか。

「あの……」

 いつの間にか、火を消した彼が気づいてこちらへと向いていた。
 
「……あ、すみません。待っててもらったのに、ぼーっとしちゃって」
「いえ……」
「…………えと、はい……これ。意味無いかもだけど、使ってください」
 
 街頭ティッシュを配るテンションで彼に持ってきたタオルを渡す。すると彼は、思いのほか素直に受け取ってくれた。ありがとうございますと頭を下げ、そのタオルで黙々と顔を拭きはじめる。

 拒絶されなくて良かった。内心ほっと胸をなでおろす。そうしてなんとなく軒下の彼の姿を見ると背が随分と高いのが分かった。屈み気味だけど、それでも立っている俺よりも目線はやや上気味で、羨ましい。数センチ分けて欲しい気持ちになる。

 す、とタオルから端正な顔立ちが覗く。あ、目元に泣きぼくろ。
 今まで目につかなかったのに……一度気になりだしたら今度はそこにばかり目線がいってしまう。なんかいいよなあ。目元、口元のほくろって何故ああも色っぽく感じるんだろう。

「ぬ……」
 
 今時流行りのアイドルみたいな繊細なパーツに、これまた、おあつらえ向きに添えられたほくろの場所が――あざとい、非常にあざとい。
 単なる良性腫瘍なのにと、そんな、やかましい視線を送っていると流石に気づいたのかパチリと目が合った。
 
「――、」
 
 彼の張り付いた髪が流れるように顔にかかり、横に流している長めの前髪が一筋、綺麗な流線を描く。たらり、と湿り気でスローモーションな動きが艶めいて見え、大人っぽい雰囲気に思わず羨ましさを抱く。すると、目元に添えられたほくろが微かに動いた。

「ありがとうございます」
 
 そう言うと、柔らかな眼差しで微笑む。
 今更拭いたところで意味無いかもしれないと案じていたが、彼の表情は先程よりスッキリしていてどうやら杞憂だったようだ。
 
「――、……」
「ん? ……あ、ああどういたしまして」

 風の金切り声で彼の声がかき消されてしまい、俺は一瞬考え込んでしまうが、状況から察するに悪い感情はないのだろう。満足感がじわりと脳から溢れ、あははと、照れもそこそこにこちらこそと顔を俯いた。
 
「あ、」
 
 そうだった。自分の手元を見て思い出す。ついでに持ってきたものを指差し、彼の目に入る様に少し揺らした。

「んーああ……あとコレ。この天気じゃ傘さしてもひっくり返っちゃうけど。もうすぐ暴風域抜けるって店長言ってたから持って来ちゃったんで……あ、持ってきたので使ってください。――そうだ、それか時間つぶしが必要なら店に来ますか? 今日はもう早じまいで濡れてても気にすることないし。もしかしたら店長の着替えくらいならあるかも――」
「――いえ……、」
 
 矢継ぎ早に話す俺に彼はフルフルと首を振り、短く断りの言葉が返した。へたり、と彼の湿った髪が動き、黒子が隠れる。

「そ、そう……?」

 ……親切の押し売りは良くない。そうは思うが――ちら、と見た彼は濡れた上に顔も赤い。

 俺は冷えた手をとり、成すがままに傘をぎゅっと掴ませた。
 
「っわ、手ぇ、冷たっ、」
「――っ、……」
 
 俺の体温が高いせいか、握った手の冷えを余計に感じ、思わず素になって驚いてしまった。
 
「あ、すんません」
 
 震えた体にハッとなり直ぐに手を離し謝罪する。これではまるでセクハラではないか。初対面の相手に申し訳ないと仰ぎ見ると。

「あ、……う」
 
 わぁ……美丈夫の間抜け顔なんてほんと珍しい。
 
 ――彼はまた最初と同じように放心状態でぽかんと口を開け、言葉にならない音を出していた。
 
「……あー、と……? ……大丈夫ですか?」
「あ、…………いえ」

 俺の疑問に彼は視線をふらふらと泳がせる。

「……?」
 
 顔が赤らんだままなのでもしかしたら熱が既に出始めているのではないだろうか。そう思い声をかけるが頑なに大丈夫だという言葉を繰り返されてしまった。
 

 

 彼を横目に、俺は内側に向けてもう1枚、店の入り口と同じ文言の貼り紙をガラスに貼り付ける。確認するため、ひょこりと外に顔を出すと彼は俺を見ていたのか目線が合った。一瞬逸らしかけたが不自然に思えるかもしれないと、俺はそのまま話しかけた。

「そういや風強いのに吸えました?」

 まあ正しくは、火がついたかなのだが。
 に、と俺が軽く笑いかけると、彼の目がきゅ、と細まる。やや離れて紫煙を吐き出すと、携帯灰皿に吸い殻を捩じ込み見なりを整え戻ってきた。

「ええ、なんとか……建物の中で吸うわけにもいかないですしね」

 黙っていればバレないだろうけど、物腰柔らかな彼は律儀にそう答えた。

「おにーさんも大変ですね、こんな天気にわざわざ外で雨宿りとか。お仕事ですか?」
「……そんなことないです。――これ中に入れるの手伝います」
「え、」

 彼は無駄な動き無く雨に濡れた傘立てを持ち上げ中へと運び込んでしまった。取り付く島もない俺は慌てて後を追いかける。
 
「わ、わ、すんませんっ」
「――いえ、これくらいしか出来ないので」

 せめてものお礼です。そう言い、荷物を下ろすと腰を伸ばして俺の方を向いた。運んだ際に着いてきた砂利が床でジャリ……と音を立てる。
 
「あなたこそ、……こんな時間まで」
「んやー、俺はバイトだし。外荒れ出してからはずっと店の中にいたから気楽なもんですよ」
「――それは安心しました」
「……ん?」
 
 なんだろうと首を捻るが、なんでもない、と首を振られた。

「それより、」
「?」
「後ろ……紐が解けかけてます」

 指摘され、思わず後ろに手をやると、確かにエプロンの紐がゆるゆるで辛うじて引っかかっている状態だった。きっといつも以上に動いたからに違いない。元々適当に結んでいたのもあり、一旦解いて結び直した方が良さそうだ。

 おっとこれは失礼、と垂れた紐を引っ張ろうと俺は指先を動かすが、

「――俺がやります」
 
 それよりも早く彼の手が結び目を解き、紐の端を持たせない様、緩やかに俺の動きを止めた。冷たく、濡れた気配が至近距離で感じられ、自然と無口になってしまう。

 しばらく衣擦れの音がフロアに響き、ぎゅっと結ばれて解放された。

「――……」
「あ、ありがとう、ございます?」
「……あ、――ええ」

 エプロンの紐を結び終わっても、彼は退かず言わずで結び目から布に繋がる辺りを見つめたままだった。
 悩んだが、俺も……ずっとこうしている訳にもいかない。ひとまずお礼を言うと、すっと手を離し、何に謝るでも無く頭を下げた。

 バチバチと叩きつける雨。元々見えなかった外の様子が、陽が落ちてからはビル内の明かりがより際立って目が眩み、何が起こっているかは、音でしか判別出来なくなった。いつかは過ぎ去る、そう分かってはいるけれど。無意識にいつ過ぎ去るのかと頭で考えてしまう。
 
 俺は上へ戻る前に、再度上がって行くか彼に訊ねた。彼の答えはやはり同じで、ここでもう一服していくと言い俺の姿を見送ってくれた。

「もし何かあったら気にせず3階に上がってきてくださいね」

 彼がはいと頷く。腕に持ち手を引っ掛けた傘も同時に揺れ、俺はお気をつけて、とエレベーターへ乗り込んだ。



 …………。
 ………………。

「――ああ……びっくりした」


 
 
    ◇  ◇



「あーびっくりした」
「――どうした? なんかあったか」

 再び店内に戻った俺の呟きを店長が拾う。何かあった、と言うほどの事でも無いのだが緊張していたのか、いつもの場所だと分かると気が抜けてしまった。ついでに体力も無くなった。

「それがですね……ってあれ、」

 喋りながら店長の方へ近づくと、珍しく彼は眼鏡を掛けていてそちらに意識が持っていかれてしまう。
 
「…………メガネだ」
「ん? ああ、事務作業でPC使ってたからな」
「もしかして老眼、」
「――アホ言え」
「あだっ」

 俺の頭を殴ると店長は目頭を抑えながら眼鏡を外し、再度掛ける。どうやら普段は掛けていないからか、目が慣れないらしい。
 眼鏡の店長はいつもと違うというか何というか、別人に見えて少しドキリとする。知らず識らずのうちについ見すぎてしまったのか、彼の顔が動き、こちらへ向いた。

「どうした……そんなに見て。見惚れたか」
「……自分で言ったら半減しますよ」

 なんて嗜めてはいるが、店長の言う通り、したり顔も含めて……悔しいけれど、大層似合ってらっしゃる。

「……なんつーか、いつもの店長と違うって言うか。……俺も、見た目くらいは賢くなりたかったって思いましたね、ええ……」
「お前、それ言ったら台無しだぞ」
「え」

 台無しって、何だよ……。ぶつくさといじけていたら、店長は手に持っていた眼鏡のツルをこちらに向けてきた。なんぞい。

「掛けてみ」

 俺に勧めらながらも、返事を待たずにすっと差し込まれたので思わず目を閉じてしまった。耳にプラスチックの感触がしてむず痒くて肩を竦める。

「…………」
「?」
「……、あー、うん」
「なんっすか店長、その微妙なリアクションは」

 目を開けると、度が合っていないせいかクラクラする。ブリッジ部分を少しずらして視界を確保すると何とも言い難い顔をした店長が腕を組んでこちらを眺めていた。

「良かったなゆゆ島、お前、目が良くて」
「…………まあ実際その反応には慣れてますし」

 なんだなんだと言いたいくらいだが、実は学生時代にもことごとく微妙な反応をされていたから慣れている。というか偶にかけていた眼鏡もそれでやめてしまったのだ。
 
「そんなに似合わないかなあ……眼鏡」
「……似合わない訳じゃあないんだが……あー……」
「む゛、いいです。別に無理に言わんでいーです」

 歯切れの悪い言い方にも慣れた。地味に傷ついているけどね。

「――拗ねるな。悪かった。…………それにしてもお前、眼鏡のまま虎賀雨の前には出るなよ」
「? 虎賀雨さん?」

 急に名前が出て、俺は思わず聞き返してしまう。

「それだけじゃない……。あー、虹緒もだな……その格好だと命はないと思えよ」
「え、ヤダ何それ怖い……意味わかんないっすけど、……ハイ、分かりました、んで、眼鏡返します」

 何故か脅された。
 

    ◇  ◇


「風、強いですねえ」

 店自体は早じまいしているものの、店長は急いで帰る予定も無いらしく、俺も嵐が過ぎ去るまで店で居させてもらう事になった。通常業務の他にも仕事があるのだとか言ってたから手伝わせるつもりなのかもしれない。

「これだと断線するかもしれんな」

 雨はいつもの事だが、今回は強風の影響が強そうだ。店内の明かりを消すと、俺達は控室へと移動する。店長は停電対策でメインのPCは落とし、サブのノートPCを起動させた。俺も懐中電灯とか有ったかなと周りを物色していると俺を呼ぶ声がしたので、はいはいと返事を返した。

「――この分だと、あと一時間ってところか」
「え、……どれどれ……あ、ほんとだ」

 振り返ると気象予報のページを開いていたので、俺も便乗して確認しようと覗き込む。なんでも、この地域は丁度ピークを過ぎ、後は通過するのを待つだけ。らしい。

「一時間かあ」

 ぼおっと待つには少々長い。
 控室には店長が普段使う机と椅子、そして予備のパイプ椅子だけ。閑散とした中、俺は手持ち無沙汰で店長のそばに座り込むと、机に顎を乗せた。
 
「てんちょお~」

 見上げていたら頭の形を確かめる様に手のひらでゆっくり髪を撫でられる。う、こびり付いた眠気が擦られて気持ちいい……って。

「……てんちょ、俺はちっちゃい子じゃ無いんですが」

 手付きのそれが子どもに対する優しさ全開だ。なんとも言えない気持ちになり唸り声を上げて抗議するが、
 
「なら掃除でもするか?」

『暇なら掃除』の思考を先読みされているのか、店長の目が促すように掃除道具入れへと向けられた。
 
「……俺泣きますよ」
 
 甘やかされていると思ったら緩急の振り幅が大き過ぎてつい硬い声が出てしまう。え、仕事モードなど、とっくの昔に終わったんだけどこの人何言ってるんだろう。
 
「本気で嫌がるな」
「う゛……」

 俺の嫌がる顔があまりに酷かったのか、髪の毛をぐしゃぐしゃにされる。さっきまで見ていたウインドウを閉じ、店長は慣れた手付きでブックマークからサイトを開いた。

「あ、」

 画面を見ていた俺は目を丸くする。
 店長が運営している、エロゲのレビューサイトだ。

「こうしてると、昔を思い出してな」

 それは、俺たちが出会ったきっかけで。

 驚いた俺の顔を満足気に見た店長は殊の外懐かしい色をして、黒い瞳はまろみを帯びていた。

 
    ◇  ◇
 

 学園の先輩である知南風からゲームの良さを知り、じわりじわりとエロゲにハマり始めたあの頃。

 フルプライスの作品は当時の、引きこもりの俺には高嶺の花だった。それでも自堕落なりに考え、本当に欲しいものだけを買い、いつかやりたい物の目星をレビューサイトで探し欲を発散させ満足していた。
 そんなもので本当に満たされたのか、疑問に思われるかもしれないが、本当に満たされたのだ。ゲームをやるより面白い、膨大な知識とキレの良いレビューで俺を虜にさせたのが、当時大ハマりした店長のレビューサイトだった。

 もう更新自体はしていないが、俺は今でも読み返している。それくらい好きだった。

「――俺、初めて読んだ時から店長の文章の大ファンになって」

 感銘を受け、いささか衝動的だが管理人の掲示板に書き込み、そこからメールでやり取りをするようになって、それで――、

「いざ会ってみたらこんな若いとは思わなかったけどな」

 ゲームを借りる話になった時、住所が近いなら同性同士だし手渡しでいいか、という話になったのだ。

「援助交際するおっさんの気持ちになったって、言ってましたよね」

 髪もセットせず下ろしたままだったからか相当若く見えたのだと言う。あの時の呆然とした店長の顔は凄かった。肩を掴んでお前は本当に18歳か聞かれたもん。

「ふはっ、店長、しつこいくらいの年齢確認で……っはは」

 思い出し笑いをしていると、頭上から店長のため息が聞こえた。
 
「俺との年の差を考えてみろ……ヒョロガリメガネだと思ったら――とんだ金髪美少年で騙されたかと思った」
「俺だって年季の入った中年ぽよぽよおじさんかと思いきや謎のイケメンダンディーだった時の衝撃……師匠のビジュアルじゃあない」

 互いにステレオタイプも甚だしいが、兎に角想像と違いすぎて、最初の頃は困惑した物だった。

「でも、会えてよかった」

 楽しかったし、こうしてバイトにも誘ってくれて。店長のおかげだと思う。

「ふは、ししよ~」

 額を店長の腕に擦り付けグリグリと懐くと、僅かに体が揺れ、低く喉を鳴らす笑いが聞こえて来た。

「ゆゆ島はオッさんを転がすのうまいな」

 ぽす、とあやすように頭を叩かれた。
 


 
 
「あー、ほんと、あー、色々あってすんごい」

  店長のレビューサイトを見ながら俺は感嘆の息を漏らす。いつ見ても量、質共に俺の理想だ。
 
 あれがー、これがーと生産性の無いノスタルジアに浸りながら感想を伝えていたら、何か引っかかった店長が訊ねてきた。

「――ゆゆ島は、まだこれやった事なかったか」

 彼が指差しているのは、某ブランドの人気作。このレビューを見てから気になっていたものの、色々二の足を踏んでいた奴だ。
 
「そうなんっすよねえ……まだやったことない」
「そうか」

 俺の伸びた声に店長は目を細めると、おもむろに操作し、画面上に新しくあるものが表示された。

「ん~~…………えっ?」

 ぼけっと見ていた俺は急に現れたどぎついピンク色に、動きが止まり、そしてすぐに慌てて見返した。

「ててて、て、店長……っ」
「ク、ハハ」
「店長っ! ……ってそれ、」
 
 俺の反応が可笑しかったのか、店長の喉から笑い声が漏れた。だってしょうがないじゃないか! 構わず壊れたラジオみたいに連呼し詰め寄ると彼はニヤリと口角を上げ、

「――俺の御用達、やるか?」

 さっきまで話題に上がっていた抜きゲーのタイトル画面へと誘導させる様に視線を向けた。

「……店長」

 俺は画面を見つめたまま店長に問いかける。
 
「これ、抜きゲーっすよね?」
「そうだ」
「…………」
「どうした」
「……何で好き好んで男2人で抜きゲーをやらにゃあいかんのですか。――もっと普通の! 恋愛ADVとかっ、あったでしょう!」

 まだ未プレイのゲームが山ほどある事を店長は知っているのに、何でわざわざこれを選んだんだ。
 
「ほう、ゆゆ島は抜きゲーは気に食わない、と」
「そうは言ってないでしょう!」
「でも嫌なんだろう?」
「ぐぬ……、俺が引っかかってるのは、こーいうゲームは1人でシコシコやって悦に浸るもんであって今この状況で――」
「じゃあ、やめるか?」
「…………――やめるなんて誰が言いましたか。誰が。――これ、抜きなのにシナリオが良くて、しかも地味にプレ値ついてて買う踏ん切りつかなかったんですゴチになります」

 多分今、手首がバカになってるくらいに俺の手のひらはクルックルだろう。
 スッと立ち上がると、俺はガチャガチャとパイプ椅子を引っ張って来て、ゲーム画面を閉じようとした店長の手を遮り隣に座った。
 
 店長の呆れ顔? 何それおいしいの? だ。一度決めてしまえば逃げるつもりは元々無かった。場所は何処だろうとあまり関係無いし、ヤりたいエロゲをやるだけだ。


 ――さあヤるぞ!
 

 と意気込んだ、その時――、

 
「わ、」

 ブンッ、と通電する音が消え、ノートパソコンの明かりだけを残して暗闇に包まれた。

「停電か――」

 一旦ゲームを中断し、店長は電力会社のHPを確認した。そこには赤字で停電のお知らせが掲載されており、地域ごとのページをスクロールさせた先に、ここら一帯も該当することが分かった。

「――確認作業の後、復旧箇所の特定、……天候悪化で復旧までにはしばらく時間がかかる見込みです、と」

 店長が詳細を読み上げた。

「他の地域も前から停電してるっぽいですね」

 いち、じゅう、ひゃく……暗闇とディスプレイのコントラストに目が眩みながら数字を数えるとその数800戸から1000戸以上。今回は停電の被害が特に多そうだ。
 
「――あ」
 
 それを見て、俺は下で雨宿りしてた男性の事を思い出す。大丈夫だと言っていたが、彼は本当に大丈夫なのだろうか。呑気にせず、もう一度様子を見に行けば良かったか……いや、今更なんだけど。

「……店長、俺、さっき下に張り紙しに行ったら時あったじゃないですか。そんとき、一階で雨宿りしてる人がいたんですよね」
「こんな日に?」

 心配より怪しさが勝ったのか、店長は訝しんだ眼差しを向ける。

「あーはい、なんかずぶ濡れで……」
「天気が悪くなるなんざ、わかってるのにわざわざいたのか」
「多分、仕事か他のテナントに用か……じゃないっすかね。どうしよ、大丈夫かな……」
「…………。――今行こうとしたところで電気が止まってエレベーターは動かないぞ。前に来たゆゆ島のツレとかではないんだろう?」
「はい、多分知らない男の人……大丈夫だって言ってはいたんですが」
「……まあ、女性ならともかく、相手は男だろう。なんとかするはずだ」
「う、……とりあえず祈っときます」
 
 無宗教なのに、都合のいい時だけ神頼みという日本人らしさを発揮し、ケガしてませんよーに。と彼の無事を祈った。

「こっちはこっちで、本格的に電気が復旧するまで動けなくなったな」
「あはは。ですね……」

 軽く祈った後は俺たちの番だ。暗いし、エレベーターも使えないとなるとここで待機するしかない。
 こちらも軽く祈っとくかと考えていると、横で店長がゆっくりと、「となれば――」と口を開き、
 
「やるか、エロゲ」
「やりますか、エロゲ」


     ◇  ◇


 初見俺に配慮してか、店長が初めからプレイさせてくれた。俺は、嬉恥ずかし少しずつ読み進めていっているのだが――、

 エロい。抜き特化のゲーム、すごい。

 発売自体は割と前なので、動きがヌルヌルだとかそういう技術的な凄さは無いが、グラフィックとテキストの卑猥さがなんかこう――クる。
 
「ッ……、」

 初見プレイの俺は顔を赤くしながら画面に釘付けだ。さすが名作、初っ端からエッチなイベントスチルが溢れて抜きどころに困らないのが逆に困る。
 それでいて、ストーリー自体もしっかりしているもんだから日常パートもがっつり読み進めてしまう。シナリオの合間に起こるエロパートもがっつり拝み……身も蓋もない言い方だが、頭からチンコの先まで興奮して、色んな汁が溢れていた。

 あー、うん。ヤバい。

 端的に言って、とても興奮している。もぞもぞと不自然に膨らんだソコを隠してみるが、かえって挙動不審になり、俺は大人しく足を動かすのに留めた。段々硬くなってきた息子を無視し、俺はそおっと暗がりの中、店長の姿を窺ってみる。

 ――ズボンの膨らみは、無い。
 
 画面の明かりから分かる範囲だが、恐らく勃起はしていないはずだ。じりじりと、目だけ押し上げると彼の高い鼻筋は明るく、目元は暗く影を落としていた。口元の動きは変わりなく閉じられ、肘掛けに頬杖をついて画面を見つめていた。

「……」

 俺とあまりにも対照的だ。今更ながら気恥ずかしさを感じ、進めていた手を一旦止め一呼吸置く。ゲームのボイスが流れ終わり、ループしたBGMと外で荒れる風が混ざって響いた。
 
「……店長は、」
「ん?」
「あー……ん、と。あんま興奮しては、ない?」
「……そうだな。ゆゆ島程新鮮味を感じる訳でもないし、興奮より思い出に浸るというか………………――ふ、元気だな」
「う゛……」

 俺の問いに対し、店長は淡々と己の感想を述べた後、俺の股間を見て揶揄う声と共に目を眇めた。

「…………――、ゆゆ島」
 
 何か思い付いたのか、店長は顎に手を当てしばらく黙り込む。わずかに間が空いた後、彼は俺の名前を囁いた。指先を曲げ、ちょいちょい、と手招きをする。近寄れという意味なのだろうか。確認の為彼を見ると、頷かれたので俺はスス、と顔を寄せてみた。犬みたいに懐いたのが面白かったのかフ、と口元を綻ばせると俺の顎をくすぐり始め――、

「っ、……って、……店長?」
「――なあ、ゆゆ島」

 ――こう提案した。
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