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悠行

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八月十九日
私がもう少しで帰るのでおっちゃんの提案でとこ屋の看板を新しく描くことになった。
「夏の思い出だ」
  そう言って友達に電話して頼んですぐに看板になる板をその友達の軽トラックに載せて運んで来た。おっちゃんは仕事が早い。
  多分私がもう今年しかこの海辺に来ないと考えてのことだ。看板を運ぶおっちゃんの姿をぼんやりとそう思った。来年は私も高2になる。今年みたいにバイトばっかりするわけがない。塾にも行くだろう。私は今年、この海辺に逃げて来たのだ。そういう現実から。正直私は妊娠しているお母さんが怖い。お母さん、勉強、友達のいないこと。私はそういう面倒な都会から逃げて、海辺のバイトに飛び付いた・・のか。
 自己分析は嘘臭いなぁ、と思う。誰かが言ってくれればいいのに。
「とーこおねーちゃん!板来たよ!」
 セロが板を運ぶのを手伝いながら大声で叫んだ。
「ああ、うん」
 ぼんやりしていた私は気付いて運ぶのを手伝う。
  海の家の横に板を運び、おっちゃんが物置からペンキを持ってきた。
「今日は店はいいから、二人で看板を作ってくれ」
「はーい」
私に言った言葉なのに、セロが元気よく答える。
「じゃあわしはこのトラック返してくるか。留守番頼む」
「分かりました」
今度はちゃんと私が答えた。
まだ7時台で、店をあける時間ではない。朝御飯ももう済ましてある。
おっちゃんがトラックで走り去って行くのを見送り、早速私達はどんな看板にするか考えはじめた。
「真ん中にとこ屋って書いて、その左上のここにSeaSideって書くでしょ」
  指差しながら言う。
「うん」
「文字は最後に書くとして、まず背景全部塗る?白とかで」
「塗るの大変そうだね」
「まあね」
私は今掛かっているお母さんの描いた(そのあとおっちゃんが何度も塗りなおした)看板を見た。青と濃い青と白の波のような背景に赤でハイビスカスが描かれている。
「あんな風にするの?」
私が看板を見ているのに気付いてセロが聞いてきた。
「うーんとどうしようか」
 その時ふと不思議な気持ちになった。お母さんはこれを描いた時、一人で娘を産んで、育てて、またその十六年後に子供を産むことにな
る自分の将来など予想しただろうか。
「とーこおねーちゃん?」
「ああ、ごめん暑くてぼーとしちゃって」
それはだけではないが、半分は本当だ。黒い髪をまだ昇ったばかりの太陽が照りつける。パンダは目の周りだけ暑くなったりして苦しくないんだろうか。暑さは人を単純にさせる。
「ねぇペンキは?」
「さっき倉庫にあるって言ってたから持ってこようか」
「うん」
 倉庫には不用心なことにカギが閉まっていなかった。
「良かったけど駄目だね」
「だね」
 中には古い自転車や昔の看板、段ボール箱に詰まった何か、そして5個のペンキがホームセンターのビニールに入ったまま置かれていた。新しいもので、最近買ったことがうかがわれる。
「あっあった」
 色は黒、白、青、赤、緑、黄色。
「刷毛は・・」
「ここ」
 バケツに新しそうな刷毛がたくさん入っていた。
 おっちゃんは私が来てから飲み屋に行く以外、出掛けていない。野菜などは書いてFAXで送るのみの個人宅配だ。つまり私が来てからホームセンターに行く隙はない。全部新しい、と言うことは私が来る前から予想して買っていたということだ。
「おっちゃん・・・何奴」
「どうしたの?」
「いやいや、なんでもないなんでもない」
 ペンキを運んできて、またどうしようかと考え始めた。
「夏っぽいのがいいね」
「そうだね、スイカとか」
「金魚とか」
「と―こおねーちゃん描ける?」
「・・・多分」
「じゃあそれで」
「スイカはセロ、私は金魚、ね」
「背景は塗るの?」
「うーん、どうする?」
「波とか?」
「前のやつと変わらないなぁ」
「むぅ」
 考えているうちにおっちゃんが帰って来てしまった。
「何だまだ描いてないのか」
 呆れたように言われてしまった。
「思いつかなくて・・」
「適当でいい適当で」
 投げやりに言う。適当じゃ駄目だろう。私らが来る前から準備していたくせによくそんなことが言える。
「そうかなぁ」
「真剣に考えてるのに」
「ま、楽しく気楽に」
 そう言うとおっちゃんは海の家に入って行った。
「暑くなって来たね」
 手で太陽をブロックしながらセロが呟いた。
「だね・・あ」
 そう言えば今日の朝日焼け止めを塗っていないことに気付いた。
「日焼けするっ」
「どうしたの」
「日焼け止め塗ってない」
「なにそれ」
 日焼け止めを知らない?
「知ってるでしょ、日焼け止めクリーム」
「日焼け止めくりーむ・・・」
 じっと顎に手を当ててしばらく考えた後、
「知らない」
 と無機質な声で言った。
「ええ!」
「そんなに驚くことでもないよ」
「そうか・・?」
 八歳・・知ってるだろう。誰かが使ってたり塗ってくれたり、薬局なんかで売っているのを見たことがあるはずだ。
「日焼けは分かるよね」
「うん、もちろん」
「それを防止するの」
「焼けないの、それを塗ってると?」
「うん」
「でもなんで塗るの?日焼けしたっていいじゃん、むしろぼく日焼けしたい」
「えー色白がいいじゃん」
「そぉう?」
「お子様には分からぬことよ」
 そう言い捨てて私は急いで部屋に戻った。セロも何故かついてくる。部屋に入るとセロのことは気にせず洗面台の前で日焼け止めを顔、体に塗りたくった。そんな私をセロは不思議そうに見る。
「僕にも」
 そう言ってすっと腕を突き出してきた。
「焼けたくないんじゃないの」
「ぬってぬって」
仕方ないので腕だけ適当に塗ってやると、「おおお」とか言いながら喜んでいた。
「これで太陽が防げるんだね」
「正確に言うと紫外線」
「シガイセン、シガイセン!」
 良く分からない喜び方をし始めたセロを落ち着かせ、また外に出た。
「さっさとやろう」
「うん。でもと―こおねーちゃんが日焼け止めぬるとか言いだすからでしょ!」
「セロが騒ぐからだって」
「ちがーう」
 全然作業が進まない。
「それは棚に上げて」
「上げちゃダメーて言うかどこに棚があるの?」
「えーとその話は放っておいて」
「えー」
「うるさい。看板塗らなきゃ」
「ああ、そうだね」
 セロがそーだそーだ、そーだった、と頷いた。
「とりあえず白で塗ろうか」
「えー白」
「字が目立つしいいじゃん」
 いざ塗ろうという段階になって、ふとペンキってどうやって塗るんだという疑問が浮かんできた。絵具とは違う。色を変えるときどうやるんだろう。缶はどうやって開けるんだろう。閉めるんだろう。
 大体私はペンキに触れたこともないのだ。
 おっちゃんに聞こうかと思ったが、準備で忙しそうだ。話しかけるのは憚られる。
「えっと」
「どうしたの、とーこおねーちゃん」
「セロ、ペンキ使える?」
「使ったことないけど、缶になんかいろいろ書いてあるよ」
「マジで?」
「うん。まじまじ」
 見ると丁寧に使い方、他に用意するもの、注意点などが書いてある。
「親切な缶で良かった」
 良く読んでみると薄め液と言うもので刷毛のペンキを落とし、色を変えることが分かった。使い終わったらちゃんと閉めればまた一、二年は持つらしい。おっちゃんが前に使ったのは去年だと言っていたから残りがあってもいいはずなのだが、どこにあるのだろう。
 もう一度倉庫に行くと薄め液は発見した。けれど古いペンキは見つからない。だが使い方は分かったし物は揃っている。
「・・ふむ、開けるか」
 ここまで来るのだけで無駄に時間がかかってしまった。しかしそんなことには構わずセロは
「わーい」
 と喜んだ。
 開けてみたらペンキ独特のきついにおいがした。
「うわ除光液っぽい」
「じょこー?」
「マニキュア落とすやつのこと」
「まに・・ああ、爪に塗るんだね」
 なんで日焼け止めを知らないのにマニキュアは知っているんだろう?
 疑問に思ったが気にしないことにし、張り切って白で塗り始めたが、看板が大きいし慣れていないので時間がかかる。すぐにTシャツを汚してしまったし、それより早くセロは顔にペンキを飛ばした。
「取れるよね」
「洗えば取れるでしょ」
 だんだんさらに暑くなってきて、人も増えてきた。汗だくで作業する私達に声をかける人もいた。
「何してんだー?」
「看板作ってるんですー」
「おーがんばれー」
 白に塗り終わって、次は金魚とスイカだ。
「疲れた・・」
「ちょっと休もうか」
「うん」
部屋に帰って麦茶をコップに注ぎ、無言で一息に飲んだ。
「それにしても・・暑いよね」
「ね」
 そんなに休んでいるわけにもいかないのでまた作業を再開。
「スイカか・・これぐらい?」
 セロが丸を描いて見せた。
「ちいっちゃい!もっと大きく!」
 結局心配になって来たのでスイカも共同作業。
「ええー大き過ぎ」 
「いいのこれぐらいで。塗って塗って」
 縞模様をセロが描いて、スイカは完成。
「おおっ」
「この勢いで金魚行くよ」
 金魚はまず輪郭が難しかった。楕円を描いて、ヒレを描く。
「ねぇ、ヒレってどんな漢字?」
「ヒレ・・どんな字だっけ」
「知らないの?」
「うん」
 金魚のヒレ・・昔飼っていたけど、どんなんだったか。
「こんなん?」
「ええー」
「じゃあセロ描いてよ」
「うん」
 するする、とセロが私の描いた体にヒレをつけた。
「なんかちっっさい」
「ちっさいちっさいばっかだね」
 とりあえずひらひらっとさせておいたらそれっぽくなったが、どっちかって言うと、
「タイみたいだね」
 セロがぼそりと言った。
全体を赤く塗って目を描いて、金魚完成。
「・・水草も描こう」
「おー」
 線書いて、葉っぱをちょびちょびとつける。
「どう?」
「いいね」
 水草も完成。その頃ちょうど昼ぐらいになったのでお昼ご飯を食べることにした。
「おっちゃーん」
 セロが呼びかけるとこっとに振り返った。おっちゃんは急がしそうに焼きそばを焼いている。
「おう、どうだ調子は」
「いい感じだよ、ね、セロ」
「うん」
 いつも二人でも忙しいのに一人じゃさぞ忙しかろう。
「昼ご飯は・・」
「今は無理だ」
 焼きそばをひっくり返しながら即答される。しかしお腹が空いてしまった。
「作ってもいいですか」
 その言葉におっちゃんはさっと振り返った。
「なにを?」
「・・素麺とか、ですけど」
「素麺か・・老人の体に優しいな」
「素麺ありますか?」
「あるある。お中元のやつが冷蔵庫に」
 素麺って冷蔵庫に入れるものだったろうか。
「作っていいですか」
「ああ」
 ちなみに私は今は焼きそばが作れるようになったが、その他は素麺と冷凍食品とレトルト食品しか作れない。
 台所でキュウリを切ってうす焼きにならなかった卵を細めに切って(だがだいぶ分厚い)、茹でた麺を容器に盛って・・
「完成」
「わーい」
 セロは嬉しそうに食べていたが、実は茹で時間が足りなかったらしく、固かった。おっちゃんは何も言わず、「おいしい」ではなく「ありがとうな」とだけ言った。・・女子としてこれでいいのだろうか。
 ご飯を食べ終わって復活した私達は作業を再開した。
「あとは字だけだね」
「うん」
 黒いペンキでまず私が「SEASIDE」と上の方に書いた。
「あとはとこ屋、かあ」
「オオヅメだね」
 とこ、をセロが、屋、を私が書くことにし、真剣に書き始めた。
「と、出来た」
とセロが言った時、私は屋、の至るの上の一本目を描いた所だった。
「おお」
「次はこ、だね」
「頑張れ」
 私が屋、を完成させた時、ちょうどセロもこ、を書き終わった。
「・・ということは、」
「完成だぁー!」
 セロが叫んで二人で喜びあう。私達はかなり浮いていた。

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