しかちゃん

悠行

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しかちゃん

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しかちゃん


 どこかに出かけていた叔父が函館から帰って来られなくなったと聞いたのは春休みに入ってすぐの日の早朝のことだった。どうやら財布を落としたらしい。
「小百合暇でしょう?迎えに行ってあげて」
 母は受話器片手に何でもないことのように言った。私は電話を替わった。
「しかちゃんか?」
 叔父の声は落ち着いていた。
「大丈夫なの?」
「いや、一晩中財布を探して歩いたから寒くて死にそうだ。今は駅にいるけど、金が無くて帰れなくてな」
 いつも通り情けない叔父の声を聴くと、行ってやるかと言う気持ちになった。
「迎えに行ってあげるよ、そこで待っててね」
「本当か。ありがとう」
 私は身支度を整えて、すぐ駅に向かい、札幌駅から函館行きの特急電車に飛び乗った。

 早朝だったからかすんなり座れた。寝起きで眠かったのでうつらうつらしながら外をぼんやりと眺める。
 札幌はそんなに雪は降っていなかったのに、離れると雪が降り始めた。雪が窓ガラスに当たっては砕けて溶けた。
 叔父は私の両親と同じ家で一緒に暮らしており、漫画家の端くれみたいなことをしている。家にお金はぼそぼそと入れているようだが、そこまで稼ぎも無いので家を出ることは今後無いだろう。
 自分の実家にもよく似た、家たちが、ミニチュアみたいに並んでいる。こういう風景も、あまり東京では見ない。北海道の景色は、他とはずいぶん違うものなのだと気付いたのは最近だ。私は現在実家を出て東京の大学で勉強している。今は春休みなので、ちょうど帰省していた。しかしサークルの合宿もあるしあと三日ほどでまた東京に戻るつもりだ。
 ふと隣の席のおばさんは、叔父と同じくらいの年かもしれないと思った。しかし叔父の何倍もちゃんとした人に見える。
 叔父はよく一人で飲みに行ったりパチンコに行ったりする。大学時代は祖父に相当な額借金する羽目になったりしたこともあったそうだが、今はそんなこともあまりなく、祖父も七年程前に亡くなってしまった。一人でふらっとどこかに行ってしまうので、もしかしたら誰かと会っているのかもしれないが、確かめたことは無い。このように函館まで行っていることがあるとは驚きであった。
 叔父は大学が函館だったそうである。大学までちゃんと出たのにも拘らず、その後叔父はどうしてかすぐに仕事を辞めてしまって、今の仕事にたどり着いた。昔から絵をかくのが好きだったらしいが、べつに漫画もものすごく流行るということも無く、コンビニで安く売っている実録漫画やらエロ漫画やらを描いてつなげている。
 どうしてそんな風になってしまったのか、と母はたまに嘆く。母にとって叔父は弟であるのだが、昔から活気は無かったけれど、勉強などはちゃんとやっていたし、いい仕事に着くと思っていた、らしい。父は叔父と高校、大学の先輩後輩の関係だったので叔父を母と出会う前から知っていたそうだが、母がそう嘆いていても何も言わない。
 叔父の描いた漫画は、あまり読んだことが無い。叔父が大した漫画じゃないからとわざわざ見せないからでもあるが、実のところ叔父の漫画を読むと何故だか違和感があるからでもあった。実録漫画、といっても他人のおもしろ話や恋愛話を描いているので叔父の実録ではないのだが、叔父にしては明るすぎる、と言うように感じた。
 実録漫画のキャラクターは大体五頭身くらいで、かわいい感じだ。私は叔父が昔描いた、もっとリアルに人間を描いた作品を一度だけ読んだことがある。それは昔叔父が漫画雑誌に投稿した作品で、本棚にあるのを偶然見つけたのだ。ペンネームが叔父のものだった。幼い私にはよく分からなかったが、これは叔父の作品だ、となぜか思った。暑い夏の話だったのに、主人公たちはただひたすら暗かった。
 ほとんど台詞は無く、絵で語っていた。講評に、「キャラクターや見せ方は良い。しかし暗すぎて読者はついていけないでしょう」というようなことが書いてあった。そこに蛍光ペンが引いてあったことも覚えている。
 蛍光ペンにだけ、私は少し意外に感じた。それを読んでいると叔父に見つかって、
「こんなもの面白くないだろう」
と取り上げられた。その後見つけられなかったから、隠してしまったか、捨てたかしたのだろう。
 私は昔から、叔父によく懐いていた。絵を書くのが上手な叔父は、私によくサンリオのキャラクターや、ポケモンの絵を描いてくれた。また私が好きだからと鹿の絵もたくさん描いてくれた。
 外の景色は自然が多くなってきている。東京の友達が、北海道に修学旅行に来たときに鹿を見たと言っていた。どこで、と聞いたが友達は地名が答えられなかった。
 初めて叔父と会ったのは、私が幼稚園に通っていた時のことだった。いや、実際はそれまでも会っていたはずなので、私が初めて叔父を認識したのがその時だというだけである。覚えているのはビデオカメラかなんかが残っていてそれを見たからかもしれない。うちは一人っ子だからか、やたらビデオを回し、撮りたがった。叔父はその頃は何回も就職と離職を繰り返していて、どこかで誰かと一緒に住んでいたらしい。
 私の幼稚園のお遊戯会を、叔父は私の両親達と共に観に来たのであった。その劇は動物たちがたくさん出てくるものだった。内容自体はほとんど覚えていないのだけれど、私が鹿の役だったことは覚えている。うさぎやきつね、りすなどの何種類か動物の役があり、各四人くらいが当たることになっていた。役を決める時、私が「鹿をやりたい人―?」と問われたときにすぐさま張り切って手を挙げたのに、他にやりたい子はあまりおらずすぐ決まった。
 私は小さい頃から、動物の中では鹿が一等好きだった。バンビを見た時になんてかわいいんだろうと思ったのが始まりで、小さい頃の持ち物は鹿がとても多く、ぬいぐるみも持っていた。
 鹿の役と言っても他の動物との違いは被り物についている耳と角の違いだけであったが、私は嬉しかったし、劇が終わってからも一日中被り物を付けていた。
 劇が終わってから私を迎えた両親がどう言ったのかは覚えていないが、叔父を見て背の高い人だと思ったのは覚えている。父より少し背が高かったので、そう思ったのだろう。
 多分それより前にも会ったことがあったからなのか、母から聞いていたからなのか、私はその人が自分の叔父であるということはなんとなく知っていた。和馬という名前の叔父だ、と思った。
「大きくなったなぁ」
「そりゃあそうよ、あんたが前にこの子を見たのは……いつだったかしら」
 母がそんなことを言っていたのは覚えている。
 叔父はかがんで私の頭を撫でた。思い出してみれば私は頭を撫でられたということがあまりなく、貴重な一回だった。
「鹿の役、上手だったなぁ」
 私はそれを言われて得意に思った。それは鮮明に覚えている。
「しかがね、すきなの」
 私はそれを何故か大きな声で言った。
「そうか、じゃあしかちゃんだな」
 叔父が本名の小百合とは全く関係ない名前で私のことを呼ぶのはそのせいで、それは今でもそうである。もしかしたらビデオではなくて、叔父が何回かこの話を私にしたから覚えているのだろうか。
 この「しかちゃん」という呼び名を、私は気に入っていた。これは叔父とは話したことが無いけれど、母の名前である由里に「小」をつけて小百合、という名前が幼心ながら嫌だったからかもしれない。叔父も祖父の名前から一字もらっているので、そういうのがうちの家は好きなのかもしれないし、この名前は画数だかなんだかで名字にとても合っているそうだけれど、やめて欲しかった。叔父も同じように思っていたのかもしれない。
後々から聞いた話によると、母が私を身ごもった辺りから家に寄り付かなくなったそうだから、私が生まれるということが叔父にとって好ましくないことだったのかもしれない。それを私が聞いたのは大分後になってからだったが、それを母から聞いたとき、私は悲しい気分になった。

 気づいたら眠っていた、持っていた手袋が下に落ちている。札幌駅で隣に座ったはずのおばさんはいなくなっていた。私は買っておいたお茶を一口飲んだ。
 あまりに乗っている時間が長いので、私は持ってきたゲームをして時間をつぶした。
 雪はどんどんひどくなっていった。向こうに山が見えたが、霞んでいる。ここがどの駅とどの駅の間かすら分からない。
 ゲームを黙々としながら、叔父のことを考える。私は叔父のことが好きだった。叔父は就職もちゃんと出来ず四十過ぎても実家にいるようなダメ人間であると言えばそうなのだが、私にとっては一番の理解者であった。
 小さい頃からそうであったわけではない。小さい頃叔父に懐いていたのは絵を上手く描いてくれる優しい叔父だったからに過ぎない。叔父は一緒によく近場まで散歩し、私にコンビニでジュースを買ってくれた。そして家では母に禁止されている煙草を吸うのであった。大学に入ってから、サークルだロックフェスだと休みになるたび遊んでいたせいで冬休みまで一度も実家に帰らなかったので、最近はしていないが、高校生までよくしていた。
 私が叔父に親近感を覚え始めたのは、6年生くらいの頃であろうか。祖父が突然死んでしまったのがきっかけだ。
 いつ頃からだったか叔父は私達と一緒に住んでいて、両親と祖父、叔父、そして私の五人でずっと暮らしていた。祖父は母方の祖父で、父がうちの家に入ったということになる。祖母はもっと昔、私が生まれる前に病気で亡くなってしまったらしく、私は写真でしか知らなかった。
祖父はとても元気で、死ぬ少し前まで町内会などで活躍していた。頑固者で旧時代的な考えの祖父は、よく叔父を叱り、苦言を呈していたが、どこか諦念してもいたのだろう。なんとなく我が家はうまくいっていた。祖父は私をかわいがってくれていたし、私も祖父が好きだった。
 祖父が死んだときに、私は自分の中に幼い頃からあった疑問のようなものが、ぶわっと噴出してきたのを感じた。
 棺の中で冷たくなった祖父を触った時に感じたのは、恐怖以外の何物でもなかった。その冷たさは、台所で触った魚や、冬場の冷え切ったフライパンの冷たさを思い出させた。悲しくて悲しくて仕方が無かった。祖父が人間から物になってしまったのだと感じた。
 自分もいつか死ぬのだろう。いつか、どこかで。しかし私にとって大事だったのは、死ぬということではなく、ならばなぜ自分が生きているのかということだった。
 私は母にその疑問をぶつけたが、なぐさめてくれただけだった。それは祖父の死に傷ついた子供への哀れみでしかなかった。父は困った顔をして、会社に行った。
 一人自室で漫画を描いていた叔父に、私はそれを聞くつもりはなかった。私はその疑問を、小さい頃から温め続けていたし、正直なところ母と父に聞いたのは失敗だったと思っていたからだ。これ以上、自分の大事な何かを無闇にさらけ出すのは控えたい、とこのように大げさに思っていたわけではないが、似たようなことは考えていたと思う。今も大体この問題については同じように考えているからだ。
 叔父のところへ行ったのは、いつも通り邪魔しに行っただけだった。叔父の部屋は子供の時から引っ越していないせいで、いろんなものが雑多に置いてあるので面白かったのだ。ウルトラマンのソフビ人形や懐かしい王冠のたくさん入った缶、昔のジャンプなど、飽きることは無かった。私の顔を見て来たか、というような顔をした叔父は、向こうからパチンコでとってきたお菓子を投げて寄越した。
「今日は学校に行ったのか」
 しばらく葬式などで小学校に登校していなかったからか、叔父はそう聞いた。
「うん」
 母がパートでよく家を抜けるので、家に帰って来ると母は家にいないことが多かったし、そのときもそうだった。しかしそれまでは叔父以外に、祖父がいた。それを感じて、私はふいにとんでもなく寂しくなったのを覚えている。泣いてしまう、と私は思った。でも私はそれまでに何度も泣いていて、泣く行為自体に疲れていた。思い出した悲しみを無理やり忘れようと、叔父のくれたお菓子をむしゃむしゃと食べた。
「あの人は」
 と、唐突に叔父は言った。
「どこへ行ったんだと思う」
 あの人というのが祖父のことだというのはすぐに分かったが、何故叔父がそれを私に聞くのかが分からなかった。それに、その答えも。
「分からない」
 私は素直に言った。そう答えた私を見て叔父はふん、と何を考えたようだった。
「俺も分からない。どこへ行くんだろうな、人は」
「叔父さんは、天国があると思う?」
 私の中で二番目に重大な疑問であった。
「昔はな、そういう世界が確実にあると思っていた」
「昔は……ってことは今は思っていないの」
 私は悲しくなって聞いた。
「いや、そういうわけではない。より分からなくなってしまっただけだ」
 叔父は私と二十以上年が離れている。なのに同じように悩んでいるということに驚いた。そして絶望した。
「叔父さんの年になっても分からないの」
「分からないさ」
 叔父は何でもないことのように答えた。
「でも生きる意味は分かったぞ」
「えっ」
 それこそ私の最大の悩み、その答えを叔父は知っているというのか。
「なんなの」
「なんだと思う」
 叔父の顔は笑っていた。私の反応にいちいち何でも叔父は笑う。私は今まで考えた様々な理由を出して考えてみた。しかし、どれもはずれのように思えた。
「分からない、教えてよ」
「そうは簡単には教えられん」
「なんで」
「なんでだと思う」
「意地悪だから」
 私は叔父を睨みつけていた。
「眉間にしわが寄ってるぞ。……違う、ずっと考えて来たからさ、教えるのは惜しいだけだ」
「えええ、やっぱり意地悪なだけじゃないか」
 私は駄々をこねたが、叔父は結局教えてくれなかった。
「いつかお前も分かるだろう」
 ということしか言わないのだった。しかし私は安心したのだ、今は分からなくても、生きていれば分かるのなら大丈夫だと思えたからだ。
 その時のように、叔父は自分と大抵同じような悩みがあるのであった。そしてその答えを知っているということを、聞いてもいないのに最適なタイミングで教えてくる。
 中学生で美術部に入った時も、大学受験の時も、時に劣等感を持ち時に迷う私に、叔父はいつか分かるさと笑うのである。
 なにより、最も重大な謎の答えを知るものとして、私は叔父を信頼していた。
 大きな雪が窓ガラスにぶつかってくる。そんなものをぼんやりと何度も眺めていると、電車はついに函館駅に着いた。
 叔父のことを私は信頼していたし、叔父は私のことを良く知っているけれど、私は叔父が函館に来たりしていることすら知らなかった。よく考えてみれば、私は叔父のことを何も知らない。
 電車を降りると函館という看板がある。ひどく寒い。私は急いでホームから部屋のような場所に移動する。
 改札を出ると、探す間もなく、声が聞こえた。
「しかちゃん」
 改札を出たところに、コートに手を突っ込んだ叔父が立っていた。

「なんで函館に?」
「いや、ふらっと来ようと思って、夜には帰るつもりだったんだ」
 母からもらったお金で昼食を食べようと適当な店に入った私達は、海鮮丼を食べようとしていた。姉貴の金なら贅沢しよう、と叔父が言ったのだ。
 函館には今まで家族で来たことも何度かあったし、特に見たいものはなかった。昼食を食べたら帰ろう、ということになっていた。
「叔父さんは大学が函館だったんでしょ、その友達にでも会いに来たの?」
「いや、俺は友達と言えるような奴はほとんどいなかったし、なんならみんな函館にはいないなぁ」
 益々何故一人で函館に来たのか分からなくなる。
「これ、おいしいな」
 叔父は海鮮丼をかきこみながら言った。
「そうだね」
 何となく聞けずに、私は同じように海鮮丼をかきこんだ。
 その後結局お土産屋さんで美味しそうなお菓子を買ってすぐに、私と叔父は早々とさっきまで私が乗っていた電車に乗り込んだ。自由席だったが座れた。
「座れてよかったなあ」
 叔父は呑気にそう言った。電車は発車するまでまだ少し時間があった。またこれから長時間かとうんざりする。
「暇だなぁ」
「本でも読んでれば」
「持ってないな」
 叔父は特に暇をつぶす道具を持っていないと言う。
「叔父さん昨日ここまで電車で来たんでしょ、その時はどうしてたの」
「昔のことを思い出してたな」
「昔?」
「そう、昔。ほら、例えば俺と孝則さんが同じ大学なのは知ってるだろ、そのこととかな」
 孝則というのは私の父のことだ。
「例えば?」
「そうだな、暇だから聞いてくれるか」
 そして叔父の長い昔話が始まったのである。

「俺が孝則さんと出会ったのは高校時代だ。高校の頃、俺は漫研に入っていた。孝則さんは一年先輩で、入部したら部室にいたんだが、孝則さんは別に漫研部員じゃなかった。漫研に置いてある漫画を読みに来ているだけだったんだ。
 孝則さんは俺が描いていた漫画を面白いと言ってくれた。ちなみにその漫画っていうのは男が主人公で、かわいい女の子が出てきて、みたいなその頃よくあるような話だった。でも褒められて俺は嬉しかった。それなりにだけどな。俺は絵を描くのが何となく好きで描いていたけれど、別に漫画家になるつもりなんかなかったし、運動や他のことが嫌いだったから入っていただけで、そこまでの熱意があったわけじゃなかった」
 初めて聞いた話だった。正直、私は叔父が漫画家になるつもりが無かったという部分に驚いていた。
「孝則とはなんとなく部活に行けば会うだけの関係だったけど、一緒に帰ったりして、いい人なんだなってことが分かった。俺は昔から人から変だと言われていて、それで悩んだりもしていたが、孝則といるとあんまりその辺のことは気にしないでいいような気がしていた。孝則も変なやつだった。ギターを弾いて後輩の失恋をよく慰めてた……ああ、その後輩は俺じゃなかったけど」
 電車が発車した。叔父はシートに深く座り直して、話し続ける。目は前をぼんやりと見つめていた。いつの間にか孝則「さん」が抜けている。家ではいつも「孝則さん」と呼んでいるが、元々は孝則、と呼び捨てていたのだろうか。
「そもそも……俺が変だったのは、昔からだったけど、よく言われるのは無気力だということだった。それは実際そうだったと思う。それには原因があった。昔しかちゃんとも話したことがあったと思うが、なんで生きているのか分からないっていうことが俺にとって重要な問題だったからだ。それが自分の中で大きな問題になり過ぎて、考え過ぎて他のことはどうでも良かったんだ。馬鹿だろう。
 その問題について考え始めたのは6歳だかの誕生日だったと思う。その年、親父の親父……つまりしかちゃんのひいおじいさんだな、がやってた事業が不調でうちもすごい貧乏だった時があったんだ。その年、本当にうちは家を売ろうかと言うぐらいだったんだが、そのせいで俺と姉貴の誕生日も祝うのがままならないくらいだった。でも不憫に思った母親が、俺に聞いたんだ、ケーキか、プレゼントどっちが良い、って。俺は迷わずプレゼントを選んだ。それはまだ俺の部屋にあるんだが、ウルトラマンの人形だったよ。なんでそっちが良かったかって、そりゃあ残るからだった。ケーキは食べたらそれで終わりだし、きっと姉貴に半分くらいとられるしな。
 その人形で遊んでて思ったんだ。でもどうせいつかこれも失ってしまうんだ、って。ちょっとケーキも惜しかったから考えていたんだよ。なくすかもしれないし、ボロボロになるかもしれない。ああ、でもどちらにせよ、無くなるんだなぁと気付いてしまったんだよ。永遠に俺はこれで遊んでいられるわけじゃないと。
 そう気づくと、全てのおもちゃも食べ物も、いつかなくなるのになぜ意味があるんだって考え始めた。そうすると、俺自身もなんで存在するのか分からなくなった。ここまで高尚な風に考えて言語化出来ていたわけではないが、ほとんど同じように考えていたんだ。すべての植物も人類も、例え偉人になって後世に何か残したとしても、その後世もいつか死ぬ。なのになんで生存しているんだろうかと。
 別にそれで死にたくなったわけじゃなかったが、意味のない労働をしているみたいな気分だった。高校生、果ては大学生くらいまで、俺はその疑問に支配されることになった。死のうかと考えたこともある。俺が死ななかった理由は三つある。一つ目は単純に痛いのが怖かったからだ。二つ目は母親だ。俺は母さんのことが好きだったし、悲しませるようなことはしてはいけないと思った。勉強やらを人並み程度にこなしていたのは、母さんへの義務感だったな。そして三つめは、漫画だ」
「漫画?」
 叔父の思想は暗すぎるような気もしたが、分からなくは無かったので黙って聞いていた。しかし急に出てきた単語に驚いて話を遮ってしまった。
「ああ、漫画。俺は当時少年誌を読んでいたんだが、その続きが気になるから死ねなかった。来月号を読むために死ぬのを先延ばしにしていたんだ。漫画を読んでいる間はわくわくした。生きる理由について少し忘れられたし、登場人物たちはその理由を知っているように見えたしな」
 叔父が今でもジャンプとマガジンを買っているのは知っていた。私は実家を出るまでずっと叔父からジャンプを借りて読んでいた。ワンピースもナルトもバクマンも、私は連載を読んでいた。叔父は今マガジンの方がお気に入りらしい。居間にいる時も叔父は会話に入らず漫画を開いていることが多いからで、最近はそれがマガジンだった。他にも叔父は花とゆめなんかを買っていることがあったが、それは本人が読みたいというのと、私への叔父なりの情操教育らしかった。
 そんな姿を見ていたので、叔父は漫画が好きなんだなぁとは思っていたけれども、それを生きる理由にするほどだとは思っていなかった。
その時ちょうど電車が駅に着いた。
「ああ。ここ、俺の大学がある場所だ。よく降りた、懐かしいな。知っているとは思うけど、孝則さんと俺は大学も同じだった。これは偶然だったけど、俺は結構嬉しかったよ。
 高校の話に少し戻るけど、漫画が好きだったから何となく描くようになったけど、俺は熱意とかがあったわけじゃなかった。でも孝則と面白い漫画について話したり、こんなのを描いてくれと言われて描いたら喜んでくれるのが嬉しかった。孝則は明るい人で、なんでも、俺の暗い考えとかもそう深く考えるなって、とか軽く流すような人だったけど、それを他の人に言ったりしなかったし、きっと理解はしてくれていないんだろうけど、受け入れてくれていると感じていた。だから俺は孝則とまた同じ大学で喜んだ」
 父と叔父が家であまり話しているのは見たことが無かった。しかしこの二人の仲は思ったより深かったのか。
 そういえば、昔嫌なニュースがあった。私が小学校中学年くらいの頃に、同じくらいの年の女の子がちょうど叔父にあたる人に暴行を与えられたとかで事件になったのだ。その時、居間で両親が話しているのが聞こえたのである。
『うちは大丈夫よねぇ』『和馬は絶対に大丈夫だ』
 父は家族のことを呼び捨てにする。母を由里、その弟である叔父を和馬、私を小百合と。
 母は弟である叔父のことが、分からないらしかった。母は祖父の影響か非常に体裁と言うものを気にする人で、体裁で物を計るところがある。叔父はとても体裁が悪いだろう。母はそんな叔父に懐いている私が少し気に入らないこともあるようだったのだ。
 しかしそんな母に父は強く大丈夫だと言った。私はその時、少し意外だと思ったのだ。
「大学に進学したのは、母さんがそれを望んだからだ。俺はいずれ死んでしまう存在を喜ばせることにあんまり意味は感じなかったけど、母さんは別だった。こんな俺でも育ててくれたし、好きだったから」
 それを聞いて私は少し年数を数えなくてはならなかった。祖母は私の生まれる前に亡くなっている。病にかかり急死したのだ。
「そう、母は俺が大学に入る前に亡くなった。高校二年生の時だった。でも母が望んでいたし、他に特に選択肢も無かったからうちの大学を選んだんだ。あの大学に行けたらかしこいわ。それが母の口癖だった。そしたらあんたのこと、今以上に母さんの誇りに思うでしょうね。母さんの兄がその大学に行きたかったとかで、母さんにとってうちの大学は特別だったんだ。だから努力して入った。きっと喜ぶだろうって思ったんだ。天国があるかは今でも分からないが」
 叔父がそんな理由で大学を選んだとは知らなかった。東京で遊びたいと大学を選んだ自分を恥じた。
 雪は相変わらずひどいままだ。窓に打ち付けられる雪のせいでまだ昼なのにもかかわらず車内が反射して見える。通路を挟んで叔父の横に座るサラリーマンが大口を開けて眠っていた。電車がまた止まった。
「この辺にも大学時代よく遊びに来た。春だったろうか、俺がこっちにきて二度目の春、孝則さんとも来たことがある。……俺は孝則さんに好きだと言った」
 私は突然の衝撃の告白に固まってしまった。そんな私を見て叔父はとりなすように言った。
「いや、変な意味じゃなかったんだ。本当に。でも俺は本当に孝則さんが好きだった。さっき母親を喜ばせたかったって言ったけど、母がいなくなった後、喜んだ顔を見て安心できるのなんて孝則しかいなかった。俺のことを理解とまではいけなくても、最も受け入れてくれるのは孝則だけだと思ったんだ。まぁ、孝則は誤解して、俺の事ゲイだと思ってるみたいだが」
 そうなると、先ほどの話も少し変わってくる。父は叔父のことをゲイだと思っていたから大丈夫だと言ったのかもしれない。同じ家で住んでいても、関係性は分からないものだ。私は複雑な気分になった。
「それでもいまだに俺と住んでるんだから凄いよな。優しいんだ。あの人は。俺は女が好きだしあの家に住んでいなかったときは大抵女と住んでいたけど、孝則はカモフラージュだと思っていたらしい。まぁそれでも孝則は俺と仲良くしてくれて、ほら、孝則は実家がかなり遠いから、札幌に来るときにうちに泊まることが度々あって、それで姉貴……しかちゃんの母親ってことだけど、それと出会ってなーんかいい雰囲気になっちゃって、結婚したんだよな」
 話がどんどん進み過ぎて私は混乱した。
「え、ええ。そういうことだったんだ」
 断片的な知識はあったけども、叔父がきっかけで二人が知り合ったとは知らなかった。私は今聞いた話を反芻しつつ、整理しようとする。そんな私を見て叔父は笑った。
「ごめん。一気に話して。俺も昨日からずっと起きてたし、疲れたし少し寝るわ」
 そういうと混乱したままの私を残して睡眠体勢に入った。

 私も気づいたら眠ってしまっていた。電車の中と言うのはどうしてこうも眠くなるのだろう。電車のアナウンスが聞こえるが、寝ぼけているのでよく聞き取れない。今どこだろうか、もうすぐ札幌だろうか、しかしあまり地名も頭に入っていないので分からない。気になって起き、隣を見ると叔父も起きていて、私の方を見ていた。
「起きたか。なんか雪だかで少し遅れが生じてるらしいぞ」
「そうなんだ」
 私はまばたきをした。よく眠ったからかすっきりしていた。
「叔父さん、さっきの話の続き、してよ」
「続きも何も……そんなに聞きたい話か? さっきも長々と話しすぎたかなぁと思ったんだが」
「いや、面白かったよ」
 私は叔父について、家族について、何も知らなかっらんだなと思い知らされた。そしてそれを知れたことが少し嬉しかったのだ。
「ふうん。そうか」
 叔父はまた正面を向いて少し考えてから続けた。
「そうだな、じゃあお前が生まれたところから話をするか」
「うん」
 叔父はいつの間にか車内販売でお茶を買っていたようだった。一口飲んで話始めた。
「正直なところ、孝則と姉貴の結婚は嬉しかったけど、子供が生まれるってなると、近づきにくいなと思っていた。だから病院には顔を見に行ったけど、ほとんど実家に寄り付かなくなっていた。次にお前のことをまともに見たのは、三歳くらいの時のお遊戯会だった」
「ああ、私もそれ覚えてる」
「それまでは見た時も小さすぎてよく分からなかった。会話らしいことも出来なかったしな。でもお遊戯会のあと出て来て鹿が好きだと笑った時、なんて可愛い生き物だと俺は感動したんだ」
 そこまで言われると恥ずかしくなる。
「特別だと思った。それで、このしかちゃんが生まれたのはなんとなく俺が生きていて、その成り行きで孝則と姉貴が結婚したからだろう、そう思うと俺の今までの人生にも意味があるような気がした」
「そこまで……?」
「そう。そこまで」
「それが理由なの、生きている理由って」
「いや、その時に気付いたんだ。うまく言えないんだけれど、他の人間が本能的に知っていることを、何となく理解できたような気がした。生きている意味など、いるのかと」
 私にはあまり理解出来なかった。
「それまでももちろん何度も考えたことがあった。生きている理由、その理由がないと生きていてはいけないのかと。でも俺には理由が必要だったんだ。今でも自分が生きるのには理由がいる。でもしかちゃんにはその理由がいるとは思えなかった。生きているだけで素晴らしいことだと思ったんだ」
「いまいちよく分からないんだけど」
「まぁいいさ。それでな、さらにいいことがあったんだ」
 外を見ると雪は止んでいた。よく乗るために見慣れた街並みがちゃんと見えた。
「お前が四年生の時のことだ。覚えているか」
「え、いや?」
 言われても何も思い当たる節も無かった。
「忘れているかもな。作文の課題だったかで、私の家族、みたいなテーマだったんだ。いつもは授業参観に行っていたのは姉貴だったけど、その時俺が行けと言われたんだ」
 そこは少し覚えているような気がした。叔父と小学校から帰った覚えがあったのだ。他の子は叔父が来るなんてことはないから、私はちょっと誇らしかった。あなた達にはいないけど、私にはおじさんがいるんだよ、と言う気分。
「何度も何度も読んだ。お前に作文をもらってな。一緒に絵を描いてくれて、ずっとお話聞いてくれて。だから俺のことが好きだと。自慢の叔父だと言ったんだ」
「言ったかなぁ」
「いまだに部屋に作文がある。とにかく、俺は嬉しくてしかたが無かった。しかちゃんにそう思われているってことが、俺にとってとても大事なことだったんだ。俺はしかちゃんみたいな歳の子供との話し方とかよく分からなかったから、本当に思うままに接していたし、それでも家族の中で俺を選んで書いてくれたってことに、この子は小さいけど俺のことを理解してくれている、と思った。こんな歳で、情けないけどさ」
 自分の幼い頃についてはよく覚えていない。でも叔父がそのようにまで思っていたとは。
 札幌駅に着いた。私と叔父は電車を降りた。ここからは地下鉄に乗るのである。いつもはICカードを使って乗るが、叔父が券を買えないので地下鉄の駅で立ち止まった。
 しかし、叔父はぐんぐん進んでいく。おもむろに懐から切符を出した。
「なにそれ」
「土日限定の切符だ」
「行きの時に買ったの」
「ああ、うん」
 私はそこで不思議に思った。そうだ、叔父はどこへ行くにも乗車券などは買える分は先に買っておくし、それを財布には入れずポケットに突っ込む。なぜ覚えているかと言えば、私もそうするからだ。
「叔父さん、JRの帰りの乗車券は、落としたの」
「買わなかった」
「ふうん」
 まぁ、そういうこともあるかもしれない、と思いながら改札を通り抜けた。
「さすがにしかちゃんは騙せないな」
 叔父はひっそりと笑った。
「でも車内販売で買っている時点で気づくべきじゃないか?」
 叔父はそう言いながら財布を取りだした。

「えっと、どういうこと?」
 私はびっくりして言った。
「持ってたの? なんで失くしたなんて言ったの」
 憤りは感じなかったが、ただただ茫然とした。なんで叔父はそんなことをしてまで私を函館まで呼んだのか。函館では何もしていないに等しいし。
「ごめんな。試したくなったんだ。未だに俺は子供なんだ」
地下鉄が揺れる。立っていたのでふらついた。
「大学生まで成長して、帰って来なくなって、しかちゃんが変わってしまったんじゃないかと思った。置いて行かれるっていう言い方はあれだけど、精神的な意味でも置いて行かれたんじゃないかって思った。馬鹿だろう」
「馬鹿だね」
「覚えていないかもしれないけど、似たようなことが昔あったんだ」
 それには少し覚えがあった。ひどい土砂降りなのに傘を持っていなくて帰れなくなった叔父を、私が迎えに行ったのだ。その時の私と来たら、レインコートに長靴、傘と重装備で、叔父が面白がって家に帰って来てから写真を撮った。
「さすがに覚えてるよ、それ私が高校生くらいの事でしょ」
「そんなに昔でもなかったか。でももっと昔、姉貴は迎えに来てくれなくてなぁ。びしょ濡れで帰ったぞ」
「お母さんはそういうところある。あの人は濡れても気にしないから、他の人もそうだと思っているんだよ」
「なるほど、そうだったのか」
 叔父は得心したというように頷いた。母も叔父のことを理解していないが、叔父も母のことを理解していないのかもしれない。
「じゃあそんなに傷つく必要も無かったわけだ……でも迎えに来てくれて、嬉しかった。それに今日は」
「それに?」
「一緒にただ電車に乗ってるだけで、なんとなく楽しかった」
 私は今までで初めて、叔父のことを心底馬鹿だと思った。
「叔父さん馬鹿だね」
「ああ、知ってる」
「まぁ、わざわざ迎えに言った私も馬鹿だけど」
「馬鹿二人か」
 叔父はなぜか満足そうに笑いながら言った。そういえば昔祖父が私と叔父の笑った時の目が似ていると言っていたのを思い出す。二人で変なことを言って馬鹿みたいに笑っている時、お前らはそっくりだ、と。
「馬鹿二人だよ」
 最初は苦笑していたはずなのに、なにか妙におかしくなり、二人で笑った。
地下鉄の駅を降りると、雪は止んでいた。
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