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最終章 『歩いてきた道程を』
102.『生きる』
しおりを挟む広い草原を歩く。
遮るもののない風は、ひたすらにまっすぐ俺の頬を撫でた。
住んでいた期間はさして長くもないが、思い出の多い街だ。
本当だったら、この辺にアレがあって、あの辺にコレが見えて――みたいな感傷に浸るところではあるが、街の名残が何ひとつ残ってないとなっちゃ、その材料すらない。
見えるのはどこまでも草、丘。それから、それらの緑を埋め尽くすほどに横たわる大勢の街民――難民たちの姿だ。
地面にひしめき合う彼らの隙間を縫って、俺はゆっくりと歩き始めた。
「なにも……なくなっちゃったな」
改めて、事態が重すぎるほどに重いことを理解する。
セドニーシティは王国で2番目に栄えた街だっただけあって、数え切れないくらい昔の先祖たちが必死に発展させた過去がある。
そんな文化的、歴史的な価値ももう吹き飛んでしまった。
よく考えてみれば、俺は歴史や文化にさして興味を持たない人間であったし、事実この街で暮らしながらも特段意識などしていなかったが、失って初めて気づく価値もあるのだ。
その点で言えば、今この時における『価値』というのは、俺の中では文化などではないけれど。
「バカみたいに騒いだ酒場も、ルリとタマユラ、3人で眠ったベッドも、眺めのよかったカフェも……この街が生きてたってことが、見えなくなっちまった」
弱音は吐きたくない。
吐くべきでもない。
俺には力がある。
いざという時、自分と、それから守りたい人を守るだけの力が。
しかし今まさに故郷を失い、意識を沈めて横たわる25万の人々には、少なくとも俺のような力はない。
不安だろう。苦しいだろう。
俺は、そんな彼らに寄り添うべきだし、そうしたいと思っている。
なのに――、
「……やっぱり、強くなった気になってただけだったかな」
ルリとタマユラが隣にいない今、俺はこんなにも心細い。
怖いのだ。失うことが、失ったまま立ち続けることが。
タマユラは言った。
だからこそ、立たなければならないと。
ルリは言った。
逃げてもいいんだと。
俺は、決めたはずだった。
何度も、何度も、何度も、何度も、弱い自分を見つめて、強くあろうとして、そう在らなければならないと意気込んで、でもまた折れて、その度にルリやタマユラに助けられて、また気合を入れて――そして今、俺はまた、涙が出そうだ。
何度でも言おう。
俺は弱い。
力なんかじゃ手に入らない強さが、決定的に俺には欠けている。
弱い。俺は弱い。弱い。弱い、弱い、弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い弱い――。
「失った過去に悩むより――」
――未来の自分に期待した方が得。
アリアの言葉だ。
なんて強い人なんだろう。
ひょっとしたらルリやタマユラよりも等身大で、現実的で、強い人なのかもしれない。
うんざりだ。
もうそろそろ、俺はうんざりしている。
ルリは俺を見放さない。
タマユラは、俺にかける期待をやめないだろう。
それはきっと途方もないくらい幸せなことで、生涯をかけて返さなきゃいけない恩だ。
ルリは俺を見放さない。
タマユラは期待をやめない。
でも――俺が俺を、見放してしまいそうだ。
何度同じことで悩み、何度立ち直ったフリをして、何度変われたつもりになって、何度過ちを繰り返すのか。
もういい。
もう、いいんだ。
俺は、弱い男だ。
いつまでも弱いままで、いつまでも変われはしない。
力だけは一丁前に強いから、人を守ることはできる。
でもそれも、見えている範囲だけだ。
セドニーシティすら、守れなかった。
「――俺は弱い」
弱い。
「――弱い」
弱い。
「――弱い!」
弱い。
弱すぎるほどに、強く在れない。
ルリとタマユラがいなければ、誰かにもたれかからなければ、1人で立ち上がることすらできない。
――なんて、脆いんだろう。
――なんて、醜いんだろう。
いい加減、同じことで悩んで、性懲りも無く繰り返すのは辞めにしたい。
だけど、できない。
――それは、俺が弱いから。
「――俺は、こんなに弱い俺が……」
自分のことすら嫌いになりきれなかった弱い俺は、初めて認めよう。
俺は、こんな俺が――、
「――それで、いいじゃない」
「――――」
頭の内側に、身体の隅々に、澄み渡った浄水のように滲みる声だった。
そしてそれはきっと、俺が今一番聞きたかった声で、一番聞きたくなかった声だ。
ゆっくりと振り向くと、人々の群れが横たわる異様な草原にたった1人、2本の足で力強く地面を踏みしめて立つ少女の姿が目に映る。
その瞳はきっと俺よりも、まっすぐに俺の姿を映していた。
「……アリス」
「わかるわ。あなたが何に悩んでいるのか。私にはわかる。嫌いなんでしょ? 他人に見せない、本当の自分が」
触れられる。
触れられたくないところに、触れられる。
そうだ。
俺は、俺が嫌いだ。
在ろうとした自分で在れないくらいに弱い自分が、こんなにも嫌いだ。
ルリにもタマユラにも打ち明けられない弱さを内側に隠した俺が、反吐が出るほど醜く見えるから、嫌いだ。
でも、言えなくていい。隠していていい。
ルリも、タマユラも、自分すら騙して、強く在ろうとする自分で在らなければ守れる命も守れなくなるから、俺は、それを認められなかった。
なのに――、
「――それで、いいのよ」
「……え」
「弱くていいの。自分のこと、嫌いでもいいの。それを認められなくたって、隠してたって、隠しきれなくたって、それでいい」
――いいわけが、ない。
それじゃ、俺自身が決めたことまで嘘になって、自分にすら信じてもらえなくなるから。
「変わってもいい。変わらなくてもいい。変わろうとして、でもやっぱり変われなくっても、それでいいのよ」
「どういう……」
「――だって、人間だから」
「――――」
アリスの言葉の意図が汲めない。
アリスは俺に、何を伝えようとしているのか。
これではまるで、全てを赦されているようで。
でももちろん、そんなことがあっていいわけなくて。
だったら、アリスは。
俺はその真意を窺うように、黙って彼女の言葉を待った。
「悩むこともある。苦しむこともある。でも、そういうものじゃない、生きることって。本当に大事なのはひとつだけ――」
「――――」
「――それでも『生きる』こと。それだけよ」
強さがあった。
身体の奥、心臓よりもずっと深い場所、心をギュッと掴むような強さが。
それと同時に、頭のモヤが払われるような鋭さが、あった。
でも、そんな簡単に俺の弱さは消えなくて。
「だって、俺は弱いから……っ」
「うん。それでいいの」
「でも、守らなきゃいけなくて、守りたくて……」
「立派よ。私にはできないこと」
「俺は……生きるには、考えなきゃいけないことが多くて……っ」
「――ヒスイ」
「――――」
きっと俺は、酷い顔をしていたと思う。
頬を拭って、かろうじて涙は出ていないことを確認したけど、それが些事に感じられるくらい、俺は弱さを隠せなくなっていた。
そんな俺の名前を呼んで、アリスはささやかに微笑む。
「いつか、死ぬ時にね。こんな最期だったらいいなって、思い浮かべる未来はある?」
「――――」
未来。
考えているつもりだったけど、きっと俺の考えていた未来というのは、理想の自分のことだ。
心を強く持ち、有無を言わさず民を救い上げるような、未来に望む自己像のことだ。
もっとささやかで、等身大で、ありのままで、自分のことだけを思った未来の展望なんて、考えたことがなかった。
――端的に言うのなら、アリスの言うような『望む死に方』というのが、本来強く望む未来の自分なのだろう。
それを改めて咀嚼してから、俺は思案する。
いつか、死ぬ時。
最後の最期。
どんな人生なら、「幸せだった」と逝けるだろう。
ルリがいて、タマユラがいて。
俺たちの子どもと、さらにその子どもなんかもいたりして。
世界は平和で、誰も傷つかなくて。
「まぁ、なんだかんだ頑張ったよな」と自分を褒めて。
この世界で生き、死ねてよかったと胸を撫で下ろして。
そんな漠然とした未来が、俺は欲しい。
だから、アリスの問いへの答えは――、
「――ある」
「そう。なら、そう生きればいい。悩んで、苦しんで、そのたびに乗り越えて、時には折れて、でもまた立ち上がって。何度も何度も足掻いて、もがいて――それでも、生きればいい」
「――――」
「そうすれば、最後の最期、きっと笑って生き終えられるわ。ちょっぴり後悔とか未練は残るかもしれないけど、それでいいじゃない。それくらい――両手で抱えきれないくらい、生きるってのは大きいことなのだもの」
――いいのだろうか。
そんなに自分のために生きて、いいのだろうか。
場当たり的で、不安定で、人間らしく生きて、いいのだろうか。
俺の役割を全うできなくても、それでいいのだろうか。
できなかったことは仕方ないと、そう切り捨てていいのだろうか。
――違う。
アリスは、そういうことを言っているのではない。
俺は俺の役割を、やるべきことを、在りたい自分になる努力を、惜しむべきではないと言っている。
それでも、できる限り頑張って、もがいて、その結果が望むものでなかったとしても、それを受け入れて前に進めと言っている。
自分の全てを肯定する必要はない。
自分の全てを否定する必要もない。
ただ認めて、ゆっくりでもいいから、走れないなら歩いてもいいから、ひたむきに進み続けろと、そう伝えてくれている。
だって――生きるというのは、こんなに素晴らしいことなのだから!
「……なんだ」
大きく息を吸って、ゆっくりと肺から空気を抜く。
視界がやけに澄み切っていた。
「……俺って、なんだかんだ頑張ってたんだな」
「ふふ。そうよ」
「……今日まで、生きてきたんだもんな」
「明日からも、生きていくのよ。えらいえらい」
生きること。
生き続けること。
生きることを、諦めないこと。
「……もう少し、褒めてやればよかったな。自分のこと」
「まだ遅くないじゃない。人生、これからよ」
「……そうだな」
「私たちは――『生きていく』わ。長い人生を、これからもずっと」
陽射しよりも暖かく、流水よりも清らかなその笑顔を瞳に閉じ込めると同時に、俺の視界は白く滲んでいく。
瞬間、空を一筋、大きく裂いた紫紺の線が、世界を覆い尽くしたのを確認すると、俺の意識は深く深く沈んでいくのだった。
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