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第四章 『S級の恋慕事情』
70.『温泉』
しおりを挟む宿に着くと、ヒラヒラと歩きづらそうな衣を纏った女性が出迎えてくれた。
促されるまま、ちょうど我が家の大部屋と同じくらいの広さの部屋に通され、一息ついたところだ。
「タマユラ、見て見て。ルリがダメになってる」
「本当ですね、珍しい」
部屋の装飾もさることながら、壁の材質やら扉の作りやら、まるで根付いている文化から丸ごと違うようで、遠い異国の地にでも迷い込んだ気分だ。
そんなアウェイな空間の中で、とりわけ異彩を放つのはこの草を編んで作られたような床である。
仄かに広原の香りが漂い、まるで自然に包み込まれたかのような安心感。庶民的にも思える特徴ながら、そこはかとなく上品さも併せもっており、戦い疲れた身体を優しく撫でてくれる。
そんなタタミなる床に身を投げ出したルリは、五体投地のまま目をトロンとさせて帰ってこない。
今頃ルリの脳内では、タタミの精霊に膝枕でもされていることだろう。
「……ほわぁ」
「ヒスイ、ルリが何か言っていますよ」
「捨ておけ。ただのほわぁだ」
「ただのほわぁとは何でしょうか」
そりゃまぁ、ただのほわぁだよ。
ルリもただのほわぁしたくなる時くらいあるだろう。
なにせ、普段はあまりただのほわぁをする機会がないのだから。
ただのほわぁってなんだよ。
「ルリ、そろそろお目当ての温泉に――ダメですね、帰ってきません。ルリはどこに行ってしまったのでしょうか」
「このタタミを持って帰る方法でも考えてるんじゃない?」
「……これ、ほしい」
「どうやらそのようですね」
だがタマユラの言う通り、そろそろ温泉にも行ってみたいところだ。
タタミは帰るまで堪能できるが、大浴場はあと3時間ほどで閉まってしまう。
ここに来た一番の目的はそれなのに、このままでは思い出がタタミだけになる。
そんなしょっちゅう来れるような場所でもないし、後で後悔もしたくない。
「ほらルリ、温泉行くよ」
「……ほへぇ」
「ルリ、行きましょう」
「……ほわぁ」
俺たちの呼び掛けに空返事しか返さないとは、反抗期だろうか。
すくすく育つのはいい事だが、ちゃんと言うことは聞いて欲しいものだ。
仕方がない。埒が明かないので、俺はルリの両脇を抱えあげ、無理矢理タタミから引き剥がした。
「やぁぁあ!」
「ちょ、暴れるなって! 子供か! 幼児体型だけど17歳でしょうが! ほら、行くよ!」
「やぁぁあ――はっ。……私は何を」
往生際悪くジタバタと抵抗を見せるルリだったが、体の半分をタタミから引き剥がした所で我に返ったらしい。
突然ピタリと静かになったので、もう抵抗の意思は無しと判断して、両脇にかけた手を外した。
くせっ毛の隙間から覗いた耳が赤くなっていく。
ルリは恐る恐る振り向くと、
「……あの。今のナシで」
「……ルリ。口の周りによだれついてるよ」
「……今のもナシで。ヒスイ、温泉行こう」
ゴシゴシと袖で口元を拭い、取ってつけたようにクールぶり始めた。無理がある。
「なんだかんだ言って、ルリもまだ子供なところがあるんですね。安心しました」
「……んぅ」
そして、タマユラが悪気のない追撃を始めた。
否定したいけど否定できないルリの心情が、その悩ましげな表情から伝わってくる。かわいそうに。
何はともあれ、これで3人仲良く大浴場に行くことが出来るのだ。
夢の大浴場へ、いざ。
■
「当然のように男女別だよね」
いや別に、期待してたわけじゃねーし。
現実的な話をすると――仮に混浴だったとしても、恥ずかしいわ気まずいわ目のやり場に困るわで温泉を楽しめないだろうし。
だから、こうして男女で別れていた方が都合がいいのだ。ちくしょう。
「――うおお、これが温泉かぁ」
目に飛び込んできたのは、満天の星空に立ちこめる白い湯気だ。
非日常感とでも言うのか、まるで夢を見ているような不思議な感覚に包まれた。
温泉というのは、この場所以外にも数箇所あるらしい。
しかしそのどれもが山の奥地にあるので、簡単に訪れることは出来ない。
さらに言うと、ここまでの旅費も馬鹿にならない。
そのため温泉なんていうのは、冒険者にとって『一度は行ってみたいと思いつつ、結局行かない場所』筆頭なのである。
「ん、掛け湯をしてください? この桶を使えばいいのかな――あっつ!」
それはともかくとして、風呂という文化はある。
その昔は、各地に大浴場も点在していたらしい。
それがどうして消えたかというと、一言で言えば衛生面の問題である。
ぶっちゃけ、日に何十人何百人と使ったお湯は汚いのだ。
頻繁に流行る疫病の原因が大浴場と知れた途端、大浴場は完全に撤廃されたという。
腕利きの魔術師を雇ってお湯を浄化させるにはコストがかかるので、入場料を高く取れる温泉以外の公衆浴場は淘汰されたのだ。
「――ふぅ、マジで熱かった……指先からゆっくり入ろ」
「あれ? S級冒険者のヒスイ様ではありませんか?」
「わぁあっつ――! あっつ!」
人が慎重に入ろうとしているところに、空気の読めない奴が背後から声をかけてきた。
それに尋常ならざる勢いでビックリした俺は、足を滑らせて頭から温泉にダイブしてしまった。
茹で上がるんじゃないかというほどの温度と、鼻から大量に体内に侵入してきたお湯に、俺は軽くパニックになりながら叫んでしまった。
「やいてめえ! よくもやってくれたな! あやうく俺の自慢の色白ボディが調理済みのベチョリタコと同じ色に――ん? えっと、君はたしか……」
「ノアです。以前、マウンテンザラタン討伐戦でご一緒させて頂きました」
「あー、思い出した! こんなところで会うなんてね。元気してた?」
「おかげさまでなんの問題もなく――と言いたいところですが、先の戦いで命を落としかけたので、その療養に奮発してここまで」
以前、S級モンスター【マウンテンザラタン】の討伐隊を編成した時に、俺とルリの補助に回ってくれたA級パーティのリーダーだ。
まぁ、あの時はルリが全部持っていってしまったが。
「――ヒスイ、大丈夫ですかー? 凄い音とガラの悪い声が聞こえてきましたが!」
と、壁一枚隔てた向こう側からタマユラの声が聞こえてきた。
女湯と隣り合わせとは、まったく妄想を掻き立てる造りになっている。
「大丈夫だよー! ちょっと温泉に悪さされただけだから!」
「パーティの方とご一緒ですか?」
「あぁ、うん。っていうか、死にかけたって?」
A級冒険者が死にかけるとはよっぽどだ。
まぁ、俺もつい最近死にかけたので人のことは言えないが。
「私もあの日のセドニーシティにいましてね。最後はヒスイ様が片付けてくれたのでしょう?」
「え、セドニーにいたの? そりゃ大変だったね。街のために戦ってくれてありがとう」
「いえ、お礼を言われるようなことは。それに……結局力及ばず、S級冒険者のタマユラ様に助けて頂きまして」
え、そうだったのか。
さすがはタマユラだ、後でめちゃくちゃ甘やかそう。
友達というほど関わりのある人ではなかったが、共に戦った顔見知りの冒険者を失うことには大きなショックがある。
それを阻止したタマユラは、この人やその場にいた冒険者たちの命だけに留まらず、俺の心まで救ってくれていたのだ。
「タマユラ様は今どちらにいらっしゃるのでしょうね。きっと今もなお、私のような弱き民を救っておられるに違いありません」
「え?」
「え……? ですから、タマユラ様は弱き民の味方で」
「……今隣から声掛けてきたのがタマユラだけど」
「――えぇええ!? ヒスイ様はタマユラ様とパーティを組んでおられるのですか!?」
なんだ、知らなかったのか。
俺たちのことはセドニーシティでは既に周知のものだから、知られているものだと思っていた。
よく考えてみれば、この人はグローシティの冒険者だ。
あの戦いの後すぐにグローシティに帰り、そのまま湯治に出たのなら知らなくても当然か。
タマユラと正式にパーティを組んだのはあの戦いが終わった後だし。
「ちなみに、ルリ――『白夜』も同じパーティだよ」
「はぁぁああ――!? なんですかそのパーティは! S級冒険者が3名!? 世界でも獲るおつもりですか!?」
「獲らないよ」
「ち、ちなみに……『白夜』様もひょっとして隣に……?」
いるだろうけど。
呼んでも返事するかはわからないな、ルリは声ちっちゃいし。
まぁせっかくなので、一応声をかけてみることにする。
「ルリ、いるー? お湯加減はどうだーい?」
「……んー。ぽかぽかー」
機嫌のよさそうな声が聞こえてきた。
それにしてもなんかこう、ルリの声とともにパチャパチャと水音が聞こえてくると、なんとなく変な気分になるな。
「たしかにあれは『白夜』様のお声……まさかこんなところでお会いするとは……」
「……一応言っておくけど、ルリで変な妄想したら殺すからね」
「も、もちろんそのようなことは! ……あれ、おふたりの関係って」
「恋人である。ちなみにタマユラも俺の女である」
「――! なんと……さすがはS級冒険者様ですね……」
なんか感服されているようだ。よく分からないけど、悪い気はしない。
だけど改めてこういうことを言うと恥ずかしいものだ。
もしもだが、この人がルリかタマユラに気があったとしたのなら申し訳ないな。絶対やらんけど。
「私にとって『白夜』様やタマユラ様は憧れですから。ヒスイ様とともにパーティを組んで、恋仲にまでなっていらしたとは……もはや神格化の域に達しそうです」
「えっと……まぁなんだ、頑張ってね」
「身に余るお言葉です」
思わぬ再会もあり、体も芯から温まり、温泉というのは素晴らしいものである。
吹き抜ける風が適度に体を冷ましてもくれて、うっかり長湯してしまいそうだ。
こうしてゆったりと流れる心地よい時間。
忙しなく生きる人々には、そういうものが必要なのかもしれない。
あぁ、冒険者が温泉から抜け出せなくなるという意味もわかる気がするなぁ、なんて思いながら、俺たちは他愛もない会話を続けていった。
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