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第四章 『S級の恋慕事情』
64.『ふたつの想い』
しおりを挟む恋は、人を惹き付けて離さない。
それはどんな砂糖菓子よりも甘く、泡沫よりも儚いもの。
だが恋煩いというのは恐ろしい病で、時には人の心に取り返しのつかない大穴を開けることもあるという。
それでもなお、人は恋に落ちる。
傷付くことがわかっていながら、勇み足を止めることが出来ない。
たまたま成功した時の快楽が忘れられずに、過ちを繰り返す者。
あるいは、自分が儚く散るとは想像すらしていない者。
恋に幻想を抱き続ける者。
皆、上手くいった時のことだけを夢想し続けていることだろう。
それが人間で、それこそが恋。恋は盲目とは、よく言ったものである。
それはとても愚かで、滑稽で、無様で、不合理で。
だからこそ人は、恋を愛してやまないのだ。
■
ふたつの足音が、そそくさと街を駆ける。
向かう先も、目的も、大枠では同じふたりが。
一方は、外向的な女だ。
誰とでも隔てなく接することができる性格で、溢れんばかりのカリスマに人望も厚い。
もう一方は、内向的な女だ。
他人との関わりを避け、友達と呼べる関係の他人は片手で数えられる程度しかいない。
並べると、まるで違う性格の持ち主だと言えるだろう。
だからこそ相性も悪く、上手く付き合っていくのは難しい――と、本人たちは思っている。
外向的な女は、内向的な女と仲良くしたがっている。
だが、内気な女はそのアプローチへの応え方を知らない。ゆえに、嫌われていると錯覚した。
内向的な女は、外向的な女と仲良くしたがっている。
だが、社交的な女は言葉以外のコミュニケーションを知らない。ゆえに、避けられていると勘違いした。
互いに思うところは同じはずなのに、すれ違ったふたり。
ぶつかり合うこともなく、気まずい心の距離が生まれてしまった。
本当は、同じ男を想い合った似た者同士だというのに。
それが幸か不幸かはさておいて。
そして今、ふたつの足音は交差する。
不器用な彼女らなりに、歩み寄るために。
■
「……ルリさん」
「……『剣聖』」
友人に諭されて、意気揚々と家路についたふたり。
最初のうちは「きっと上手く話せる」と自信を持っていたのだが、家が近くなるにつれてじわじわと不安に苛まれた。
ひょっとしたら、大喧嘩になるかもしれない。
ひょっとしたら、ヒスイすら巻き込んで亀裂が走るかもしれない。
そう思い当たってしまえば、足取りは途端に重くなった。
しかし、いつまでもそうやって誤魔化し続けるわけにもいかず、ふたりがそれぞれ出した結論は、「とりあえず自分の部屋に篭って一人で考えよう」というものだった。
のだが、まさか玄関先で鉢合わせてしまうとは、タイミングがいいのか悪いのか。
「……その、おかえりなさい」
「……ただいま。おかえり」
圧倒的な気まずさに、目線を合わせることすら出来ないふたり。
今、彼女らの中では無言の攻防が行われている。
――どっちがドアを開けるんだ。
玄関のドアを開ければ、当然相手を先に通らせることになる。
自分だけさっさとドアをくぐってしまえば、自重でドアは自動的に閉まるだろう。
そしたらこう思われるのだ。「感じの悪いヤツ」、と。
だから先にドアを開けた方が、にこやかな笑顔でもう一方の入室を見届けなくてはならない。
そしてそれは、お互いを意識しているふたりにとってはとてつもなく高いハードルだった。
「いやぁ、歩き疲れてしまいました。少し足を休ませるので、ルリさんはお先に家に入っちゃってください」
「――っ」
先手を打ったのはタマユラだった。
これは、「私のことは気にせずに家に入ってください」という彼女なりの気遣いだったのだが、その暗黙の配慮を察するコミュニケーション能力は、残念ながらルリにはなかった。
あろうことかルリは、「早く貴様がドアを開けろ。私が悠々とそのドアをくぐるためにな」と解釈したのだ。
否、それだと棘が強すぎるので、「ルリさんがドアを開けてくれませんか?」くらいに感じ取ったかもしれない。
ともかく、ルリはミスをした。
「……私も足が動かない。ちょっとここで休む」
「――――」
無論、これはルリなりの反抗心だ。
そしてタマユラは、これを「私に気を遣わなくていい」と好意的に解釈した。
ルリにタマユラの真意が分からないように、タマユラもまたルリの真意を汲み取れなかったのだ。
「そうですか。なら一緒に休みましょう」
「――!?」
その結果タマユラは、ルリにとっては想定外すぎる行動をとった。
ルリの隣に腰掛け、この庭でたっぷりと時間を使う意思を表明したのだ。
ルリは、「ならば我慢比べと行こうではないか……」と解釈した。アホである。
タマユラは、「少しだけルリさんと仲良くなれたかなー」と考えている。呑気なもんである。
冷や汗をかくルリとは裏腹に、余裕の表情で微笑むタマユラ。
それを見たルリは焦燥感に駆られていた。
このままでは負ける、と。
事実ルリは、精神的には既に大敗北を喫していた。
しかし、ルリのプライドがそれを許さなかった。
せめて――、
「……一緒に入ろう」
「――そうですね、そうしましょう!」
せめて引き分けに持ち込もうと、苦しい申し入れをした。当然、受け入れられるとは思えない。
それなのに、こうもあっさりと受け入れられて、ついには不気味さを感じるルリ。
タマユラは、「ルリさんが仲良くしようとしてくれてる!」と感じた。
ルリは戦慄した。「これが強者の余裕――っ!」と。
――ふたりの間には、それなりの温度差があった。
■
「……入って」
「お邪魔します」
冷静に考えてみれば変な思い込みだった気がすると、ルリは反省した。
自分のコミュニケーション能力に問題があることは、ルリ自身も周知のものである。
今回の話し合いは、ルリが成長するためのものでもあるのだ。
そう考えれば、ここで踏み出さないわけにもいかないと、ルリは自分を戒めた。
そして、タマユラを自分の部屋に招いたのだ。
「ルリさんらしい部屋ですね」
「……可愛げがないでしょ」
「いえ、そういう意味ではなく……こう、洗練されているというか。無駄なものが何も無い感じが」
ルリの部屋は、必要最低限の物しか置いていない。
これは、宿暮らしをしていた時の癖である。
仲間を作らなかったルリは、気の向くままに色々な街を歩いてきた。
思い立ったその日にすぐ発てるように、荷物は少ない方がいいのだ。
あとはまぁ、何かとトラブルを起こしがちだったルリは、逃げるように街を出るようなことも少なくなかった。それも影響しているだろう。
そんな部屋を「自分らしい」と評価されることに普通はいい気はしないものだが、タマユラはネガティブな意味で言ったわけじゃないらしい。
そう思えば、ルリは不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
「……後で『剣聖』の部屋も見せて」
「もちろん、歓迎しますよ。それと――」
ルリにとって、今の発言はかなり捻り出した一言だ。
人との距離の詰め方を知らないルリが、自然に距離を詰めるために必死に考えて導き出した答えだった。
そんなルリにもうひとつの答えを教えるように、タマユラは言葉を続けた。
「――できれば、タマユラって呼んで欲しいです」
「――ぁ」
そう笑顔を見せるタマユラに、ルリは猛省した。
別に意識していたわけでもなく、ごく自然に『剣聖』と呼んでいたことを。
ルリにとって、他人からの通称は『白夜』だった。
それはどうとも思っていなかったし、そもそも本名よりも『白夜』という異名の方が有名だったから、当然だった。
だから、タマユラのことを『剣聖』と呼ぶことは自然なことのはずだった。
実際、『タマユラ』よりも『剣聖』の方が馴染みのある呼び方だった。
しかし、特に親しくなりたい相手には、本名で呼ばれた方が嬉しいものだ。
だからこそルリはヒスイに本名を教えたことを、今さら思い出した。
無意識に作ってしまっていた距離は、呼び方ひとつで縮まるものなのだ。
とはいえ、その要望はルリには少々難易度が高かった。
今まで通称で呼んでいた相手を本名で呼び直すというのは――早い話が、結構恥ずかしいのだ。
ルリの顔は、みるみるうちに赤くなっていく。
「……た、タマユラ」
「――――」
「……何か言ってくれないと困る」
その時、タマユラは初めて理解した。
これが破壊力かと。
「――すみません、ちょっとルリさんが可愛すぎて戸惑ってました」
「ちょっ……茶化さないで」
「いや、ほんとに……」
タマユラは、少しだけ気が沈んだ。
この天然の『かわいいの源泉』みたいな女の子に、自分が太刀打ちできるとは思えなかったからだ。
しかしそこは流石のタマユラ。すぐに邪念を消し去り、目の前のかわいい存在に意識を集めた。
「ルリさんのかわいさを分けて欲しいくらいです」
「――タマユラだってかわいい。あと」
ルリは、躊躇した。
この先の言葉を紡ぐのが、ルリにとって高難度だったからだ。
しかしルリの精神力もタマユラに負けてないもんで、数拍の間に覚悟を決めた。
「……ルリって呼んで」
「――はい、ルリ」
ここまでくると、もう以前のようにギクシャクした雰囲気はない。
互いが互いを名前で呼び捨てる。それだけでこうもあっさり距離が縮まるとは、人付き合いってのも案外簡単なのかもしれない。ルリはそんな感じで調子に乗った。
だけど、この場においては何も間違いじゃなかった。
あとは、お互いが言いたいことを言うだけの優しい空間となる。
「……かわいいと言えば、ヒスイも意外と子供っぽくてかわいい所ある」
「そうなんですか? ヒスイは私の前じゃそんな素振りを見せてくれませんね……っていうか、ルリはヒスイのことが好きなんですよね?」
「……好き。タマユラも?」
「ええ、好きです」
ふたりが一番わかりあえる話題を共有し、妙な連帯感が生まれる。
「仲良くなりたい」というこの会合の目的はもう達成しているから、あとは他愛もない雑談が続くだけ。
それは、同年代の友達そのものだった。同年代と言っても5つほど年齢差はあるが、そんなのは些細なことだ。
「ヒスイは私のことをどう思ってるんでしょうかね」
「……絶対好きだよ。あれで好きじゃなかったらおかしい」
「そうでしょうか。私から見たら、ルリのことが好きなのではないかと思うのですが……」
「私は……嫌われてはないと思う、けど」
和やかで温かい時間が流れる。
そして話題は、ふたりにとって大きな不安である、ヒスイとの恋路について。
やはりそこに行き着いた。
「……私たち、どっちかが振られるんだよね」
「そうですね――でももし私が振られても、ルリなら納得します」
「……私は一度振られてるみたいなものだから」
「え、どういうことですか?」
ヒスイとの過去について。出会いについて。どんなところが好きで、何をきっかけに慕情に気付いたのか。
順番に語られる想い人への賛美は、恋敵であるはずの相手から自慢げに聞かされているのに、不思議と心が温かくなった。
それは、お互いを尊重し合っているからに他ならない。
そして最後に、こんな話題が出た。
「いっそ、ふたりとも結ばれることができたらいいんですけどね」
「……それ、私も考えた。だけど――」
「わかっています。きっとヒスイはそれを選ばないですよね。でも、もし本当にふたりとも好きでいてくれているのなら、私たちは受け入れるということは、それとなく伝えてみましょうか」
「……ん。ヒスイ、結構バカだから言わなきゃわからない。ゆっくり時間をかけて教えこまないと」
そんなルリのキツい一言で笑い合って、人知れず行われた女子会は幕を閉じた。
共通の話題で盛り上がれて、女同士の友情も芽生えて。
得たものが大きい有意義な休日となった。
ただひとつ誤算があるとするならば、運命の時はふたりの想像よりも遥かに早く訪れるという事だけ。
ゆっくり教えこむ時間など、もう残されていなかった。
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