万人の災厄を愛して

三石成

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第四章 日常の瓦解

二 役人

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 藤が再度目覚めたのは、それからさらに二日が経過した後のこと。

 優は藤が昏睡している間も看護を懸命に続けていた。そのかいあって藤の容態は安定していたが、目が覚めた後も、彼の表情はいっこうに優れなかった。

「藤さん、少しだけでも食べてください」

 あの日、浄が藤のために買い求めて用意していた、卵と青菜。それを混ぜた栄養のある粥を藤の口元へと運びながら、優が必死に訴える。

 だが、藤は口を開こうとはしない。虚ろなまなざしで虚空を見つめる藤の様子に、優は深くため息を漏らす。

 優はすでに、あの日、浄が村に来た時の情報は藤に共有を終えている。

 優の元にはじめに浄がやって来た時、彼の様子に変わったところはなかった。

 浄は優に藤の様子を告げ、そして、必要なものを見繕って欲しいと頼んだ。優は、驚きはしたものの、己の元に浄を寄越した藤の意図を汲み取った。浄を自室に案内し、決して外に出ないようにと言い置いて、自分一人で必要な薬や食材等を全て調達しに行った。調達を終えると、物資を浄に渡して、薬問屋の店の前で、鹿毛に乗った浄を見送った。

 浄に何者からか接触があったのならば、それから竹林の家までの道中だ。

 見向きもされない粥を手元に持ったまま、優は再度口を開く。

「浄さんは六日後に帰ってくると言っていたんですよね。ここから六日で白虎リに向かって帰ってくるには、船を使って、内海からさらに都を通らねば難しい距離です。であれば、依頼主は朝廷の人間で間違いないのでしょう」

 白虎リは、先日朝廷と、白虎、六堂の連合軍が大合戦を繰り広げた三菜平原に最も近い村だ。

 藤と浄が白虎から松柏へ来た時は、船を使って、白虎イの港町を経由した。しかし、竹林の家から白虎リへ向かうのに、同じように白虎イから白虎の領地を抜けていくのでは、片道だけで一週間はかかってしまう。浄が言い置いていった予定通り、行き帰りを六日で収めるには、都を抜けていくしかない。

 都は海に面して独自の港を持ち、かつ白虎リに近い。だが警備の厳重な都を堂々と通れるのは、朝廷の者だけだ。

 さらに、優が、浄への依頼主が朝廷だと断じる理由は、それだけではない。

 朝廷が白虎討伐を目指すのであれば、白虎リは重要な意味を持つ。白虎リが朝廷の手に落ちていた場合、先日の三菜平原の戦いは、白虎と六堂にとって、もっと厳しいものになっていただろう。

「朝廷は、浄さんを仲間に引き入れることで、武力組織の討伐成功をより強固なものにするつもりなんでしょうか。浄さんが白虎にいた時に、孫副組長の殺害を命じたのは、力量を図るような意味合いがあったのかもしれません」

 と、優はここまで、少しでも藤の気持ちを前向きにするために情報を整理して話していた。しかし、藤の表情は変わらない。

「もう関係ない。あいつは俺の静止も意に介さず出ていったのだ。もはや帰っても来ないだろう」

 優は、藤の様子に眉を寄せる。

 そして同時に、浄が村に来た時の姿を思い出していた。一回目の来訪時、浄は心底疲れきっている様子だったが、どこか嬉しそうな印象があった。藤が峠を超えたのが理由だろうと、優は考えている。

 二回目、数日家を空けるので、藤のことを頼むと言伝にやって来た時。浄はひどく苦しそうな表情を浮かべていた。さらに「急いで藤の元へ向かってくれ」と言い添えられた言葉から滲んでいた切なさ。

 優は、浄の態度や言葉の端々から、彼の藤へ向けた想いを感じていた。

「浄さんはきっと帰ってきますよ」

 優ははっきりと断言した。

「そうしたらもう一度、浄さんを世間から隔離するように頑張りましょう。今度は、僕もお手伝いさせてください。二人ならもっと、やりようがあると思いませんか? 例えば日々必要なものは、僕がここまでお届けするとか」

 優の熱意が籠もった言葉を一蹴するように、藤は軽く鼻で笑った。

「駄目だったからと、仕切り直せるような軽い誓いではない」

 声音はひどく冷たい。

 藤も優にきつくあたるのはお門違いだと理解はしているが、本来あたりたい相手は、ここにいない。常日頃から感情の起伏が乏しい藤にしては、大変珍しい状態である。

「あれだけ熱心に抱いていたわたしの体を、あいつはもはや、いらないと言った。それで繋ぎ止められないのなら、どうせ無駄なことだ。誰も浄を力で抑え込んでおくことなど、できないのだから」

 藤の自暴自棄な気持ちが籠もった、赤裸々な言葉。立ち入れる領域でもなく、優は押し黙る。藤は独り言のように話を続けた。

「わたしの復讐は、無意味だったのだ。一人で、うまくいっていると思い込んでいた。同郷の士を手にかけてまで、貫き通した無意味な意地だ」

 藤は布団の上で、強く拳を握る。彼の左手首に嵌っていた竹の腕輪は、今は外されている。

「もしあいつが帰ってくることがあれば、俺は……たとえ死んでも、あいつを殺す。やはりはじめから、そうするべきだったのだ……わたしが、間違っていた」

 きつく食いしばった歯から漏れる、決意と行き場のない怒りに満ちた震える声。そんな藤の様子に圧倒され、優はうつむく。

 と、その時。

 家の外から、馬のいななきが聞こえた。優は一瞬、浄が気を変えて帰ってきたのかと思った。しかし、それにしては蹄の音が圧倒的に多い。

 優と藤は瞬時に視線を交わした。

 この竹林の家は、ここにそれがあると理解していなければ、辿り着くことはできない。つまり、確実にここへ用がある者たちだということだ。さらに、藤にしろ、優にしろ、白虎を勝手に抜けてきている身だ。いつ追手が来てもおかしくはない。

 優は咄嗟に持っていた椀を置くと、藤の肩に手を添えて、彼が身を起こそうとしたのを制した。代わりに、部屋の隅に置かれていた、藤の刀を手に取る。

 藤は心配そうな表情のまま優を見ているが、再度体を起こそうとはしなかった。藤自身、まだ己が動ける体ではないことくらい理解している。

 優は唇の前に指を立てて示してから、藤を奥の部屋に残し、全ての襖を閉じた。

 一人、土間へと降りる。息を潜め、外の様子を探る。外にいる者たちは、はじめから気配を隠そうとする様子もなく、多くの馬で家を取り囲んでいる。

 数拍の間の後。外側から戸が叩かれた。

 相手が誰であれ、正面からまともな形で訪問されるとは思っていなかった。優は一瞬不意をつかれ、そして、このまま居留守でやり過ごそうかという甘い考えが一瞬脳内をよぎる。

 だがその一拍後に、破られそうな勢いで再度戸を叩かれ、緊張の糸を張り詰めさせたまま、戸を開けた。

 開かれた戸口から家の中へと入ってきたのは、さかやきを綺麗に剃った身なりの良い男だった。格好から、ひと目で朝廷の役人であることが察せられる。

 優の預かり知らぬことであるが、彼は先日、松柏ホで年貢の取り立てを巡って騒ぎを起こし、藤と刃を交えていた役人であった。
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