万人の災厄を愛して

三石成

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第四章 日常の瓦解

一 懇願

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 再度馬の蹄の音がしたのは、一刻半ほどが経ってからだった。半覚醒の状態でうとうとしていた藤は、その音にはっきりと目覚め、戸口の方へと視線を向ける。

 間もなく部屋に表れた浄の姿に、深い安堵の息を漏らす。藤にとって、一人で出かけていった浄が帰ってきた、ということ自体が、大きな革新だった。

「おかえり、遅かったな。待ちくたびれた」

 溢れ出しそうな喜びを露わにしないよう抑えつつ、藤は言葉をかける。しかし。

「ああ……そうだったか」

 曖昧に笑う浄。その表情の冴えなさに、一度は安堵に包まれた藤の心に、再度嫌な予感が走る。

「浄? どうかしたのか」

「いや、何でも無い。お前の言っていた、優という男には会ったぞ。確かに手際よく必要なものを全て揃えてくれた。有能な男だ。お前のことをひどく心配していた。あんな奴、白虎にいたか?」

「三年前は、優はまだ白虎の正式な組員にもなっていなかったからな。成長期における三年という時の大きさにわたしも驚いたよ」

 話しながら、浄は買ってきた物の荷解きをはじめた。しばらくの物音の後で、浄は水と、紙の包みに入った丸薬を携えて枕元へと座る。

「口を開けろ」

 言われるままに従うと、浄は一粒の丸薬を藤の口の中へと入れた。それから、藤が目覚めた時にしたように、口移しで水を飲ませる。ぐっと距離の近づいた浄の匂いと、重なる唇の柔らかな感触に、藤は胸の奥がじわりと暖かくなるのを感じた。

 薬を嚥下すると、今度は浄の分厚い舌が口内へと差し入れられる。器用に動く舌先が藤の舌をつつき、絡め取るように粘膜同士をこすり合わせて。

 どう考えても看護目的ではない官能的な口づけは、しばらく続いた。最後に舌を吸い上げられながら、ゆっくりと口づけが解ける。藤の息はすっかり上がっていた。

「っ浄」

「いや、つい我慢ならなくなって」

 藤が嗜めるように名前を呼ぶと、はは、と声を漏らして浄は笑う。

 その普段と変わらない表情に、藤が己の胸騒ぎを杞憂だと思い込もうとした、その時。

 浄は丸薬が入った包みを、藤の枕元へと置いた。

「薬はここに置いておく。一週間分ある。夕餉の後に、日に二度飲め。これで熱が下るはずだ」

「飲め、って。また今のように飲ませてくれないのか」

 自分でも甘えたことを言っていると自覚しながら、藤は願いを込めて会話を続ける。だが、続いた浄の言葉は無情だった。

「六日ばかり出かけてくる。すぐに優を呼んでくるから、お前のことはあいつに……」

「どうして、どこに出かける用事など」

 すぐさま言葉を遮り、藤は詰問した。腹筋に力を込めて起き上がろうとしたが、すぐに激痛で悶えることになる。

「馬鹿か、安静にしていろ。臓腑が斬れているんだぞ」

 浄は布団からはみ出した藤の体を再度横たわらせ、落ちた手ぬぐいを額に乗せる。その最中も、藤は傷ついた手に血が滲むのも構わず、ぎゅっと浄の腕を掴む。

「こんな俺を残して、いったいどこに行くと言うのだ」

「白虎リを潰してこいと、頼まれた」

 浄の淡々とした言葉に、藤の心が絶望に染まっていく。

「誰に」

 藤が再度問いかけたが、浄は答えない。

 浄は、己の腕を掴んでいる藤の手を無理やり外して、立ち上がる。

「いったい誰に頼まれた! 俺とこうして二人で過ごす生活の、どこに問題があった。そんなふざけた頼みなど、聞く必要が、どこに」

 浄は無言のまま、いつも竹細工をしている部屋にしまい込んでいた、自身の刀を出しに行った。その刀が浄の帯に挟まる様を、藤は無力感を覚えながら見つめる。

 体を起こすことを諦め、畳に爪を立てるように這いずって浄の方へと追いすがった。体のどこかで傷が開き、血の滲み出す感覚がある。

 だが今度は、浄も藤を布団へ戻そうとはしなかった。白虎を出た時のような身軽さのまま、土間へと降りていく。

「浄、行くな」

 藤の薄い唇から切なく漏れる、懇願の声。だが浄の足は止まらない。

「一度ここから出ていったら、わたしはもう二度とお前に抱かれない」

 続けたのは、体での籠絡。

 浄は一度、ピクリと体を震わせた。藤は必死に手を伸ばしたが、その指先が浄に届くことはなかった。

「それで構わない」

 返事の声は冷たい。浄はもう、先程買い出しに向かった時のように、振り返ることはなかった。すでに覚悟を決めた様子で、ただ家を出る。

 戸口が締まる音を聞き、藤は痛む拳で畳を叩いた。溢れ出したのは、恥も外聞もない泣き声。

「行かないで……浄」

 瞳からぼろぼろと大粒の涙が流れ出る。

 あの日、故郷で見た惨状が思い起こされる。復讐を誓って潜伏を続けた白虎での生活。三年間、浄と過ごした複雑な想いの日々のこと。数日前に斬った、恩師と幼馴染の体の感触。様々な記憶が走馬灯のように頭をめぐる。

 力ずくでも、命を賭してでも浄を閉じ込めておきたいのに、体はまったく言うことをきかない。幼子のように泣きじゃくり続け、ようやく這い出た板間の上で、意識が遠のいていく。

 一刻の後。優が竹林の家に飛び込んできた時、藤は完全に気を失っていた。
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