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第三章 望まぬ来訪者
四 施術
しおりを挟む袁が最後に上げた叫び声は、家で作業に没頭していた浄の耳にも届いていた。それでも指の間で挟んでいた竹の繊維を編み上げ、きりの良い所まで作業を進めてしまう。
浄は大抵のことには動じない。それは、絶対の力を持つ者特有の余裕だ。
もし自身の身に危険が迫っても、目の前で刃を振り下ろされた瞬間に反応すれば間に合ってしまうからだ。
ゆえに、誰が聞いても異常事態である声が聞こえても、いったい何事だろうかと、浄は世間話をする程度ののんきさで藤に声をかけた。もちろん待っても返事はなく、そこでようやく、浄は藤がいなくなっていることに気がついた。
急に胸騒ぎがした。
浄は編んでいた竹籠を放り出して家を出て、竹林の中を、声のした方へと走る。
程なくして目に飛び込んできた光景に、浄は息を呑んだ。
周囲の竹や地面には血飛沫が飛び散り、奥には四人の男の死体。その前に、藤が倒れていた。背の中央には刀が深々と刺さり、普段はさらさらと風に靡く藤の長い髪が、今や血と土に塗れてもつれている。
この瞬間、浄の体を不思議な感覚が支配した。内蔵に氷の刃を差し入れられて、胸の奥から冷たく凍えていくような。
それは、浄が久しく感じたことのない、恐怖という感情だった。
「藤!」
浄は叫びながら駆け寄り、藤の体を抱き起こす。彼の露わになった顔は血の気が引いて白い。
己の震える体を感じながら、浄は藤の喉元に耳を押し付ける。すると、ごく僅かな呼吸音が聞こえた。浄はようやく、口内に溜まっていた唾液を嚥下する。
次に、藤の腹部を貫いている刀を抜こうと手をかけた。だが、軽く引いただけで手に伝わってくる、何かがひっかかっているような感触に、嫌な予感がする。このままここで無造作に刀を抜いてしまえば、藤の命が血と共に流れ出してくる、という直感だ。
浄は刺さった刀をそのままに藤の体を抱え直すと、家へ向かって駆け出した。
それから、浄の体はほぼ無意識のうちに、至極的確に動き続けた。
藤の体を家の板間の上に寝かせ、酒、水、布、糸と針を用意する。
出血を抑えるため藤の上体を帯できつく縛り上げてから、刺さったままにしていた刀を慎重に抜き、溢れ出す血を止める。
圧迫を続けながら、全身の深い傷を水で洗い流し、損傷具合を確認。酒で殺菌した針と糸で縫合。浅い傷は清めた後、布でおさえて止血する。左掌にあいた穴を縫っている間、藤の手首に嵌る、竹細工の腕輪が視界に入っていた。感情を抑え込んでいた胸に切なさが満ち、眉を寄せる。
浄は、幼い頃から幾つもの死体を見てきた。己が斬った者も数しれないが、遠い記憶となっている幼少期でさえも、浄と死体との縁は深かった。
浄はこの世ではない別の地で、医学者だった父の手伝いを通して、多くの死体を解剖した。幼かった浄はそうとは理解してはいなかったが、結果、彼は人間の体の構造を熟知していた。それは人を斬る時にも密かに活かされていたが、浄が会得していた医術の知識は、この世の医者が持つものを遥かに上回る。
ここにいたのが浄ではなく、この世の並の医者であったなら、相当の深手を負った藤は、手当てをする前に諦められていた。むしろ、苦しませぬようにと殺されていた可能性の方が高い。
可能な限りの処置を施した後で、清潔な布団へ藤を寝かせると、浄はその横に腰を下ろした。日は暮れ、室内は暗闇に沈んでいる。
施術をしていた板間は、藤が流した血に汚れきって大変な惨状になった。だが浄は今、片付けようという気にはならない。藤の側を離れたくないのだ。
耳をすませば、外から聞こえてくる虫の声に混ざって、本当に弱々しい藤の呼吸音が耳に届く。その息遣いを決して聞き漏らさないように、浄は身をかがめて顔を近づけながら、藤の右手を両手で握った。
「死ぬな……藤」
唇を開けば、乾ききった喉から、弱々しい懇願の声が零れ落ちる。冷たい藤の手を己の掌で温めるように擦り、額に押し付ける。
「死なないでくれ」
無心になって処置を済ませてしまった今、浄の心を占めているのは、藤を失うかもしれないという恐怖だけ。
かつて、言葉も通じぬ土地にたった一人流れ着いた浄を拾ったのは、当時はまだ白虎の大隊長だった寿。彼はすぐに、浄の肉体が持つ素質の高さに気づいた。僅かな言葉を教え、意思の疎通ができるようになると、仕事を教える代わりに、ただ食事を与えることをやめた。
はじめはごく小さなことからはじめ、浄が与えられた仕事をこなすと、初めて食事が与えられる。どんなに不服なことでも、浄には逆らう権利がなかった。
ある日、浄は寿から六堂タの殲滅を命じられた。はじめは疑問を感じたが、空腹が限界を迎えると、いつものように仕事へ向かった。その時、浄は一八歳だった。
あまりにも多くの者の血でその手が染まり、浄の中で何かが変わった。
それから浄は今まで、他人にたいして興味もなく、ただ生きるために、多くの者を葬ってきた。他人と接しても生まれる情はなく、変えようもない己の性指向を隠すため、娼館通いを続けた。
馴染みになっていた娼妓の華は幼い頃に娼館に入って、娼妓としての歴が長かった。それゆえに察しと気立てが良く、一度も己に手を出して来ない客も、寛容に迎え入れてくれた。彼女にはそれなりに信用を寄せていた浄だが、それは決して愛情というものではなかった。
見知らぬ相手からの頼みごとでさえ、頼まれればどんなことでもやった。もし誰かから華を殺せと頼まれたら、躊躇なく依頼をまっとうできていただろう。
依頼を遂行し、その対価をもらうことだけが、浄の身に刻み込まれた生きる術だった。
どの依頼を受けるべきで、どの依頼を断るべきだとか、その依頼がどういった思惑の元にされたかとか、そういうことを考えるのは面倒だった。成された依頼の全てを受け、言われるままにこなす方が、飛び抜けて腕の立つ浄には楽だった。
しかしながら、その生活が、三年前に変わった。藤に、体を抱かせてやる代わりに共に白虎から逃げてくれと言われた瞬間だ。
藤の指摘した通り、浄は男が好きだった。そして、浄にとって藤はそそる男だった。いつものように断る理由もなく、浄はわけも聞かず、依頼を受け入れた。
はじめは松柏方々の宿を転々としていたが、いつしか藤が変わり者の大工と知り合った。藤は彼と信頼関係を結び、この竹林の土地を手に入れて、二人だけの家を建てた。
藤ははじめに「共に逃げてくれ」と言ったきり、それ以外に頼みごとをしてくることはなかった。代わりに、藤はよく働いた。浄が何もしていないのに、毎日おいしい料理を作って浄に食べさせた。
もっとも、藤の料理が文句なくうまくなったのは、竹林の家に住み始めてから三ヶ月程たった後からだ。ある日などは水の量と米炊きの火加減を間違えて、ドロドロのうえに芯の堅い米が出されたこともあったし、塩が効きすぎて一瞬で喉が乾く煮物が出てきたこともある。
だがどんな料理を出されても、浄は一度も不満を言わず、全て完食し続けた。そうこうしているうちに、藤の料理の腕はめきめきと上達していった。
藤はさらに家や衣服を清潔に整え、浄の気が向いた時にはいつでも閨の相手をしてくれた。藤の態度全てが不思議ではあったが、何故かと尋ねたことはない。ただ、自分に何も求めてこない藤との、穏やかな二人きりの生活は、浄にとってあまりにも心地がよかった。
浄は、藤が己に惚れている訳ではないことは理解していた。共にいても、藤の心はいつでもどこか違う場所を漂っているかのようだったからだ。そして、そう感じられた時、浄は藤を抱いた。
藤の漏らす甘い声を、仕方ないなと笑う顔を、浄は気に入っていた。
「藤」
浄は哀願の混ざる声で呼びかけながら手を伸ばし、暗闇の中で、そっと藤の頬を包むように撫でる。指に微かに触れる吐息。
さらに身をかがめて、まるで己の生命力を口移しするように、唇を重ねた。
今夜の月は雲に遮られ、家の外から差し込んでくる月明かりもほぼない。それでも藤の白い肌は、自ずから発光しているかのごとく、はっきりと見えた。
浄にとって果てしなく長い夜が、ゆっくりと、過ぎていく。
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