万人の災厄を愛して

三石成

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第一章 竹林の家

三 罠

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 暗闇の中、浄の静かな寝息がしている。

 藤はゆっくりと目を開くと、自身に腕枕をしている浄の様子を見上げて観察してから、彼の目を醒まさないように、体を起こす。そのまま布団を抜け出ようとしたところで。

「どこへ行く」

 と、案の定、声がかけられた。

 浄はどんなに疲れて寝ている時であろうと、周囲の気配に敏感だ。そんな彼に悟られずに済むとは思っていなかったので、藤も別段驚かない。

「罠にかかった獲物の様子を見てくる」

「朝では駄目なのか」

「逃げてしまうのももったいないし、死んでいるなら早めに血抜き処理をしなければ。肉が臭くなる」

 布団の横に脱ぎ散らかしていた着物を身にまとうと、藤は浄の目元に、軽く唇を押し当てた。自然と、瞼が閉じられる。障子越しの微かな白い光に、いっそう浄の睫毛の長さが際立つ。他に類を見ない程に、完璧な造形をしている顔立ちだ。

「浄は眠っていろ」

「……早く戻れ」

 浄が述べたのは、率直な要望。藤が側を離れていくことは諦めたらしい彼の様子に笑って、返事の代わりにもう一度唇を押し当ててから、立ち上がる。

 着物を整えて、竹の匂いがする浄の作業部屋を通る。途中、部屋に置かれていた麻縄を持って、腕を通して肩に担ぎ土間へと降りる。それから、戸の横に立てかけてある自身の刀を無造作に取り上げると、腰帯に差した。

 竹皮草履をつっかけ、月光がちらちら差し込む夜の竹林へと出る。

 生ぬるい風が吹いている。

 昼間仕掛けた罠の方へと向かうと、罠は想像通りに作動していた。

 そこには獣ではなく、人が逆さ吊りになって揺れている。紺色の上衣に股引ももひき脚絆きゃはんという姿の男だ。片足を鉄糸に取られ竹に吊られているので、もう片方の足の置き場がなく、だらりと垂れている。両手も重力に逆らうことをやめており、男が持っていた刀も地面に落ちていた。もはや脱出も諦めた姿勢だ。

 罠が作動した音がしてから、早くも二刻半ほどが経過している。

「無様だな」

 藤は冷えた声音で言い捨てた。

 ぐったりとしていた男が目を開く。地面に立って自身を眺める藤の姿を見留め、血の上った赤い顔のまま、くっと眉を吊り上げる。

「おのれ藤、我らがかたきの手に落ちた裏切り者め……!」

 向けられた男の声に、藤は僅かに背後の家の方を見た。この会話が浄の耳に届かないかを気にしたのだ。地面に落ちていた刀を足先で蹴って遠くへ飛ばすと、腰に差していた刀を鞘から抜いた。

 男の動向に注意しながら、男を吊り上げている、しなった竹の根本の方へと向かう。藤はふっと息を吐きながら刀を振る。

 竹は一太刀で斬れて倒れ、男は支えを失って地面に落ちてきた。彼が体勢を立て直す前に、藤は地面に座り込んだままの男の首元へ、刀の切っ先を突きつける。

「騒いだら殺す」

 短く告げた藤の言葉に、殺気は籠もっていない。しかし、それが脅しではなくただの事実通告であることを、男の方も分かっていた。すでに感覚が麻痺する程に人を殺してきた者にとって、人を殺す時に余計な気負いは不必要なものだ。

 藤は片手で刀を持ったまま、もう片方の手で器用に男の腕を、胴体とまとめて縛り上げる。それから男を立たせ、縛り上げた縄の端を引っ張って、家から離れるように竹林の中を歩いていく。

 浄の耳に物音が届かないと思える距離を歩いてきてから、藤は男を地面に跪かせた。ようやく口を開く。

「お前が来ることは分かっていた。嶋さんの家は、どう見ても拷問が行われた後だったからな。拷問の時に頭皮を削いでいくやり方は、まさしく教科書通りの六堂タの手口だ」

 六堂タというのは、藤の故郷だった村のことだ。表向きは稲作を生業にしていたただの農村だったが、実際は六堂の武力の一端を支える忍の村。藤はかつてそこで生まれ、歩き始める前から忍の術を叩き込まれて、一二歳まで過ごした。

 嶋の家の惨状を見た時、藤は事件を起こした犯人が、自分の同郷の人間であることを理解した。さらに盗まれていた家の図面が自分の家のものだけとくれば、犯人の狙いは明確だ。

 同じ教育を受けてきたがゆえに、藤には自分たちを探してやって来る犯人が、どのような手口で迫るかも分かっていた。そこで、犯人の好む道をあえて作り、罠を仕掛けて待っていたのだ。

「こんな単純な罠にかかるとは、お前はやはりどうしようもない落ちこぼれだな……ごう

 藤は男の名を呼んだ。号と藤とは同い年で、故郷では共に忍の術を学んだ幼馴染だった。

「確かに俺は落ちこぼれだが、仇に、あろうことか体で籠絡されて寝返るような腑抜けた男より幾分かマシだ。貴様の、女のようなあられもない声が聞こえていたぞ、何とおぞましい」

 号は体の中に渦巻く怒りが抑えきれない様子で、話しながらも奥歯をギリギリと噛み締めている。

「確かに六堂からは抜けたが、寝返ったつもりはない。その証拠に、わたしは今、白虎にも松柏にも仕えていないからな」

 反して藤の態度は一貫して冷静だ。侮辱の言葉を聞いても、抜身の刀を携えたまま、無表情で号を見下ろしている。

「ハッ、この期に及んで苦しい言い訳か。現にこうして俺を捕らえ、あの仇を守っているではないか」

「あいつを守る?」

 藤はそこでようやく片眉を上げ、続いて、クツクツと低く笑い声を漏らす。

「わたしが守ったのはお前の方だ」

「何だと?」

 勢い込んで問い返され、藤はしゃがみ込んで号と視線の高さを合わせた。真正面から冷えた視線で顔を見つめる。

「わたしが浄の側にいて、無事なのはどうしてだと思う?」

「貴様があいつの情夫だからだろう」

「いいや。わたしが一度も、浄を直接本気で殺そうとしたことがないからだ。お前が浄に挑んだところで、結果は目に見えている」

「この腰抜けめ……!」

 さらに怒りを増した様子の号を見て、藤はため息を一つ漏らした。

「お前ほど実力の伴わない者でも、きっとあいつと対峙すれば分かるだろう……いや、お前が分かるのは死の間際かな。浄の力は、剣豪とか、達人とか、そういう並大抵のものではない」

 抑揚のない淡々とした声で、藤は語る。

「戦いと生存本能において、浄はもはや人という枠を超えた化け物だ。戦闘能力は言うに及ばず、危険を察知する嗅覚は突出している。寝ている時でも、同衾している時でも、それは変わらない。浄は素手でも、武装した人間をいとも簡単に殺せる。浄を殺すのはこの世の誰であろうと不可能だと、わたしは自信を持って断言できる」

「あいつへの復讐を誓い、組を抜け、一〇年以上付け狙って得た結果がそれか」

「そうだ」

 嫌味で発した号の言葉に、藤はためらうことなく頷く。なぜなら、それが真実であり、本心だからだ。

「村を滅ぼし、親兄弟を惨殺した相手を、貴様は無理だからと見過ごすのか! さくらのことまでを忘れたか!」

 藤の冷淡な態度に、号は声を荒げた。だが「桜」の名が出た瞬間、今度は藤の顔に怒りが浮かぶ。

「挑めば死ぬと分かっていて、なお挑むは自害と同じ。お前はそれを復讐と呼ぶのか!」

 藤の握りしめた刀が、カチリと硬質な音を立てる。静かな竹林に藤の怒号が響いて、風が吹き抜けた。葉擦れの音が、先程よりも大きく聞こえる。

 挑発するような言葉を続けていた号も、藤の気迫に気圧されて口を噤んだ。藤は再度、深呼吸をするように大きくため息を一つ。

「あいつは自分で殺した親子を見て、『かわいそうだ』と言った。なら何故殺したのだと問うと、『頼まれたからだ』と答えた。そんな馬鹿馬鹿しい話があると思うか? しかし、それがあいつの嘘偽りのない感覚なのだ」

 藤の声は、次第に落ち着きを取り戻していく。

「あいつは……浄は、わたしが見ている限り、今まで一度も自分の意思で人を殺したことはない。戦いにおいて比類するものがない程の天賦の才を持ちながら、浄は殺しを好んではいないのだ。浄が人を殺す理由は単純で、『自分が殺されそうな時』と『人から頼まれた時』の二つだけだ」

 一本ずつ指を立てながら、藤は説明を続ける。その説明に未だ納得してはいないが、号は号なりに思案し、口を閉ざしたままだ。

「つまり、浄に殺しを依頼したり、浄を殺そうなどと考えたりする馬鹿な人間を近づけない限り、あいつが人殺しをすることはないのだよ」

 そこまで藤の説明を聞き終え、ようやく号の顔に怒り以外の表情が浮かんだ。それは困惑と、驚きの入り混じったような。

「貴様は、あいつを世俗から隔離するために、共に暮らしているとでも言うのか」

 藤は頷く。

「浄に二度と人を殺させない……浄が一人ぼんやりと老いて死ぬのを見届ける。それが、わたしの選んだ復讐だ」

 そう告げてから、藤はゆっくりと立ち上がった
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