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第四章 生存の希望
四 新天地
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以前螺鈿が話していたとおり、一面を埋め尽くしていた鉱石花は跡形もなく姿を消していた。洞窟の外に広がるのは、白い砂漠だけだ。適温の柔らかい日差しの中を、ただ歩いていく。
目指す方向を指示するシュウにはいっさいの迷いがなかったが、目的地に着いてみれば何のことはない。そこは、墜落地点にほど近い、アハトとシュウが巨大ムカデから逃げたときに使用したオアシスだった。
「シュウ、このオアシスの水は飲めねぇんだよ。俺が身をもって証明しただろ」
ようやくこの星で飲める水にありつけるかと期待していただけに、アハトはひどく気落ちした。
「そもそも、ここではあの寒さを凌げないね。いまから急いで戻ろう。それで何とかなるかはわからないが」
螺鈿もアハトと同様に落胆の表情を浮かべ、アハトの体を引き寄せながら方向転換しようとする。
シュウはそんな螺鈿を引き留めるように、立ち止まったまま首を振った。
「待って。この水を飲むんじゃないんだ。シュウが二人を連れていきたいのはこの先。この池の中に入るんだよ」
「はあ? こんな得体の知れない水の中に入ってどうすんだよ。俺みたいに身動き取れなくなるのがオチだぞ。それか三人で安楽死でもするつもりか」
その突拍子もない指示にアハトがきつく言葉を返すが、シュウは動じない。
「アハトも螺鈿も死なせないよ。この池から、別の洞窟に繋がってるんだよ。シュウが二人を連れて行くから、安心して。この池の水を飲まないように、目と口を閉じて、息を止めていてくれれば、それでいいから」
「どうして、こんな池が別の洞窟に繋がってるなんてことがわかるんだよ」
「シュウたちがいた洞窟の奥にも地底湖があったでしょ? だったら、もしかしたらこのオアシスもどこかに繋がってるんじゃないかと思って、試してみたんだ。そうしたら、本当に別の洞窟につながってたんだよ。そこはすごく安全そうだったし、寒さも凌げる。飲める水もある」
あまりにも信じ難い話だった。アハトは絶句し、それでも必死に言い募るシュウのことを完全に突っぱねる判断もできないでいる。
と、シュウがアハトの手を握った。
「ダイジョーブ。シュウのことを、信じて」
シュウはアハトに肩を貸したまま顔を覗き込み、曇りひとつないまっすぐな眼差しを向ける。その真剣で真摯な表情を見返して、アハトは深くため息を漏らした。
シュウが池の中に入ってみようと思い、それを実践したことも、池の中がそのような洞窟に繋がっていることも信じ難い。しかしこの星に墜落してからというもの、あまりにも信じ難いことばかりなのだ。
「わかった」
「いやでも、池の中を移動するって言ったって、僕は泳げないよ。アハトもそうだろう」
頷くアハトに危機感を覚えた様子で、今度は螺鈿が慌てて言葉を返す。
イザナミの下層に遊泳用途のプールなどあるわけもなく、イザナミで暮らす人間のほとんどが泳ぎを習得していない。そもそも一部の上層市民を除き、湯船に浸かるという習慣すらないのだ。
水に入るという行為自体にも恐怖感があって当然だが、シュウは特に問題ないと頷いた。
「池の底を歩けるから、心配しないで。シュウに任せて、ね?」
いくらシュウに説得されようが、未知なる行為への不安は拭えない。
それでも時間をかけ、螺鈿とアハトはシュウに引きずられるような形で池の淵へと立った。ここまで来てしまえば、もはや覚悟を決めるより他ない。
「行くよ」
有無を言わさず、シュウが声をかける。螺鈿とアハトは不安と恐怖に顔を引き攣らせながらも、池の中へと足を踏み出した。
池はいきなり深く、一歩水の中へと踏み入れただけで、膝の辺りまで沈み込む。三人とも靴とつなぎは着たままであり、布地の中にじわじわと水が染みてくる、ひどく冷たい感触を肌で感じた。
シュウに導かれるままに池の中を歩き、一歩一歩と進んでいくたびに、白濁りした池の水に浸かっていく。体のほとんどが水に浸かってしまうと、芯から冷える寒さに体が小刻みに震え出す。
「シュウっ……」
アハトは顔をあげ、水面から首を出した状態であえいだ。不思議と池の水の中で浮力は働かず、地上にいるときと同様に、底に足がついている。これ以上深みに進めば、全身が水の中に浸かる。
「目を閉じて。息を吸って、止めて。さあ、入るよ」
シュウの落ち着いた声は、まるで二人へ催眠術をかけるかのように的確に指示を続け、ついに三人は池の中へと沈み込んだ。
頭の先まで水に入ってしまえば、すべての地上の音は遠く消え去り、水中のこぽこぽという優しい音だけがする別世界となった。目を閉じた暗闇の中で、アハトは妙な落ち着きを覚える。
視覚に頼らなくとも、全身を包む水がすい、すいと流れていく感触に、自身の体がシュウに導かれるままに水中を移動していることがわかる。緩やかに足を動かしながら、アハトが抱えているいま唯一の不安は、自分の息がどこまで続くかということだった。
大きな変化が生じたのは、水中の移動を続け、息を止めていることへの限界を感じた時だ。
落とし穴に落ちたかのように唐突に、アハトの足の裏から池の底の感触が消え失せた。そして、水底へと引き摺り込まれるように体が一度深く沈み込み、臓腑が浮き上がった感覚が襲った次の瞬間に、今度は全身が急浮上する。
「っ……!」
水面に顔を出し、アハトは大きく息を吸い込んだ。甘く感じる空気が肺を満たし、安堵を覚えると共に、辺りの景色が一変していることに気がつく。
オアシスの池に入る前、頭上に広がっていたのは青空だったが、いま見えているのは、夜空と勘違いしそうなほど巨大で高い洞窟の天井だった。
暗いが、それでも自分が洞窟の中にいるということがわかるのは、ウォータライトとは別に、洞窟の中のどこかに仄明るい光源があるからだ。
「ほら、ダイジョーブだったでしょ?」
隣から変わらぬ明るい声が聞こえてアハトが視線を向けると、シュウは変わらずそこにいて、アハトの体を支えていた。荒く呼吸を繰り返しているばかりだが、螺鈿も無事だ。
オアシスの池の中を歩いていたのは止めた息が続くまでで、それほど長い時間ではないはずだ。しかし、三人が浮上したのは大きな地底湖の中心に近いあたりだった。底に足が着いていない。
底を歩けるほどに体が沈み込んだ先程までとは違い、逆に今は浮く努力をしなくても体が水面に浮き上がる。水の中を移動してきただけで、その水の性質まで変わったということ自体が奇妙であった。
「アハト。今の感覚、イザナミがポータルを超えるときに似ていなかったか」
横にいる螺鈿が、アハトの耳元に口を寄せて囁いてくる。
ポータルというのは、端的に言えば空間の裂け目だ。ポータルからポータルへ移動することで大幅なショートカットができるため、宇宙空間という莫大なる遠距離を移動するときに利用する。
イザナミは人為的にポータルを開ける技術を有しているが、本来は天文学規模の超低確率で自然と開閉を繰り返すものである。
「わからないでもないが、こんなところに安定したポータルがあるわけないだろう」
「それはそうだが……」
螺鈿とアハトが小声で会話をしているうちに、シュウに引かれる形でなんとか岸につく。
浮力の高い水から上がると、体には重力と共に溜まっていた疲れがどっと襲いくる。色々と考えなければならないことはあるが、アハトには岸辺でしばし息を整える時間が必要だった。
囚人たちがキャンプ地にしていたあの洞窟と同じ性質の、黒曜石のような岩盤の上に横になったアハトは、あたりの様子を確かめるために視線を巡らせる。
ここはシュウが説明していたとおりに、洞窟の中らしきドーム状の空間だ。しかもかなりの広さがある上、ぱっと見渡した限りでは出入り口が見当たらない。つまりこの地下空間から出るには、また水の中を通っていく必要があるということだ。
そうして、地下空間の暗い天井をよくよく観察しようと見上げた瞬間。アハトは、とんでもないものを発見することになる。
囚人たちの真上に覆い被さるように、洪大(こうだい)なる蜘蛛のような星棲生物が存在していた。
それは地下空間の天井に張り付いており、むしろ天井そのもののように見えた。
本体は人面タニシの裏側についてたような、艶やかな粒が球状に房になっている。赤の部分が多いが、その他にもさまざまな色に変化しながら仄かに発光していた。よくよく見れば、その粒は一つ一つが複眼のようにさらなる細かい粒の集合体になっていた。
整然とした美しさがあり無機物にも感じられるものだが、全体が呼吸するように緩やかな膨張と収縮を繰り返していることから、それが一つの大きな生命体であることは疑いようがない。
巨大な中心部からは木の根のように無数の節足が放射状に伸び、地面となる岩盤部分まで到達している。つまりこの星棲生物こそが、数十メートルの高さがある地下空間全体を覆っているのである。言うなれば、ここは巨大星棲生物の巣だ。
「無理、だ」
息が止まるほど全身を強張らせていたアハトは、ようやく喉から声を絞り出した。続く言葉はなく、その一言に万感の想いが籠っている。
巨大ムカデもアハトの戦意を喪失させるほどの迫力があったが、この星棲生物の放つ威圧感は、とてもではないが比にならない。例えるならば、猛獣を目の前にしたときの恐怖と、大地震が襲いくるときの恐怖を比較するようなものだ。
打倒を考えること自体無謀にすぎるが、そもそも逃げ出すことすら行動する前に無理だと悟る威容。
アハトの隣で同じものに気づいた螺鈿は膝をつき、悲鳴を漏らさないように口元を両手で強く覆っていた。
空間を支配する星棲生物がその気になれば、己の命など一瞬で掻き消える。事態をそう正しく理解しているが故に、ただひたすらに気配を消すよう努めることしかできないでいるのだ。
ふと、シュウが歩き出す。
彼は空間の壁際まで行くと、あろうことかそこに垂れ下がる星棲生物の節足の一つを掴んで、アハトと螺鈿の元へと引っ張ってきた。
その節足は本体に近い付け根部分が最も太く、先に行くに従って細くなっていっている。シュウが掴んでいる部分は、人間の腕ほどの太さがあった。
シュウのとんでもない行動に、アハトは目を剥いた。螺鈿にいたっては驚愕のあまりに放心状態になっている。
「アンタ、なにしてんだ」
叫び出したい衝動を堪え、アハトは押し殺した声で尋ねた。普段となにも変わらぬ様子でシュウが微笑む。
「心配しないで。シュウも最初驚いたけど、これ、自分からは動かないみたいなんだ。それよりこの先端を見て」
シュウが示す黒光りした節足の先端には、赤みの混じった半透明な液体が滴っていた。色的にも様子からしても、生物の体液のように見える。
「もしかして、飲める水ってそれのこと言ってんのか」
——頼むから違うと言ってくれ。
渾身の願いを込めて問いかけたアハトだったが、シュウはあっさりと頷いて肯定の意を示した。
「そうだよ。口をつけて吸うと、結構な量が出てくるんだ」
そう説明できるということは、シュウは実際に得体の知れない節足の先端に口をつけて飲んだということだ。
アハトは思わず天を仰ぐ。
ここはそもそも閉ざされた地下空間であり、上を見ても不気味な星棲生物しか見えない。イザナミで生まれ育ったアハトはそもそも空に神がいるなどということは信じていないのだが、人間とは、絶望的な状況に追い込まれると、自然と上を向く生き物のようだ。
ふと、螺鈿が笑い出した。
はじめは肩を震わせているだけだったが、次第に笑い声のボリュームが上がっていく。
いままで息を潜めていたところから一転、なににも憚らず笑い続ける螺鈿の姿にアハトはギョッとする。
「急にどうした螺鈿。なにがおかしい」
「薄々、そうじゃないかとは思っていたんだよ。ただ、いまになってわかってしまった気がする。シュウ、君は……」
螺鈿は一度そこで言葉を切ってから迷い、言葉を探すように間を置いた。
「人間ではない。そうだろう? いったい、どういう仕組みになっているのかはわからない。ただ少なくとも、僕たちとポッドに乗って共にやってきた六人目の囚人は、ポッドが岩にめり込んで墜落したときに、たしかに死んでいた」
螺鈿の言わんとしていることの意味がわからず、アハトは幾度も目を瞬く。
「だからあのときは、仮死状態になってたんだろ。シュウはどこからどう見たって人間だろうが」
「『大怪我を負って仮死状態になっていたが、そこから奇跡の復活を遂げることができた』と。仮にそれが可能だとしても、どうしたって辻褄が合わないんだよ」
螺鈿はそう言うと、感情がいまいち読み取れないシュウの顔を見た。シュウは戸惑っているだけで、螺鈿の言葉に怒る様子も、慌てる様子もない。
「何の辻褄だ」
再度問いかけるのは、シュウ本人ではなくアハトである。
「アハト、君が僕に教えてくれたんだよ。僕たち囚人の中に『イザナミ史上最悪の殺人鬼がいる』ってね。君は、その殺人鬼は誰だったと思っているんだい?」
「それは……堂島、だろう」
自信なくアハトが答えると、螺鈿はすぐさま首を横に振る。
「堂島はどこまで行っても損得勘定で物事を考えるだけの利己的な人間だ。自分に利益があるなら他人などどうなっても良いと考えるところは実にサイコパスだが、彼は人を殺して得られるメリットを考えているだけで、『殺人』自体に楽しみを見出しているわけではない。それに、エイタが堂島の起こした事件のことを知っていたように、堂島が逮捕されたのは、少なくともエイタが逮捕されるよりも前の話だ。問題の殺人鬼は、僕たちの中で最後に逮捕されたはずだろう?」
「だったら、吉野だ」
アハトが間髪入れずに言うと、螺鈿は再度首を横に振る。
「スプレンディング社の主任研究員が殺された事件は堂島も知っていたんだよ。つまり、吉野が逮捕されたのは堂島が逮捕されたときより前であることが確定している。それに、吉野が人を殺めるときの動機は恐怖を元にした恨みだ。恨みを晴らすために殺害には残忍な手法を取っているが、見ず知らずの人間を連続して殺していくシリアルキラーの要素はない」
螺鈿の説明は完璧だ。言葉に詰まるアハトを見て、螺鈿は目を細める。
「アハト。君ももう、わかっているんだろう? エイタは、ただひたすらに力の快楽に酔っていただけだ。彼の裡(うち)にある暴力を抑えきれず、その結果として人を殺してしまう。だが、拷問や食人を楽しむようなタイプではない。じゃあ、残る選択肢は誰だっていう話だ」
アハトは深くため息を漏らした。
「シュウが、その『イザナミ史上最悪の殺人鬼』だって言いたいのか」
その可能性について、アハトも考えなかったわけではない。なにせシュウは、自分が逮捕されるきっかけとなった事件を、囚人たちの中で唯一明かしていないからだ。
ふと、ここまで黙って話を聞いていたシュウが言葉を挟む。
「シュウはこの星に来るまでのことを覚えてないから、どうして逮捕されたのか、わからないんだ。もしかしたらすごく酷いことをしてしまったのかもしれないけど、そのことについてはナニも言えない」
シュウ自身の弁明を聞き、アハトは彼への信頼を表すように、シュウの腕にそっと手をかけた。アハトにとっては、囚人たちの中にイザナミ史上最悪の殺人鬼が紛れ込んでいたことなど、最早どうでも良くなっている。
いままで共に過ごしてきた日々と数々あったできごとの中で、シュウと螺鈿への信頼は揺るぎないものとなっていたからだ。
しかし、螺鈿は再度昏い笑い声をたてた。
「『記憶喪失』っていうのは、そんなに便利なものじゃ無いんだ。自己同一性に関わるすべてのことを忘れてしまったのだとしても、失われるのは記憶だけだ。人格が変化するわけじゃない。つまり記憶をなくしたとしても、悪人は善人にはなりえない」
螺鈿の眼差しは、真っ直ぐにシュウへ向いている。
「そもそも記憶喪失という話自体が嘘で、善人の演技をしている可能性も考えた。しかしアハトが崖から落下したとき、シュウは一秒たりとも躊躇うことなく行動した。自己犠牲の精神は、サイコパスとは真反対にあるものだ。君は、あまりにもいい人すぎるんだよ」
話を向けられているシュウは再び口を閉ざしていた。代わりにアハトが再度問いかける。
「『イザナミ史上最悪の殺人鬼』は記憶を失う前のシュウだった、という話に至るアンタの説明は納得できる。それは認めてもいい。だけど俺もアンタも、イザナミにいた頃のシュウがどんな人物だったかなんてわからないだろ。逮捕のきっかけとなった事件は凄惨なものだったとしても、螺鈿と同じように冤罪の可能性もあるし、なにか事情があったのかもしれない。もしかしたらシュウの人格自体は、いまと変わりないのかもしれない」
「それがわかるんだよ、アハト」
アハトの発言に途中から被せるようにして、螺鈿はさらに声を大きくする。その眼差しには、いままでの螺鈿が見せたこともない、ギラついた光が灯っていた。
「だってねぇ。僕は冤罪なんかじゃないんだよ! 僕はたしかにこの手で何人も患者を凌辱して殺し、証拠隠滅のために死体を薬品で溶かしてきたんだよ。君のように嘘の自首と自供をし、組織ぐるみで証拠を捏造するようなイレギュラーを除けば、イザナミの警察はとても優秀なんだよ」
衝撃の告白にアハトは目を剥いた。それ以降動きを静止して反応らしい反応が取れていなかったが、螺鈿は気にすることなく話し続ける。
「君からは、僕のことがとてもまともな人間に見えていただろう? その理由は三つある。一つ目は、僕がそう装っていたから。二つ目は、僕にはその場における正しい振る舞いができるだけの知性があるから。三つ目は、この星には女がいないからだよ」
三つ目の理由を話すとき、螺鈿は左側の口角を上げて笑った。
「もし囚人たちの中に好みの女がいたら、僕はどんな手を使ったとしてもそいつを手に入れ、欲望を果たしていただろうね。男ばかりだったことが、僕にとって残念だったのか幸運だったのかはわからないが、この環境下だからこそ、僕は僕の思う、理想的な姿で振る舞うことができていた。ただ吉野は邪魔すぎたから、あそこで死んでもらったが」
「吉野のことを刺してしまったのは、もつれあった弾みじゃなかったんだね」
地面に視線を落としたシュウが呟くと、螺鈿は悪びれる様子もなく首肯する。
「ああ、そうだ。だけど、吉野の場合は楽しみで殺したわけじゃない」
螺鈿の口調は生き生きとしており、いままでになく多弁だった。
「イザナミ史上最悪の殺人鬼にもっとも近いところにいるのは、おそらく僕なんだよ。僕らのような人種はね、なにか別の目標があって、結果として人を殺してしまうわけではなく、殺人という行為自体を楽しむんだ。そしてこの『殺したい』という欲求はね、理性で抑えて我慢できるような、生半可なものじゃない。僕の場合、切り刻んで、犯して、殺してやりたいと思うのは女だけだ。もしその対象に性別が関係なかったとしたら、未知の星の探索という極限状態においても、欲望は必ず吹き出す。近しいからこそわかるんだよ」
螺鈿が問答を重ねた末に辿り着く疑問は、いまや確信に満ちていた。
「シュウ。君は、殺人鬼なんかじゃない。じゃあ誰だ? いや『何』なんだ?」
アハトは唖然としたままその場に座り込んでいたが、螺鈿はゆっくりと立ち上がると、真っ直ぐにシュウを見据えたまま一歩、また一歩と後退りする。背後には、巨大な地底湖が広がっている。
ふと、シュウがため息を漏らした。
「それを話した方が、キミたちはシュウの言うことを信じてくれるのかな?」
何の感情も伝わってこない、落ち着いた声音。そのすべてを受け入れたような態度と言葉は、紛れもなく螺鈿の言葉へ肯定を表すものだった。
目指す方向を指示するシュウにはいっさいの迷いがなかったが、目的地に着いてみれば何のことはない。そこは、墜落地点にほど近い、アハトとシュウが巨大ムカデから逃げたときに使用したオアシスだった。
「シュウ、このオアシスの水は飲めねぇんだよ。俺が身をもって証明しただろ」
ようやくこの星で飲める水にありつけるかと期待していただけに、アハトはひどく気落ちした。
「そもそも、ここではあの寒さを凌げないね。いまから急いで戻ろう。それで何とかなるかはわからないが」
螺鈿もアハトと同様に落胆の表情を浮かべ、アハトの体を引き寄せながら方向転換しようとする。
シュウはそんな螺鈿を引き留めるように、立ち止まったまま首を振った。
「待って。この水を飲むんじゃないんだ。シュウが二人を連れていきたいのはこの先。この池の中に入るんだよ」
「はあ? こんな得体の知れない水の中に入ってどうすんだよ。俺みたいに身動き取れなくなるのがオチだぞ。それか三人で安楽死でもするつもりか」
その突拍子もない指示にアハトがきつく言葉を返すが、シュウは動じない。
「アハトも螺鈿も死なせないよ。この池から、別の洞窟に繋がってるんだよ。シュウが二人を連れて行くから、安心して。この池の水を飲まないように、目と口を閉じて、息を止めていてくれれば、それでいいから」
「どうして、こんな池が別の洞窟に繋がってるなんてことがわかるんだよ」
「シュウたちがいた洞窟の奥にも地底湖があったでしょ? だったら、もしかしたらこのオアシスもどこかに繋がってるんじゃないかと思って、試してみたんだ。そうしたら、本当に別の洞窟につながってたんだよ。そこはすごく安全そうだったし、寒さも凌げる。飲める水もある」
あまりにも信じ難い話だった。アハトは絶句し、それでも必死に言い募るシュウのことを完全に突っぱねる判断もできないでいる。
と、シュウがアハトの手を握った。
「ダイジョーブ。シュウのことを、信じて」
シュウはアハトに肩を貸したまま顔を覗き込み、曇りひとつないまっすぐな眼差しを向ける。その真剣で真摯な表情を見返して、アハトは深くため息を漏らした。
シュウが池の中に入ってみようと思い、それを実践したことも、池の中がそのような洞窟に繋がっていることも信じ難い。しかしこの星に墜落してからというもの、あまりにも信じ難いことばかりなのだ。
「わかった」
「いやでも、池の中を移動するって言ったって、僕は泳げないよ。アハトもそうだろう」
頷くアハトに危機感を覚えた様子で、今度は螺鈿が慌てて言葉を返す。
イザナミの下層に遊泳用途のプールなどあるわけもなく、イザナミで暮らす人間のほとんどが泳ぎを習得していない。そもそも一部の上層市民を除き、湯船に浸かるという習慣すらないのだ。
水に入るという行為自体にも恐怖感があって当然だが、シュウは特に問題ないと頷いた。
「池の底を歩けるから、心配しないで。シュウに任せて、ね?」
いくらシュウに説得されようが、未知なる行為への不安は拭えない。
それでも時間をかけ、螺鈿とアハトはシュウに引きずられるような形で池の淵へと立った。ここまで来てしまえば、もはや覚悟を決めるより他ない。
「行くよ」
有無を言わさず、シュウが声をかける。螺鈿とアハトは不安と恐怖に顔を引き攣らせながらも、池の中へと足を踏み出した。
池はいきなり深く、一歩水の中へと踏み入れただけで、膝の辺りまで沈み込む。三人とも靴とつなぎは着たままであり、布地の中にじわじわと水が染みてくる、ひどく冷たい感触を肌で感じた。
シュウに導かれるままに池の中を歩き、一歩一歩と進んでいくたびに、白濁りした池の水に浸かっていく。体のほとんどが水に浸かってしまうと、芯から冷える寒さに体が小刻みに震え出す。
「シュウっ……」
アハトは顔をあげ、水面から首を出した状態であえいだ。不思議と池の水の中で浮力は働かず、地上にいるときと同様に、底に足がついている。これ以上深みに進めば、全身が水の中に浸かる。
「目を閉じて。息を吸って、止めて。さあ、入るよ」
シュウの落ち着いた声は、まるで二人へ催眠術をかけるかのように的確に指示を続け、ついに三人は池の中へと沈み込んだ。
頭の先まで水に入ってしまえば、すべての地上の音は遠く消え去り、水中のこぽこぽという優しい音だけがする別世界となった。目を閉じた暗闇の中で、アハトは妙な落ち着きを覚える。
視覚に頼らなくとも、全身を包む水がすい、すいと流れていく感触に、自身の体がシュウに導かれるままに水中を移動していることがわかる。緩やかに足を動かしながら、アハトが抱えているいま唯一の不安は、自分の息がどこまで続くかということだった。
大きな変化が生じたのは、水中の移動を続け、息を止めていることへの限界を感じた時だ。
落とし穴に落ちたかのように唐突に、アハトの足の裏から池の底の感触が消え失せた。そして、水底へと引き摺り込まれるように体が一度深く沈み込み、臓腑が浮き上がった感覚が襲った次の瞬間に、今度は全身が急浮上する。
「っ……!」
水面に顔を出し、アハトは大きく息を吸い込んだ。甘く感じる空気が肺を満たし、安堵を覚えると共に、辺りの景色が一変していることに気がつく。
オアシスの池に入る前、頭上に広がっていたのは青空だったが、いま見えているのは、夜空と勘違いしそうなほど巨大で高い洞窟の天井だった。
暗いが、それでも自分が洞窟の中にいるということがわかるのは、ウォータライトとは別に、洞窟の中のどこかに仄明るい光源があるからだ。
「ほら、ダイジョーブだったでしょ?」
隣から変わらぬ明るい声が聞こえてアハトが視線を向けると、シュウは変わらずそこにいて、アハトの体を支えていた。荒く呼吸を繰り返しているばかりだが、螺鈿も無事だ。
オアシスの池の中を歩いていたのは止めた息が続くまでで、それほど長い時間ではないはずだ。しかし、三人が浮上したのは大きな地底湖の中心に近いあたりだった。底に足が着いていない。
底を歩けるほどに体が沈み込んだ先程までとは違い、逆に今は浮く努力をしなくても体が水面に浮き上がる。水の中を移動してきただけで、その水の性質まで変わったということ自体が奇妙であった。
「アハト。今の感覚、イザナミがポータルを超えるときに似ていなかったか」
横にいる螺鈿が、アハトの耳元に口を寄せて囁いてくる。
ポータルというのは、端的に言えば空間の裂け目だ。ポータルからポータルへ移動することで大幅なショートカットができるため、宇宙空間という莫大なる遠距離を移動するときに利用する。
イザナミは人為的にポータルを開ける技術を有しているが、本来は天文学規模の超低確率で自然と開閉を繰り返すものである。
「わからないでもないが、こんなところに安定したポータルがあるわけないだろう」
「それはそうだが……」
螺鈿とアハトが小声で会話をしているうちに、シュウに引かれる形でなんとか岸につく。
浮力の高い水から上がると、体には重力と共に溜まっていた疲れがどっと襲いくる。色々と考えなければならないことはあるが、アハトには岸辺でしばし息を整える時間が必要だった。
囚人たちがキャンプ地にしていたあの洞窟と同じ性質の、黒曜石のような岩盤の上に横になったアハトは、あたりの様子を確かめるために視線を巡らせる。
ここはシュウが説明していたとおりに、洞窟の中らしきドーム状の空間だ。しかもかなりの広さがある上、ぱっと見渡した限りでは出入り口が見当たらない。つまりこの地下空間から出るには、また水の中を通っていく必要があるということだ。
そうして、地下空間の暗い天井をよくよく観察しようと見上げた瞬間。アハトは、とんでもないものを発見することになる。
囚人たちの真上に覆い被さるように、洪大(こうだい)なる蜘蛛のような星棲生物が存在していた。
それは地下空間の天井に張り付いており、むしろ天井そのもののように見えた。
本体は人面タニシの裏側についてたような、艶やかな粒が球状に房になっている。赤の部分が多いが、その他にもさまざまな色に変化しながら仄かに発光していた。よくよく見れば、その粒は一つ一つが複眼のようにさらなる細かい粒の集合体になっていた。
整然とした美しさがあり無機物にも感じられるものだが、全体が呼吸するように緩やかな膨張と収縮を繰り返していることから、それが一つの大きな生命体であることは疑いようがない。
巨大な中心部からは木の根のように無数の節足が放射状に伸び、地面となる岩盤部分まで到達している。つまりこの星棲生物こそが、数十メートルの高さがある地下空間全体を覆っているのである。言うなれば、ここは巨大星棲生物の巣だ。
「無理、だ」
息が止まるほど全身を強張らせていたアハトは、ようやく喉から声を絞り出した。続く言葉はなく、その一言に万感の想いが籠っている。
巨大ムカデもアハトの戦意を喪失させるほどの迫力があったが、この星棲生物の放つ威圧感は、とてもではないが比にならない。例えるならば、猛獣を目の前にしたときの恐怖と、大地震が襲いくるときの恐怖を比較するようなものだ。
打倒を考えること自体無謀にすぎるが、そもそも逃げ出すことすら行動する前に無理だと悟る威容。
アハトの隣で同じものに気づいた螺鈿は膝をつき、悲鳴を漏らさないように口元を両手で強く覆っていた。
空間を支配する星棲生物がその気になれば、己の命など一瞬で掻き消える。事態をそう正しく理解しているが故に、ただひたすらに気配を消すよう努めることしかできないでいるのだ。
ふと、シュウが歩き出す。
彼は空間の壁際まで行くと、あろうことかそこに垂れ下がる星棲生物の節足の一つを掴んで、アハトと螺鈿の元へと引っ張ってきた。
その節足は本体に近い付け根部分が最も太く、先に行くに従って細くなっていっている。シュウが掴んでいる部分は、人間の腕ほどの太さがあった。
シュウのとんでもない行動に、アハトは目を剥いた。螺鈿にいたっては驚愕のあまりに放心状態になっている。
「アンタ、なにしてんだ」
叫び出したい衝動を堪え、アハトは押し殺した声で尋ねた。普段となにも変わらぬ様子でシュウが微笑む。
「心配しないで。シュウも最初驚いたけど、これ、自分からは動かないみたいなんだ。それよりこの先端を見て」
シュウが示す黒光りした節足の先端には、赤みの混じった半透明な液体が滴っていた。色的にも様子からしても、生物の体液のように見える。
「もしかして、飲める水ってそれのこと言ってんのか」
——頼むから違うと言ってくれ。
渾身の願いを込めて問いかけたアハトだったが、シュウはあっさりと頷いて肯定の意を示した。
「そうだよ。口をつけて吸うと、結構な量が出てくるんだ」
そう説明できるということは、シュウは実際に得体の知れない節足の先端に口をつけて飲んだということだ。
アハトは思わず天を仰ぐ。
ここはそもそも閉ざされた地下空間であり、上を見ても不気味な星棲生物しか見えない。イザナミで生まれ育ったアハトはそもそも空に神がいるなどということは信じていないのだが、人間とは、絶望的な状況に追い込まれると、自然と上を向く生き物のようだ。
ふと、螺鈿が笑い出した。
はじめは肩を震わせているだけだったが、次第に笑い声のボリュームが上がっていく。
いままで息を潜めていたところから一転、なににも憚らず笑い続ける螺鈿の姿にアハトはギョッとする。
「急にどうした螺鈿。なにがおかしい」
「薄々、そうじゃないかとは思っていたんだよ。ただ、いまになってわかってしまった気がする。シュウ、君は……」
螺鈿は一度そこで言葉を切ってから迷い、言葉を探すように間を置いた。
「人間ではない。そうだろう? いったい、どういう仕組みになっているのかはわからない。ただ少なくとも、僕たちとポッドに乗って共にやってきた六人目の囚人は、ポッドが岩にめり込んで墜落したときに、たしかに死んでいた」
螺鈿の言わんとしていることの意味がわからず、アハトは幾度も目を瞬く。
「だからあのときは、仮死状態になってたんだろ。シュウはどこからどう見たって人間だろうが」
「『大怪我を負って仮死状態になっていたが、そこから奇跡の復活を遂げることができた』と。仮にそれが可能だとしても、どうしたって辻褄が合わないんだよ」
螺鈿はそう言うと、感情がいまいち読み取れないシュウの顔を見た。シュウは戸惑っているだけで、螺鈿の言葉に怒る様子も、慌てる様子もない。
「何の辻褄だ」
再度問いかけるのは、シュウ本人ではなくアハトである。
「アハト、君が僕に教えてくれたんだよ。僕たち囚人の中に『イザナミ史上最悪の殺人鬼がいる』ってね。君は、その殺人鬼は誰だったと思っているんだい?」
「それは……堂島、だろう」
自信なくアハトが答えると、螺鈿はすぐさま首を横に振る。
「堂島はどこまで行っても損得勘定で物事を考えるだけの利己的な人間だ。自分に利益があるなら他人などどうなっても良いと考えるところは実にサイコパスだが、彼は人を殺して得られるメリットを考えているだけで、『殺人』自体に楽しみを見出しているわけではない。それに、エイタが堂島の起こした事件のことを知っていたように、堂島が逮捕されたのは、少なくともエイタが逮捕されるよりも前の話だ。問題の殺人鬼は、僕たちの中で最後に逮捕されたはずだろう?」
「だったら、吉野だ」
アハトが間髪入れずに言うと、螺鈿は再度首を横に振る。
「スプレンディング社の主任研究員が殺された事件は堂島も知っていたんだよ。つまり、吉野が逮捕されたのは堂島が逮捕されたときより前であることが確定している。それに、吉野が人を殺めるときの動機は恐怖を元にした恨みだ。恨みを晴らすために殺害には残忍な手法を取っているが、見ず知らずの人間を連続して殺していくシリアルキラーの要素はない」
螺鈿の説明は完璧だ。言葉に詰まるアハトを見て、螺鈿は目を細める。
「アハト。君ももう、わかっているんだろう? エイタは、ただひたすらに力の快楽に酔っていただけだ。彼の裡(うち)にある暴力を抑えきれず、その結果として人を殺してしまう。だが、拷問や食人を楽しむようなタイプではない。じゃあ、残る選択肢は誰だっていう話だ」
アハトは深くため息を漏らした。
「シュウが、その『イザナミ史上最悪の殺人鬼』だって言いたいのか」
その可能性について、アハトも考えなかったわけではない。なにせシュウは、自分が逮捕されるきっかけとなった事件を、囚人たちの中で唯一明かしていないからだ。
ふと、ここまで黙って話を聞いていたシュウが言葉を挟む。
「シュウはこの星に来るまでのことを覚えてないから、どうして逮捕されたのか、わからないんだ。もしかしたらすごく酷いことをしてしまったのかもしれないけど、そのことについてはナニも言えない」
シュウ自身の弁明を聞き、アハトは彼への信頼を表すように、シュウの腕にそっと手をかけた。アハトにとっては、囚人たちの中にイザナミ史上最悪の殺人鬼が紛れ込んでいたことなど、最早どうでも良くなっている。
いままで共に過ごしてきた日々と数々あったできごとの中で、シュウと螺鈿への信頼は揺るぎないものとなっていたからだ。
しかし、螺鈿は再度昏い笑い声をたてた。
「『記憶喪失』っていうのは、そんなに便利なものじゃ無いんだ。自己同一性に関わるすべてのことを忘れてしまったのだとしても、失われるのは記憶だけだ。人格が変化するわけじゃない。つまり記憶をなくしたとしても、悪人は善人にはなりえない」
螺鈿の眼差しは、真っ直ぐにシュウへ向いている。
「そもそも記憶喪失という話自体が嘘で、善人の演技をしている可能性も考えた。しかしアハトが崖から落下したとき、シュウは一秒たりとも躊躇うことなく行動した。自己犠牲の精神は、サイコパスとは真反対にあるものだ。君は、あまりにもいい人すぎるんだよ」
話を向けられているシュウは再び口を閉ざしていた。代わりにアハトが再度問いかける。
「『イザナミ史上最悪の殺人鬼』は記憶を失う前のシュウだった、という話に至るアンタの説明は納得できる。それは認めてもいい。だけど俺もアンタも、イザナミにいた頃のシュウがどんな人物だったかなんてわからないだろ。逮捕のきっかけとなった事件は凄惨なものだったとしても、螺鈿と同じように冤罪の可能性もあるし、なにか事情があったのかもしれない。もしかしたらシュウの人格自体は、いまと変わりないのかもしれない」
「それがわかるんだよ、アハト」
アハトの発言に途中から被せるようにして、螺鈿はさらに声を大きくする。その眼差しには、いままでの螺鈿が見せたこともない、ギラついた光が灯っていた。
「だってねぇ。僕は冤罪なんかじゃないんだよ! 僕はたしかにこの手で何人も患者を凌辱して殺し、証拠隠滅のために死体を薬品で溶かしてきたんだよ。君のように嘘の自首と自供をし、組織ぐるみで証拠を捏造するようなイレギュラーを除けば、イザナミの警察はとても優秀なんだよ」
衝撃の告白にアハトは目を剥いた。それ以降動きを静止して反応らしい反応が取れていなかったが、螺鈿は気にすることなく話し続ける。
「君からは、僕のことがとてもまともな人間に見えていただろう? その理由は三つある。一つ目は、僕がそう装っていたから。二つ目は、僕にはその場における正しい振る舞いができるだけの知性があるから。三つ目は、この星には女がいないからだよ」
三つ目の理由を話すとき、螺鈿は左側の口角を上げて笑った。
「もし囚人たちの中に好みの女がいたら、僕はどんな手を使ったとしてもそいつを手に入れ、欲望を果たしていただろうね。男ばかりだったことが、僕にとって残念だったのか幸運だったのかはわからないが、この環境下だからこそ、僕は僕の思う、理想的な姿で振る舞うことができていた。ただ吉野は邪魔すぎたから、あそこで死んでもらったが」
「吉野のことを刺してしまったのは、もつれあった弾みじゃなかったんだね」
地面に視線を落としたシュウが呟くと、螺鈿は悪びれる様子もなく首肯する。
「ああ、そうだ。だけど、吉野の場合は楽しみで殺したわけじゃない」
螺鈿の口調は生き生きとしており、いままでになく多弁だった。
「イザナミ史上最悪の殺人鬼にもっとも近いところにいるのは、おそらく僕なんだよ。僕らのような人種はね、なにか別の目標があって、結果として人を殺してしまうわけではなく、殺人という行為自体を楽しむんだ。そしてこの『殺したい』という欲求はね、理性で抑えて我慢できるような、生半可なものじゃない。僕の場合、切り刻んで、犯して、殺してやりたいと思うのは女だけだ。もしその対象に性別が関係なかったとしたら、未知の星の探索という極限状態においても、欲望は必ず吹き出す。近しいからこそわかるんだよ」
螺鈿が問答を重ねた末に辿り着く疑問は、いまや確信に満ちていた。
「シュウ。君は、殺人鬼なんかじゃない。じゃあ誰だ? いや『何』なんだ?」
アハトは唖然としたままその場に座り込んでいたが、螺鈿はゆっくりと立ち上がると、真っ直ぐにシュウを見据えたまま一歩、また一歩と後退りする。背後には、巨大な地底湖が広がっている。
ふと、シュウがため息を漏らした。
「それを話した方が、キミたちはシュウの言うことを信じてくれるのかな?」
何の感情も伝わってこない、落ち着いた声音。そのすべてを受け入れたような態度と言葉は、紛れもなく螺鈿の言葉へ肯定を表すものだった。
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