バベルの塔の上で

三石成

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第三章 包囲

三 ほん

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 ホゥロは明け方に帰ってきたらしい。

 『らしい』というのは、彼が帰ってきたときの物音には気がつかなかったからだ。朝になって私が目覚めたときには、彼は部屋の布団ですっかり眠り込んでしまっていた。ホゥロが私と一緒に加藤家に忍び込んだのは昼過ぎのこと。それから一晩中起きていたのなら、眠いのも致し方ない。

 今日は朝から真澄の元に御用聞の仕事が複数件入っていて、私も草刈りや送迎の手伝いをしていた。ようやく自由に動けるようになったのは午後五時近くなってからだ。

 私は、寝ているホゥロを置いて、真澄と共に集落の外れに住む哲郎さんを訪ねることにした。西田家は杉原家からそれなりに距離があるので、真澄の運転する軽トラックに乗っていく。

 進んでいるのは、アスファルト舗装はされているものの、山道と呼んで差し支えない道だ。木々の影が濃く長く伸びている。辺りはまだまだ明るいが、夕暮れが近づいてきているのだ。

 運転席を見ると、真澄はどことなく渋い表情を浮かべてていた。

「哲郎さんに会いにいくの、やはり気が進まないか」

「ガキみたいだって思ってんだろ」

「いや。人間誰しも苦手な相手はいるだろう。元々真澄はどんな人とでも仲良くなってしまうから、逆に新鮮ささえ感じるよ」

「あの人は本当に話が通じねぇっていうかさ。家に行っても怒鳴られて追い返される未来しか見えねぇんだけ、ど……あ?」

 言葉の途中で、真澄が戸惑いの声を上げる。

 進んでいた道の目の前に、黄色い規制テープが張られているのが見えてきたのだ。テープの直前まで進んでから停車させると、車を降りる。

「何だ、これ」

「なにかあったのだろうか」

「この先は哲郎さんの家しかねぇはずだけど」

 そこから覗き込むようにして見ると、緩やかにカーブを描いた道の先には、薄汚れた赤い屋根の一軒家が建っている。外からではなにか異変があったようには見えない。

「行って確かめてみよう」

 真澄に声をかけると、規制テープの下を潜って歩いていく。昨日死体を目の当たりにしたことで、私の中であらゆることへの躊躇いがなくなっていた。ある種の覚悟が決まったのだ。

「あ。おい、マジかよ」

 真澄はしばらく戸惑っていたが、私が足を止めることなく家へ歩いていくと、仕方なさそうに、同じく規制テープを潜って後をついてきた。

 西田家は、集落に多くある畑や田んぼの中にある日本家屋とは違い、レトロ感のある洋風な作りの一軒家だった。すべての窓にかかるカーテンは閉め切られており、中の様子は窺えない。庭も含めて家自体にもあまり手入れがされておらず、古びた別荘のような印象がある。

 玄関ポーチの柱には、さらなる規制テープが張られていた。今度は下を潜れないような貼り方だったので、テープを柱の片方から剥がしてしまう。

 ドアへと近づき呼び鈴を押すが、当然のように反応はない。しばらく躊躇った後にノブをひねると、ドアはあっけなく開いた。家の中からは埃っぽい独特の臭気がする。

「ごめんください。西田さん、いらっしゃいませんか」

 念の為声をかけてみるが、返事はない。私の声がただ家の中で空虚に反響するだけである。やはり家の中には誰もいないようだ。無人であれば昨日のように潜入をする必要はないだろうと、少しだけホッとする。

 玄関の三和土たたきで靴を脱いで、フローリング張りの廊下を進む。真澄は私のすぐ後ろをついてきた。

 家の中は全体的に埃っぽく、不衛生だ。靴下の裏があっという間に黒くなる。物は多いが整理されている様子はなく、すべてが乱雑に置かれていた。しかしそれらは何者かによって荒らされたというわけではない。ただ、住民の健全ではない生活態度が窺い知れる。

 廊下を歩き、一つずつ部屋を確かめていく。部屋はどこも同じような様子だったが、その中で気になったのは、多くの書物を積み重ねるようにして収納してある一室だった。あえて名称をつけるのならば『書斎』だが、物が多すぎて、部屋の奥に見えているデスクはとても使い物にならない。

 私がその部屋に興味を引かれた理由は、積み上げられた書物のタイトル中に、多く『穂地』の文字が記載されていたからだ。一番上に積まれ、最も手に取りやすい位置にあった『穂地の文化』という本を手にして、軽く捲って読んでみる。

「そんな本が出されてたんだな。こんな田舎の土地なのに」

「これ、公に出版されたものというよりも、身内のために哲郎さんの祖先が書いたものなのだろう。ほら、著者が西田英彦ひでひこになっている」

 表紙に書かれた名前を確認して、横にやってきた真澄に見せる。

「へぇ。さすが代々村長をやっていた家って言われるだけあるな」

「『外部集落との交流のほとんどを絶っていた穂地村は、独特の文化と宗教観を育んできた』だって……あの、芽石に食糧を奉納する穂実祭のこともやり方が詳細に書かれている。『地下に強大な守神が存在すると考えられており、これらは彼らに対する供物として捧ぐ。不思議なことに、翌年の穂実祭で芽石の中をあらためれば、前年の供物はすべて消え失せているのである』と」

 これらは当然、地下に住んでいた陰の民のことを示している。

「ちょっと、別の場所も見てくる」

 本を読んでいる私にそう言い置いて、真澄が部屋を離れた。

「わかった」 

 私はさらにパラパラとページを捲り、その中の一ページに視線を止めた。『食人』という強烈な単語が目に飛び込んできたからだ。

 そこに書かれている内容を要約すると、以下のようになる。『穂地村特有の文化として、長が亡くなった際には、その肉体の一部を次なる長に食べさせる食人の文化が存在する。これは、特別な人間の肉体を取り込むことで、その者が持つ力自体を継承する意味合いを持つ。長が力を継承していなければ、地下に眠る守神を制御することができなくなるためだ。穂地においてこれは非常に重要なことであり、西洋に侵略された近代文明の批判の対象となるべきものではない』と。

 その文化がいつ途切れたという記述はどこにもない。文章を読む限り、少なくともこの本が書かれたときまでは継続している文化のような印象を受けた。

 次のページには、亡くなった長の体をどのように処理し、次なる長に食べさせるかというやり方が、図解まで伴って詳細に書かれている。喉の肉を開き、短冊状にした上で、鼓膜を貼り合わせるようにし、黒文字の木の油に浸してまとめて干し肉にするのだという。

 理知的に描かれてはいるものの、どう頑張ってもグロテスクにしかならない図解を眺め、本を持っていた私の手は次第に震えはじめた。そのまま本を取り落とす。

 本の内容がショックだったのではない。その、次期長に食べさせるのだという干し肉を、自分が過去に見た記憶が蘇ってきたからだ。


 あの日。穂地村で村長を勤めていたという者の葬儀に行ったときのこと。

 幼かった私は、葬儀の行われていた家の近くの川辺で一人遊んでいた。祖父母はなにか用事があったのか、誰かと話しをしていたのか、そばには誰もいなかった。

 そこに、黒い羽織袴を身につけた一人の老人が近づいてきた。男性は懐から檜皮色の手拭いを取り出し、広げてみせた。手拭いの上には、気味の悪い形状の小さな干し肉のようなものがのっていた。

「大和くん。おじさんの代わりに、食べてくれないか。おじさんは、この場所が嫌いなんだ。だから、なにも欲しくはない。だけど……もしものときのために」

 男は、そんなことを言っていた。私はそんな不気味なものを食べたくなかったし、幼い私には、男の言葉が、なに一つ理解できなかった。いや、幼くなかったとしても、わからなかっただろう。

「もしもって?」

 そう、聞いた気がする。

「万が一、地下から邪悪な奴らが出てきた時に。君がこれを食べていなかったら、君も、君の大切な人たちも皆殺されてしまうよ」

「おじいちゃんとおばあちゃんが、死んじゃうの?」

「そうだ。君がこれを食べないと、死んでしまう」

 当時の私は、先ほど自分が参加してきた葬式がどういったものなのか、しっかりとは理解できていなかった。しかし、死というものをはじめて身近に感じた日であったことは間違いない。そして、両親に捨てられた私にとって、祖父母の死を考えることは、なによりも恐ろしいものだった。

 私は泣いた。泣きながら、差し出された肉を食べた。丸呑みにしてしまったので、味は覚えていない。ただ、特有の芳香がしていたような気がする。

 あの日見た干し肉の図解を目にする今の今まで、私はこのことを忘れ去っていた。それは、このことがあまりにも恐ろしかったからか。男が去り際に『忘れてしまいなさい』と示唆したからか。

 しかし、もしこの本に書かれている内容が本当だとしたら。私が持つ特殊能力は、あのときに発現したものなのではないだろうか。


「ここでなにをしている」

 本を取り落としたまま呆然と立ち尽くしていた私は、背後からかけられた声に不意をつかれて飛び上がった。振り向くと、そこには駐在さんが立っていた。

「大和さん? どうしてあなたが、こんなところに」

「駐在さん、こそ。どうしたのですか」

 咄嗟に、質問で返す。

「規制テープの前に車が止まっているので、誰かが忍び込んだんじゃないかと通報が入ったんですよ。まさか大和さんだとは思いませんでしたが」

 私と駐在さんとの話し声を聞いたのか、別の部屋に行っていた真澄が駆けつけた。駐在さんが真澄の姿を見てまた驚いた表情を浮かべるのを見ながら、真澄は素早く取り繕った事情を説明する。

「俺たちは哲郎さんを訪ねて来たんですよ。大和が帰ってきたことのご挨拶をしようと思ってね。規制テープがあったのはもちろん気づいてたんですが、それでも、もしかしたら家にいらっしゃるのかもしれないと、確かめていたんです」

「規制テープが張ってあったら、普通は中に入らないものですよ」

「本当にすみません。でもほら、哲郎さんなら、もしかしてご本人がそういうことやるかもしれないかな……? とか思ってしまって」

 真澄の説明に、駐在さんはどこか納得したように小さく唸る。哲郎さんの変人ぶりは有名な話らしい。

「それで、なんで規制テープなんか張っていたんですか? 哲郎さんはどうしたんです?」

 真澄が続けて問いかけると、駐在さんは声を低めた。

「哲郎さんは、一週間前にこの家の二階で自殺したんですよ。発見されたのは昨日ですが、哲郎さんには、いまはもう親族という親族もいらっしゃいませんし、遺書でもことを大きくして欲しくないとあったので、噂にもならないように火葬にさせてもらっていました。ですので、お二人もこのことは他言無用でお願いしますよ」

「自殺?」

 哲郎さんがいくら変わり者だったと言っても、このタイミングでの自殺に、潜暗夜がまったく関係ないとは思えなかった。一人、家の中で死んでいたのが発見されたのだとして、それは本当に自殺なのだろうか。適切な捜査がされたのか。

「その現場を見せてもらえませんか。二階ですよね?」

 私は部屋の出入り口前に立っていた駐在さんの横をすり抜け、階段へ向かおうとした。だが、その前に駐在さんに腕を掴まれる。

「ちょっと、ダメですよ。すぐに出てください」

「本当に自殺だったのか、不審な痕跡はないか、確認したいんです。いま、古鳥は……」

 声をかけてきた相手が古鳥の治安を守る駐在さんだという安心感から。私はつい、事情を口にしかけた。駐在さんに事情を説明して理解してもらえたら、対策も、古鳥殲滅を命じている人物探しも、いまより色々なことがずっと楽になる。

 私の行動を制限するために腕を掴んでいる駐在さんを振り返り、その顔を見つめて。ふと、私の脳裏に別の考えが過ぎる。

 駐在さんが陰の民に成り代わられた後の存在でないと、どうしてわかる?

 陰の民は、古鳥の人間の中でも、成り代わることで重要な役割を果たせる人間を選んでいる。古鳥の多くの人が利用していた商店の店主、柏さん。町内会の役員を務め、体格も力も人一倍大きな雄大さん。役所に勤務し、より多くの人との関わりを持つ安倍さん。御用聞きとして多くの人の家に出入りしている真澄も狙われた。

 そんな中で、古鳥で唯一の警察官である駐在さんが狙われないわけがない。商店の中で、成り代わられた後の柏さんと雄大さんも『駐在の東寺敬人は早いうちに始末する必要がある』と話していた。いまなお彼が無事な保証は、どこにもない。

 そしてそれは、駐在さんに限った話ではない。周辺一帯に住む誰が無事で、誰が成り代わられた存在になっているのか。私には知る由もない。握られている腕から伝わってくる彼の手の感触が、ひどく不気味なものに変化したように感じられた。

「古鳥は?」

 急に言葉を途切れさせた私に不審そうな眼差しを向け、駐在さんが問いかけてくる。真っ直ぐに向けられたその瞳の奥に、あの黒いビー玉のような眼球が存在するような気がした。

「いや、なんでもありません。真澄、家に帰ろう」

 私は取り繕うように笑い、玄関へ向かって歩き出した。自然、駐在さんの手が腕から離れる。

 真澄を伴って玄関まで向かうと、背後から駐在さんの言葉がかけられた。

「哲郎さんは、首吊り自殺をして亡くなっていたんですよ。遺書もありましたし、間違いなく自殺です」

「そうでしたか。わざわざ、ありがとうございます」

 返事をすると、私は振り返ることなく西田家を出た。いま、そばにホゥロはいない。ここで彼に不審がられ、駐在さんの皮を被った陰の民に殺すという決断をされたら、おそらく私たちは抵抗できない。一刻も早く、彼から離れたかった。

 道路に張られていた規制テープのところまで戻ってきたところで、真澄に小さな声で問いかけられる。

「どう思う?」

 その声はいままでになく神妙だった。真澄も私と同じような考えに至っていたのだ。

 チラリと振り返ると、私たちが戻ってこないように警戒しているのか、駐在さんは玄関の前に立ってこちらの様子を窺っていた。

 共にテープを潜り、軽トラックに乗り込んだ。ため息と共に、感じたそのままの感想を漏らす。

「実はもう、ことは取り返しのつかない事態になっているのかもしれない」
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