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第二章 潜行
四 なかみ
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その日の午後七時。私はホゥロを伴って柏商店へと向かう夜道を歩いていた。行動するのがこの時間になったのは、日中はホゥロを外に連れ出すことができないからだ。心強いことに、ホゥロだけでなく真澄もついてきてくれている。しかし、彼がホゥロの言葉を疑っていることは、彼の態度や発する言葉の随所にあらわれていた。
「ホゥロが柏さんに妙なことをしようとしたら、殴ってでも止めるからな」
日本語がわからないので当然のことだが、真澄に釘を刺されるようなことを言われていても、ホゥロは動じずに私の後ろを変わらぬ歩調でついてきている。
「私が頼んだから来てくれているだけだぞ」
代わりに私が彼を弁護する。
「どうだかな。はじめからヤバい奴だとは思ってたが、話を聞くほどに胡散臭いやつなんじゃねぇかって気がしてきた」
「真澄は私を信じていないのか? 私の特殊能力や、地下空間の話を受け入れてくれたのではなかったのか」
「大和のことを疑ってるわけじゃねぇよ。ホゥロが信用ならねぇって言ってるんだ」
ぐっと拳を握りながら、真澄は最後にぼやくように言葉を付け加える。
「昼間も普通に話してた柏さんが、実はもう死んでるなんて話、悪趣味すぎるだろ」
程なくして柏商店へ到着した。本日二度目の訪問となる。
柏商店の営業時間は夕方の五時までだ。すでに二時間も過ぎているので、店のシャッターは閉まっている。設置されているベンチの前には、私が落としたかき氷の器が、不思議と片付けられることもなくそのまま残っていた。
呼び出しベルのようなものは見当たらない。どこから声をかけるのかと私がまごついている間に、真澄がシャッターを叩く。
「柏さん、すみませーん」
しばらくの沈黙が続いたが、物理的な呼びかけから程なくして、目の前のシャッターがガラガラと音を立てて開く。昼間見たときと変わらぬ格好のまま姿を現した柏さんは、私の後ろに立つホゥロの姿を見て、ピタリと動きを止める。どこからどう見ても柏さんにしか見えないが、ホゥロに見覚えがなければしない反応なのではないかと私は思った。
しかし、彼女はすぐに視線を真澄に向けると、ごく自然に話しはじめる。
「見てのとおり、今日はもう閉店してるよ」
真澄が応える。
「お休みのところ、本当に申し訳ないです。ただ、買い物に来たわけではないんですよ。大和が柏さんにどうしても聞きたいことがあると言っていて。すみませんが、店に入ってちょっとお話ししてもいいですか」
「かまわないけどね。聞きたいことってなんだね?」
柏さんが体を引いて店の中に入り、真澄と私は後に続く。店の天井には電灯がついていて明るい。ホゥロは眩しそうにこちらへ視線を向けたきり、入り口に立ったまま中に入ろうとしなかった。
一方の柏さんは、ホゥロが眩しがっている明かりの中でも、照明を気にする様子はない。そもそも彼女は、昼間も太陽の強烈な光の中を歩いていた。そんな彼らの反応の違いに、柏さんへの違和感と、ホゥロの話に対する不信感が混じり合う。
真澄に促されて私は一歩柏さんへと近づき、単刀直入に聞くことにした。
「あなたは、陰の民ですか?」
「陰の民? なんの話だかわからないね」
訝しげに眉を寄せ、柏さんが私と真澄を交互に見る。
その至極真っ当な反応に怯みそうになるが、柏さんの顔をじっと見つめて、彼女の中にいる者に伝えることを意識しながら私は言葉を続けた。
「あなたが、昼間に来ていた男性客、雄大さんと二声で話している声を聞きました。敵のすべてを滅ぼすために、始末しなければならない者がいると。しかし、古鳥の人間は敵などではありません。潜暗夜を止めてほしいのです」
柏さんは渋い表情を浮かべて真澄を見ると、彼に助けを求めようとする。
「ちょっと、真澄。アタシにはこの人が何を言っているのか、さっぱりわからないんだけどね。どうかしてくれないかい。敵だとか滅ぼすとかなんとか言われて怖いよ」
助けを求められた真澄も困惑顔だ。ホゥロの話を元より完全には信じていなかったところ、この柏さんの反応は、普通の人間としておかしなところはなにもない。
「あー……すみません。俺にもちょっとよくわかっていなくて」
「さっきホゥロを見たときに、少しだけですが動揺していましたよね。昔からホゥロを知っているからではないのですか」
真澄の言葉を遮るようにして、私は問いかけを続ける。動揺が現れないかと観察するが、柏さんはごく自然な様子で腕を背後で組むと、眉を強く寄せた。
「突然家に奇妙な男が現れたら驚きもするだろう。この人は、病院にでも連れて行ったほうがいいんじゃないかね。頼むから、もう帰っておくれ」
返事は、とりつく島もないものだ。彼女の強硬な姿勢に、自信が徐々に揺らいでくる。私は困惑し、ホゥロへ助けを求めるために振り返る。
その瞬間。
長い白髪を靡かせ、目にも止まらぬ速さでホゥロが動いた。風さえ起こしながら私の横をすり抜ける。
ほぼ同時に、グジュリと、水分を含んだ鈍い音がした。まるで熟れたトマトを握り潰したかのようだ。見ると、なぜか私の真後ろに迫っていた柏さんの腹部を、ホゥロの腕が貫通している。
その常軌を逸した光景に、脳が理解を拒む。
「は……?」
至近距離にいた柏さんとホゥロから距離を取るため、ゆっくりと震える足で後ずさる。
ホゥロの腕が深々と突き刺さった柏さんの腹部からは、血ではなく、タールのようなドス黒い液体が流れ出していた。
「なぜ……」
柏さんが驚愕の表情を浮かべ、ホゥロに問いかけた。彼女の手から、いつの間にか握られていた小さな果物包丁が滑り落ちる。口からは、声と共にゴポリと黒い液体の塊のようなものが出てきた。
そんな彼女の様子を、ホゥロは表情をまったく変えずに見ている。
「軽率に過ぎたな。主様を弑そうとする者を止めるのは当然のことだ」
「主様……? ははは……我らが主は、古鳥の殲滅を、望んでいる……そう、指示を下さった、と……」
柏さんは浅く笑い、途切れ途切れの声で告げると、目を閉じた。小さな体から完全に力が抜け、首が項垂れる。ホゥロが柏さんの肩を抑えてズルリと腕を引き抜くと、彼女の体はそのまま床に落ちた。
体の中でなにかが溶けているかのように、店の床に、黒い液体が染み出してゆっくりと広がっていく。私はなにを言うことも、することもできずに、ただその光景を眺めることしかできないでいた。
我に返ったのは、隣に立っていた真澄の声を聞いてからだ。
「何だ、いまの……」
私と同じく立ち尽くして呆然としている真澄は、床に倒れた柏さん、ホゥロ、私と順番に見て、拳を握る。ホゥロのことを『殴ってでも止める』と言っていた真澄の言葉を思い出し、私はホゥロを庇おうと、慌てて腕を広げる。
「待ってくれ、真澄。ホゥロは悪くないんだ。信じられないかもしれないが、この柏さんは、たしかに柏さんではなくなっていた」
真澄から見れば、ホゥロがただ柏さんを殺したように見えるのではないか。そう思い早口で弁護したが、真澄は握った拳を自身の額に押し当てると、私以上に落ち着いた様子で息を吐き出し頷いた。
「ああ……ああ、大丈夫だ。柏さんのあの動きを見て、わかったよ」
『あの動き』がなにを指すのかがわからず私が首を傾げると、真澄は説明を続けた。
「大和がホゥロの方へ振り向いた瞬間。柏さんが、隠し持ってた包丁でお前を刺そうとしたんだ。刃が背中に刺さる寸前だった。俺がなにも反応できないほどの速さだ。あれはとても、腰と膝を悪くしてる柏さんができる動き方じゃなかった……いや、年齢も関係なく、ただ、人間の動きじゃない」
私は、自分が目を離したときの柏さんのその行動に気がついていなかった。驚きに目を見開くと、ホゥロを見やり問いかける。
「ホゥロは、私を助けてくれたのか?」
「主様をお守りするのは、当然のことです。急を要したため、この者を殺すしか、お守りする術がなかった。しかし、主様はどうして、この者に神語を聞かせてやらなかったのですか?」
返された言葉に、ハッとする。私は、柏さんの中にいる者に向けて話しかけていたつもりだった。しかし、どうやら日本語でしか話せていなかったのだ。見た目が柏さんそのものであったことが、影響していたのだろうか。疑問を浮かべるアイスブルーの瞳から逃れるように、ホゥロから視線を逸らして俯く。彼に、私が本当は彼らの主などではないということを見抜かれそうで怖かった。
床の上には柏さんの遺体があるが、通常の人間の遺体とは明らかに雰囲気が違う。醜く形が崩れ、体の表面に無数の皺のようなものが寄って波打っている。
その姿を見て、『陰の民が人の皮を被る』という話を、私はようやく実感を持って理解することができた。まさしく体の中のものが溶け出して崩れ、皮が残ったという様子に見えたのだ。
「なあ、これ。どうする。駐在さん呼んできた方がいいよな?」
尋常ではない様相を呈している遺体から顔を背け、手で口元を覆った真澄に問いかけられる。肌が日に焼けているのでわかりにくいが、真澄はすっかり顔色が悪くなっていた。
重なる衝撃にそのあたりの感覚が鈍くなっていたが、よくよく考えれば、遺体はかなりグロテスクな状態だ。
「でも、駐在さんにどう説明するつもりだ。まともに考えれば、ホゥロが殺人犯だということにならないか。柏さんが私を殺そうとして、それをホゥロが止めたという話を、信じてくれると思うか」
問いかけると、真澄は小さく呻いた。そのまま黙り込む。
柏さんの遺体の異常性は誰が見てもわかるが、そこから陰の民の存在を信じてくれる者がどれほどいるかというと、難しいだろうと思われた。私の特殊能力の話はすんなりと信じてくれていた真澄も、柏さんが私を襲おうとしたのを目撃して、ようやく彼女が別の存在に乗っ取られていたということを信じられたのだ。
地底から出てきた人ならざる存在が、人になり代わって侵略を企んでいるという話を信じるよりも、私と真澄、ホゥロの三人が非道な方法で柏さんをリンチしたと推察する方が、まだ現実的だ。
私と真澄が言葉を失っていると、ホゥロが動いた。彼は柏さんの遺体の横にゆっくりとしゃがみ込むと、手を伸ばし、彼女の頬の辺りを撫でるような仕草をした。
「主様、この者の亡骸を我にいただけませんか」
「どうするつもりだ」
「我が喰らいます」
至極当然と言わんばかりにされた返答に、一瞬言葉に詰まる。
「……これを、食べると言っているのか」
「はい。この者が主様にしようとした行為は、けっして許されるものではありません。しかし、これはいまでも我の同胞です。喰らいて弔います」
ホゥロが同胞と口にしたときの声音には、親しい者に呼びかけるような優しさが窺えた。いままで、床の上の遺体は恐ろしくグロテスクなものにすぎなかった。だがその一言で、ホゥロが私を守るために仲間を殺したのだという事実を突きつけられる。
「死んだ者を食べるのが、陰の民の弔いなのか」
「はい。地の底の飢饉は凄まじいものです。より多くの者を生かすため、生きている仲間でも喰らうしかありませんでした。長たる我は人の姿を保つため、優先して地上の食べ物が与えられていましたが。それでも、死んだ者の体は、皆で喰らい弔うのです」
ホゥロの口調は淡々としているが、地下での生活の苦しさや生々しさは十分に伝わってくる。同族の遺体を食べるという行為は、とても理解ができるものではない。しかし、一定の文化を持つ集団の行動や習慣を、自分と違うというだけで否定することは憚られた。
僅かな逡巡の後、私は頷く。
「わかった。ホゥロに任せる」
「わがままをお許しくださり、ありがとうございます。お目汚しが過ぎますので、しばし席を外してくださいますか。先に戻られていても構いませんが」
「いや……放置しておくこともできない。外で、待っている」
「かしこまりました。すべて済みましたら、お呼びいたします。恐れながら、灯りを消すことはできますでしょうか。どうも眩しくてかないません」
ホゥロからの要望を受けて、私は真澄を見る。
「店の電気のスイッチ、どこにあるかわかるか?」
「ああ……それなら、奥にあると思う。どうするんだ?」
「灯りを消して欲しいらしい」
真澄は不思議そうな表情を浮かべたが、商店の奥に入っていくと、照明のスイッチを操作した。店内が暗闇に沈む。
「ありがとう。真澄、少し、私と二人で外に出ていよう」
戻ってきた真澄に声をかける。
「どうするんだ?」
「……ホゥロが、仲間の弔いをするらしい」
いまからホゥロが目の前に転がる不気味な遺体を食べるのだとは、口に出して説明はできなかった。しかし、なにか後ろめたいことをするのだとういうことは伝わったのだろう。私が腕を掴んで軽く引くと、真澄は抵抗することなくついてきた。
商店の外に出て、昼間も座ったベンチに、真澄と共に腰掛ける。今日は半月だ。比較的明るい月光が、街灯もない辺りの景色をぼんやりと照らしている。
振り向き、店中の暗闇に目を凝らせば、しゃがみ込んだままのホゥロの大きな背がモゾモゾと動いている様子が窺える。しかし、彼がいま具体的になにをどうしているかは見えない。いや、私はそれを直視しないようにしたのだ。彼が人間の皺皺になった死体や黒い液体を持ち上げ、口に含むのを見てしまったら。これからホゥロのことを、まともな人間として扱うことができなくなる気がした。
暗闇から視線を引き剥がすようにして、また雲のない夜空を見上げる。田んぼから聞こえてくるカエルの鳴き声に混ざって、グチュグチュという、なにか粘ついたような音がしている。音の発生源を想像すると、また気分が悪くなってくる。
「なんで、こんなことになってんだろうな」
私と同じように不快な音に気が付いたのか、隣り合って話すにしてはやたらと大きな声で、真澄が話しはじめる。
「なんで、柏さんが殺されなきゃならねぇんだよ。田舎で商店をやってるただの婆さんだぞ。旦那さんはもう亡くなって、子供は巣立って都会に出てる。一人でのんびり暮らしてただけじゃねぇか」
「陰の民は、古鳥の人間のすべてを敵だと思って、滅ぼそうとしている」
「なんだよ、敵って。たしかにダムのせいで出入り口が塞がれて、ずっと地表にも出てこれなくて、食糧難で大変だったってのはわかるよ。でも、それは古鳥の人間のせいじゃねぇだろ」
怒りのこもった低い声で言う真澄の言葉に、私は返事をすることができなかった。ただ息を吐き出し、ベンチの背もたれに体を預けながら、思いついたことを話す。
「雄大さんのところに行かないとな。彼もおそらく、陰の民になっている。駐在さんを始末するとかいう話をしていたし、作戦を止めさせねば」
「行ってどうすんだよ? また、今回と同じようなことになるんじゃねぇのか」
投げやりになっている真澄からの問いかけに、私は自然と声を潜める。
「問題は、私のことを信じてくれたホゥロが、地の底に帰れなかったことで、陰の民に接触できなかったことにあるのだ。ホゥロがそう思い込んでくれたように、他の陰の民もまた、私が彼らの主だと思ってくれれば、作戦を止められると思う」
それが作戦を止めさせる唯一の方法だ。
「しかし問題は、私が人の皮を被った陰の民に神語で話しかけられないことだ。さきほども、私は柏さんの中にいた人物に向かって話しかけていたつもりなんだが。私は日本語で話していたんだろう?」
「ああ。お前が話してたのは、普通にずっと日本語だったな」
真澄が頷く。
「そうか……やはり、見た目が古鳥の人間だからだろうか。それとも、皮を被った状態だと、相手が日本語も理解できるからなのか」
顎に指をかけて考え込んでいると、真澄が首を傾げる。
「大和のその特殊能力がどういう仕組みになってるのか、いまいちよくわかんねぇんだけどさ。話す相手を、脳内で勝手に変えるってことはできねぇの? 例えばアメリカ人を想像しながら話したら英語になるみたいなさ」
「いや、見た目やイメージなどは関係ないのだ。あくまで、話しかける相手に応じた言葉になる。例えば、アメリカで生まれ育ち、母国語は英語だが、見た目は完全な日本人っているだろ。そういう相手と話したら、私は相手のことを日本人だと思っていても、自然と英語になっている。そういう、不可解なものなのだ」
私はこの能力を使って生活をし続けているが、それでも特性のすべてを理解できているわけではない。
「ただ、私自身が話す言語を選んでいるわけではない、選べない、というのは鉄則だ」
説明しながら眉を寄せると、真澄が『あ』と声を上げた。
「それならさ、ホゥロと話してる姿を見せればいいんじゃねぇの」
「あ、そうか……」
真澄の言葉に、私は間の抜けた声を上げた。言われてみれば、とても簡単なことだ。どうして柏さんと話しているときに思いつかなかったのかと、いまさら後悔しても遅い。しかし、ようやく問題解決の突破口が見えた気がして、底まで沈んでいた気分が僅かに上向いた。
そのとき、横から声をかけられる。
「主様、お待たせいたしました。終わりました」
見ると、ホゥロが店の出入り口に立っている。
彼が口の周りを血まみれにして出てくるような状況を恐れていたが、彼自身の様子で変わったところはなかった。右腕を中心に浴衣がひどく汚れているが、それは柏さんの腹部を貫いたときについたものだ。
「中に入っても良いのか」
「はい。目に障るものはなくなっておりますので、かまいません」
ホゥロの返事を聞いて私は立ち上がったが、真澄は口を大きく開け、ホゥロの方を向き、硬直したようにベンチに座ったままだ。
「真澄? どうした」
「どうしたって……ホゥロ、お前なんで日本語を話してるんだよ」
ホゥロはゆるりと目を細め、私ではなく真澄を見る。
「我は同胞の亡骸を喰らうため、同時に柏の肉体も喰らった。そのため、柏の記憶の一部も得ることができたのだ。これでお前たちが話していることがわかる」
私にはホゥロの変化を感じることはできなかったが、真澄とホゥロの会話が成立していることは理解できた。それに、いまの彼の言葉は、私に向けたでものではなかった。
「ホゥロ、日本語がわかるようになったのか?」
「はい。いままでなにかと主様にもご迷惑をおかけしておりましたが、これで、真澄を交えての会話の煩わしさがなくなります」
「マジかよ。そんなことができるのか」
ホゥロが私に向けて言った言葉も、真澄は理解している。どうやら、彼はこの瞬間から日本語を話すようになったらしい。地上で生活する上で、日本語が話せるようになるのは良いことだ。
しかし、私は彼の変化を素直に喜ぶことはできなかった。気がかりなのは、私自身が今、何語でホゥロに話しかけているのか、ということだ。もし私も日本語で話すようになってしまったのだとしたら、先ほど真澄と話していた、陰の民にホゥロとの会話を聞かせるという作戦も取ることができなくなってしまう。
だが私は、自分がいま何語を話しているかとこの場で確認することはできなかった。それは、自分がホゥロの本当の主ではないと自ら宣言するに等しい行為だ。
焦燥感を抑えるように、私は胸に手を当て、深く息を吐き出した。
「とりあえずは、柏さんのことをどうするか考えよう」
なんとか平静を装って言うと、二人を連れて店の中へと戻る。
薄暗がりの中、柏さんの無惨な遺体が横たわっていた場所に、もはや彼女の姿はなかった。ただ、床の上に人型をした黒い液体が広がっていた痕跡だけが残っている。
「ホゥロ、遺体をどこかにやったりは、していないのだよな」
問いかけると、ホゥロは頷く。つまり本当に、すべて食べてしまったということだ。
「床の汚れ、掃除しとくか」
そう提案してきたのは、真澄の方からだった。
「私もちょうど、同じようなことを考えていた。片付けて、シャッターを閉めて、あとはなにも知らないふりをしておくことしか、できないと思う」
遺体も存在しなくなったいま、現場を片付けてしまえば、事件性は薄くなる。柏さんが失踪したという騒ぎがどれくらいの早さで起きるかはわからないが、ここにいる私たちが黙っていれば、証拠はなにもない。
真澄が掃除道具を持ってきて、三人がかりで床の汚れを片付けた。タイル張りの商店の床は、黒い汚れを拭ってしまえば痕跡も残らない。雑巾掛けをしている最中に顔を近づけると、黒い液体からは鉄が混じった海産物のような匂いがした。しかしそれも、水で流してしまえば消え失せた。
最後に。万が一を想定し、触れたところの指紋を拭って消していく。失踪事件に発展したとき、捜査が入るかもしれないからだ。正しいことをしているはずなのに、自分の行いがひどく後ろめたい。
「大和、出るぞ」
真澄に促されて店を出ると、シャッターを閉める。
店の前からすぐに離れ、それからしばらくは、誰も言葉を発さなかった。今日は懐中電灯を持ってきていないので、暗い夜道を照らすものもない。点々と灯る街頭を過ぎると、すぐそばを歩くお互いの表情さえも見えなかった。
「真澄。先ほど私がホゥロに話しかけた言葉は、何語だった?」
先を歩くホゥロの背中を見やってから、私は真澄に近寄り、声を潜めて問いかけた。
「お前がホゥロに向かって話してる言葉も、普通に日本語になってたよ」
同じように声を抑え、真澄が囁く。その返事を聞き、私は思わず深く溜息を吐いた。
「なんだ。つまり大和は、その神語っていうのが話せなくなったのか?」
真澄の声が少し大きくなる。
私はシーっと息を漏らして、確認のためにホゥロを見た。だが、彼がこちらを気にする様子はなく、小声での会話を続ける。
「そのようだ……私が主だという証明ができないなら、雄大さんのところへ行っても、また今日と同じようなことになる未来しか見えないな」
「ホゥロは奴らのリーダーなんだろ? ホゥロに止めて貰えばそれで済む話なんじゃねぇのか。元々はそういう話だったろ」
真澄の言うことはもっともだが、昼間に一回頼んで『自分の口から伝えてくれ』と促されてしまった結果が、先ほどのやりとりなのだ。
「それは、そう。だが……私が、実は神語を話せるわけではないということを隠して、どう頼めばいいのか」
「お前は一回襲われたんだから、身の安全のために近づきたくないとか適当言っておけばいいんだよ」
「なるほど」
「とにかく言ってみろって」
真澄との作戦会議は、最後の方はもはや吐息だけの囁き声で行っていた。真澄に顎をしゃくるような動作で促され、私はホゥロの横へと向かう。
「ホゥロ。相談があるのだが」
「はい。どうなさいましたか」
首を傾げ、私を見返してくるホゥロの眼差しは穏やかだ。
「私は、潜暗夜を止めたいと思っている。昼間に柏さんと会話していた雄大さんという男性がいる。彼も陰の民に成り代わられていると思うのだが。彼に会って、ホゥロから作戦を止めるようにと伝えてくれないか」
話しながら、私は頭の奥から振動が響いてくるような奇妙な痛みを感じた。思わず眉を寄せ、こめかみに指先を当てる。
ホゥロはそんな私の様子を無言で見つめていた。向けられている眼差しの穏やかさは変わっていないが、返事はない。その態度からは、彼が私に対して不信感を抱いているのではないかという予感がした。
「ほら。今日もホゥロが止めてくれなかったら、私は殺されていたのだろう。また彼らに近づいて、危険なことがあると……」
「主様。柏の中にいた者の記憶を喰らったことで、わかったことがあります」
真澄から入れ知恵された言い訳をしどろもどろで続けていると、ホゥロが私の言葉を遮った。
「わかったこと?」
「はい。主様以外に、陰の民に古鳥殲滅の命令を下している者がおります。おそらく今の状態で主様が潜暗夜の中止を訴えたところで、聞き入れる者はいないでしょう」
ホゥロの言葉を聞きながら、柏さんが死ぬ直前に口走った『我らが主は、古鳥の殲滅を望んでいる』という言葉を思い出す。たしかにあの言葉は、私以外に別の主がいると示唆している。
もしそれが本当ならば、本物の主は、その別の者だ。なぜならば私は、自分自身が偽りの主人であることを誰よりも認識してるのだから。
「ホゥロは、どう思っている」
返事を恐れながら問いかけるが、私の心配をよそにホゥロは優しく微笑んだ。
「我の、我らの主はあなた様だけです。しかし潜暗夜を止めるには、陰の民に命令を下している者を見つけ、その者を説得するか、除外する必要があるでしょう」
「ホゥロが柏さんに妙なことをしようとしたら、殴ってでも止めるからな」
日本語がわからないので当然のことだが、真澄に釘を刺されるようなことを言われていても、ホゥロは動じずに私の後ろを変わらぬ歩調でついてきている。
「私が頼んだから来てくれているだけだぞ」
代わりに私が彼を弁護する。
「どうだかな。はじめからヤバい奴だとは思ってたが、話を聞くほどに胡散臭いやつなんじゃねぇかって気がしてきた」
「真澄は私を信じていないのか? 私の特殊能力や、地下空間の話を受け入れてくれたのではなかったのか」
「大和のことを疑ってるわけじゃねぇよ。ホゥロが信用ならねぇって言ってるんだ」
ぐっと拳を握りながら、真澄は最後にぼやくように言葉を付け加える。
「昼間も普通に話してた柏さんが、実はもう死んでるなんて話、悪趣味すぎるだろ」
程なくして柏商店へ到着した。本日二度目の訪問となる。
柏商店の営業時間は夕方の五時までだ。すでに二時間も過ぎているので、店のシャッターは閉まっている。設置されているベンチの前には、私が落としたかき氷の器が、不思議と片付けられることもなくそのまま残っていた。
呼び出しベルのようなものは見当たらない。どこから声をかけるのかと私がまごついている間に、真澄がシャッターを叩く。
「柏さん、すみませーん」
しばらくの沈黙が続いたが、物理的な呼びかけから程なくして、目の前のシャッターがガラガラと音を立てて開く。昼間見たときと変わらぬ格好のまま姿を現した柏さんは、私の後ろに立つホゥロの姿を見て、ピタリと動きを止める。どこからどう見ても柏さんにしか見えないが、ホゥロに見覚えがなければしない反応なのではないかと私は思った。
しかし、彼女はすぐに視線を真澄に向けると、ごく自然に話しはじめる。
「見てのとおり、今日はもう閉店してるよ」
真澄が応える。
「お休みのところ、本当に申し訳ないです。ただ、買い物に来たわけではないんですよ。大和が柏さんにどうしても聞きたいことがあると言っていて。すみませんが、店に入ってちょっとお話ししてもいいですか」
「かまわないけどね。聞きたいことってなんだね?」
柏さんが体を引いて店の中に入り、真澄と私は後に続く。店の天井には電灯がついていて明るい。ホゥロは眩しそうにこちらへ視線を向けたきり、入り口に立ったまま中に入ろうとしなかった。
一方の柏さんは、ホゥロが眩しがっている明かりの中でも、照明を気にする様子はない。そもそも彼女は、昼間も太陽の強烈な光の中を歩いていた。そんな彼らの反応の違いに、柏さんへの違和感と、ホゥロの話に対する不信感が混じり合う。
真澄に促されて私は一歩柏さんへと近づき、単刀直入に聞くことにした。
「あなたは、陰の民ですか?」
「陰の民? なんの話だかわからないね」
訝しげに眉を寄せ、柏さんが私と真澄を交互に見る。
その至極真っ当な反応に怯みそうになるが、柏さんの顔をじっと見つめて、彼女の中にいる者に伝えることを意識しながら私は言葉を続けた。
「あなたが、昼間に来ていた男性客、雄大さんと二声で話している声を聞きました。敵のすべてを滅ぼすために、始末しなければならない者がいると。しかし、古鳥の人間は敵などではありません。潜暗夜を止めてほしいのです」
柏さんは渋い表情を浮かべて真澄を見ると、彼に助けを求めようとする。
「ちょっと、真澄。アタシにはこの人が何を言っているのか、さっぱりわからないんだけどね。どうかしてくれないかい。敵だとか滅ぼすとかなんとか言われて怖いよ」
助けを求められた真澄も困惑顔だ。ホゥロの話を元より完全には信じていなかったところ、この柏さんの反応は、普通の人間としておかしなところはなにもない。
「あー……すみません。俺にもちょっとよくわかっていなくて」
「さっきホゥロを見たときに、少しだけですが動揺していましたよね。昔からホゥロを知っているからではないのですか」
真澄の言葉を遮るようにして、私は問いかけを続ける。動揺が現れないかと観察するが、柏さんはごく自然な様子で腕を背後で組むと、眉を強く寄せた。
「突然家に奇妙な男が現れたら驚きもするだろう。この人は、病院にでも連れて行ったほうがいいんじゃないかね。頼むから、もう帰っておくれ」
返事は、とりつく島もないものだ。彼女の強硬な姿勢に、自信が徐々に揺らいでくる。私は困惑し、ホゥロへ助けを求めるために振り返る。
その瞬間。
長い白髪を靡かせ、目にも止まらぬ速さでホゥロが動いた。風さえ起こしながら私の横をすり抜ける。
ほぼ同時に、グジュリと、水分を含んだ鈍い音がした。まるで熟れたトマトを握り潰したかのようだ。見ると、なぜか私の真後ろに迫っていた柏さんの腹部を、ホゥロの腕が貫通している。
その常軌を逸した光景に、脳が理解を拒む。
「は……?」
至近距離にいた柏さんとホゥロから距離を取るため、ゆっくりと震える足で後ずさる。
ホゥロの腕が深々と突き刺さった柏さんの腹部からは、血ではなく、タールのようなドス黒い液体が流れ出していた。
「なぜ……」
柏さんが驚愕の表情を浮かべ、ホゥロに問いかけた。彼女の手から、いつの間にか握られていた小さな果物包丁が滑り落ちる。口からは、声と共にゴポリと黒い液体の塊のようなものが出てきた。
そんな彼女の様子を、ホゥロは表情をまったく変えずに見ている。
「軽率に過ぎたな。主様を弑そうとする者を止めるのは当然のことだ」
「主様……? ははは……我らが主は、古鳥の殲滅を、望んでいる……そう、指示を下さった、と……」
柏さんは浅く笑い、途切れ途切れの声で告げると、目を閉じた。小さな体から完全に力が抜け、首が項垂れる。ホゥロが柏さんの肩を抑えてズルリと腕を引き抜くと、彼女の体はそのまま床に落ちた。
体の中でなにかが溶けているかのように、店の床に、黒い液体が染み出してゆっくりと広がっていく。私はなにを言うことも、することもできずに、ただその光景を眺めることしかできないでいた。
我に返ったのは、隣に立っていた真澄の声を聞いてからだ。
「何だ、いまの……」
私と同じく立ち尽くして呆然としている真澄は、床に倒れた柏さん、ホゥロ、私と順番に見て、拳を握る。ホゥロのことを『殴ってでも止める』と言っていた真澄の言葉を思い出し、私はホゥロを庇おうと、慌てて腕を広げる。
「待ってくれ、真澄。ホゥロは悪くないんだ。信じられないかもしれないが、この柏さんは、たしかに柏さんではなくなっていた」
真澄から見れば、ホゥロがただ柏さんを殺したように見えるのではないか。そう思い早口で弁護したが、真澄は握った拳を自身の額に押し当てると、私以上に落ち着いた様子で息を吐き出し頷いた。
「ああ……ああ、大丈夫だ。柏さんのあの動きを見て、わかったよ」
『あの動き』がなにを指すのかがわからず私が首を傾げると、真澄は説明を続けた。
「大和がホゥロの方へ振り向いた瞬間。柏さんが、隠し持ってた包丁でお前を刺そうとしたんだ。刃が背中に刺さる寸前だった。俺がなにも反応できないほどの速さだ。あれはとても、腰と膝を悪くしてる柏さんができる動き方じゃなかった……いや、年齢も関係なく、ただ、人間の動きじゃない」
私は、自分が目を離したときの柏さんのその行動に気がついていなかった。驚きに目を見開くと、ホゥロを見やり問いかける。
「ホゥロは、私を助けてくれたのか?」
「主様をお守りするのは、当然のことです。急を要したため、この者を殺すしか、お守りする術がなかった。しかし、主様はどうして、この者に神語を聞かせてやらなかったのですか?」
返された言葉に、ハッとする。私は、柏さんの中にいる者に向けて話しかけていたつもりだった。しかし、どうやら日本語でしか話せていなかったのだ。見た目が柏さんそのものであったことが、影響していたのだろうか。疑問を浮かべるアイスブルーの瞳から逃れるように、ホゥロから視線を逸らして俯く。彼に、私が本当は彼らの主などではないということを見抜かれそうで怖かった。
床の上には柏さんの遺体があるが、通常の人間の遺体とは明らかに雰囲気が違う。醜く形が崩れ、体の表面に無数の皺のようなものが寄って波打っている。
その姿を見て、『陰の民が人の皮を被る』という話を、私はようやく実感を持って理解することができた。まさしく体の中のものが溶け出して崩れ、皮が残ったという様子に見えたのだ。
「なあ、これ。どうする。駐在さん呼んできた方がいいよな?」
尋常ではない様相を呈している遺体から顔を背け、手で口元を覆った真澄に問いかけられる。肌が日に焼けているのでわかりにくいが、真澄はすっかり顔色が悪くなっていた。
重なる衝撃にそのあたりの感覚が鈍くなっていたが、よくよく考えれば、遺体はかなりグロテスクな状態だ。
「でも、駐在さんにどう説明するつもりだ。まともに考えれば、ホゥロが殺人犯だということにならないか。柏さんが私を殺そうとして、それをホゥロが止めたという話を、信じてくれると思うか」
問いかけると、真澄は小さく呻いた。そのまま黙り込む。
柏さんの遺体の異常性は誰が見てもわかるが、そこから陰の民の存在を信じてくれる者がどれほどいるかというと、難しいだろうと思われた。私の特殊能力の話はすんなりと信じてくれていた真澄も、柏さんが私を襲おうとしたのを目撃して、ようやく彼女が別の存在に乗っ取られていたということを信じられたのだ。
地底から出てきた人ならざる存在が、人になり代わって侵略を企んでいるという話を信じるよりも、私と真澄、ホゥロの三人が非道な方法で柏さんをリンチしたと推察する方が、まだ現実的だ。
私と真澄が言葉を失っていると、ホゥロが動いた。彼は柏さんの遺体の横にゆっくりとしゃがみ込むと、手を伸ばし、彼女の頬の辺りを撫でるような仕草をした。
「主様、この者の亡骸を我にいただけませんか」
「どうするつもりだ」
「我が喰らいます」
至極当然と言わんばかりにされた返答に、一瞬言葉に詰まる。
「……これを、食べると言っているのか」
「はい。この者が主様にしようとした行為は、けっして許されるものではありません。しかし、これはいまでも我の同胞です。喰らいて弔います」
ホゥロが同胞と口にしたときの声音には、親しい者に呼びかけるような優しさが窺えた。いままで、床の上の遺体は恐ろしくグロテスクなものにすぎなかった。だがその一言で、ホゥロが私を守るために仲間を殺したのだという事実を突きつけられる。
「死んだ者を食べるのが、陰の民の弔いなのか」
「はい。地の底の飢饉は凄まじいものです。より多くの者を生かすため、生きている仲間でも喰らうしかありませんでした。長たる我は人の姿を保つため、優先して地上の食べ物が与えられていましたが。それでも、死んだ者の体は、皆で喰らい弔うのです」
ホゥロの口調は淡々としているが、地下での生活の苦しさや生々しさは十分に伝わってくる。同族の遺体を食べるという行為は、とても理解ができるものではない。しかし、一定の文化を持つ集団の行動や習慣を、自分と違うというだけで否定することは憚られた。
僅かな逡巡の後、私は頷く。
「わかった。ホゥロに任せる」
「わがままをお許しくださり、ありがとうございます。お目汚しが過ぎますので、しばし席を外してくださいますか。先に戻られていても構いませんが」
「いや……放置しておくこともできない。外で、待っている」
「かしこまりました。すべて済みましたら、お呼びいたします。恐れながら、灯りを消すことはできますでしょうか。どうも眩しくてかないません」
ホゥロからの要望を受けて、私は真澄を見る。
「店の電気のスイッチ、どこにあるかわかるか?」
「ああ……それなら、奥にあると思う。どうするんだ?」
「灯りを消して欲しいらしい」
真澄は不思議そうな表情を浮かべたが、商店の奥に入っていくと、照明のスイッチを操作した。店内が暗闇に沈む。
「ありがとう。真澄、少し、私と二人で外に出ていよう」
戻ってきた真澄に声をかける。
「どうするんだ?」
「……ホゥロが、仲間の弔いをするらしい」
いまからホゥロが目の前に転がる不気味な遺体を食べるのだとは、口に出して説明はできなかった。しかし、なにか後ろめたいことをするのだとういうことは伝わったのだろう。私が腕を掴んで軽く引くと、真澄は抵抗することなくついてきた。
商店の外に出て、昼間も座ったベンチに、真澄と共に腰掛ける。今日は半月だ。比較的明るい月光が、街灯もない辺りの景色をぼんやりと照らしている。
振り向き、店中の暗闇に目を凝らせば、しゃがみ込んだままのホゥロの大きな背がモゾモゾと動いている様子が窺える。しかし、彼がいま具体的になにをどうしているかは見えない。いや、私はそれを直視しないようにしたのだ。彼が人間の皺皺になった死体や黒い液体を持ち上げ、口に含むのを見てしまったら。これからホゥロのことを、まともな人間として扱うことができなくなる気がした。
暗闇から視線を引き剥がすようにして、また雲のない夜空を見上げる。田んぼから聞こえてくるカエルの鳴き声に混ざって、グチュグチュという、なにか粘ついたような音がしている。音の発生源を想像すると、また気分が悪くなってくる。
「なんで、こんなことになってんだろうな」
私と同じように不快な音に気が付いたのか、隣り合って話すにしてはやたらと大きな声で、真澄が話しはじめる。
「なんで、柏さんが殺されなきゃならねぇんだよ。田舎で商店をやってるただの婆さんだぞ。旦那さんはもう亡くなって、子供は巣立って都会に出てる。一人でのんびり暮らしてただけじゃねぇか」
「陰の民は、古鳥の人間のすべてを敵だと思って、滅ぼそうとしている」
「なんだよ、敵って。たしかにダムのせいで出入り口が塞がれて、ずっと地表にも出てこれなくて、食糧難で大変だったってのはわかるよ。でも、それは古鳥の人間のせいじゃねぇだろ」
怒りのこもった低い声で言う真澄の言葉に、私は返事をすることができなかった。ただ息を吐き出し、ベンチの背もたれに体を預けながら、思いついたことを話す。
「雄大さんのところに行かないとな。彼もおそらく、陰の民になっている。駐在さんを始末するとかいう話をしていたし、作戦を止めさせねば」
「行ってどうすんだよ? また、今回と同じようなことになるんじゃねぇのか」
投げやりになっている真澄からの問いかけに、私は自然と声を潜める。
「問題は、私のことを信じてくれたホゥロが、地の底に帰れなかったことで、陰の民に接触できなかったことにあるのだ。ホゥロがそう思い込んでくれたように、他の陰の民もまた、私が彼らの主だと思ってくれれば、作戦を止められると思う」
それが作戦を止めさせる唯一の方法だ。
「しかし問題は、私が人の皮を被った陰の民に神語で話しかけられないことだ。さきほども、私は柏さんの中にいた人物に向かって話しかけていたつもりなんだが。私は日本語で話していたんだろう?」
「ああ。お前が話してたのは、普通にずっと日本語だったな」
真澄が頷く。
「そうか……やはり、見た目が古鳥の人間だからだろうか。それとも、皮を被った状態だと、相手が日本語も理解できるからなのか」
顎に指をかけて考え込んでいると、真澄が首を傾げる。
「大和のその特殊能力がどういう仕組みになってるのか、いまいちよくわかんねぇんだけどさ。話す相手を、脳内で勝手に変えるってことはできねぇの? 例えばアメリカ人を想像しながら話したら英語になるみたいなさ」
「いや、見た目やイメージなどは関係ないのだ。あくまで、話しかける相手に応じた言葉になる。例えば、アメリカで生まれ育ち、母国語は英語だが、見た目は完全な日本人っているだろ。そういう相手と話したら、私は相手のことを日本人だと思っていても、自然と英語になっている。そういう、不可解なものなのだ」
私はこの能力を使って生活をし続けているが、それでも特性のすべてを理解できているわけではない。
「ただ、私自身が話す言語を選んでいるわけではない、選べない、というのは鉄則だ」
説明しながら眉を寄せると、真澄が『あ』と声を上げた。
「それならさ、ホゥロと話してる姿を見せればいいんじゃねぇの」
「あ、そうか……」
真澄の言葉に、私は間の抜けた声を上げた。言われてみれば、とても簡単なことだ。どうして柏さんと話しているときに思いつかなかったのかと、いまさら後悔しても遅い。しかし、ようやく問題解決の突破口が見えた気がして、底まで沈んでいた気分が僅かに上向いた。
そのとき、横から声をかけられる。
「主様、お待たせいたしました。終わりました」
見ると、ホゥロが店の出入り口に立っている。
彼が口の周りを血まみれにして出てくるような状況を恐れていたが、彼自身の様子で変わったところはなかった。右腕を中心に浴衣がひどく汚れているが、それは柏さんの腹部を貫いたときについたものだ。
「中に入っても良いのか」
「はい。目に障るものはなくなっておりますので、かまいません」
ホゥロの返事を聞いて私は立ち上がったが、真澄は口を大きく開け、ホゥロの方を向き、硬直したようにベンチに座ったままだ。
「真澄? どうした」
「どうしたって……ホゥロ、お前なんで日本語を話してるんだよ」
ホゥロはゆるりと目を細め、私ではなく真澄を見る。
「我は同胞の亡骸を喰らうため、同時に柏の肉体も喰らった。そのため、柏の記憶の一部も得ることができたのだ。これでお前たちが話していることがわかる」
私にはホゥロの変化を感じることはできなかったが、真澄とホゥロの会話が成立していることは理解できた。それに、いまの彼の言葉は、私に向けたでものではなかった。
「ホゥロ、日本語がわかるようになったのか?」
「はい。いままでなにかと主様にもご迷惑をおかけしておりましたが、これで、真澄を交えての会話の煩わしさがなくなります」
「マジかよ。そんなことができるのか」
ホゥロが私に向けて言った言葉も、真澄は理解している。どうやら、彼はこの瞬間から日本語を話すようになったらしい。地上で生活する上で、日本語が話せるようになるのは良いことだ。
しかし、私は彼の変化を素直に喜ぶことはできなかった。気がかりなのは、私自身が今、何語でホゥロに話しかけているのか、ということだ。もし私も日本語で話すようになってしまったのだとしたら、先ほど真澄と話していた、陰の民にホゥロとの会話を聞かせるという作戦も取ることができなくなってしまう。
だが私は、自分がいま何語を話しているかとこの場で確認することはできなかった。それは、自分がホゥロの本当の主ではないと自ら宣言するに等しい行為だ。
焦燥感を抑えるように、私は胸に手を当て、深く息を吐き出した。
「とりあえずは、柏さんのことをどうするか考えよう」
なんとか平静を装って言うと、二人を連れて店の中へと戻る。
薄暗がりの中、柏さんの無惨な遺体が横たわっていた場所に、もはや彼女の姿はなかった。ただ、床の上に人型をした黒い液体が広がっていた痕跡だけが残っている。
「ホゥロ、遺体をどこかにやったりは、していないのだよな」
問いかけると、ホゥロは頷く。つまり本当に、すべて食べてしまったということだ。
「床の汚れ、掃除しとくか」
そう提案してきたのは、真澄の方からだった。
「私もちょうど、同じようなことを考えていた。片付けて、シャッターを閉めて、あとはなにも知らないふりをしておくことしか、できないと思う」
遺体も存在しなくなったいま、現場を片付けてしまえば、事件性は薄くなる。柏さんが失踪したという騒ぎがどれくらいの早さで起きるかはわからないが、ここにいる私たちが黙っていれば、証拠はなにもない。
真澄が掃除道具を持ってきて、三人がかりで床の汚れを片付けた。タイル張りの商店の床は、黒い汚れを拭ってしまえば痕跡も残らない。雑巾掛けをしている最中に顔を近づけると、黒い液体からは鉄が混じった海産物のような匂いがした。しかしそれも、水で流してしまえば消え失せた。
最後に。万が一を想定し、触れたところの指紋を拭って消していく。失踪事件に発展したとき、捜査が入るかもしれないからだ。正しいことをしているはずなのに、自分の行いがひどく後ろめたい。
「大和、出るぞ」
真澄に促されて店を出ると、シャッターを閉める。
店の前からすぐに離れ、それからしばらくは、誰も言葉を発さなかった。今日は懐中電灯を持ってきていないので、暗い夜道を照らすものもない。点々と灯る街頭を過ぎると、すぐそばを歩くお互いの表情さえも見えなかった。
「真澄。先ほど私がホゥロに話しかけた言葉は、何語だった?」
先を歩くホゥロの背中を見やってから、私は真澄に近寄り、声を潜めて問いかけた。
「お前がホゥロに向かって話してる言葉も、普通に日本語になってたよ」
同じように声を抑え、真澄が囁く。その返事を聞き、私は思わず深く溜息を吐いた。
「なんだ。つまり大和は、その神語っていうのが話せなくなったのか?」
真澄の声が少し大きくなる。
私はシーっと息を漏らして、確認のためにホゥロを見た。だが、彼がこちらを気にする様子はなく、小声での会話を続ける。
「そのようだ……私が主だという証明ができないなら、雄大さんのところへ行っても、また今日と同じようなことになる未来しか見えないな」
「ホゥロは奴らのリーダーなんだろ? ホゥロに止めて貰えばそれで済む話なんじゃねぇのか。元々はそういう話だったろ」
真澄の言うことはもっともだが、昼間に一回頼んで『自分の口から伝えてくれ』と促されてしまった結果が、先ほどのやりとりなのだ。
「それは、そう。だが……私が、実は神語を話せるわけではないということを隠して、どう頼めばいいのか」
「お前は一回襲われたんだから、身の安全のために近づきたくないとか適当言っておけばいいんだよ」
「なるほど」
「とにかく言ってみろって」
真澄との作戦会議は、最後の方はもはや吐息だけの囁き声で行っていた。真澄に顎をしゃくるような動作で促され、私はホゥロの横へと向かう。
「ホゥロ。相談があるのだが」
「はい。どうなさいましたか」
首を傾げ、私を見返してくるホゥロの眼差しは穏やかだ。
「私は、潜暗夜を止めたいと思っている。昼間に柏さんと会話していた雄大さんという男性がいる。彼も陰の民に成り代わられていると思うのだが。彼に会って、ホゥロから作戦を止めるようにと伝えてくれないか」
話しながら、私は頭の奥から振動が響いてくるような奇妙な痛みを感じた。思わず眉を寄せ、こめかみに指先を当てる。
ホゥロはそんな私の様子を無言で見つめていた。向けられている眼差しの穏やかさは変わっていないが、返事はない。その態度からは、彼が私に対して不信感を抱いているのではないかという予感がした。
「ほら。今日もホゥロが止めてくれなかったら、私は殺されていたのだろう。また彼らに近づいて、危険なことがあると……」
「主様。柏の中にいた者の記憶を喰らったことで、わかったことがあります」
真澄から入れ知恵された言い訳をしどろもどろで続けていると、ホゥロが私の言葉を遮った。
「わかったこと?」
「はい。主様以外に、陰の民に古鳥殲滅の命令を下している者がおります。おそらく今の状態で主様が潜暗夜の中止を訴えたところで、聞き入れる者はいないでしょう」
ホゥロの言葉を聞きながら、柏さんが死ぬ直前に口走った『我らが主は、古鳥の殲滅を望んでいる』という言葉を思い出す。たしかにあの言葉は、私以外に別の主がいると示唆している。
もしそれが本当ならば、本物の主は、その別の者だ。なぜならば私は、自分自身が偽りの主人であることを誰よりも認識してるのだから。
「ホゥロは、どう思っている」
返事を恐れながら問いかけるが、私の心配をよそにホゥロは優しく微笑んだ。
「我の、我らの主はあなた様だけです。しかし潜暗夜を止めるには、陰の民に命令を下している者を見つけ、その者を説得するか、除外する必要があるでしょう」
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