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第三章 賢者
「野山を拓いて勝手に歩き始める」 -2-
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そのまま目を閉じて、しばらく。
「お疲れか、主人」
意識していなかった方向から声がして、エヴァンは体をビクッと震わせて顔を上げる。そこには、先ほどまでは大食堂にいなかったはずのロウがいた。
この世界の夜は暗い。
大食堂にはあちこちに蝋燭が立てられており、特にテーブルの周辺は明るくなっている。しかし、部屋の隅の方には光が届いておらず、影の中に溶けている。
メイド服姿のロウが、そんな隅の影の中から出てきたのだ。
「ロウ、いつからそこにいたんだ」
「キッチンの仕事が終わってから来たんだが。皆話に夢中なようだったから、邪魔しないように控えてた」
「メイドというよりもアサシンみたいだな」
「気配を消すのは得意なんだ」
エヴァンは軽く冗談を言ったが、ロウは真顔のまま、ひょいと肩をすくめて見せた。そしてエヴァンの側へと近寄ると、やおら手を伸ばしてその額に触れる。
メイドが軽々しく主人の体に触れることなど、本来許されるようなことではない。しかし、ロウの指先はどこかひんやりとしていて、火照りを感じていたエヴァンには、彼の手が肌に触れることが心地よく感じた。
「やっぱり熱ねぇか? 主人があんなふうに疲れた様子を見せるのは、珍しいなと思ったんだよな。さっきまで聖職者が三人もいたんだから、治して貰えばよかったのに」
「別に体調を崩しているわけではないさ。さっきは誰もいないと思っていたからな。俺だって人目がなければだらけもするぞ」
「じゃあこれは、賢者様のご高説を賜った知恵熱的なやつか」
エヴァンは自分の額から手を離したロウを見上げる。
「ルイス様の話、聞いていたのか。どう思った?」
「聖職者の言いそうなことだなって」
特に興味もなさそうな上、端的な返事に、エヴァンは息を漏らして笑う。
「俺は正直、痛いところを突かれたなと思った……昼間ロウに話しただろう? 例え望む農民全員を土地の制約から解放したところで、皆が皆、なりたいものになれる世の中にはならないだろうって話」
「市場のあり方からして、望む職業でやっていける奴は限られてるから、やっていけない奴は自然とやめていくって話だろ」
「そうだ。明言はしなかったが、それはつまり競争であり、争いだ。また、その争いで負けて、商人や職人など他の職業から農民になるのは、何も元農民だけじゃない」
ロウは怪訝そうな顔をしていたが、一拍後にエヴァンが言わんとしていることを察し、目を瞬いた。
「例えば商人になった農民に押し出される形で、元々商人の家系で商人としてやっていきたかったヤツが、助けを求める形で農民になることもあるってことか」
「今でも、生活が立ち行かなくなって、保護を求めてくる者は一定数いる。彼らは再度土地の制約を結んで農民になるんだ。誰もが自由に職業を選べるようになったら、そういった者が増えることは間違いない。当然、反発が起きる」
エヴァンは頷き、そう説明してから、また眉間に皺を寄せた。
「俺がやろうとしていることは、結局、この国の根本の仕組みを変化させてしまうことに他ならないな。わかっているつもりではいたが、壁は高い……そろそろ俺も部屋に向かう」
そこで一度言葉を切ると、エヴァンは椅子からゆっくりと立ち上がった。
「俺は、ロウやテディのように、望む姿を持つ者が、通れる道を作ってやりたいだけなんんだが」
続いた言葉は、ロウに聞かせるためのものではなかった。吐息とともについ漏れ出した、気弱な独り言だ。
だが、そんな主人の言葉に、ロウは目を細めた。そして、短く言葉を紡ぐ。
「こう言っては何だが。主人がそこまで、他人の人生を背負い込んでやることはねぇんじゃねぇのか」
「どういう意味だ?」
先を促すエヴァンの声には、使用人が意見することへのマイナスの感情は、微塵もこもっていなかった。ただ純粋に話を聞きたがるように、エヴァンの澄んだ碧眼がロウを見る。
視線と向けられたロウもまた、気負う様子もなくひょいと肩をすくめた。
「主人が俺の話を聞いて、そこでした苦労を取っ払ってくれようとしているのはわかる。そういった道があれば楽だったろうなと俺も思う。だが……」
「だが?」
「どうしても何かしたい奴って、別に道なんかなくても、自力で野山を拓いて勝手に歩き始めるからな」
ロウは言いながら、自分を見ろとでも言わんばかりの様子で軽く両腕を広げた。
今、エヴァンの目の前には、メイド服姿の男がいる。エヴァンには見慣れてしまった光景だが、男のメイドというのは、普通に考えれば常識外れも良いところの存在である。しかもその当の本人は、故郷で決闘をし続けるという、とんでもない方法でその職を手に入れたのだ。
彼が語る言葉には、他の誰が語るよりも説得力があった。
エヴァンは思わず笑う息を吹き出した。そのまま肩を揺らし笑い声を立てる。
「もちろん、その野山を拓く方法が、テディみたいに非行に走るんじゃいけねぇと思うが。そこは、さっき聖職者たちも同意してた学舎で教育できるところなんじゃねぇのかな。それこそ、皆で言葉を尽くして説明して、テディが悪いことしたって自覚できたみたいに」
「ああ。そうだな」
エヴァンの返事は短かったが、先ほどと比べて、その表情は晴れやかなものになっていた。
そんな、肩の荷を僅かに下ろしたように見える主人の姿に、ロウは目を細めた。テーブルの上に置かれていた燭台を手に取る。
「ネイサンは客人の世話に回るだろうから、今日は俺が主人の寝支度を整える。部屋に行こう」
「こういうとき、ロウが男で良かったと思うよ」
普通、男主人の身の周りの世話を、異性であるメイドがすることはないからである。男主人にはフットマン、女主人にはメイドというのが常識だ。
「近いうち主人が結婚したら、奥方のことはリリーに任せるしかなくなっちまうけどな。その時はまた新しくメイドを雇うのか」
「さあ、どうだろう。結婚……な」
他愛ない会話に、エヴァンは僅かに遠い目をする。そんな主人の様子を見て、ロウは無理に話題を続けようとはしなかった。
二人の間に沈黙が落ちるが、それは決して気まずいものではない。燭台を持つロウの先導で、エヴァンは大食堂を出て自室へと戻る。
その後、いつもネイサンがしていることを、ロウは的確にこなした。
エヴァンは風呂に入って汚れを落とし、さっぱりするとパジャマに着替えて、整えられたベッドに潜り込む。
そうしてエヴァンは、久しぶりに深い眠りに落ちていったのだった。
「お疲れか、主人」
意識していなかった方向から声がして、エヴァンは体をビクッと震わせて顔を上げる。そこには、先ほどまでは大食堂にいなかったはずのロウがいた。
この世界の夜は暗い。
大食堂にはあちこちに蝋燭が立てられており、特にテーブルの周辺は明るくなっている。しかし、部屋の隅の方には光が届いておらず、影の中に溶けている。
メイド服姿のロウが、そんな隅の影の中から出てきたのだ。
「ロウ、いつからそこにいたんだ」
「キッチンの仕事が終わってから来たんだが。皆話に夢中なようだったから、邪魔しないように控えてた」
「メイドというよりもアサシンみたいだな」
「気配を消すのは得意なんだ」
エヴァンは軽く冗談を言ったが、ロウは真顔のまま、ひょいと肩をすくめて見せた。そしてエヴァンの側へと近寄ると、やおら手を伸ばしてその額に触れる。
メイドが軽々しく主人の体に触れることなど、本来許されるようなことではない。しかし、ロウの指先はどこかひんやりとしていて、火照りを感じていたエヴァンには、彼の手が肌に触れることが心地よく感じた。
「やっぱり熱ねぇか? 主人があんなふうに疲れた様子を見せるのは、珍しいなと思ったんだよな。さっきまで聖職者が三人もいたんだから、治して貰えばよかったのに」
「別に体調を崩しているわけではないさ。さっきは誰もいないと思っていたからな。俺だって人目がなければだらけもするぞ」
「じゃあこれは、賢者様のご高説を賜った知恵熱的なやつか」
エヴァンは自分の額から手を離したロウを見上げる。
「ルイス様の話、聞いていたのか。どう思った?」
「聖職者の言いそうなことだなって」
特に興味もなさそうな上、端的な返事に、エヴァンは息を漏らして笑う。
「俺は正直、痛いところを突かれたなと思った……昼間ロウに話しただろう? 例え望む農民全員を土地の制約から解放したところで、皆が皆、なりたいものになれる世の中にはならないだろうって話」
「市場のあり方からして、望む職業でやっていける奴は限られてるから、やっていけない奴は自然とやめていくって話だろ」
「そうだ。明言はしなかったが、それはつまり競争であり、争いだ。また、その争いで負けて、商人や職人など他の職業から農民になるのは、何も元農民だけじゃない」
ロウは怪訝そうな顔をしていたが、一拍後にエヴァンが言わんとしていることを察し、目を瞬いた。
「例えば商人になった農民に押し出される形で、元々商人の家系で商人としてやっていきたかったヤツが、助けを求める形で農民になることもあるってことか」
「今でも、生活が立ち行かなくなって、保護を求めてくる者は一定数いる。彼らは再度土地の制約を結んで農民になるんだ。誰もが自由に職業を選べるようになったら、そういった者が増えることは間違いない。当然、反発が起きる」
エヴァンは頷き、そう説明してから、また眉間に皺を寄せた。
「俺がやろうとしていることは、結局、この国の根本の仕組みを変化させてしまうことに他ならないな。わかっているつもりではいたが、壁は高い……そろそろ俺も部屋に向かう」
そこで一度言葉を切ると、エヴァンは椅子からゆっくりと立ち上がった。
「俺は、ロウやテディのように、望む姿を持つ者が、通れる道を作ってやりたいだけなんんだが」
続いた言葉は、ロウに聞かせるためのものではなかった。吐息とともについ漏れ出した、気弱な独り言だ。
だが、そんな主人の言葉に、ロウは目を細めた。そして、短く言葉を紡ぐ。
「こう言っては何だが。主人がそこまで、他人の人生を背負い込んでやることはねぇんじゃねぇのか」
「どういう意味だ?」
先を促すエヴァンの声には、使用人が意見することへのマイナスの感情は、微塵もこもっていなかった。ただ純粋に話を聞きたがるように、エヴァンの澄んだ碧眼がロウを見る。
視線と向けられたロウもまた、気負う様子もなくひょいと肩をすくめた。
「主人が俺の話を聞いて、そこでした苦労を取っ払ってくれようとしているのはわかる。そういった道があれば楽だったろうなと俺も思う。だが……」
「だが?」
「どうしても何かしたい奴って、別に道なんかなくても、自力で野山を拓いて勝手に歩き始めるからな」
ロウは言いながら、自分を見ろとでも言わんばかりの様子で軽く両腕を広げた。
今、エヴァンの目の前には、メイド服姿の男がいる。エヴァンには見慣れてしまった光景だが、男のメイドというのは、普通に考えれば常識外れも良いところの存在である。しかもその当の本人は、故郷で決闘をし続けるという、とんでもない方法でその職を手に入れたのだ。
彼が語る言葉には、他の誰が語るよりも説得力があった。
エヴァンは思わず笑う息を吹き出した。そのまま肩を揺らし笑い声を立てる。
「もちろん、その野山を拓く方法が、テディみたいに非行に走るんじゃいけねぇと思うが。そこは、さっき聖職者たちも同意してた学舎で教育できるところなんじゃねぇのかな。それこそ、皆で言葉を尽くして説明して、テディが悪いことしたって自覚できたみたいに」
「ああ。そうだな」
エヴァンの返事は短かったが、先ほどと比べて、その表情は晴れやかなものになっていた。
そんな、肩の荷を僅かに下ろしたように見える主人の姿に、ロウは目を細めた。テーブルの上に置かれていた燭台を手に取る。
「ネイサンは客人の世話に回るだろうから、今日は俺が主人の寝支度を整える。部屋に行こう」
「こういうとき、ロウが男で良かったと思うよ」
普通、男主人の身の周りの世話を、異性であるメイドがすることはないからである。男主人にはフットマン、女主人にはメイドというのが常識だ。
「近いうち主人が結婚したら、奥方のことはリリーに任せるしかなくなっちまうけどな。その時はまた新しくメイドを雇うのか」
「さあ、どうだろう。結婚……な」
他愛ない会話に、エヴァンは僅かに遠い目をする。そんな主人の様子を見て、ロウは無理に話題を続けようとはしなかった。
二人の間に沈黙が落ちるが、それは決して気まずいものではない。燭台を持つロウの先導で、エヴァンは大食堂を出て自室へと戻る。
その後、いつもネイサンがしていることを、ロウは的確にこなした。
エヴァンは風呂に入って汚れを落とし、さっぱりするとパジャマに着替えて、整えられたベッドに潜り込む。
そうしてエヴァンは、久しぶりに深い眠りに落ちていったのだった。
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