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二月の章
ナイトウォーク -1-
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キンと冷えた空気に、口から漏れた息が白く浮かんで星空に消えていく。
明彦は暗闇に沈んだ山道を、懐中電灯を片手に進んでいた。
ここは鷹鷲高校の裏手にある山をぐるりと回る、軽いハイキングコース。左右は深い森だが、足元は歩きやすいように木で組まれた通路や階段が整備されているので道に迷うことはない。加えて片側が斜面になっているような箇所には、転落防止のために設置された手すりに、等間隔で蓄光性のマーカーが付けられていたりする。
今日は三月一日に行われる花摘会を明日に控えた、二月の最終日。今は三年のみで行うナイトウォークというイベントの真最中だ。
男子部と女子部が通るコースは分かれており、さらにナイトウォークにはバトラーの参加が禁止されているため、明彦の周囲にいるのは男子部のマスターのみだ。
当然、花摘会の前日にこの形式でナイトウォークが開催されるのには、イベントを企画している学校側の恣意がある。例年このナイトウォークは、マスターたちがお互いに誰を指名するかを事前に話し合う場として利用されている。
しかしイベントが始まってからというもの、明彦は誰と会話することも避け、ひとり物思いに耽りながら足早に先を急いでいた。
不意に背後から足音が聞こえて、肩を叩かれ振り向く。
「お前、一人で先に行きすぎだ。誰も追いつけてないだろ」
僅かに息を切らし、そこに立っていたのは宗一郎だった。彼は先ほどまで後方で他のマスターたちと話をしていたのだが、明彦の姿を探し、走って追いかけてきたのだ。
「ごめん。なんか落ち着かなくて」
明彦は眉を下げて笑った。無意識のうちに強張っていた体から力を抜き、歩調を緩める。そんな明彦の様子に、宗一郎は眉を下げる。
「今日逃げたって、どうせ明日には全員の指名が発表されるんだぞ」
「それは、わかってるんだけど」
「お前の気持ちは決まっているんじゃないのか?」
宗一郎が問いかけるが、明彦は視線を落として口を噤んだ。それから二人はしばらく無言のまま並んで歩く。
重い沈黙に耐えられなくなったように、明彦はさきほどの問いには答えないまま逆に問い返す。
「宗一郎は、誰を選ぶか決めたの?」
「俺は、東條を指名する」
「えっ」
ためらいなく口にされた予想外の返答に、明彦はその場で足を止めた。宗一郎は数歩先に進んでから同じように足を止め、振り返る。宗一郎の握る懐中電灯の明かりが、明彦の足元の辺りを照らした。
「そんなに驚くことか?」
「宗一郎は、水島を指名するつもりなのかと思ってて。それにお前、ずっと敬語は嫌だって」
明彦はバトラー全員に敬語を止めるように言い続けた。結果、卒業間近の今、宗一郎に敬語を使い続けているのは、マスターバトラー問わず誰に対しても敬語である山下と、いつまでも頑なな東條だけだ。はじめの頃は東條と顔を合わせるごとに敬語をやめるよう言っていた宗一郎も、最近ではその促しをしなくなっていた。
てっきり、東條のことはもう執事候補から外したのだと思っていた。そんな明彦の内心の考えを読み取ったように、宗一郎はふっと息を漏らして笑った。
「俺は初めから、どんなに俺から距離を詰めても、執事としての立場を弁えている者を探していたんだ」
明彦は目を見開く。
「ずっと皆を試していたのか?」
「そんな言い方をするなよ。俺は誰よりも真剣に、生涯を共にする俺自身の執事を探していただけだ。マスターとバトラーは貴族と平民の馴れ合いでもなければ、主従のままごとをしていたわけでもないからな」
「じゃあ水島のことは、もうずっと指名するつもりはなかったのか」
「あいつのことはいい奴だとは思っている。ただ、俺の求める執事には向いていない」
水島と宗一郎の様子を一番近くで見続けたのは他ならぬ明彦だ。水島の気持ちを思えば、彼は胸に込み上げる複雑な感情に、下唇を噛む。
再び沈黙が流れ、宗一郎は小さく息を漏らした。
「俺が昔、誘拐された話はしたことあったよな」
問いかけに、明彦は頷いた。
宗一郎が小学一年生のとき、誘拐事件にあったという話は、以前直接彼の口から聞いていた。その事件をきっかけに、宗一郎へ対する警備はいっそう厳しくなった。それゆえ、ごく普通に友人たちと遊びに出かけるような思い出とも縁遠かった、という文脈の話だった。
「誘拐事件の主犯格は金目当てだったが、その男に唆されて、実際に俺を誘拐した実行犯は、俺の乳母だった女だ」
明彦は、初めて聞いた事件の詳細に目を瞬いた。宗一郎が幼い頃に被害に遭った誘拐事件が、いったい今の会話に何の関係があるのかはまだわからない。しかし、身近なものに裏切られた宗一郎のショックがどれほどのものであったかは、乳母などとは縁遠い明彦にとっても想像にかたくなかった。
「彼女は主犯格のように金目当てでやったわけではなく、両親が俺を愛していないと信じきって、俺を自分の子供にしようとしたんだ。今になって思うと、俺が彼女に懐きすぎたのが原因の一つではあるが」
宗一郎はそこまで話をすると、大きく息を吐き出した。
「主人と使用人。その立場や関係性を守る責務を負うのは、使用人の方だと俺は思う。特に執事は主人と距離が近い。どんなことがあっても主人と自分の立場の違いを守り続けてくれる者でなければ、俺は信用できない。俺の執事は、東條をおいて他に考えられない」
はっきりと言い切る言葉の強さに、明彦は俯いた。
「もちろん、最後まで敬語を崩さなかったという、一点張りだけで東條に決めたわけじゃない。それなら山下だって同じ条件だしな。東條は心から、執事という立場に就くことを望んでいる。俺は、そういう執事を求めていたんだ」
明彦は、返事はおろか何の反応もすることができなかった。宗一郎の言っていることがすべて正論であることがわかっていたからだ。そして宗一郎の思いの強さに対する、自分の気持ちの弱さに言葉が詰まったのだ。
明彦は暗闇に沈んだ山道を、懐中電灯を片手に進んでいた。
ここは鷹鷲高校の裏手にある山をぐるりと回る、軽いハイキングコース。左右は深い森だが、足元は歩きやすいように木で組まれた通路や階段が整備されているので道に迷うことはない。加えて片側が斜面になっているような箇所には、転落防止のために設置された手すりに、等間隔で蓄光性のマーカーが付けられていたりする。
今日は三月一日に行われる花摘会を明日に控えた、二月の最終日。今は三年のみで行うナイトウォークというイベントの真最中だ。
男子部と女子部が通るコースは分かれており、さらにナイトウォークにはバトラーの参加が禁止されているため、明彦の周囲にいるのは男子部のマスターのみだ。
当然、花摘会の前日にこの形式でナイトウォークが開催されるのには、イベントを企画している学校側の恣意がある。例年このナイトウォークは、マスターたちがお互いに誰を指名するかを事前に話し合う場として利用されている。
しかしイベントが始まってからというもの、明彦は誰と会話することも避け、ひとり物思いに耽りながら足早に先を急いでいた。
不意に背後から足音が聞こえて、肩を叩かれ振り向く。
「お前、一人で先に行きすぎだ。誰も追いつけてないだろ」
僅かに息を切らし、そこに立っていたのは宗一郎だった。彼は先ほどまで後方で他のマスターたちと話をしていたのだが、明彦の姿を探し、走って追いかけてきたのだ。
「ごめん。なんか落ち着かなくて」
明彦は眉を下げて笑った。無意識のうちに強張っていた体から力を抜き、歩調を緩める。そんな明彦の様子に、宗一郎は眉を下げる。
「今日逃げたって、どうせ明日には全員の指名が発表されるんだぞ」
「それは、わかってるんだけど」
「お前の気持ちは決まっているんじゃないのか?」
宗一郎が問いかけるが、明彦は視線を落として口を噤んだ。それから二人はしばらく無言のまま並んで歩く。
重い沈黙に耐えられなくなったように、明彦はさきほどの問いには答えないまま逆に問い返す。
「宗一郎は、誰を選ぶか決めたの?」
「俺は、東條を指名する」
「えっ」
ためらいなく口にされた予想外の返答に、明彦はその場で足を止めた。宗一郎は数歩先に進んでから同じように足を止め、振り返る。宗一郎の握る懐中電灯の明かりが、明彦の足元の辺りを照らした。
「そんなに驚くことか?」
「宗一郎は、水島を指名するつもりなのかと思ってて。それにお前、ずっと敬語は嫌だって」
明彦はバトラー全員に敬語を止めるように言い続けた。結果、卒業間近の今、宗一郎に敬語を使い続けているのは、マスターバトラー問わず誰に対しても敬語である山下と、いつまでも頑なな東條だけだ。はじめの頃は東條と顔を合わせるごとに敬語をやめるよう言っていた宗一郎も、最近ではその促しをしなくなっていた。
てっきり、東條のことはもう執事候補から外したのだと思っていた。そんな明彦の内心の考えを読み取ったように、宗一郎はふっと息を漏らして笑った。
「俺は初めから、どんなに俺から距離を詰めても、執事としての立場を弁えている者を探していたんだ」
明彦は目を見開く。
「ずっと皆を試していたのか?」
「そんな言い方をするなよ。俺は誰よりも真剣に、生涯を共にする俺自身の執事を探していただけだ。マスターとバトラーは貴族と平民の馴れ合いでもなければ、主従のままごとをしていたわけでもないからな」
「じゃあ水島のことは、もうずっと指名するつもりはなかったのか」
「あいつのことはいい奴だとは思っている。ただ、俺の求める執事には向いていない」
水島と宗一郎の様子を一番近くで見続けたのは他ならぬ明彦だ。水島の気持ちを思えば、彼は胸に込み上げる複雑な感情に、下唇を噛む。
再び沈黙が流れ、宗一郎は小さく息を漏らした。
「俺が昔、誘拐された話はしたことあったよな」
問いかけに、明彦は頷いた。
宗一郎が小学一年生のとき、誘拐事件にあったという話は、以前直接彼の口から聞いていた。その事件をきっかけに、宗一郎へ対する警備はいっそう厳しくなった。それゆえ、ごく普通に友人たちと遊びに出かけるような思い出とも縁遠かった、という文脈の話だった。
「誘拐事件の主犯格は金目当てだったが、その男に唆されて、実際に俺を誘拐した実行犯は、俺の乳母だった女だ」
明彦は、初めて聞いた事件の詳細に目を瞬いた。宗一郎が幼い頃に被害に遭った誘拐事件が、いったい今の会話に何の関係があるのかはまだわからない。しかし、身近なものに裏切られた宗一郎のショックがどれほどのものであったかは、乳母などとは縁遠い明彦にとっても想像にかたくなかった。
「彼女は主犯格のように金目当てでやったわけではなく、両親が俺を愛していないと信じきって、俺を自分の子供にしようとしたんだ。今になって思うと、俺が彼女に懐きすぎたのが原因の一つではあるが」
宗一郎はそこまで話をすると、大きく息を吐き出した。
「主人と使用人。その立場や関係性を守る責務を負うのは、使用人の方だと俺は思う。特に執事は主人と距離が近い。どんなことがあっても主人と自分の立場の違いを守り続けてくれる者でなければ、俺は信用できない。俺の執事は、東條をおいて他に考えられない」
はっきりと言い切る言葉の強さに、明彦は俯いた。
「もちろん、最後まで敬語を崩さなかったという、一点張りだけで東條に決めたわけじゃない。それなら山下だって同じ条件だしな。東條は心から、執事という立場に就くことを望んでいる。俺は、そういう執事を求めていたんだ」
明彦は、返事はおろか何の反応もすることができなかった。宗一郎の言っていることがすべて正論であることがわかっていたからだ。そして宗一郎の思いの強さに対する、自分の気持ちの弱さに言葉が詰まったのだ。
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