20 / 51
八月の章
ヴァカンスの始まり -1-
しおりを挟む
夏休み初日の朝は賑やかだった。マスターもバトラーも皆休暇に浮かれ、支度をしてめいめいに家へと帰っていく。マスターたちを迎えに来るドライバーや使用人もいて、普段より単純に人数も増えていた。
だが、その人の波も過ぎた午後。
学校の敷地内は、ゴールデンウィークの時よりもいっそう静まりかえっている。
一週間程度の休暇であれば、特に理由もないが帰省しない、という判断をする生徒もいる。その一例が、ただただ怠惰なアルバートだ。だが、今回の休暇は一ヶ月もある。
マスターで居残る者はおらず、マスターがいないのならば、白石も仕事がないため帰省する。いま学校内に残っているのは、何かしらの事情があるバトラー数名だけだ。
東條は、校舎内にある図書室にいた。
図書室は、外から見て塔になっている箇所に位置している。ドーム状の吹き抜けになっている壁のすべてが本棚になっていて、古今東西あらゆる種類の書物が自由に閲覧できる。二階、三階部分の本を取り出せるように回廊が作られているが、それでも手の届かない位置にある本は、所々にかかっている梯子を利用して取り出す。
図書室中央には八角形の大型の机が備え付けられ、その周囲に複数の椅子が設置されている。まるで本に包み込まれるような重厚で幻想的な空間。だがしかし、普段から図書室の利用者は少ない。
ましてや忙しい夏休み初日にこのような所に来る者もいないので、東條は朝からここに逃げ込んでいた。
寮の部屋が騒がしくなるのも嫌だったし、なぜ帰らないのかと聞かれるのも面倒だ。そして、人の気配が消えていく様を体感するのも、気分がいいものではない。
長らく読書に没頭していた東條は空腹を覚えて、読んでいた本に栞を挟んで閉じると、ラフなチノパンから懐中時計を引き出した。見ると、シンプルな針は一時半を示している。
通常マスターのランチは十二時から始まるが、バトラーのランチはそれが終わった一時半から始まる。東條の体はしっかり、いつもの生活リズムを覚えていた。
選んだ本を手に持ち、東條は図書室から出た。賄いの料理を届けてくれる白石もいないので、夏休みの間は自分で料理を作るか、学校外から買ってくるかしなくてはならない。
東條は事前に、白石から数日間は使える食材が残っていると聞いていた。そこで、校舎を出て寮の厨房へ向かうことにする。
日陰から出ると、真上から降り注ぐ日差しの強さに思わず目を細める。今年の七月は涼しく快適に過ごせる日が多かったが、今日はすっかり真夏の陽気だ。辺りには蝉の声が盛んに響いている。
東條はじわりと肌に浮かぶ汗を感じながら、寮と校舎の中央に位置するイングリッシュガーデンを歩く。すると、前方から聞き馴染んだ人の話し声が聞こえてきた。
「ねぇー。きっともう皆来ないんだって、早く行こうよ」
「しかし、バトラーたちが連絡なく約束を破ることなんてあるのか?」
「きっと夏休みに入ったから、皆浮かれて忘れちゃったんだって」
イングリッシュガーデンの端にある、寮に近い位置に建つ東屋の中に、宗一郎、明彦、水島の三人の姿があった。三人とも今日は制服ではなく、ティーシャツにカジュアルパンツといったラフな格好だ。
東條は彼らがまだ学校に残っていたことを意外に思いながら、その脇を軽く会釈をした後に通り過ぎようとした。しかし、東條の姿に気づいた明彦に声をかけられる。
「あれ、東條もまだ残ってたんだ。これから帰るの?」
東條は咄嗟に返事ができず、彼にしては珍しく一瞬口ごもった。と、その隙に水島が冴え冴えとした口調で言い放つ。
「東條は児童養護施設で育ったんだよ。高校入学した時に施設からも出ちゃったから、帰るとこがないの。高校入学してから、一回も学校から離れたことないらしいよ。ねー、東條?」
水島はその事実を述べることで、マスター二人から東條の印象が下がることを望んでいた。なぜなら東條は「品が良い」「きっと育ちが良いのだろう」と、そんな評価を下されることが多いからだ。
だがマスター二人の顔に浮かんだ表情を見て、水島は己の発言が逆の効果を生んだことを悟る。
「答えにくいことを聞いちゃったね、ごめん。って、こういう言い方もよくないかな」
初めて知った事実に驚き固まっていた明彦は、素直な反応のままに謝罪する。
「お気になさらないでください。わたくしの出自は伏せているものではございません。だからこそ、こうして水島も知っているのですし」
「実はこれから俺たち、俺の別荘で一週間のんびりする予定なんだ。よかったら東條も来ないか」
明彦の隣に座る宗一郎の言葉に、水島が眉を跳ね上げた。そしてキッと東條を睨みつける。
「ありがたいお誘いですが、堅苦しいわたくしがご一緒したら、せっかくの休暇のお邪魔になります」
東條は以前宗一郎から告げられた言葉を引用しつつ、曖昧に微笑む。
「いや、これはお誘いというより、お願いかな。本当はバトラーがあと四人来る予定だったんだ。それがなぜだか皆、待ち合わせの時間になっても来なくてな」
見てくれよ、というように宗一郎は腕を広げる。
その言葉と、水島から向けられる牽制するような眼差しに、東條はすべてを理解した。彼らは別荘でヴァカンスを過ごす者たちと、ここで待ち合わせる約束をしていた。だが、バトラーは水島以外来なかった。
であれば、それは水島が仕組んだことに違いない。他の者たちをどう騙したのかは分からないが、宗一郎との仲を深めるために抜け駆けしたかった、という動機は読み解ける。
水島からすれば、腹立たしいことこの上ない状況だ。苦労して他の者を遠ざけたのに、偶然通りかかった東條がその策を台無しにしようとしているのだ。
面倒な場面に遭遇してしまったと、東條はため息を心の中で押し殺しながら、変わらぬ微笑みを浮かべている。
宗一郎は水島と東條の様子を気にすることなく言葉を続けた。
「実は、別荘滞在中は使用人にも休暇を与えてしまったんだ。バトラーが五人もいるなら、俺たちだけの方が気兼ねしないでいいかと思って。だけどどうもアテが外れてしまったようでね。俺達を助けると思って同行してくれないか」
「宗一郎、心配しなくても大丈夫だってば。僕がいるんだから」
東條が返事をする前に、水島が口を挟む。
「いくら別荘と言っても相応の広さはあるし、俺だけでなく明彦もいるんだ。水島だけの手には余るだろう。どうだ東條、俺たちを助けてはくれないか。もちろん、働いてもらったぶんの手当は出す」
「俺も東條が来てくれたらうれしいな」
明彦も言葉を重ね、期待の眼差しを向けてくる。東條は、観念したようにゆっくりと目を瞬いた。
東條はこの提案が宗一郎の優しさであることは気づいている。使用人に休みを与えてしまったのが本当であっても、宗一郎であれば、急遽使用人を呼び戻すことも、代わりの者を呼んでくることも、造作ないのだから。
しかしマスターに助けてくれと言われて、それを突っぱねられるバトラーはいない。
「かしこまりました。ありがたくご一緒させていただきます」
東條の返事に宗一郎は微笑み、明彦はうれしそうに両手をあげる。いっぽう、水島は拗ねるようにぷくーっと頬を膨らませていた。
だが、その人の波も過ぎた午後。
学校の敷地内は、ゴールデンウィークの時よりもいっそう静まりかえっている。
一週間程度の休暇であれば、特に理由もないが帰省しない、という判断をする生徒もいる。その一例が、ただただ怠惰なアルバートだ。だが、今回の休暇は一ヶ月もある。
マスターで居残る者はおらず、マスターがいないのならば、白石も仕事がないため帰省する。いま学校内に残っているのは、何かしらの事情があるバトラー数名だけだ。
東條は、校舎内にある図書室にいた。
図書室は、外から見て塔になっている箇所に位置している。ドーム状の吹き抜けになっている壁のすべてが本棚になっていて、古今東西あらゆる種類の書物が自由に閲覧できる。二階、三階部分の本を取り出せるように回廊が作られているが、それでも手の届かない位置にある本は、所々にかかっている梯子を利用して取り出す。
図書室中央には八角形の大型の机が備え付けられ、その周囲に複数の椅子が設置されている。まるで本に包み込まれるような重厚で幻想的な空間。だがしかし、普段から図書室の利用者は少ない。
ましてや忙しい夏休み初日にこのような所に来る者もいないので、東條は朝からここに逃げ込んでいた。
寮の部屋が騒がしくなるのも嫌だったし、なぜ帰らないのかと聞かれるのも面倒だ。そして、人の気配が消えていく様を体感するのも、気分がいいものではない。
長らく読書に没頭していた東條は空腹を覚えて、読んでいた本に栞を挟んで閉じると、ラフなチノパンから懐中時計を引き出した。見ると、シンプルな針は一時半を示している。
通常マスターのランチは十二時から始まるが、バトラーのランチはそれが終わった一時半から始まる。東條の体はしっかり、いつもの生活リズムを覚えていた。
選んだ本を手に持ち、東條は図書室から出た。賄いの料理を届けてくれる白石もいないので、夏休みの間は自分で料理を作るか、学校外から買ってくるかしなくてはならない。
東條は事前に、白石から数日間は使える食材が残っていると聞いていた。そこで、校舎を出て寮の厨房へ向かうことにする。
日陰から出ると、真上から降り注ぐ日差しの強さに思わず目を細める。今年の七月は涼しく快適に過ごせる日が多かったが、今日はすっかり真夏の陽気だ。辺りには蝉の声が盛んに響いている。
東條はじわりと肌に浮かぶ汗を感じながら、寮と校舎の中央に位置するイングリッシュガーデンを歩く。すると、前方から聞き馴染んだ人の話し声が聞こえてきた。
「ねぇー。きっともう皆来ないんだって、早く行こうよ」
「しかし、バトラーたちが連絡なく約束を破ることなんてあるのか?」
「きっと夏休みに入ったから、皆浮かれて忘れちゃったんだって」
イングリッシュガーデンの端にある、寮に近い位置に建つ東屋の中に、宗一郎、明彦、水島の三人の姿があった。三人とも今日は制服ではなく、ティーシャツにカジュアルパンツといったラフな格好だ。
東條は彼らがまだ学校に残っていたことを意外に思いながら、その脇を軽く会釈をした後に通り過ぎようとした。しかし、東條の姿に気づいた明彦に声をかけられる。
「あれ、東條もまだ残ってたんだ。これから帰るの?」
東條は咄嗟に返事ができず、彼にしては珍しく一瞬口ごもった。と、その隙に水島が冴え冴えとした口調で言い放つ。
「東條は児童養護施設で育ったんだよ。高校入学した時に施設からも出ちゃったから、帰るとこがないの。高校入学してから、一回も学校から離れたことないらしいよ。ねー、東條?」
水島はその事実を述べることで、マスター二人から東條の印象が下がることを望んでいた。なぜなら東條は「品が良い」「きっと育ちが良いのだろう」と、そんな評価を下されることが多いからだ。
だがマスター二人の顔に浮かんだ表情を見て、水島は己の発言が逆の効果を生んだことを悟る。
「答えにくいことを聞いちゃったね、ごめん。って、こういう言い方もよくないかな」
初めて知った事実に驚き固まっていた明彦は、素直な反応のままに謝罪する。
「お気になさらないでください。わたくしの出自は伏せているものではございません。だからこそ、こうして水島も知っているのですし」
「実はこれから俺たち、俺の別荘で一週間のんびりする予定なんだ。よかったら東條も来ないか」
明彦の隣に座る宗一郎の言葉に、水島が眉を跳ね上げた。そしてキッと東條を睨みつける。
「ありがたいお誘いですが、堅苦しいわたくしがご一緒したら、せっかくの休暇のお邪魔になります」
東條は以前宗一郎から告げられた言葉を引用しつつ、曖昧に微笑む。
「いや、これはお誘いというより、お願いかな。本当はバトラーがあと四人来る予定だったんだ。それがなぜだか皆、待ち合わせの時間になっても来なくてな」
見てくれよ、というように宗一郎は腕を広げる。
その言葉と、水島から向けられる牽制するような眼差しに、東條はすべてを理解した。彼らは別荘でヴァカンスを過ごす者たちと、ここで待ち合わせる約束をしていた。だが、バトラーは水島以外来なかった。
であれば、それは水島が仕組んだことに違いない。他の者たちをどう騙したのかは分からないが、宗一郎との仲を深めるために抜け駆けしたかった、という動機は読み解ける。
水島からすれば、腹立たしいことこの上ない状況だ。苦労して他の者を遠ざけたのに、偶然通りかかった東條がその策を台無しにしようとしているのだ。
面倒な場面に遭遇してしまったと、東條はため息を心の中で押し殺しながら、変わらぬ微笑みを浮かべている。
宗一郎は水島と東條の様子を気にすることなく言葉を続けた。
「実は、別荘滞在中は使用人にも休暇を与えてしまったんだ。バトラーが五人もいるなら、俺たちだけの方が気兼ねしないでいいかと思って。だけどどうもアテが外れてしまったようでね。俺達を助けると思って同行してくれないか」
「宗一郎、心配しなくても大丈夫だってば。僕がいるんだから」
東條が返事をする前に、水島が口を挟む。
「いくら別荘と言っても相応の広さはあるし、俺だけでなく明彦もいるんだ。水島だけの手には余るだろう。どうだ東條、俺たちを助けてはくれないか。もちろん、働いてもらったぶんの手当は出す」
「俺も東條が来てくれたらうれしいな」
明彦も言葉を重ね、期待の眼差しを向けてくる。東條は、観念したようにゆっくりと目を瞬いた。
東條はこの提案が宗一郎の優しさであることは気づいている。使用人に休みを与えてしまったのが本当であっても、宗一郎であれば、急遽使用人を呼び戻すことも、代わりの者を呼んでくることも、造作ないのだから。
しかしマスターに助けてくれと言われて、それを突っぱねられるバトラーはいない。
「かしこまりました。ありがたくご一緒させていただきます」
東條の返事に宗一郎は微笑み、明彦はうれしそうに両手をあげる。いっぽう、水島は拗ねるようにぷくーっと頬を膨らませていた。
0
お気に入りに追加
11
あなたにおすすめの小説
フラレたばかりのダメヒロインを応援したら修羅場が発生してしまった件
遊馬友仁
青春
校内ぼっちの立花宗重は、クラス委員の上坂部葉月が幼馴染にフラれる場面を目撃してしまう。さらに、葉月の恋敵である転校生・名和リッカの思惑を知った宗重は、葉月に想いを諦めるな、と助言し、叔母のワカ姉やクラスメートの大島睦月たちの協力を得ながら、葉月と幼馴染との仲を取りもつべく行動しはじめる。
一方、宗重と葉月の行動に気付いたリッカは、「私から彼を奪えるもの奪ってみれば?」と、挑発してきた!
宗重の前では、態度を豹変させる転校生の真意は、はたして―――!?
※本作は、2024年に投稿した『負けヒロインに花束を』を大幅にリニューアルした作品です。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

切り札の男
古野ジョン
青春
野球への未練から、毎日のようにバッティングセンターに通う高校一年生の久保雄大。
ある日、野球部のマネージャーだという滝川まなに野球部に入るよう頼まれる。
理由を聞くと、「三年の兄をプロ野球選手にするため、少しでも大会で勝ち上がりたい」のだという。
そんな簡単にプロ野球に入れるわけがない。そう思った久保は、つい彼女と口論してしまう。
その結果、「兄の球を打ってみろ」とけしかけられてしまった。
彼はその挑発に乗ってしまうが……
小説家になろう・カクヨム・ハーメルンにも掲載しています。


体育座りでスカートを汚してしまったあの日々
yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる