鷹鷲高校執事科

三石成

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四月の章

入学式 -2-

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 明彦は前日から泊まっていたホテルから、電車を利用し単身で鷹鷲高校へと向かった。本来は晴れがましいはずの日だが、明彦の胸にあったのは、不安だけだった。

 明彦は旅行を除いて長野の地元から出たことはなく、東京に来るのは初めての経験だった。鷹鷲高校帝王科は貴族の一五歳であれば誰でも入学することができるため、試験などはない。そのため、事前に学校にくる用事もなかった。

 故郷では遭遇することないレベルの人混みに揉まれ、ようやく鷹鷲の名を冠する最寄り駅に降り立ったその時。

 明彦は強烈な目眩に襲われた。全身の血の気が引いていくのを感じ、まろび出るように電車から離れると、駅のホームに座り込む。

 気持ちの悪さが全身を支配している。胃のあたりから何かがせり上がってくるような不快感に、手足の冷えを実感する。体が重だるく、自身の心音がやけに大きく聞こえた。

 明彦の様子を見ながらも、脇を通り過ぎていく人の気配。誰一人として知り合いのいない場所であることを思い知り、冷たい絶望感のようなものが胸に満ちたその時。

「君、大丈夫?」

 頭上から降ってきた声に、明彦は緩慢な動きで顔を上げる。そばに立っていたのは端整な顔をした、見知らぬ少年。彼こそが東條だった。

 東條は明彦の顔色の悪さを見ると隣にしゃがみ込む。

 いっぽう明彦は、己を気にかけてくれる者の登場に体から力が抜け、そのままホームの上にズルズルと体を倒した。

 汚れたホームに明彦の頭がついたのを見て、東條は自分の首に巻いていたマフラーを外した。軽くたたみ、それを躊躇することなく明彦の頭の下に敷く。

 頬に感じた優しく暖かいウールの感触に、明彦はぼんやりとする頭でひどく驚いた。

 自分のマフラーを、見ず知らずの者のために汚いホームの上に敷ける者がいるのか、と。まして、明彦の体調は最悪だ。もしかしたらこのまま吐いてしまうかもしれない。だが東條にはそんなことを気にしている様子は微塵もなかった。

「意識ははっきりしてる? 熱はないみたいだ。貧血かな。駅員さんも気づいてくれたから、すぐ救護室に運んでもらえるよ」

 東條は明彦の額に手をあてながら、何の気負いも感じさせない声音でそう告げる。その冷静な様子に、明彦は重苦しかった気持ちが軽くなっていくのを感じていた。

「あり……がとう……」

 体調は最悪なまま、やっとの思いで礼を述べる。明彦の声を聞いた東條は少し驚いたように瞬いた後、ふっと笑顔を浮かべた。

「どういたしまして。悪、小なるをもってこれをなすなかれ。善、小なるをもってこれをなさざるなかれ、という。大したことはないさ」

 突然、東條の口から述べられた長々としたセリフ。その言葉に、明彦は聞き覚えがある気がした。いったいどこで聞いたものかと、最悪のコンディションの中で考える。

 間もなく、担架を携えた駅員がやってきた。

 明彦はそのまま担架に乗せられ、駅の救護室まで運ばれた。パイプでできた簡素なベッドに寝かせられると、前日の寝不足も相まってあっという間に眠りに落ちていた。


 それから三〇分。

 救護室につながる駅の事務所から響く、電話のベルの音。自然と目が覚めた明彦は周囲に視線を移し、横を見て驚いた。ホームで別れたはずの東條が、救護ベッド横のパイプ椅子に腰掛け文庫本のページをめくっていたからだ。

「さっきの、劉備の言葉だよね」

 どう声をかけたものかと、思案したのは一瞬のこと。明彦は思わずそう話しかけていた。駅のホームで聞いたセリフがどうしても気になっていた。

 明彦が目を覚ましたことに気づき、東條は本を閉じると顔を上げた。

「知っているのか、珍しいな」

 彼はうれしそうに応えた後で、

「良かった、顔色が戻ったみたいだ」

 と続ける。

「俺も好きなんだ、三国志」

「どこの国が好き?」

「やっぱり蜀かな」

「僕も」

 短いやり取りを交わし、二人はふふ、と笑う。

「俺が起きるまでついててくれたんだね。本当にありがとう」

「ああ。その格好、もしかして君も鷹鷲高校の新入生なんじゃないかなと思って。実は僕もなんだ。起きられても一人じゃ不安だろう? 同じ場所に行くなら、つきそっていった方が良いかなと思ってさ」

 明彦も東條も、入学式のために各々の私物である礼服を着ている。鷹鷲駅にこの日のこの時間、礼服を着た同年代とくれば、同じ目的を持つ者同士だと考えるのが自然だった。

「うん、そうなんだ。俺も今日入学式……ああっ」

 明彦は飛び跳ねるように体を起こした。突然動いたせいで頭がくらりと揺れたが、明彦は構わずにベッドから降りる。壁にかかった時計を見れば、すでに入学式がはじまる時間を過ぎていた。

「遅刻だ……」

 絶望を滲ませ明彦は呟く。そのあまりにも愕然としたような表情を見て、東條は数回目を瞬かせた後、吹き出した。

「いや、今日は仕方ないだろう。事情を話せば先生も分かってくれると思うよ」

 クスクスと笑う東條の方を向き、明彦はあらためて頭を下げる。

「君にとっても大切な入学式だったのに、本当にごめん」

「勝手につきそうって決めたのは僕なんだから、気にしないで。もし行けそうだったら、学校に向かおうか。式も途中から参加できるかもしれないし。あ、それと……」

 椅子から立ち上がり、鞄を持ちながら、東條は明彦を見る。

「僕は東條っていうんだ。よろしく」

「あっ、俺は七森。よろしく、東條」

 二年前の明彦はまだ背が伸び切っておらず、東條とほぼ同じ背丈だった。同じような体格の、同い年の二人は、駅から学校までの徒歩一〇分程度の距離の間で、すぐに意気投合した。

 今朝まで不安で押しつぶされそうだった明彦の心は、東條という気の合う友人を見つけられたことで、すっかり明るく晴れていた。


 二人の状況が一変したのは、桜の舞い散る学校の門をくぐった瞬間だ。

 門の内側には、三年の先輩が二名立っていた。二人とも、黒い制服を着た男子のバトラーだ。すでに入学式ははじまっているが、彼らはいまだ到着していない新入生がいると聞いて待機していたのだ。

 彼らはやってきた東條の姿を見て、ほっとしたような表情を浮かべた。だが、東條の横で談笑する明彦を見留め、すぐさまその笑顔を強張らせる。

 バトラーのうち長身の方の一人が、急いで明彦の元へと駆け寄ってきた。

「明彦様、ご入学おめでとうございます。どうぞこちらへ」

 彼は祝辞を述べると、門から真っ直ぐに伸びる舗装道ではなく、そこから横に逸れる遊歩道らしき道の方へと促そうとする。明彦は名乗ってもいないのに名前を呼ばれたことと、先輩から敬語を使われたことに面食らった。だがしかし、学校に辿り着いたことに、そして、自分たちを待っていてくれた者がいることに安堵して表情を緩めた。

「ありがとうございます。すみません、駅で体調が悪くなってしまって。東條はそんな僕に付き添ってくれていたんです」

「まあ、それは大変でしたね、今のご気分はいかがですか? もし優れなければ校医を呼んで参りますよ」

「いえ、大丈夫です。駅で十分に休ませてもらって……あの」

 先輩に促されるまま歩いていた明彦は、門に残ったままの東條を振り返った。

 東條は、もう一人の先輩に白薔薇のコサージュをさしてもらいながら、抑えた声で短く言葉を交わしていた。東條の瞳が驚きに見開かれ、明彦を見る。

「東條も行こうよ」

 明彦は東條へ何も疑うことなく声をかけた。

 今しがたできた気の合う友達と、自分のせいで遅れてしまった入学式へ一緒に向かう。彼らは駅からここまで一緒に歩いてきたのだし、明彦にとっては、それがごく自然なことだった。

 しかし、明彦の横に立つ先輩は困ったように眉を下げた。彼は外聞を気にするように声のボリュームを下げ、明彦に耳打ちする。

「明彦様、こちらは執事科の生徒が出入りする裏門です。帝王科の皆様は正門をお使いになられますので、正門からあらためて式場までご案内いたしますね」

「東條は?」

「東條は執事科の生徒でございます」

 柔らかい物腰ながらも、有無を言わさぬ態度。

 明彦が再度門の方を振り向くと、東條は明彦を見て、深々と頭を下げていた。その姿に、明彦は東條との、はじまったばかりの友情が途切れたことを痛感する。

「さあ、参りましょう」

 先輩に再度促され、明彦は渋々歩きはじめる。

 明彦が案内された先にはリムジンが待っていた。校舎に向かうのではなかったのかと困惑した明彦だが、明彦を乗せたリムジンは一度校内の敷地から出た。リムジンは一般道を通ってから、あらためて正門前のロータリーへ止まる。

 守衛によりドアを開けてもらい降り立った眼の前には、さきほどの門よりも数段立派な正門があった。その綺羅びやかな門を見上げ、明彦は溜め息をつく。この門を通ることに、いったい何の意味があるのだろうか、と。そんな思いが胸に込み上げて。

 当時の明彦には納得できないことではあったが、バトラーたる先輩がこの手順を踏んだのには理由があった。

 鷹鷲駅から鷹鷲高校に向かうと、まず裏門に辿り着くようになっている。正門を利用するマスターは公共交通機関など使わないからである。

 マスターは通常、自家用車で専属の運転手により学校まで送られるものであり、電車で一人学校までやって来た明彦は、異例中の異例だったのだ。

 明彦が正門をくぐると、そこにはマスターと、彼に付き従っているバトラーの先輩が一人ずつ待っていた。

「入学おめでとう」

 帝王科の制服を身にまとった先輩に、祝辞とともに薔薇のコサージュをもらう。

 それから明彦は複雑な心持ちのままマスターだけが集められた入学式に参加し、無事鷹鷲高校への入学を果たしたのだった
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