真名を告げるもの

三石成

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第三章「手招くもの」-side大野-

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 山の中、猛烈な勢いで移動する異形を何とか見失わないように走る。

 俺の少し前には、白も共にあれの後を追っていた。

 色々と聞きたいことはあるが、走ることに必死で今はそれどころではない。どこに行くかも分からずにめちゃくちゃに走っているので、今この場所で放り出されたら俺は確実に山の中で遭難する自信がある。

 目の前に張り出した木の枝を潜り、姿勢を戻した時、遠くに見えていたはずの異形の姿が消え失せた。

 一体どこにいったのかと、異形が消えた地点まで走り続けたその時、足を滑らせてそのまま崖になっている下へと滑り落ちる。

「いっ……!」

 落ちている最中はあまりの驚きに声も出なかったが、崖下の岩に尾てい骨を打ち付けてようやく声が出る。

 そこまで高い段差でなくて良かったと思うが、見上げてみれば、三メートルくらいは落下したのか。ここから上へは登れなさそうだ。

 先を行っていた白はきちんと受け身をとっていたようで、すでにしっかりと崖下に立っていた。崖があるならあると警告してくれればよかったのに。

「あれを」

 白が指で示す先を、俺も懐中電灯と視線で追う。

 そこにはぼうっと佇む異形の姿と、土がむき出しになった岩肌にぽっかりと縦幅百五十センチ程の穴をあけた洞窟らしきものがあった。その洞窟からは洞窟と同じ幅の小川が流れ出しているようだ。洞窟の中へ入るには、水の中を歩いていくしかないだろう。

「あそこにまっつんがいるのか?」

「確かです」

 白が再び歩き始めたのを見て、俺も慌てて立ち上がり後に続く。

 洞窟の中へ入るには少し屈む必要があった。足元を水にとられながら、狭く暗い中へ入っていくのはなかなかの精神的な苦痛を感じる。

 だが踝の当たりまで水で濡らし、中腰のまましばらく進んでいくと、しばらくしたところで内部空間が開けたことを周囲の空気から感じた。懐中電灯で洞窟の内側を照らし出すと、やはり腕を伸ばしても届かない程に天井が高い。

 四方から水の滴る音が聞こえて、反響している。外は夜でも蒸し暑いのに、この洞窟の中は肌寒い程だ。

 さらに湿った土の匂いに混ざって、何か別の匂いがしてきた。

 と、前を歩いていた白が立ち止まり、俺を制止するように腕を伸ばした。

 暗闇の向こうで、何かが蠢くのを感じる。小さな物ではない、まるで闇自体が動いているかのように錯覚してしまいそうなほど、大きな、何か。

 俺と白の持つ、二つの懐中電灯の丸い光が照らし出したのは、人の姿だった。まるで闇に捉えられているかのように、ダランと体を弛緩させたまま直立の姿勢にされているその人物は、隼人だ。

「隼人っ!」

 思わず走り出そうとした俺を、白の腕が掴んで引き止める。

 文句を言おうと口を開いた瞬間。だが、俺の口から出たのは、自分でも今まで聞いたことのないような絶叫だった。

 闇が動く。

 ぬらりと光を反射する大きな鱗の一つ一つが浮き出るように見え、次に認識出来たのは、巨大な牙。

 大きな口を開けた闇が隼人の頭を飲み込んだ。肩の辺りから上をもぎ取られ、鮮血が吹き出す。むっと溢れ出した鉄の匂い。

 目にしたものが信じられなくて、心が砕けていく。

 体から力が抜け、足元を流れる水の中にしゃがみ込む。その水にさえ、隼人の血の生暖かさが混ざっているような気がして。

「このような所に引き篭もって人肉を喰らうとは、水神も堕ちましたね」

『人の子が、人の子風情が……人、人……人、おいし……』

 白が朗とした声で呼びかけると、それに応えたのは老若男女複数人を混ぜ合わせたかのような声だった。その音は鼓膜にではなく、直接脳内に煩いほどに響く。何かを咀嚼しているような音と混ざり、頭痛さえも引き起こす。

「おれのものに手出しはしていないでしょうね」

 よく周囲を見てみれば、洞窟のこの空間の中、あちこちに人の死体が転がっていた。どれも体の一部を食い破られ捨てられているが、古くはなく、今まさに息絶えたものばかりのようだ。

『おれ、もの、人、ひと……ひと……』

 返事は最早言葉の意味をなしていない。そして次にずるりと闇の中から引き出されたものがある。また、人だ。

「は……白?」

 意識を完全には失っていないのか、しかし白の声に反応して絞り出すように小さく言葉を漏らす。謙介の声だ。

 白が、後ろから見ていても分かるほどに大きく肩で息を吸った。

 そして、それが始まる。



 白の唇から紡がれ始めたのは、呪詛のような言葉だった。何を言っているのかは理解が出来ないが、音の響き的に日本語であることは分かる。抑揚もなく発される声にはしかし、ただ耳にしているだけの俺さえも圧倒される程の迫力と怖さがあった。

 闇の動きがピタリと止まり、次の瞬間、地面が震えだし、洞窟内に絶叫が響き渡る。

 脳内に反響するその声に思わず両手で耳を塞いだが、耳を物理的に閉じてなんとかなるようなものではない。

 思わずのたうち回りたくなるような音の暴力の中、しかし白は毅然と立ったまま呪詛を唱え続けていた。

 声と声の攻防がどれ程の時間続いたのか、俺の中の感覚は定かではない。永遠のようにも感じていたが、一時間程の出来事だったのかもしれない。

 次第に白の朗とした声が、闇の叫びを圧倒し始める。

 だが、そこで俺は気づいた。

 白の口元が血で濡れている。

 それは先程の隼人の血が飛んできたものではなく、白が言葉を紡ぐ度、彼の体の内側から溢れ出している鮮血だ。

「みつち……」

 長い呪詛の最後に、はっきりと耳に届く言葉を発したと同時。白はごぽりと血の塊を吐いた。そのまま後ろの水の中へ倒れていく体を、咄嗟に腕を伸ばして受け止める。

 と、別のところからもばしゃりと大きな水音が響く。

 視線を向ければ、闇に釣り上げられていた謙介の体が水の上に落ちた音だった。そこにいたはずの、あの闇の塊の姿は消え去っていた。

「まっつん!」

 白の体を肩に抱え上げ、謙介の元へと向かう。だが、すでに謙介にも意識はないようだった。口元に耳を寄せて確認すると、呼吸をしていることはわかってほっと胸をなでおろす。

 周囲を改めて確認するが、そこにあるのは十人を超える程の死体ばかりで、他に生きている人の姿はない。打ち捨てられた隼人であったものの体を見るのは、あまりにも辛すぎて、視線をそらす。

「隼人……なんで……」

 隼人が一体、何をしたって言うのか。

 そのまま足が萎えて座り込んでいたかったが、担いでいる白の口からは呼吸をする度に新しい血が垂れてきているようだ。俺は震える体に鞭打った。

 白を抱えたまま、謙介の重い体を半ば引きずるようにして洞窟を出る。隼人の遺体も連れて出たかったが、二人を連れて行くだけで精一杯だ。

 洞窟から出て、水の届かない地面に辿り着くと、一度体勢を立て直すために二人の体を下ろした。

 俺は思わず、そのまま地面の上に仰臥する。後から後から、熱い涙が溢れてこめかみを伝って落ちて行く。

 闇が隼人を喰らう瞬間の映像が、脳裏にこびりついて離れない。

 高二の夏休み初日は、人生史上最悪の一日だった。



 その後、俺は意識を失っている二人の体を引きずりながら、なんとか山を半ばまで下り、スマホの電波が届くところまで辿り着くとレスキューを呼んだ。

 捜索隊に助け出され病院へ向かったが、救急車の中で意識を取り戻した謙介よりも、一部の内蔵と気管支全体が内側から傷ついているとかで白の方が重体だった。ただ、一通りの治療が終わるとすぐに白の家から迎えが来て、彼は自宅療養に切り替わった。まだ意識は戻っていないらしい。

 俺が捜索隊に知らせた洞窟の中からは計十四人の死体が発見されたが、その損傷具合から熊による被害であるとされ、狩猟隊が結成された。連日捜索が行われているが、もちろん熊は見つかっていない。

 俺はあの洞窟で見たことを、謙介以外の誰にも話はしなかった。奇異の目で見られ嘘つき呼ばわりされるのはまっぴらだ。

 山の中腹にあった社の中の井戸はその後、動物の死体が出されて清掃がはじめられたようだ。井戸の中に動物の死体を放り込んだ犯人は未だに捕まっていない。

 隼人の死は、担任の教師から葬儀の日取りと共に伝えられた。
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