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第二章「覗くもの」-side御崎-
二
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冷蔵庫に半ば頭を突っ込み、目当てのものを探す。赤いラベルをしていて、蓋の部分で四つ繋がっているヨーグルトで、一つずつパキッと切り離して食べるやつ。今日の分がまだ一つ残っていたはずだ。
ただ、奥の方にあった貰い物のビールの缶をずらしても目当てのものは見つからなかった。
「おかーさーん。私のヨーグルト知らないー?」
諦めて冷蔵庫から頭を出して扉を閉める。問いかけたのは、キッチンと繋がっているリビングで洗濯物を畳んでいる母へ。
「あ、そうだった。ごめんねぇ、今日のお昼、ユズちゃんが食べたがったからあげちゃったんだわ」
「えー、あれ毎日食べないといけないのに」
ユズちゃんというのは私の年の離れた弟だ。今月四歳になったばっかりで、まだまだ手のかかる頃。
私も一緒になって甘やかしたのがいけないのか、すっかりワガママになってしまった。きっとあれが食べたいと言って泣き喚いたのだろう。昨日の夜、一口だけといってあげてしまったのがいけなかった。
そのヨーグルトというのが、毎日食べると腸内環境が良くなってお肌が綺麗になるとかいう物で、私はそれをお風呂上がりに食べることを日課にしていた。
機能面に惹かれて始めた習慣ではあったものの、サッパリとしたその味も気に入って、今では一日のお楽しみなっていたのでがっかりする。
「ごめんごめん。明日ちゃんと買っておくね」
「いいよ。自分で買ってくるから」
でも、これ以上膨れっ面はできない。昔だったらもっとぶーたれていたような気がするけど、今私はお姉ちゃんなんだ。お母さんがワガママな弟に手を焼いているのも知っている。これ以上母の手を煩わせる訳にもいかない。
仕方なく、もう一度冷蔵庫を開けると牛乳のパックを取り出した。ヨーグルトの代わりになるかは分からないが、成分的に一番近いのはこれだろう。
コップに一杯注いで、すぐにパックを冷蔵庫のポケットに戻す。扉を閉めて、リビングへ向かおうと振り向いた時、背後に何かの気配を感じた。
ゾクッと項の辺りに寒気が走り、瞬時に振り向く。閉めたはずの冷蔵庫の扉がほんの少しだけ開いていた。
何でもない自分の家の、ありふれた光景なはずなのに。その扉がほんの少し開いているだけで、正体不明の恐怖を感じた。そこから漏れるのは冷気だけだろうか。
今にも中から何かがズルリと落ちてきそうな気がして、私は慌てて体当たりするようにして扉を閉める。
冷蔵庫が勝手に自分から開くなんてことある訳がないし、私が閉め損ねた? そんなこと、今まで一度だってないのに。
恐る恐る体を離すが、今度こそ冷蔵庫はしっかりと閉まっている。
「穂香? どうしたの?」
そんな私の奇行に、お母さんが怪訝そうな顔をしてこちらを見ていた。
「ううん、なんでもない」
誤魔化すように笑って、手にしていたコップに口をつける。優しいほんのりとした甘みのある牛乳が口の中に広がると、少しだけ落ち着いた。それでもコップ一杯を一気に飲み干してしまう位には動揺していたけど。
使ったコップを軽く洗って水切りカゴに置き、気持ちを切り替えるように首を振りながら洗面台へ向かう。もう歯を磨いて寝てしまおう。昨日よりもさらに隙間が気になってしまうのは、七瀬くんが変なことを言ったからだ。
ピンクの歯ブラシをとって、ちょっとだけ歯磨き粉をつけ口に咥える。シャコシャコといつもと同じ動きをしていると、また気持ちが落ち着いてくる。
私が教室を出た後も、七瀬くんとあの先輩は何か話していたみたいだった。
本当に、一体彼らはどういう関係なんだろう。元々の知り合いにしては今まで見かけたことがなかったし、でも、なんだかとても親密そうだった。
特に七瀬くんのあんなに柔らかい雰囲気、初めて見た。
今日の放課後のことに意識を飛ばしていた時、ふと、鏡に写った背後の扉がゆっくりと開いていくのが目に飛び込んできた。
レバー型のドアノブが傾いて、ほんの僅か、隙間を開けるとノブが戻る。その全てを視界に収めて、体が震えだす。
何だ、今の動き。明らかに、私の扉の閉め忘れなんてものじゃない。誰かの、何かの意図がなければドアノブがあんな動きする訳ないじゃないか。
意を決して振り返ると、確かに扉が開いていた。きちんと閉めて入ったはずの扉。そこに何かがいる訳でもないのに、向こうが見えない位に薄く開いた隙間が、途轍もなく怖い。
私はすぐさま口を濯ぐと洗面所を飛び出した。そのままの勢いで廊下を走って自分の部屋へと入り電気をつける。
照明に照らされた六畳ほどの自室。
一つだけある窓にかかった淡いサーモンピンクのカーテンは、決して隙間が開かないようにピッチリと幾つもの洗濯バサミで留めてある。天井近くに取り付けられていた換気口も、この時期は使っていないエアコンも、全てガムテープで目張りしてしまった。
扉の脇には、扉を閉めた後で床との間の隙間を埋められるように、使っていないバスタオルが転がっている。
これらは全部自分でやったものだ。その、絶対的な防御にほっと安堵の息を漏らしかけた時、部屋のクローゼットの戸が、ほんの少しだけ開いていることに気づいた。
「なんでっ!」
思わず悲鳴めいた声が上がる。こんなの、絶対におかしい。こんな風に隙間を開けて、私が放置していく訳ないのに。
「ねぇね……?」
背後で声がして振り返ると、寝ぼけ眼のユズが立っていた。ユズの部屋は隣にある。私の立てた音に起きてきてしまったのだろう。
しかし、そんなユズの姿を見た瞬間、急激に腹がたった。
きっとユズだ。ユズが、日中に私の部屋に入って悪戯したに違いない。もしかしたらさっき洗面所の扉を外から開けたのも……?
「どうしてこんなことするの! 私の部屋に入らないでって、いつも言ってるでしょ!」
動転した気持ちのまま、声を荒げていた。こんなヒステリックな声、出したことがない。
はっと我に返ったのは、びっくりしたような顔をしていたユズが、わっと声を上げて泣き出し始めてからだった。
「ねぇね怖いぃー」
「ごめ、ごめん……ユズ、ごめんね……」
自分のあげた声に自分で驚き、ユズに近づくこともできずに後ずさる。騒ぎを聞いた母が駆けつけてきた。
「どうしたの、何かあったの?」
「ごめん、お母さん……なんか私、疲れてるみたい」
弱々しく言い訳だけ告げて、私は全てを遮断するように部屋の扉を閉めてしまう。扉の向こう側から響く可愛そうなユズの泣き声が私を責め続ける。
全身から力が抜けていき、扉の内側でへなへなと座り込む。どこか呆然としていたが、依然としてクローゼットの隙間は開きっぱなしだ。
隙間はクローゼットの内側を見通すには小さすぎて、ただそこに影の黒い帯を存在させている。
私は不意に、七瀬くんの声を思い出していた。
「もし隙間の向こうに見えたら」と。
隙間の向こうに、何が見えると言うのだろう。
座り込んでいたところから四つん這いになって、じりじりとクローゼットへ近づいていく。
中にはただ、私の洋服がかけてあるだけだ。最近服を買い込みすぎてしまって、ぱんぱんになっているから整理しなければと思っていた。今朝だってここから制服を取り出して、着替えて学校に行ったのだ。
だから、何もあるわけはない。
クローゼットへ顔を近づけ、隙間の向こうを覗き込む。
――暗闇の中、人と目が合った。
ただ、奥の方にあった貰い物のビールの缶をずらしても目当てのものは見つからなかった。
「おかーさーん。私のヨーグルト知らないー?」
諦めて冷蔵庫から頭を出して扉を閉める。問いかけたのは、キッチンと繋がっているリビングで洗濯物を畳んでいる母へ。
「あ、そうだった。ごめんねぇ、今日のお昼、ユズちゃんが食べたがったからあげちゃったんだわ」
「えー、あれ毎日食べないといけないのに」
ユズちゃんというのは私の年の離れた弟だ。今月四歳になったばっかりで、まだまだ手のかかる頃。
私も一緒になって甘やかしたのがいけないのか、すっかりワガママになってしまった。きっとあれが食べたいと言って泣き喚いたのだろう。昨日の夜、一口だけといってあげてしまったのがいけなかった。
そのヨーグルトというのが、毎日食べると腸内環境が良くなってお肌が綺麗になるとかいう物で、私はそれをお風呂上がりに食べることを日課にしていた。
機能面に惹かれて始めた習慣ではあったものの、サッパリとしたその味も気に入って、今では一日のお楽しみなっていたのでがっかりする。
「ごめんごめん。明日ちゃんと買っておくね」
「いいよ。自分で買ってくるから」
でも、これ以上膨れっ面はできない。昔だったらもっとぶーたれていたような気がするけど、今私はお姉ちゃんなんだ。お母さんがワガママな弟に手を焼いているのも知っている。これ以上母の手を煩わせる訳にもいかない。
仕方なく、もう一度冷蔵庫を開けると牛乳のパックを取り出した。ヨーグルトの代わりになるかは分からないが、成分的に一番近いのはこれだろう。
コップに一杯注いで、すぐにパックを冷蔵庫のポケットに戻す。扉を閉めて、リビングへ向かおうと振り向いた時、背後に何かの気配を感じた。
ゾクッと項の辺りに寒気が走り、瞬時に振り向く。閉めたはずの冷蔵庫の扉がほんの少しだけ開いていた。
何でもない自分の家の、ありふれた光景なはずなのに。その扉がほんの少し開いているだけで、正体不明の恐怖を感じた。そこから漏れるのは冷気だけだろうか。
今にも中から何かがズルリと落ちてきそうな気がして、私は慌てて体当たりするようにして扉を閉める。
冷蔵庫が勝手に自分から開くなんてことある訳がないし、私が閉め損ねた? そんなこと、今まで一度だってないのに。
恐る恐る体を離すが、今度こそ冷蔵庫はしっかりと閉まっている。
「穂香? どうしたの?」
そんな私の奇行に、お母さんが怪訝そうな顔をしてこちらを見ていた。
「ううん、なんでもない」
誤魔化すように笑って、手にしていたコップに口をつける。優しいほんのりとした甘みのある牛乳が口の中に広がると、少しだけ落ち着いた。それでもコップ一杯を一気に飲み干してしまう位には動揺していたけど。
使ったコップを軽く洗って水切りカゴに置き、気持ちを切り替えるように首を振りながら洗面台へ向かう。もう歯を磨いて寝てしまおう。昨日よりもさらに隙間が気になってしまうのは、七瀬くんが変なことを言ったからだ。
ピンクの歯ブラシをとって、ちょっとだけ歯磨き粉をつけ口に咥える。シャコシャコといつもと同じ動きをしていると、また気持ちが落ち着いてくる。
私が教室を出た後も、七瀬くんとあの先輩は何か話していたみたいだった。
本当に、一体彼らはどういう関係なんだろう。元々の知り合いにしては今まで見かけたことがなかったし、でも、なんだかとても親密そうだった。
特に七瀬くんのあんなに柔らかい雰囲気、初めて見た。
今日の放課後のことに意識を飛ばしていた時、ふと、鏡に写った背後の扉がゆっくりと開いていくのが目に飛び込んできた。
レバー型のドアノブが傾いて、ほんの僅か、隙間を開けるとノブが戻る。その全てを視界に収めて、体が震えだす。
何だ、今の動き。明らかに、私の扉の閉め忘れなんてものじゃない。誰かの、何かの意図がなければドアノブがあんな動きする訳ないじゃないか。
意を決して振り返ると、確かに扉が開いていた。きちんと閉めて入ったはずの扉。そこに何かがいる訳でもないのに、向こうが見えない位に薄く開いた隙間が、途轍もなく怖い。
私はすぐさま口を濯ぐと洗面所を飛び出した。そのままの勢いで廊下を走って自分の部屋へと入り電気をつける。
照明に照らされた六畳ほどの自室。
一つだけある窓にかかった淡いサーモンピンクのカーテンは、決して隙間が開かないようにピッチリと幾つもの洗濯バサミで留めてある。天井近くに取り付けられていた換気口も、この時期は使っていないエアコンも、全てガムテープで目張りしてしまった。
扉の脇には、扉を閉めた後で床との間の隙間を埋められるように、使っていないバスタオルが転がっている。
これらは全部自分でやったものだ。その、絶対的な防御にほっと安堵の息を漏らしかけた時、部屋のクローゼットの戸が、ほんの少しだけ開いていることに気づいた。
「なんでっ!」
思わず悲鳴めいた声が上がる。こんなの、絶対におかしい。こんな風に隙間を開けて、私が放置していく訳ないのに。
「ねぇね……?」
背後で声がして振り返ると、寝ぼけ眼のユズが立っていた。ユズの部屋は隣にある。私の立てた音に起きてきてしまったのだろう。
しかし、そんなユズの姿を見た瞬間、急激に腹がたった。
きっとユズだ。ユズが、日中に私の部屋に入って悪戯したに違いない。もしかしたらさっき洗面所の扉を外から開けたのも……?
「どうしてこんなことするの! 私の部屋に入らないでって、いつも言ってるでしょ!」
動転した気持ちのまま、声を荒げていた。こんなヒステリックな声、出したことがない。
はっと我に返ったのは、びっくりしたような顔をしていたユズが、わっと声を上げて泣き出し始めてからだった。
「ねぇね怖いぃー」
「ごめ、ごめん……ユズ、ごめんね……」
自分のあげた声に自分で驚き、ユズに近づくこともできずに後ずさる。騒ぎを聞いた母が駆けつけてきた。
「どうしたの、何かあったの?」
「ごめん、お母さん……なんか私、疲れてるみたい」
弱々しく言い訳だけ告げて、私は全てを遮断するように部屋の扉を閉めてしまう。扉の向こう側から響く可愛そうなユズの泣き声が私を責め続ける。
全身から力が抜けていき、扉の内側でへなへなと座り込む。どこか呆然としていたが、依然としてクローゼットの隙間は開きっぱなしだ。
隙間はクローゼットの内側を見通すには小さすぎて、ただそこに影の黒い帯を存在させている。
私は不意に、七瀬くんの声を思い出していた。
「もし隙間の向こうに見えたら」と。
隙間の向こうに、何が見えると言うのだろう。
座り込んでいたところから四つん這いになって、じりじりとクローゼットへ近づいていく。
中にはただ、私の洋服がかけてあるだけだ。最近服を買い込みすぎてしまって、ぱんぱんになっているから整理しなければと思っていた。今朝だってここから制服を取り出して、着替えて学校に行ったのだ。
だから、何もあるわけはない。
クローゼットへ顔を近づけ、隙間の向こうを覗き込む。
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