真名を告げるもの

三石成

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第二章「覗くもの」-side御崎-

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 隙間が怖い。

 自分の中にある、隙間に対する並々ならない恐怖心を自覚したのは、つい先日のこと。

 記憶を辿ってみても、元々そんなことはなかったはず。そう冷静に分析は出来るのに、私は私の中の焦燥感を抑えることができなかった。

 再びちらりと、教室の戸に視線を送る。少し褪せたオレンジ色の戸と、戸の縁である銀の柱との間。そこに五センチにも満たないような隙間が開いている。

 授業が始まる前に確認しておいたのに、先生が入って来た時にきちんと閉めないから、戸が閉じ切っていないのだ。

 冬でもないし、そこが開いているからといって寒かったりする訳でもないから、気にしなければ良いだけの話。

 私は無意味にシャーペンのノックを繰り返しながら、何とか先生の話に意識を集中させようとする。

 でも、怖い。その隙間から目を離したくない。

 ほんの僅か開いたそれは、覗き込まない限り、その奥に何があるのか分からない。

 向こう側に何があるかとか、想像して怖がっている訳じゃない。第一、戸の向こうには廊下しかないことは分かっている。ただどうしても、理由もなく、我慢がならない。

 授業中だというのに、私はついに勢い良く立ち上がった。

 突き動かされるように戸の所へ向かうと、それをぴっちりと閉じる。

 戸を閉めた途端、無意識に溜め息が溢れた。自分を急き立てていたどうしようもない不安な気持ちが薄らいで、体に籠もっていた力が抜けていく。

 ただ、同時に我に返った。振り向くと、先生と皆が私の方を驚いたように見つめている。

 私の席は教室の中央。廊下側一番端から二番目の列の、前から三番目。そんなところに座っている私が、いくら中途半端に開いた戸が気になったからって、自分から閉めに行く必要なんてないんだ。

「どうした、御崎《みさき》」

「すいません、何でもありません……扉がちょっと開いてるのが気になって……」

「そうか、ありがとうな。席に戻りなさい」

「はい」

 先生が優しくて良かった。

 促されるままに席に戻りながら、これはやっぱり強迫性障害っていうやつかもしれないと、私は昨日寝る前にネットで調べた記事を思い出した。

 強迫性障害とは、「分かっているのに止められないこと」があって、それによって生活に支障が出るものを言うらしいのだ。どうしてこんなにも隙間が怖くなってしまったのか、理由は分からないけれど、ひどいようなら病院に行ったほうが良いかもしれない。

 皺にならないように制服のスカートを抑えながら椅子に腰を下ろして、そっと溜息を一つ。気持ちを入れ替えて授業に集中しようとしたとき、左隣から視線を感じた。

 隣の席の男の子が、私をじっと見つめている。

 私が変なことしたから、当然なような気もするけど。先生も他の皆も、何事もなかったみたいに授業に戻っているし、この凝視っぷりはちょっと異様だ。

 七瀬白くん。ちょっと変わった名前だから、すぐに憶えてしまった。隣の席だけど、実は入学してから一度も言葉を交わしたことがない。でもそれは私だけじゃなくて、七瀬くんが必要以上に喋っているのを、クラスの誰も見たことがないんじゃないだろうか。

 幸いなことにこのクラスではまだイジメのようなことは起こっていないので、別に除け者にされている訳でもない。ただ彼自身が、そして周囲の全員が距離を置いて、なんとなく遠巻きにしているような雰囲気。

 七瀬くんはさらさらとした黒髪に、小さく纏まった印象の顔立ちをしている。決して華やかな美形っていう訳でもないけど、全体的にとても上品な感じ。

 そんな彼が、どこまでも見通してしまいそうな、黒々とした大きな瞳で、まっすぐに私の顔を捉えていた。

「ど、どうしたの……?」

 無視するのもおかしく感じられて、先生に聞こえないように、思い切って小声で声をかけてみる。

「……いえ」

 一拍の間があった後、七瀬くんは短くそう言ったっきり、私から視線を外すと黒板の方を向いてしまった。

 今度は私の方から七瀬くんを見つめる番になる。周りから変な目で見られても困るから、慌てて私も前を向く。

 一体何だったんだろう。もしかして私に気があるのかななんて、冗談でも考えられない雰囲気だった。さっきまで戸の隙間に抱いていた不快感はすっかりなくなって、今では七瀬くんに対する疑問でいっぱいだ。

 私は努めて先生の話に意識を集中させて、征夷大将軍がどうとか、源頼朝がどうとかいう話を教科書で追っていく。

 授業が終わったその後もずっと気になってはいたのだけれど、七瀬くんの近寄りがたいオーラに気圧されて、結局その後も一日、声をかけることはできなかった。



 その日の放課後。生徒の少なくなった教室で、日直の私は学級日誌に今日のまとめを書き込んでいた。ただ、進捗は芳しくない。

 なぜなら例の七瀬くんのところに、初めて見る上級生が来て何やらヒソヒソと話し込んでいたから。気になって、頭の中で上手く文章が纏まらない。正直もう日誌なんてどうでも良い。

 そもそも、上級生が下級生の教室に入ってくる時点であまりないことだと思うのだけど、その相手がよりにもよって七瀬くんだ。

 上級生の学ランの襟にⅡの学年章がついているから、二年生だということは分かる。体格が良くとても背が高くて、ちょっと格好良い感じの先輩だ。

 少し長めのスポーツ刈りが爽やかでよく似合っているな、なんて思ってしまった。ただ、さっきから聞き耳を立てて聞こえてくるだけの話を聞いている限り、言っていることは不思議だった。

「だから、朝まで一睡もできなかったんだよ」

「よく返事をせずに堪えましたね。偉いですよ」

「褒めて欲しい訳じゃなくて。本当に大丈夫なのか? 今まであんなことなかったのに」

「あれはきちんと貴方を見失っていますよ。今はもうついてきて居ないのはスケも分かっているでしょう? きっと、貴方を探して家へ行ったのでしょう。あれは執念深くて力が強いですからね、おれの次元にまで声だけ届いたんです」

 七瀬くんがこんなに長く言葉を発しているのも初めて聞いた。低くも高くもない、落ち着いていて、良い声だと思う。

 いつも全く喋らないので、話すのが上手くないのかと思っていたのだけど、この様子ではそうでもないみたい。何故いつも黙りこくっているのだろう。言っていることは、こちらもよく分からないけど。

「つまりあいつは今夜も来るのか?」

「いえ、しばらくは近寄って来ないでしょう。貴方がきちんと言いつけを守れて、おれも嬉しく思いますよ」

 七瀬くんの言葉を聞き、その先輩はあからさまにほっとしたような、大きな息を漏らす。

 一体彼らはどういう関係なんだろう。七瀬くんは敬語を喋っているが、態度はどちらかと言うと彼の方が偉そうに見える。

 必要最低限の言葉しか聞いたことないけど、そもそも彼は同級生に対しても敬語だったような。

 いつの間にか、私は彼らを覗き見てしまっていた。不意にこちらを向いた先輩と、ばっちり視線が合う。

 あっ、と思った瞬間、先輩は気まずそうな表情を浮かべてから、はにかむように笑った。その笑顔が、妙に人懐っこい。どことなく大型犬のような雰囲気のある人だ。

「ごめん、煩いよな」

「あ、いえ。全然。大丈夫です」

 かけられた言葉の優しさと、聞き耳を立ててしまっていた間の悪さもあって、私は自分の顔が耳まで熱くなるのを感じる。

 そんな私の様子を、七瀬くんがまたまじまじと見つめているのもバツが悪い。

「俺のことは気にしなくて良いからな」

「はい」

 恥ずかしさのあまりすぐさま日誌に視線を落として、その空欄を埋めていくのに注力する。

「近づくもののことは、わりと早く根本的に解決しそうですね」

「なんで?」

「自覚はないのですね」

 七瀬くんが先輩に言葉をかけているのも聞こえてきたが、今度こそ盗み聞きをする訳にはいかない。私はさっさと日誌を書き終えると、日誌と荷物を持って立ち上がる。

 と、その時。

「穂香《ほのか》」

 七瀬くんが声をかけてきた。穂香とは、私の下の名前だ。なんで、名前。なんで、呼び捨て。条件反射で胸がドキッとしてしまった。そもそも七瀬くんに名前を把握されているとも思っていなかった。

「えっ、うん、なに?」

 どぎまぎしながら返事をすると、彼も立ち上がって私と視線を合わせてくる。

 何を言われるのだろうと緊張はしていたが、続いた言葉に、私は目を見開いた。

「隙間が、気になりますか」

「どうして……」

「見えているのですか?」

「何、が?」

 問いの応酬になってしまった。

 その後も、七瀬くんは私をじっと見つめる。私の身長は百六十センチ。七瀬くんはそれより少し高いだけだ。あまり圧迫感はないが、それでも、内心まで見透かされてしまうような瞳に射すくめられると、居心地が悪い。

「もし隙間の向こうに見えたら、おれに言いなさい」

「向こうに、何が?」

 隙間の向こうに、何が見えると言うのか。その言葉の不穏さに、急に怖くなる。今日の授業の時に感じた焦燥感が思い出されて、今すぐ逃げ出したくなるような。

 七瀬くんは、ゆる、と目を細める。

 これは微笑みではない。どういう感情なのか、その真意は読めないが。

「見れば分かります」

 返事はただ、それだけだった。
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