異能捜査員・霧生椋

三石成

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1巻 緑青館の密室殺人

1-1

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 死は、影のように生のそばをついて回る。


 いつもの朝。人は目覚めると、職場や学校など、それぞれの場所へと出かけていって、疲弊しながら帰ってくる。そうしてありふれた日常を繰り返していくうち、生が永遠に続いていくものであるかのように錯覚してしまう。
 だが、生きることは、いずれ死ぬことだ。この世界には、あまりにも多くの人が生きていて、生きてきた。
 突然失う『いつも』に多くの人は未練を抱え、死の衝撃になにかしらの強い痕跡を残す。
 それが地球という土地に滲みとなって、いつまでも残るのならば。
 ――普段『目』を向けないだけで、死はどこにでもあるものなのだろう。



 第一章 訪問者



   1


 気がつけば、少年は自宅の玄関ポーチに立っていた。秋めいてきた冷たい風が吹き抜け、寒そうに首を竦める。
 目の前にあるドアにはアラベスク模様の曇りガラスがはめ込まれた小窓があり、そこからオレンジ色の灯りが漏れ出している。電気がついているのだから、家族が在宅していることは確実だ。ならば、ドアに鍵はかかっていない。手を伸ばし、プッシュプルタイプのドアノブを引っ張って開けるだけで温かい家の中に入れる。
 自宅の玄関前に立てば誰もが当然のようにやることなのに、少年にとっては、たったそれだけの動作がひどく怖かった。彼は、自分がいま夢を見ていることを自覚していたからだ。
 少年の名前を霧生きりゅうりょうという。学校指定のジャージを着ている彼の身長は百六十五センチ。顔立ちが妙に整っていることを除けば、どこにでもいる平凡な男子高校生だ。
 しかし、椋の年齢は二十五歳である。つまり二十五歳になった椋が、自分が高校生だったときの夢を見ていることになる。
 これは、幾度となく見た夢。そして、実際に起こった過去の完全なる再現であることを知っている。
 ――だから、怖い。
 夢を見ている椋は、きびすを返して逃げ出してしまいたかった。しかし彼の体は感情に反し、過去をなぞってドアノブに手をかけた。軽く力を入れて引き、灯りのついている玄関へ入る。

「ただいま」

 かけた声に返事はないが、リビングからはテレビの音が聞こえてくる。テレビがついているのならば、そこに家族がいるはずである。

「ただいまー。母さん?」

 肩にかけたスポーツバッグを床に置きながら靴を脱ぎ、リビングへ足を向けた。椋がいつも使っているスリッパが玄関からなくなっていた。
 ――おかしいな。出かける前は、ここに置いていったはずなのに。
 夢の中の椋はそう違和感を覚えながらも、靴下のままで廊下を進む。
 帰宅は二日ぶりだった。当時高校一年生だった椋は、シルバーウィークを利用した部活の強化合宿に参加していたからだ。
 リビングにつながるドアノブを握ると、ドアと床との隙間から漏れ出ている赤黒い液体が見えた。瞬時に、夢の中の椋にも強烈な不安が襲いくる。
 心臓が、ドクドクとうるさいくらいに早鐘はやがねを打っている。椋にはその心音が『夢の中の自分』のものか、『夢を見ている自分』のものなのか、判別がつかなかった。足が震えそうになるのを抑え、ドアを開け放つ。
 視界に飛び込んできたのは、一面の赤色だった。床に広がる血溜まりの中に、父親の体が横たわっている。
 その姿を見た瞬間、喉がヒュウッと奇妙な音を立てた。息を大きく吸い込んだために、血なまぐさい匂いが肺を満たす。

「とうさ……」

 呼びかけようとしたのだが、声が喉で詰まったように出てこない。
 父親へ駆け寄ろうとして血溜まりを踏んだせいで、靴下越しに軽い粘着性のある感触を覚えた。足の裏に伝わってくる、湿った感触の冷たさに絶望する。
 見下ろした父親は血溜まりの中へ完全に顔を突っ伏していて、その生命が絶えていることは疑いようがなかった。
 血飛沫ちしぶきがかかったテレビはついたままで、この空間に不釣り合いなバラエティ番組の空虚な笑い声を垂れ流している。音につられて視線を向け、テレビの前に置かれたソファに座る人影に気がついた。見たくない気持ちを押し殺し、ソファの前へと回り込む。
 そこにいたのは、布で口枷くちかせをされ、両手を縛られた母親だった。喉に横一文字の赤い裂傷が走り、傷口から下の全身が血に濡れている。椋は、自分の瞳からあふれた涙に意識を向ける余裕もなかった。震える体をなんとか制御し、今度は母親に近寄る。ソファの背もたれに頭を預けたまま脱力している頬にそっと触れて、

「母さん……っ」

 と、絞り出すように声を漏らす。
 体温を失った人間の皮膚の不気味な感触に、もう手遅れであるという事実を突きつけられる。体から力が抜け、血に染まった絨毯の上に崩れ落ちる。
 刹那せつな、視界が揺れた。
 はじめは、ショックのあまりに目眩を起こしたのかと椋は思った。だが、見えている映像の異質さに気がつく。
 まるで、自分がソファに座っているかのような目線だ。同じく自分の横に座っている母親は、生きている。口枷をされ、両手を縛られているが、怯えた表情でまだはっきりと自分を見返しているのだ。
 と、急激に視線が移動した。
 リビングの入り口を振り返れば、部屋へ入ってきた父親が、こちらに背を向けた男によって腹部を刺される瞬間の光景が見えた。男が握る包丁がひらめく。一度抜き去られた刃は、二度、三度と父親を刺し貫いた。
 音は聞こえない。否、先程と同じ、テレビのバラエティ番組の音だけはしている。その音が、いま見ているものとはまったく合致しない。
 力を失った父親の体が、床の上へと倒れ伏していく。
 ふと男が振り向く。血飛沫の飛んだ表情のないその顔に、椋はいっさいの見覚えがなかった。濃紺のスーツを着込んだ、中肉中背の凡庸なサラリーマンだ。眉は薄く下がり気味で、やぼったい印象の一重の目をしている。頬の中央に小さな黒子があった。
 包丁を握り込んだ男は近づいてくると、なんの躊躇もなく自身の隣に座る母親の首を掻き切る。母親は目を見開き、喉から血を噴き出しながらしばらく四肢をバタバタと動かしていたが、次第に動かなくなった。
 瞬間、また視界が動く。ソファから飛び退き、家の奥にある浴室めがけて駆け抜けていく。
 振り向き、鍵がかかる脱衣所のドアを閉めようとしたところで男に捕まる。
 椋はここでようやく、自分の見ている視界の持ち主が、自分の姉であることに気がついた。脱衣所の鏡に、母親と同じように口枷をされ、両手を縛られた姉の姿が映り込んだからだ。
 男は、力任せに姉の体を床の上へ押し倒した。見えている映像からは、そこから先になにが行われたのかはわからなかった。ただ、男のギラついた笑顔がすべてを物語っている。
 最後に見えたのは、父親と母親の血に塗れた包丁が顔をめがけ振り下ろされる、衝撃的な光景。
 視覚が自分のものへと戻ってきた瞬間、椋はその場に、胃の中にあったものをすべて吐き出していた。いま見たものが何なのか、まったく理解できない。しかし、わかってしまった気もする。
 喉に詰まった不快感に咳き込みながら立ち上がり、先程見た映像と同じように、震える足で浴室へと向かう。
 同時に、夢を見ている椋は行きたくないと必死に抵抗する。
 ――見たくない。あそこには、行ってはいけない。
 リビングと同じように、脱衣所へ繋がるドアはきちんと閉め切られていた。ノブに手をかけ、ドアを押し開ける。
 凄惨を極めた脱衣所の床には、顔から胸元までを滅多刺しにされ、変わり果てた姉のむくろが横たわっていた。




   2


「……っ!」

 慟哭どうこくの声は上がらなかった。
 ただ反射的に体がねた衝撃で、椋は自分のベッドの上で目を覚ます。夢だと理解しながら見ていた悪夢だったが、嫌な冷や汗を全身にびっしょりとかいている。
 窓の外からは、爽やかな小鳥のさえずりが聞こえる。綿シーツのさらりとした感触が肌に触れると、現実に戻ってきた安心感から、椋は細く息を吐き出した。痺れたように強張っていた四肢が、少しずつ弛緩する。
 しかし、目を覚ました椋の視界は暗いままだ。周囲の様子を見ることはできない。これは部屋が暗いわけではなく、彼が目隠しをつけていることで、物理的に視界が塞がれていることによる。
 目隠しと一口に言っても、安眠するためにつけるような、よくある形状のアイマスクではない。全体が黒のシルクで作られており、目隠し部分から幅広のリボンを後頭部へ回し、結んで留める形の特別製だ。耳にゴムでかけるものに比べ、長時間つけていても着用者の負担が少なくなるように工夫がされている。
 この目隠しを、椋は寝るときだけではなく常時装着していた。目隠しをしているということは、当然いっさいの視覚情報を遮断した状態で生きていることになる。そのように極めて不便になる生活を送らざるを得ない理由は、彼の持つ特殊能力にあった。先程まで見ていた夢でも発生した現象だ。

「スピーク、いま何時」

 椋は慣れた様子で、部屋に置いてあるスマートスピーカーに問いかける。視覚に頼らずに声のみで操作できる機械は、椋にとって非常に便利なものだ。

『十一時三十二分です』

 一般的な感覚からすると寝坊の時間だが、いつも昼頃に起床する椋からすると、ちょうど良い時刻だ。体を起こしてベッドから立ち上がり、寝ている間にかいていた喉元の汗を拭って部屋を出る。そのすべての動作は淀みなく、視界を塞いでいるという不自由さは感じられない。
 夢で見ていた少年期とは違い、現在の椋の背は百八十センチに届きそうな程に高くなっている。ただ、細身な体つきのせいか圧迫感はない。目隠しにより顔の半分ほど覆われている状態でも窺い知れる顔立ちは、とても端正だ。
 着替えを収納しているクローゼットの引き戸を開け、ワイシャツと黒のチノパンを取り出す。
 いまは真夏。椋が寝ていた部屋も外部から熱され暑くなっていて、本来であれば半袖で過ごしたい気候だ。しかしクローゼットの中に入っている洋服は上下同じ組み合わせの一種類しかなく、目で見て選ぶ必要のないように揃えられていた。長袖長ズボン以外の選択肢はない。
 寝間着にしているスウェットから手早く着替えを済ませると、洗面台へと向かう。
 目を閉じたまま目隠しを外して顔を洗う。冷たい水の感触に、僅かに残っていた眠気と嫌な感覚がさっぱりと流されたのを感じた。頬を流れる水滴をそのままに、洗面台に手をついてため息を漏らす。
 あの日のおぞましい事件を椋が夢に見るのは、珍しいことではない。しかし見てしまうたびに、気持ちがひどく沈み込む。夢の内容自体に加え、いつまでも過去に囚われている自分を感じて、そのことにもまた引け目を覚えるのだ。
 椋はキュッと唇を引き結ぶと、気分を変えるように頭を軽く振ってからタオルで顔を拭い、目隠しをつけ直した。
 支度を済ませて階段を降り、リビングに入ったところで、椋は不自然に足を止める。家の中はどこもかしこも極めて蒸し暑く、静まり返っている。現在、家の中に椋以外の人間はいないので当然のことなのだが、これは椋にとっての『日常』とは違った。

「そうか。広斗ひろとはまだ帰っていないんだった」

 誰に伝えるでもなく、ポツリと呟く。
 広斗というのは、この家で共に暮らす上林かんばやし広斗という名前の同居人のことだ。料理を趣味としている広斗は、大抵自室ではなくキッチンにいる。この家のキッチンはリビングと仕切りなく繋がっているため、彼の細やかな気配りによって、リビングはどのような外気温でも適温に保たれているのが常だった。
 広斗は椋より四歳年下で現在は大学四年生。進学を機に大学から近い椋の家へ越してきたのだが、三日前から盆であることを理由に実家へ帰省している。
 当初、広斗が実家に滞在するのは二日間で、昨日中に帰ってくる予定になっていた。
 しかし椋は昨夜、ひどくしょげた様子の広斗から、

『椋さん、すみません。まだ帰れません。祖母の体調が悪く、墓参りの予定が急遽一日後ろにずれこんでしまいました』

 と電話で報告を受けた。
 広斗は出かける前に二日分の椋の食事を作り置いて行ってくれたのだが、予定が変わってしまったために、その食事はもう残っていない。外に買いに行かねば、冷蔵庫にはなにもない。
 そこそこの空腹を抱えたままリビングに入ったすぐのところで立ち尽くし、数分の逡巡をする。ふと、椋は大きなため息を漏らした。一人での外出をためらっていることを自覚して、情けなくなったのだ。
 頭をかきながら、再度自分の部屋へと戻る。財布の入ったボディバッグにスマートフォンを入れて肩からかけると、玄関へ向かった。目を閉じたまま目隠しを外し、壁につけられた小さな棚の上に置いて、入れ替えるように黒の濃いサングラスをかけた。最後に、棚の下につけられたフックからシンプルな木の杖を取る。
 そうして身支度を済ませると、椋は意を決して玄関ドアを押し開け、外へ出た。
 途端、真夏の強烈な太陽にさらされる。
 目隠しをしているときと同様に、サングラスの奥では目を閉じたままだ。しかし、その強すぎる日差しはサングラスを透過し、瞼越しにも感じとることができた。すぐに頭の天辺てっぺんが熱くなる。蒸した空気に加え、地面からも熱気が上がってきていた。
 外に出ただけで辟易しつつも、椋は歩きはじめる。長年住んでいる家なので近所の土地勘はあるが、それでも家の中で振る舞うほど自由にはできない。杖で目の前の安全を確かめながら、一歩一歩慎重に歩いていくのだ。
 椋の姿を目撃した第三者がいたら、足を悪くしているようにも見えない若者が、白杖ではない普通の杖をついて歩いていることに違和感を覚えるに違いない。

『次のニュースです』

 炎天のもと椋が歩いていると、ふと、男性アナウンサーの明瞭な声が聞こえてきた。ここは住宅街なので、道の脇にあるどこかの家のテレビから流れてきているのだ。暑さのために窓を開け放っているのか、いやに音量が大きい。

『アメリカ合衆国の連邦捜査局、FBIで結成された「特別霊能班」、略称「SPT」が再び難事件を解決。今回は、二十六年間未解決だった連続殺人事件の犯人を特定し、逮捕に至りました。SPTの続く快挙に、全米市民から称賛の声が上がっています』
『すごいですね、霊視で遺体を発見とは。たしかこのSPTは三ヶ月前に結成されたのでしたね』

 そう感嘆するのは女性の声。

『FBIは昔から、内々で霊能力者に協力を要請していましたが、その捜査方法が公的に認められたことで、一気に効率化が進められたものと思われますね。こういうところ、アメリカは本当に合理的ですからね、日本の警察でも見習うところはたくさんあります』

 答えたのは、先程のアナウンサーとは違う、年配らしき男性の声だ。続けてアナウンサーが問う。

梶山かじやまさんはどうですか。霊能力というものは、信じていらっしゃいますか』
『いやいや、これはもう信じるとか信じないとかいう問題ではありませんよ。実際にどんどん成果を挙げていますからね。日本国内でも、霊能力を取り入れた捜査を進めるチームを結成しよう、という動きがはじまっているようです』

 テレビから漏れてくる音がはっきりと聞こえていたのは、そこまでだった。
 杖で足元を確認し、頭皮から垂れてくる汗をワイシャツの袖でしきりに拭いながら、椋は慎重に歩き続ける。
 やがて住宅街を抜けると、四車線の広い幹線道路につきあたる。目の前は信号のある交差点だ。
 足の裏に点字ブロックの感触を覚え、椋は信号がついた横断歩道の前で止まった。
 道路を走る車の音に神経を集中すると、しばらく後に車の走行音が途絶えた。周囲に人の気配もなく、一瞬の無音が訪れる。
 椋のこめかみを、また一筋の汗が滴り落ちる。
 ここに設置されているのは、視覚障害者用信号機ではない。音がしなくなったことで、車が目の前を通らなくなったということはわかる。だが目を閉じたままでは、ただ単に車の列が途切れただけなのか、それとも信号が変わったのかどうか確信が持てなかった。
 椋は浅く息を漏らす。意を決して杖を握る手に力を込めると、サングラスの奥でゆっくりと瞼を押し上げる。
 久しく瞼の裏以外を見ていなかった椋の瞳に、雨降る夜の交差点が映った。
 強い雨脚が飛沫を上げ、濡れたアスファルトに映り込む街頭の灯りが滲む。視界にチラチラと映り込んでいるのは、ビニール傘の持ち手だ。だが、いまは青い空晴れ渡る夏の正午。体にも太陽のじりじりと焼けつくような日差しを感じているが、その体感と視覚情報が合致しない。
 水の膜が覆う目の前の横断歩道をしばらく眺めていると、どこかから映り込む赤の光が、緑へと変わった。視線が下から上へと移動し、青信号を点灯させた歩行者用信号機を捉える。
 すると、椋の体は歩いていないのに、視界だけが前へと進んでいった。遠くの方で、コンビニの看板が煌々こうこうと輝いている。幹線道路を越えた向こう側の歩道へ、もうすぐで辿り着くと思われた、そのとき。
 なにかに気がついたように、前だけを見ていた視線が移動し、横を向く。
 視界に捉えたのは、スピードを上げて眼前に迫るトラックの眩いヘッドライトだった。身構える間もない。もはや避けることは不可能な距離。身に迫った重大な危機に目を閉じることしかできず、椋は数秒間体を硬直させる。
 想定した衝撃が体に走らないことを確認し、恐る恐る瞼を開くと、そこには夏の日差しに照らされた交差点が見えた。サングラス越しに見ている景色のため少しだけ暗いが、だからといって夜の景色と見間違えはしない。
 確認したかった歩行者用信号機は青で、すでに点滅をはじめている。
 ――横断歩道、はやく渡らないと。
 そう思いはするが、いましがた目撃した衝撃的な光景の、後を引くような恐怖に身が竦んで動けない。横断歩道に再びトラックが突っ込んでくるのではないかという、根拠のない不安に襲われてしまったのだ。
 いま見た光景が『今の現実』ではないことを、椋はきちんと理解している。しかし今回目撃したのは、死を覚悟する交通事故の光景だ。本能的な恐怖感は、理性で抑え込むことのできるものではなかった。
 暑さによるものとは種類の違う汗が喉元を伝うのを感じ、椋は瞼を閉じながら幹線道路を渡ることを諦め、歩道の脇へ移動してしゃがみこんだ。アスファルトの地面に立てた杖を両手で持ち、額を押し付けて体重を預ける。
 心臓がうるさいくらいに脈打ち、喉が乾いていた。暑さも相まって、頭がくらくらする。椋は長年、いまのように突然再生される幻覚に苦しんでいた。
 幻覚は、誰かに視界をジャックされたかのように、前触れもなく網膜で再生される。家族を殺された事件現場ではじめて発生した現象と同様のものだ。だからこそ椋は、それがただの幻覚ではないことを知っていた。
 一般的に、霊能力や特殊能力と呼ばれるものである。具体的には『人が死んだことのある場所を目にしたとき、その場で死んだ人間が最後に目撃した光景が、自分の網膜で再生される』というものだ。すなわちいま彼が見たのは、過去にこの交差点でトラックに轢かれて死んだ誰かが見た最後の光景だったことになる。
 だが、椋自身はこの特殊能力を、能力として認めてはいない。自分に起こる現象のきっかけはわかっているものの、彼自身はそれを制御できないからである。
 幻覚は勝手に見えてしまうだけのものであり、自分から見ようと思って見ることもできなければ、視覚を閉ざす以外に『幻覚を見ない』という選択もできない。幻覚は網膜で再生されるため、一度見はじめてしまえば、途中で瞼を閉じても見ることはやめられない。あくまで『過去に人が死んだ場所を目にする』ということが発動のトリガーになるだけだ。幻覚を見る頻度は高く、特になにも対策をせずに生活をしていれば、一時間に二回程度の頻度で見てしまう。
 また、自分の目で本物の光景を目の当たりにするため、ドラマや映画などで作り物の映像を見ることとは本質的に異なる。人が死ぬ前に見た光景ともなれば凄惨なものも多いが、そういったものを見てしまった後の精神的ダメージは計り知れなかった。
 突如として見させられる幻覚は日常生活に支障をきたすからこそ、椋は普段より目隠しをしている。しかし人は、五感による知覚情報の八十三パーセントを視覚から得ているという。その視覚のいっさいを遮断して生きるという選択は、生半可なものではない。ゆえに、
 ――こんなものは能力でもなんでもなく、ただの障害だ。
 というのが椋の自認だった。


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