婚約破棄されたら、多方面から溺愛されていたことを知りました

灯倉日鈴(合歓鈴)

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1、卒業パーティーと婚約破棄

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 ――それは、ごくありきたりな場面から始まった。


「フルール・ブランジェ公爵令嬢。今、ここにおいて、君との婚約を破棄する」

 国内の有力貴族の子女が多く通うクワント王国学園。その卒業パーティーの場で高らかに宣言したのはグレゴリー・クワント、この国の王太子だ。
 出席者のコールが終わってすぐ、会場の全員が見守る中での出来事だった。
 華やかな顔立ちの王太子グレゴリーは、悲壮感たっぷりに眉尻を下げた。

「フルール、君に落ち度はない。君は生まれた時から僕の許嫁として僕にもこの国にもよく尽くしてくれてきた。……しかし!」

 毅然と顔を上げ、隣の女性を抱き寄せる。

「僕は真実の愛に目覚めてしまった! メロディ・スペック男爵令嬢。彼女こそが、僕の運命の相手だったんだ!」

 メロディは、王太子の腕の中でうっとり彼を見上げている。小柄でピンクのフリルたっぷりのドレスを着た、とても可愛らしい女性だ。
 一方、宣言されたフルールはというと、すらりと背が高く、繊細に結い上げた金髪に青い光沢のあるマーメイドラインのドレスが映える気品溢れる女性。
 彼女は美術館の精霊像もかくやという均整の取れた綺麗な顔を上げ、優美に微笑んだ。花が咲くように、薔薇色の唇が開かれる。

「はい、承知いたしました」

 ……フルールの返事に、会場内の時が止まる。
 三秒ほどフリーズした後、初めに動き出したのは、グレゴリーだった。

「え? いいの?」

 間抜けに聞き返されても、フルールは笑顔を崩さない。

「ええ。結婚は好き合っている方同士でするのが一番ですわ。グレゴリー殿下とメロディ様の門出を祝して、喜んで身を引きます。あ、後ほど、わたくしに落ち度がないことは書面にしてお渡しくださいね。国王陛下へのご説明もよろしくお願いいたします」

「あ、ああ。うん……」

 グレゴリーはコクコク頷く。
 てっきり泣いてすがられると思っていたのに、あまりにあっさり承諾されて拍子抜けだ。

「さて、愉快な余興も終わったことですし、パーティーを始めましょう」

 フルールは給仕のトレイからシャンパングラスを取ると、硬直したままの出席者に向けてグラスを掲げた。

「卒業おめでとう!」

 よく通る澄んだ声を合図に、皆が緊張を解き一斉に乾杯する。
 オーケストラが音楽を奏で出すと、会場の男性の大半がフルールの元へと押しかけた。

「フルール嬢、踊っていただけますか?」

「俺が先だ! フルール嬢、俺とダンスを!」

「フルール様、どうぞお手を」

「抜け駆けするな。俺もずっとフルール嬢を……」

 夜会服の同期生が公爵令嬢を取り囲み、次々と手を伸ばす。
 社交界の華と謳われ、成績は常にトップ。おまけに王家の血筋で国内一の資産家であるブランジェ公爵令嬢のフルールは、学園のあこがれの君だった。
 しかし、彼女は国王の長男である王太子の婚約者。大きすぎる障害に誰もが挑めず手をこまねいていたのだ。それがなくなった今、彼らの箍は外れた。

「フルール嬢、どうか俺と!」

「いいや、私と!」

「僕の手を取って! フルール様!」

 突然始まった公爵令嬢争奪戦に、会場は大騒ぎだ。

「おい、どけよ」

「お前、肩が当たったぞ!」

 そこかしこで男同士の小競り合いが起こり出す。会場の空気が不穏になりかけた……その時。

「皆様、お静かに」

 またも騒ぎを鎮めたのはフルールだ。

「一曲目はパートナーと踊るのがパーティーのマナー。わたくしは不躾な殿方の手を取ることはありません」

 毅然と言われて、男達はたじろぐ。卒業パーティーとはいえ、ここは列記とした社交の場。皆、パートナー同伴で出席しているのだ。婚約破棄されたばかりの彼女が、女性パートナーを蔑ろにする男性を快く思うはずがない。
 筋の通ったフルールの言い分に、男達はすごすご引き下がる。
 そして潮が引いた後に残ったのは……一人の紳士だった。
 きっちりと整えられた黒髪にフロッグコートがよく似合う背の高い彼は、恭しくお辞儀をし、フルールに手を差し伸べた。

「私と踊っていただけますか? フルール嬢」

「……セロー侯爵閣下」

 フルールは彼を知っていた。
 ユージーン・セロー。彼女の同級生で、二年前に父親が他界したことで十代で家督を継いだ若き侯爵。容姿に優れ地位も資産もある彼は、女性から絶大な人気があったにもかかわらず浮いた噂がなく、夜会にも学園の行事にも一度もパートナーを連れてきたことがなかった。

「そんな堅苦しい呼び名でなく、どうかユージーンと」

 普段あまり表情を変えない彼が、少しだけ目を細める。

「憐れな一人身男にお慈悲を」

 真摯な口調に、フルールは思わず吹き出した。彼なら選び放題のはずなのに。

「奇遇ですね、ユージーン様。わたくしも一人身ですの」

 クスクス笑いながら、彼女は彼の手を取った。
 しっとりとした音楽に合わせて踊り出した二人に、会場がどよめく。一度も公の場でダンスをしたことがない堅物侯爵と元王太子妃候補があんなに優雅に踊っているなんて。

「リードがお上手ですわね、ユージーン様」

 男の腕に身を預けながら、フルールが囁く。

「こんなにお上手なら、いつも色々な方と踊ればいいのに」

「すべては今宵のためです、フルール嬢」

 令嬢をターンさせてから、腰を引き寄せる。

「入学式で一目見たその日から、ずっとお慕いしていました。他の女性など目に入らぬほどに。卒業パーティー今日を以て諦めようと決めていたのに、状況が変わった。傷心に浸け込むのは卑怯だが、もうなり振り構っていられない」

 耳に熱い吐息がかかる。

「俺は貴女を裏切らない。次の恋の相手は俺に決めて欲しい」

 驚きに目を見開くフルールに唇の端だけで微笑み、ユージーンは手を離した。いつの間にか、一曲目が終わっていた。

「また近くお会いしましょう」

 彼女にだけ聞こえる音量で言い残し、侯爵は踵を返した。

「フルール嬢、踊ってください!」

「いいや、私と!」

 呼び止める前にフルールは人波に飲まれ、ユージーンの後ろ姿を見失った。
 それから、フルールはたくさんの男性と踊り、ご馳走をつまみながら友人達と談笑し、学生生活最後の充実した時を過ごした。
 あまりにも楽しすぎて……。

 ……王太子とメロディ嬢が壁際でぽつんとしているのにも気づかなかった。
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