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30、水のこと(5)
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氷のように冷たい湧き水が革靴にしみて、足先がジンジン痛む。
リルは乾いた泉の畔に上がって、女性の話を聞くことにした。横座りするリルの隣に、水に足を浸したままの半透明の女性が腰を下ろす。
「わたくしの名はクレーネ、この泉を司る精霊です」
女性――クレーネ――は訥々と語り出す。
「わたくしは森に一滴の清水が湧き出た時に生まれ、それから永い間この場所でこの景色を眺めて参りました」
クレーネの透けるような水色の髪が揺れる度に、泉の水面も揺れる。
「泉の暮しは穏やかなものです。地上で諍いが起こっても、日照りで水が枯れても。ほんの少し目を閉じていれば、次に開けた時には粗方問題は過ぎ去っています」
……何十年、何百年。人間にしたら何世代も経ってしまう悠久の刻を、泉の精霊は生きてきた。
「代わり映えのない毎日をぼんやりと過ごすわたくしの暮しに変化が訪れたのは……あの方の存在に気づいた時からです」
クレーネは切なげに柳の倒木を見つめた。
「その日、いつものように水面を揺蕩っていると、わたくしの頬を何かが掠めました。見上げてみると、泉の縁に半ば根が張り出すように、大きな柳の木が立っていました。その枝垂れた葉先が、水面に触れたのです」
泉の精霊は恋する乙女の仕草で、赤く染まった頬を両手で挟む。
「いつからそこに立っていたのか。種が芽吹き、枝葉を伸ばし、立派な成木になって泉の水面に届くまで。わたくしはこれっぽっちもあの方が傍に居てくれたことに気づいていなかったのです」
リルは湯たんぽ代わりに毛玉を抱いて、じっと耳を傾けている。
「それからはもう、あの方のことが気になって気になって……夜となく昼となく、ずっとあの方を眺めていました」
永遠に等しい時間を生きる彼女にとって、一瞬一瞬移ろう季節を一緒に過ごす相手がいることは、とても幸せだった。
「でも、あの方は樹木。有限の命を持つお方。いつかお別れが来る日は知っていたの。それでもその日が来ないように、一日でも遅くなりますようにって祈ってた。……なのに」
クレーネの瞳から大粒の涙が流れ落ちる。
「昨夜の嵐の雷に打たれて……あの方は炎に包まれて倒れてしまったの」
柳の枝や幹には焦げた形跡がある。しかも、折れた根本は空洞になっていて、元から腐りかけていたのが判った。
大雨で鎮火されて森林火災にならなかったのは不幸中の幸いだが。
もうすぐ寿命を迎えるはずだった柳に、落雷が致命傷を与えてしまった……。
「こんなの急すぎるわ。もう少し、あと少し、あの方と心満ちた時を共にできるはずだったのに。それがいきなり終わってしまうなんて。もう二度と、あの方のしなやかな枝葉《ゆび》が、わたくしの水面《ほほ》を撫でることはないのだと思うと……」
両手で顔を覆って泣きじゃくるクレーネの背中を、リルは労るようにさする。
どうにかして、悲しみに暮れる精霊の心を支えてあげたい。
そう思ったリルは……ふと、あることに気づいた。
リルは乾いた泉の畔に上がって、女性の話を聞くことにした。横座りするリルの隣に、水に足を浸したままの半透明の女性が腰を下ろす。
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女性――クレーネ――は訥々と語り出す。
「わたくしは森に一滴の清水が湧き出た時に生まれ、それから永い間この場所でこの景色を眺めて参りました」
クレーネの透けるような水色の髪が揺れる度に、泉の水面も揺れる。
「泉の暮しは穏やかなものです。地上で諍いが起こっても、日照りで水が枯れても。ほんの少し目を閉じていれば、次に開けた時には粗方問題は過ぎ去っています」
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クレーネは切なげに柳の倒木を見つめた。
「その日、いつものように水面を揺蕩っていると、わたくしの頬を何かが掠めました。見上げてみると、泉の縁に半ば根が張り出すように、大きな柳の木が立っていました。その枝垂れた葉先が、水面に触れたのです」
泉の精霊は恋する乙女の仕草で、赤く染まった頬を両手で挟む。
「いつからそこに立っていたのか。種が芽吹き、枝葉を伸ばし、立派な成木になって泉の水面に届くまで。わたくしはこれっぽっちもあの方が傍に居てくれたことに気づいていなかったのです」
リルは湯たんぽ代わりに毛玉を抱いて、じっと耳を傾けている。
「それからはもう、あの方のことが気になって気になって……夜となく昼となく、ずっとあの方を眺めていました」
永遠に等しい時間を生きる彼女にとって、一瞬一瞬移ろう季節を一緒に過ごす相手がいることは、とても幸せだった。
「でも、あの方は樹木。有限の命を持つお方。いつかお別れが来る日は知っていたの。それでもその日が来ないように、一日でも遅くなりますようにって祈ってた。……なのに」
クレーネの瞳から大粒の涙が流れ落ちる。
「昨夜の嵐の雷に打たれて……あの方は炎に包まれて倒れてしまったの」
柳の枝や幹には焦げた形跡がある。しかも、折れた根本は空洞になっていて、元から腐りかけていたのが判った。
大雨で鎮火されて森林火災にならなかったのは不幸中の幸いだが。
もうすぐ寿命を迎えるはずだった柳に、落雷が致命傷を与えてしまった……。
「こんなの急すぎるわ。もう少し、あと少し、あの方と心満ちた時を共にできるはずだったのに。それがいきなり終わってしまうなんて。もう二度と、あの方のしなやかな枝葉《ゆび》が、わたくしの水面《ほほ》を撫でることはないのだと思うと……」
両手で顔を覆って泣きじゃくるクレーネの背中を、リルは労るようにさする。
どうにかして、悲しみに暮れる精霊の心を支えてあげたい。
そう思ったリルは……ふと、あることに気づいた。
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