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加藤清正公の食べられる畳と朝鮮飴
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「海を渡れい! 戦じゃ戦じゃ皆の衆! 朝鮮出兵じゃあ!」
時の天下人、太閤秀吉の大号令によってはじまりましたるは文禄・慶長の役。
結果を申さば大失敗。
ついに豊臣秀吉の死によって撤退という形で終わることになるこの戦い。
日本史においてはまれな隣国との海を越えての戦争をどう評価するかは歴史家の皆さんにおまかせするとして、今回のおはなしは甘~いお菓子のはなしです。
主人公は賤ヶ岳の戦いにおいて勇名轟かせた七本槍が一人、加藤清正公でございます。
豊臣温故の子飼いの武将。
天下の名城、熊本城を築きあげ、後の世にてあの西郷隆盛に「おいどんは官軍に負けたのでなか。清正公に負けたとでごわす」と言わせた名将でございます。
この加藤清正公と“食事”という題目を語るにあたって、まずは序の口に熊本城の別名「銀杏城」について少々語っておきましょう。
晩秋黄金色に彩られる熊本城の銀杏はそれはそれは見事なものでございます。
この銀杏、なんでも朝鮮出兵の折、籠城戦にて食糧不足に苦悩させられたという経験があって、いざという時の食料に銀杏の実がなるようにと植えられたと言い伝えられております。
それだけ異国の地での食事、兵糧問題は深刻だったというわけですね。
食べられる木だけでなく井戸もたくさん掘ってあるわけですが、熊本城にはもうひとつ、有名な驚きの非常食がございます。
それは“畳”でございます。
皆さんモチのロン、畳はご存であることでしょう。
い草の薫り香ばしく、平安京の寒い冬を越すために今でいう敷布団の役割をしていた畳です。
ごろごろと寝転がってくつろぐもよし、不意に飛んできた手裏剣だって防げます。
ですが、ですが。
博識な皆さんも“食べられる畳”を知らない方はいらっしゃるのではないでしょうか?
ああ、知ってる方はニヤリとしてくださってかまいませんよ。
この“食べられる畳”とはなんじゃろか。
その正体は『ずいき』。
またの名を『いもがら』と申します。
里芋やハス芋の葉柄(葉と茎のつなぎめ)を乾燥させ、畳の材料にしてしまったのです。
『ずいき』は昔から食べられる食料とはいえ、い草の代わりに畳にして非常食にするというのは大胆な発想でございます。
よもや尻敷き足踏む畳までを食べることを考えようとは、加藤清正という武将が歴史に学び、生涯に教訓とした籠城戦の食糧問題の切実さを伺わせるものでございます。
清正公にはトラを退治た伝説もありましょうが、飢えた時に都合よくバター作りに最適なおいしそうなトラがやってくるわけではございませんからね。
この“食べられる畳”なんと城内に三千枚もあるそうです。
食うや食わずの籠城戦、煮れば食える畳がそこかしこにあるとはなんと心強いことでしょう。
まともな食料備蓄もある上でも、なるべく多くの食事をたくわえて兵を飢えさせぬ工夫です。
『ずいき』は酢の物や漬物にしてもおいしいそうですよ。
ああ、でも食べたくなっても『肥後 ずいき』では検索なさらないようにとご注意を。
さて、かくも食に並々ならぬ苦労と工夫を凝らした加藤清正公。
朝鮮出兵のにがーい苦役のお供には、素敵なあま~いお菓子がございました。
『長生飴』
と呼ばれるこのお菓子は、熊本銘菓として今も知られる求肥というおもちの一種です。
もち米とみず飴、砂糖をこねて片栗粉をまぶした白い長方形のお菓子です。
この素晴らしきはなんといっても上品な甘さにもちもち食感! けれど加藤清正公がこれを朝鮮出兵にあたって兵糧として携えたのはおいしさだけが理由ではありません。
歴史ものをご愛読の皆様はよーくご存知でしょう。
そうでなくたって、ご家庭の食品の賞味期限や保存方法に悩んだ経験は誰しもありましょうや。
しけたクッキー、パサパサの菓子パン。
ああ、いやですね、しっとりとしてカビず長持ちして甘いお菓子がないものでしょうか。
それがあります!
ございます!
それがこの『長生飴』だったわけです。
滋養豊富にして長持ちする長生飴は、海を越えて異国の戦地でもおいしく食べられたのです。
「うまい! うまい! 甘い! うまい!」
と大名であれ一兵卒であれ、もっちり甘い長生飴にはきっと舌鼓を打ったことでしょう。
この時の活躍もあってか、加藤清正公が亡くなった後も代々の肥後藩主はこの長生飴を幕府や朝廷、お大名様への贈答品として送りました。
明治の世でもかの維新三傑、大久保利通卿をして「透明にして風味甘美」「製法老熟の妙あり」と評したのだとか。
熊本城で西郷どんを、長生飴で大久保卿を、何百年後の維新志士を唸らせるとは凄いものです。
鹿児島銘菓のボンタンアメも原型をこの長生飴なのだとか。
『朝鮮飴』
とは、この長生飴が朝鮮出兵の折に名が知れたことでそう呼ばれるようになったのでございます。
食に歴史あり。
腹が減っては戦はできぬ。
加藤清正公の食のものがたり、いかがだったでしょうか。
過去に想いをはせつつ、機会があればぜひ清正の愛した味をお楽しみください。
え? それでも畳は食べたくない?
ではご賞味いただくのは長生飴やボンタンアメの役目としまして。
“食べられる畳”をオチとして、この話を畳ませていただきましょう。
「海を渡れい! 戦じゃ戦じゃ皆の衆! 朝鮮出兵じゃあ!」
時の天下人、太閤秀吉の大号令によってはじまりましたるは文禄・慶長の役。
結果を申さば大失敗。
ついに豊臣秀吉の死によって撤退という形で終わることになるこの戦い。
日本史においてはまれな隣国との海を越えての戦争をどう評価するかは歴史家の皆さんにおまかせするとして、今回のおはなしは甘~いお菓子のはなしです。
主人公は賤ヶ岳の戦いにおいて勇名轟かせた七本槍が一人、加藤清正公でございます。
豊臣温故の子飼いの武将。
天下の名城、熊本城を築きあげ、後の世にてあの西郷隆盛に「おいどんは官軍に負けたのでなか。清正公に負けたとでごわす」と言わせた名将でございます。
この加藤清正公と“食事”という題目を語るにあたって、まずは序の口に熊本城の別名「銀杏城」について少々語っておきましょう。
晩秋黄金色に彩られる熊本城の銀杏はそれはそれは見事なものでございます。
この銀杏、なんでも朝鮮出兵の折、籠城戦にて食糧不足に苦悩させられたという経験があって、いざという時の食料に銀杏の実がなるようにと植えられたと言い伝えられております。
それだけ異国の地での食事、兵糧問題は深刻だったというわけですね。
食べられる木だけでなく井戸もたくさん掘ってあるわけですが、熊本城にはもうひとつ、有名な驚きの非常食がございます。
それは“畳”でございます。
皆さんモチのロン、畳はご存であることでしょう。
い草の薫り香ばしく、平安京の寒い冬を越すために今でいう敷布団の役割をしていた畳です。
ごろごろと寝転がってくつろぐもよし、不意に飛んできた手裏剣だって防げます。
ですが、ですが。
博識な皆さんも“食べられる畳”を知らない方はいらっしゃるのではないでしょうか?
ああ、知ってる方はニヤリとしてくださってかまいませんよ。
この“食べられる畳”とはなんじゃろか。
その正体は『ずいき』。
またの名を『いもがら』と申します。
里芋やハス芋の葉柄(葉と茎のつなぎめ)を乾燥させ、畳の材料にしてしまったのです。
『ずいき』は昔から食べられる食料とはいえ、い草の代わりに畳にして非常食にするというのは大胆な発想でございます。
よもや尻敷き足踏む畳までを食べることを考えようとは、加藤清正という武将が歴史に学び、生涯に教訓とした籠城戦の食糧問題の切実さを伺わせるものでございます。
清正公にはトラを退治た伝説もありましょうが、飢えた時に都合よくバター作りに最適なおいしそうなトラがやってくるわけではございませんからね。
この“食べられる畳”なんと城内に三千枚もあるそうです。
食うや食わずの籠城戦、煮れば食える畳がそこかしこにあるとはなんと心強いことでしょう。
まともな食料備蓄もある上でも、なるべく多くの食事をたくわえて兵を飢えさせぬ工夫です。
『ずいき』は酢の物や漬物にしてもおいしいそうですよ。
ああ、でも食べたくなっても『肥後 ずいき』では検索なさらないようにとご注意を。
さて、かくも食に並々ならぬ苦労と工夫を凝らした加藤清正公。
朝鮮出兵のにがーい苦役のお供には、素敵なあま~いお菓子がございました。
『長生飴』
と呼ばれるこのお菓子は、熊本銘菓として今も知られる求肥というおもちの一種です。
もち米とみず飴、砂糖をこねて片栗粉をまぶした白い長方形のお菓子です。
この素晴らしきはなんといっても上品な甘さにもちもち食感! けれど加藤清正公がこれを朝鮮出兵にあたって兵糧として携えたのはおいしさだけが理由ではありません。
歴史ものをご愛読の皆様はよーくご存知でしょう。
そうでなくたって、ご家庭の食品の賞味期限や保存方法に悩んだ経験は誰しもありましょうや。
しけたクッキー、パサパサの菓子パン。
ああ、いやですね、しっとりとしてカビず長持ちして甘いお菓子がないものでしょうか。
それがあります!
ございます!
それがこの『長生飴』だったわけです。
滋養豊富にして長持ちする長生飴は、海を越えて異国の戦地でもおいしく食べられたのです。
「うまい! うまい! 甘い! うまい!」
と大名であれ一兵卒であれ、もっちり甘い長生飴にはきっと舌鼓を打ったことでしょう。
この時の活躍もあってか、加藤清正公が亡くなった後も代々の肥後藩主はこの長生飴を幕府や朝廷、お大名様への贈答品として送りました。
明治の世でもかの維新三傑、大久保利通卿をして「透明にして風味甘美」「製法老熟の妙あり」と評したのだとか。
熊本城で西郷どんを、長生飴で大久保卿を、何百年後の維新志士を唸らせるとは凄いものです。
鹿児島銘菓のボンタンアメも原型をこの長生飴なのだとか。
『朝鮮飴』
とは、この長生飴が朝鮮出兵の折に名が知れたことでそう呼ばれるようになったのでございます。
食に歴史あり。
腹が減っては戦はできぬ。
加藤清正公の食のものがたり、いかがだったでしょうか。
過去に想いをはせつつ、機会があればぜひ清正の愛した味をお楽しみください。
え? それでも畳は食べたくない?
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