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1巻
1-2
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冷たい声で言ったのは、あやかしの男だ。
男は炎の色と同じく、黒い笑みを浮かべていた。
「た、助けてくれぇ……っ!」
その間も、空き巣は苦悶の表情を浮かべて叫び続けている。
瞬く間に、黒い炎は空き巣の全身を包み込んだ。
「ひ、ひぃぃぃ‼」
(ちょ、ちょっと待って。なんかこれ、マズくない⁉)
見ていられなくなった紗和は、必死に手を伸ばしてあやかしの男を止めようとした。
「そ、それ以上は――って、え……?」
けれど紗和の声が男に届くより先に、例の白い光が部屋の中に現れた。
白い光は男と空き巣の間を浮遊しながら、ポンッ! と音を立てて勢いよく弾けた。
「おやめくだしゃいませっ!」
直後、可愛らしい声が部屋の中に響いた。
消えた光の代わりに現れたのは、一本の小さな角と、ふわふわの狐の尻尾が生えた、手のひらサイズの子供だった。
男の子だろうか。着ている狩衣の裾が、ふわふわと宙で揺れている。
「か、可愛い~……」
思わず紗和の口から声が漏れた。
しかし、
(い、いけない! また空気の読めない発言だった!)
と、すぐに我に返った紗和は、あわてて自身の口を両手で塞ぎ、押し黙った。
「常盤しゃま! 今すぐ焔をお収めくだしゃいっ!」
短い腕を目いっぱい広げた男の子が、力の限りに叫ぶ。
どうやら、あやかしの男は、名を〝常盤〟というらしい。
(常盤……)
紗和が心の中でその名を反すうすると、ピリッとした痛みが額の中心に走った。
「式神よ。どうして俺を止めるんだ」
「だって、その人をやっつけてしまったら、常盤しゃまは紗和しゃまと一緒にいられなくなってしまいましゅ!」
「しかし、俺の紗和を傷つけた奴を、放ってはおけないだろう?」
「それはもちろん、そうでしゅがっ。でも、あやかしが人に危害を加えるのはご法度でしゅ! 罪人として鎌倉幽世に連れ戻されて、幽閉されることになってもいいんでしゅか⁉」
〝そうなったら、紗和しゃまにも会えなくなってしまいましゅ!〟と、言葉を続けた小さなあやかし――式神は、風船のようにプクッと両頬を膨らませた。
(や、やっぱり可愛い……)
紗和は思わず目をキラキラと輝かせながら式神を見つめた。
対して、式神に説得された常盤は「うーん」と悩ましげに唸る。
「たしかに、紗和に会えなくなるのは嫌だな」
「でしゅでしゅ! 常盤しゃまが怒るのはごもっともでしゅが、ここはおふたりの未来のためにも気を静めてくだしゃいませっ!」
結局、説得に応じることにしたらしい常盤は、渋々といった様子で構えていた腕を下ろした。
同時に、空き巣についていた黒い炎が消える。
これには紗和も本能的にホッと息をついたが、
「ば、ば、化け物っ!」
空き巣は炎から解放された直後、一目散にその場から逃げ出した。
(走れるってことは、ケガはそこまで酷いわけではなさそう?)
どういう原理か謎だが、溶けたナイフも消えてなくなっていたようだ。
ついでに空き巣がのたうち回っていた畳も、燃え痕ひとつついていない。
「式神、あいつを追いかけろ」
と、空き巣が逃げ出してすぐに常盤が口を開いた。
「紗和を傷つけた輩を、みすみす逃したりはしない。捕まえて、鎌倉現世の警察に突き出し、もう二度と悪さができないようにしてくるんだ」
「アイアイサーでしゅっ!」
(わっ⁉)
常盤に命令された式神は、ぼわん! という音とともに煙を立てて、その姿を白い光に変えた。
それは紗和がよく知る、例の白い光だった。
白い光の姿になった式神は、空き巣が走り去ったほうへと、まさに光の速さで消えていった。
「あの子が……ずっと私のそばにいた、白い光の正体だったの?」
唖然とした紗和が独りごちると、そばに立っていた常盤が着流しの裾を翻して紗和の前に跪いた。
「紗和、ケガはしていないか?」
常盤はそう言うと、紗和を見て悲しげに眉尻を下げた。
一瞬ドキリとした紗和は、反射的に顔を背けると、恐怖で汗が滲んでいた手をギュッと握りしめた。
「だ、大丈夫、です」
「そうか。それならよかった」
紗和を見つめてホッと息をこぼした常盤は、空き巣を燃やしていたときとはまるで別人だ。
(結局、彼は悪いあやかしではないってことなのかな?)
紗和は思わず心の中で首を傾げた。
常盤が、紗和を空き巣から助けてくれたことは間違いない。
それだけで常盤を善とするのを心もとなく感じたが、常盤の色が視えない以上は判断材料が他になかった。
「た、助けてくださって、ありがとうございました」
とにもかくにも、常盤が来なければ、今ごろ紗和は死んでいたかもしれない。
考えた末に、紗和は常盤に感謝の気持ちを伝えた。
すると常盤は紗和を愛おしそうに目を細めて見つめながら、ほほ笑んだ。
「助けるのは当然のことだから、お礼なんていらない。だって紗和は、俺の大事な花嫁だからな」
「…………え?」
予想外の言葉が常盤から返ってきて、紗和は驚き、目を見開いて固まった。
(は、花嫁? え、私が、この人の?)
「ど、どういうことですか?」
こんなに戸惑うのは、入社予定だった会社が倒産したのを知った日以来かもしれない。
見ず知らずのあやかしに『花嫁だ』と言われるなんて、悪い夢にもほどがある。
「あの場面で俺を呼んだということは、紗和も十七年前と同じ気持ちでいてくれたということだろう?」
「十七年前?」
「ああ。まさか紗和は、俺と交わした〝約束〟を覚えていないのか?」
――……十七年前。約束。
なにひとつ心当たりのない紗和は、頭の上に疑問符を並べながら首をひねった。
「あ、あの。人違いじゃないですか?」
「人違い?」
「ご、ごめんなさい。だって私たちは、今日が初対面ですよね?」
「え……」
「私があなたを呼んだって、なんのことですか? そもそも、どうしてあなたは私のことを知ってるんです?」
紗和が率直に尋ねると、常盤の顔色がわかりやすく曇った。
曇ったというより、落胆していると言ったほうが正しいかもしれない。
ショック、悲しさ、寂しさ――。そんな感情が、まざり合った顔をしている。
「本当に、なにも覚えていないのか?」
「はい……。でも、あなたの口ぶりだと、私たちは以前にどこかで会ったことがあるんですよね?」
紗和がまた思い切って尋ねると、常盤はなにかを言いかけた口を閉じ、長いまつ毛を静かに伏せた。
問いに答えるか否か、迷っている様子だ。
紗和は常盤のその反応に疑問を覚えたが、今は彼の答えを待つしかなかった。
(それにしても……こんなに綺麗な男の人を見るのは生まれて初めてかも)
近くで見れば見るほど、まさに〝人並外れた〟整った顔立ちをしている。
まるで絵画から抜け出したかのように美しい容姿をした常盤を前に、紗和はあらためて感心してしまった。
「……まぁ、紗和が覚えていないのも、仕方がないことなのかもしれないな」
しばらくの沈黙の後、常盤がゆっくりと口を開いた。
「なにせ、十七年も前のことだ。覚えているほうが……きっと、どうかしているのだろう」
そう言うと常盤は、儚げにほほ笑んだ。
なぜだかズキンと胸が痛んだ紗和は、自身の胸に手を当てた。
「ほ、本当にごめんなさい。私……空き巣に襲われたばかりで、まだ少し、混乱しているのかもしれません」
口にした言葉に偽りはない。
しかし、裏には〝もうこれ以上は常盤に悲しい顔をさせたくない〟という想いを隠していた。
「紗和が混乱するのは当然だ。だから、なにも気にする必要はない」
紗和の想いを汲んだ常盤は、苦笑いをこぼして頷いた。
(やっぱりこの人は、悪いあやかしではないのかも?)
紗和がそう思ったのは、自分に向けられる常盤の目はずっと、とても穏やかで優しかったからだ。
同時に、常盤の言う〝十七年前にした約束〟や、彼のことをなにひとつ思い出せない自分に対して疑念を抱いた。
常盤が、嘘を言っているようには見えない。だとしたら本当に自分が、彼のことを忘れているだけなのだろうか?
「あ、あのっ。あなたは、本当に私と――」
過去に会ったことがあるんですか? と、尋ねるより先に、
「紗和。とりあえず場所を移動して、これからのことを話し合わないか?」
常盤がそう言って、紗和の目を真っすぐに見つめた。
「え……これからのこと、ですか?」
面食らって聞き返すと、常盤は言葉を選びながら慎重に話し始めた。
「紗和が俺のことを一切覚えていないことは理解した。だが、あんなことがあった以上、俺は紗和をここにひとり残して戻れない――というか、絶対に置いていきたくない」
キッパリと言い切った常盤は、空き巣の手の痕がついた紗和の首筋に触れた。
「なにより紗和も、今晩、ここでひとりで過ごすのは不安だろう?」
神妙な面持ちで尋ねられ、紗和は思わず自分の首に触れると、常盤から目をそらした。
常盤の言う通り、つい先ほど空き巣にされたことを思い出したら、とてもじゃないがここで一晩明かす気にはなれない。
(とはいえ、これから泊まれるところを捜しに行くのも怖いし……)
家を出て、ひとりで夜道を歩いていくのが嫌ならタクシーを呼ぶしかない。
しかし、無職の今は、できる限り切り詰めた生活をしていかなければ。
今の紗和にとって、ホテルやタクシーは贅沢に違いなかった。
「俺のことを覚えていない紗和に、〝俺を信じてほしい〟と言うのは身勝手だと承知の上で言わせてもらう」
迷っている紗和を前に、あらためて畏まった様子で常盤が口を開いた。
「俺は、紗和に絶対に危害を加えない。だから今は俺を信じて、ついてきてはくれないか?」
紗和を見つめる常盤の瞳は、やはり紅く濡れていた。
でも、決して恐ろしい色ではない。
声色と同じく、ひたむきで真摯な想いが紗和の心の奥まで伝わってきた。
「ほ、本当に……あなたを信じてもいいの?」
意を決して尋ねた紗和の唇は震えていた。
初めて、本質の色を視ることができない相手。それも、相手はあやかしだ。
信じろというほうが無理がある。けれど常盤は、そんな紗和の思いを、きちんとわかってくれていた。
「絶対に悪いようにはしないと誓う。紗和は、俺のたったひとりの大切な人だ。それはこの先、一生変わることはないと胸を張って言える」
そう言うと常盤は、紗和を安心させるようにほほ笑んだ。
対する紗和はポカンとして固まり、返事に困ってしまった。
『紗和は、俺のたったひとりの大切な人』
『それはこの先、一生変わることはない』
一聴すると、まるでプロポーズだ。
男性に免疫のない紗和は、相手があやかしだとはわかっていても、照れずにはいられなかった。
「紗和、どうした? 顔が赤いぞ」
「え……。い、いえっ。それは……あ、あなたの気のせいです!」
顔を赤く染めて戸惑う紗和を見た常盤は、キョトンとしたあと、フッと息をこぼすように口端を上げた。
「ああ……なるほど。俺の気のせい、か。……ヤバいな、ゾクゾクする」
「ゾクゾク……え?」
「いや、なんでもない。四月の夜はまだ冷える。紗和はこれを羽織るといい」
そう言うと常盤は、自身の羽織りを脱いで、紗和の肩にそっとかけた。
――温かい。紗和がそう感じたのは、これまでずっと不安だった心が、不思議な安心感に包まれたからだ。
常盤は、あやかし。
(でも、どうしてかはわからないけど。私、彼のことは信じられるって思ってる)
不思議だ。
過去、常盤との間になにがあったのかも、常盤自身のことも覚えていないのに、紗和は常盤の手なら取れると直観していた。
「ありがとう、ございます。私、あなたに――常盤さんに、ついていきます」
紅く濡れた瞳を真っすぐに見つめ返しながら紗和が答えた。
すると、常盤は一瞬大きく目を見開いたあと、自身の顔を両手で覆った。
「あの、常盤さん?」
「ダメだ……。勝手に顔が緩む。十七年間、悪い虫がつかぬよう見守ってきてよかった」
「十七年間? 悪い虫?」
「ああ……。いや……なんでも。あらためて、俺を信じてくれてありがとう。こんなにも幸せな気持ちになるのは、実に久しぶりだ」
そう言った常盤は、自身の顔を覆っていた両手をパッと開いてほほ笑んだ。
(やっぱりちょっと、引っかかるところはあるけど……)
信じると決めた以上、今は常盤についていくしかない。
「それで、私はあなたと、これから一体どこに――ひゃっ⁉」
と、次の瞬間、紗和の身体がふわりと浮いた。
不意に立ち上がった常盤は、紗和の背中と膝裏に手をまわすと、もう逃がさないとばかりに紗和を優しく抱きかかえた。
「あ、あのっ! 重いのでおろしてくださいっ。自分の足で歩けますので!」
お姫様抱っこなど幼少期にされて以来だった紗和は、わかりやすく狼狽えた。
「嫌だ。俺が抱いていたいんだ。紗和は重いどころか、軽すぎるくらいだよ」
「いやいやいや! そんなわけないですからっ」
紗和は必死に抗議したが、常盤が聞き入れることはなかった。
「残念。なにを言われても、俺は目的地に着くまで紗和をおろさない。……むしろこのまま、一生腕に抱いていたいくらいだ」
「え?」
「いや、なんでも」
常盤はまた〝なんでもない〟と言って目をそらした。
(なんかさっきから、彼の発言がちょこちょこ変じゃない?)
いよいよ不信感を覚えた紗和は、疑いの目を常盤に向けたが――
「まぁ、冗談ではなく、本音はさておき」
「本音?」
「これから俺たちが向かうのは、鎌倉現世でも〝あやかしにしか視えない〟場所だ」
「あやかしにしか視えない場所って……私は人なのに、大丈夫なんですか?」
「ああ。紗和だけは特別だ。だけど万が一のことを考えて、紗和は俺に抱かれていたほうが安全だよ」
そう言うと常盤は地を蹴った。
直後、常盤の身体が、抱えている紗和ごと宙に浮いた。
「ほ、本当に大丈夫なんですか⁉」
「もちろんだ。……十七年、俺はこの日を待ち侘びていた。もう二度と、離すものか」
不穏な言葉が聞こえたと同時に、ふたりの身体はまばゆい光に包まれた。
鎌倉の夜は、酷く静かで趣深い。
紗和は常盤の腕に抱かれたまま、闇の中に吸い込まれた――
二泊目 幽れ宿・吾妻亭
「さぁ、着いたぞ」
光が遮断された異空間を抜けた常盤が紗和をおろしたのは、重厚かつ風格のある数奇屋門の前だった。
門を抜けると草木の佇まいが美しい前庭が出迎えてくれる。
格調高い石畳の先には暖色の灯りが点った純和風の建物が構えており、日々の喧騒を忘れさせた。
まるで江戸時代にタイムスリップしたような荘厳さかつ、雅な雰囲気に圧倒される。
「ここって……まさか、あなたの家ですか?」
「あながち間違いではないが、ここは正確には〝幽れ宿・吾妻亭〟という、あやかし専門の宿だ」
「あやかし専門の宿?」
驚いた紗和が聞き返すと、常盤はほほ笑みながら頷いた。
「吾妻亭の宿泊客の多くは、鎌倉観光に訪れた他県のあやかしたちだ」
「あ、あやかしの世界にも、旅館とか観光っていう概念があるんですね」
感心した紗和はあらためて、吾妻亭に目を向けた。
紗和はこれまで、人とあやかしは別の生き物であると考え、彼らと距離を置いてきた。
(だけど人とあやかしって、実はそんなに変わらないのかな?)
鎌倉観光をしているあやかしたちの姿を想像したら、なんだかほほ笑ましい気持ちになる。
自然と、紗和の顔がほころんだ。そんな紗和を見て、常盤も嬉しそうに笑みをこぼした。
「あ……。でも、人である私は、吾妻亭には泊まれないんじゃないですか?」
紗和は真っ当な疑問を常盤にぶつけた。
吾妻亭は、あやかし専門の宿。常盤はなぜここに、人である紗和を連れてきたのだろう。
「それは――」
「常盤様、おかえりなさいませ」
そのとき、落ち着き払った声が、常盤の声を遮った。
紗和が声のしたほうへと目を向けると、吾妻亭の玄関前に背の高い痩身の男が立っていた。
「ああ、小牧、ただいま」
小牧と呼ばれた男の見た目は三十代前半で、純和風の建物とは対照的な、スマートな洋装を身にまとっていた。
白いシャツに黒いベスト、黒いスラックスと革靴。首元には品のある細めのネクタイを締めている。
髪と瞳の色は黒で、銀縁の丸眼鏡をかけたインテリジェンスな男性だが――
(小牧さんは猫のあやかし、なのかな?)
頭には黒い猫耳。尾骨のあたりからは先端だけ白くなった細くて長い、黒い尻尾が一本生えていた。
「小牧、彼女が紗和だ。紗和、この男は小牧といって、吾妻亭の従業員のひとりだよ」
〝悪い奴ではないから安心して大丈夫だ〟と続けた常盤の言葉の通り、小牧がまとう色は穏やかな月白色だった。
知的かつ冷静な常識人によく見る色だ。
(小牧さんが悪い人ではないっていうのは本当みたい)
「……あなたが噂の〝紗和さん〟ですか」
と、数秒の沈黙後に口を開いた小牧は、紗和を観察するように眺めた。
反射的に背筋を伸ばした紗和は、
「は、初めまして。北条紗和と申します!」
そう、とっさに自己紹介して、緊張しながら頭を下げた。
「ご丁寧にありがとうございます。自分は、小牧と申します」
「小牧、さん」
「見ての通り、猫のあやかし・猫又で、吾妻亭では総務的な役割を担っております」
「総務、ですか?」
「はい。フロント係だけでなく、財務管理や営業に事務系の仕事など、幅広くやらせていただいております」
歯切れよく紗和に挨拶を返した小牧は、右手の腹でクイッと眼鏡の端を持ち上げた。
「本日は紗和さんにお会いできて光栄です。常盤様から、紗和さんのお噂はかねがね伺っておりましたので」
「私の噂を、常盤さんから聞いていた?」
不思議に思った紗和が聞き返すと、
「そ、その話は、今はいいだろう? そうだ! 紗和の生活用品が詰まったキャリーケースも、こちらに送っておいたんだ。紗和の部屋に運ばせておく」
と、妙に焦った様子の常盤が、話の腰を折った。
(私のキャリーケースのこと、どうして知ってるんだろう?)
また不思議に思った紗和は首を傾げて、頭の上にハテナを並べた。
というか、紗和が聞きたいことはまだまだ他にもたくさんあるのだ。
「あの、それで私は……」
ところが、紗和がこれからのことについて尋ねようとしたら――
ぐぅぅぅぅうううううう。
突然、腹の虫が盛大に鳴いた。
目を見張った常盤と小牧とは対照的に、自身のお腹に両手を添えた紗和は真っ赤になって俯いた。
「す、すみません! 私、今日は朝からなにも食べてなくてっ」
穴があったら入りたいとはまさにこのことだ。
紗和は恥ずかしさが限界を超えて、キュウッと両目を固く閉じた。
――すると、
「……ヤバイな。紗和が恥ずかしがっている姿、やっぱり最高にゾクゾクする」
「え?」
「死ぬほど可愛くて、今すぐどこかに閉じ込めてしまいたい」
耳を疑うような言葉が聞こえて、紗和は閉じたばかりの目を開けた。
声の主である常盤を見ると、常盤は両手で顔を覆いながら天を仰いでいた。
(い、今の、聞き間違いだよね?)
ちょっと変態的な発言だった気がするけれど。
引き気味に戸惑う紗和に対して、小牧は冷めた目を常盤に向けている。
「あ、あの……?」
「ああ、どうかお気になさらず。これは常盤様の通常運転ですので」
そう言うと小牧は、呆れたようにため息をついた。
これが常盤の通常運転だとしたら、大問題のような気もするが……
ツッコミを入れてもいいのか、今の距離感だと判断が難しい。
「常盤様、紗和さんが戸惑っておられますよ」
結局、紗和の代わりに小牧が常盤にツッコんだ。
「あ――。す、すまない。照れる紗和が尊すぎて、一瞬、我を失ってしまった」
ハッとして目を瞬いた常盤は、顔を覆っていた手をおろして紗和を見る。
そして、コホンと咳払いをしてから、あらためて口を開いた。
「紗和、いろいろと俺に聞きたいことはあるかもしれないが、まずは先に腹ごしらえをしないか?」
男は炎の色と同じく、黒い笑みを浮かべていた。
「た、助けてくれぇ……っ!」
その間も、空き巣は苦悶の表情を浮かべて叫び続けている。
瞬く間に、黒い炎は空き巣の全身を包み込んだ。
「ひ、ひぃぃぃ‼」
(ちょ、ちょっと待って。なんかこれ、マズくない⁉)
見ていられなくなった紗和は、必死に手を伸ばしてあやかしの男を止めようとした。
「そ、それ以上は――って、え……?」
けれど紗和の声が男に届くより先に、例の白い光が部屋の中に現れた。
白い光は男と空き巣の間を浮遊しながら、ポンッ! と音を立てて勢いよく弾けた。
「おやめくだしゃいませっ!」
直後、可愛らしい声が部屋の中に響いた。
消えた光の代わりに現れたのは、一本の小さな角と、ふわふわの狐の尻尾が生えた、手のひらサイズの子供だった。
男の子だろうか。着ている狩衣の裾が、ふわふわと宙で揺れている。
「か、可愛い~……」
思わず紗和の口から声が漏れた。
しかし、
(い、いけない! また空気の読めない発言だった!)
と、すぐに我に返った紗和は、あわてて自身の口を両手で塞ぎ、押し黙った。
「常盤しゃま! 今すぐ焔をお収めくだしゃいっ!」
短い腕を目いっぱい広げた男の子が、力の限りに叫ぶ。
どうやら、あやかしの男は、名を〝常盤〟というらしい。
(常盤……)
紗和が心の中でその名を反すうすると、ピリッとした痛みが額の中心に走った。
「式神よ。どうして俺を止めるんだ」
「だって、その人をやっつけてしまったら、常盤しゃまは紗和しゃまと一緒にいられなくなってしまいましゅ!」
「しかし、俺の紗和を傷つけた奴を、放ってはおけないだろう?」
「それはもちろん、そうでしゅがっ。でも、あやかしが人に危害を加えるのはご法度でしゅ! 罪人として鎌倉幽世に連れ戻されて、幽閉されることになってもいいんでしゅか⁉」
〝そうなったら、紗和しゃまにも会えなくなってしまいましゅ!〟と、言葉を続けた小さなあやかし――式神は、風船のようにプクッと両頬を膨らませた。
(や、やっぱり可愛い……)
紗和は思わず目をキラキラと輝かせながら式神を見つめた。
対して、式神に説得された常盤は「うーん」と悩ましげに唸る。
「たしかに、紗和に会えなくなるのは嫌だな」
「でしゅでしゅ! 常盤しゃまが怒るのはごもっともでしゅが、ここはおふたりの未来のためにも気を静めてくだしゃいませっ!」
結局、説得に応じることにしたらしい常盤は、渋々といった様子で構えていた腕を下ろした。
同時に、空き巣についていた黒い炎が消える。
これには紗和も本能的にホッと息をついたが、
「ば、ば、化け物っ!」
空き巣は炎から解放された直後、一目散にその場から逃げ出した。
(走れるってことは、ケガはそこまで酷いわけではなさそう?)
どういう原理か謎だが、溶けたナイフも消えてなくなっていたようだ。
ついでに空き巣がのたうち回っていた畳も、燃え痕ひとつついていない。
「式神、あいつを追いかけろ」
と、空き巣が逃げ出してすぐに常盤が口を開いた。
「紗和を傷つけた輩を、みすみす逃したりはしない。捕まえて、鎌倉現世の警察に突き出し、もう二度と悪さができないようにしてくるんだ」
「アイアイサーでしゅっ!」
(わっ⁉)
常盤に命令された式神は、ぼわん! という音とともに煙を立てて、その姿を白い光に変えた。
それは紗和がよく知る、例の白い光だった。
白い光の姿になった式神は、空き巣が走り去ったほうへと、まさに光の速さで消えていった。
「あの子が……ずっと私のそばにいた、白い光の正体だったの?」
唖然とした紗和が独りごちると、そばに立っていた常盤が着流しの裾を翻して紗和の前に跪いた。
「紗和、ケガはしていないか?」
常盤はそう言うと、紗和を見て悲しげに眉尻を下げた。
一瞬ドキリとした紗和は、反射的に顔を背けると、恐怖で汗が滲んでいた手をギュッと握りしめた。
「だ、大丈夫、です」
「そうか。それならよかった」
紗和を見つめてホッと息をこぼした常盤は、空き巣を燃やしていたときとはまるで別人だ。
(結局、彼は悪いあやかしではないってことなのかな?)
紗和は思わず心の中で首を傾げた。
常盤が、紗和を空き巣から助けてくれたことは間違いない。
それだけで常盤を善とするのを心もとなく感じたが、常盤の色が視えない以上は判断材料が他になかった。
「た、助けてくださって、ありがとうございました」
とにもかくにも、常盤が来なければ、今ごろ紗和は死んでいたかもしれない。
考えた末に、紗和は常盤に感謝の気持ちを伝えた。
すると常盤は紗和を愛おしそうに目を細めて見つめながら、ほほ笑んだ。
「助けるのは当然のことだから、お礼なんていらない。だって紗和は、俺の大事な花嫁だからな」
「…………え?」
予想外の言葉が常盤から返ってきて、紗和は驚き、目を見開いて固まった。
(は、花嫁? え、私が、この人の?)
「ど、どういうことですか?」
こんなに戸惑うのは、入社予定だった会社が倒産したのを知った日以来かもしれない。
見ず知らずのあやかしに『花嫁だ』と言われるなんて、悪い夢にもほどがある。
「あの場面で俺を呼んだということは、紗和も十七年前と同じ気持ちでいてくれたということだろう?」
「十七年前?」
「ああ。まさか紗和は、俺と交わした〝約束〟を覚えていないのか?」
――……十七年前。約束。
なにひとつ心当たりのない紗和は、頭の上に疑問符を並べながら首をひねった。
「あ、あの。人違いじゃないですか?」
「人違い?」
「ご、ごめんなさい。だって私たちは、今日が初対面ですよね?」
「え……」
「私があなたを呼んだって、なんのことですか? そもそも、どうしてあなたは私のことを知ってるんです?」
紗和が率直に尋ねると、常盤の顔色がわかりやすく曇った。
曇ったというより、落胆していると言ったほうが正しいかもしれない。
ショック、悲しさ、寂しさ――。そんな感情が、まざり合った顔をしている。
「本当に、なにも覚えていないのか?」
「はい……。でも、あなたの口ぶりだと、私たちは以前にどこかで会ったことがあるんですよね?」
紗和がまた思い切って尋ねると、常盤はなにかを言いかけた口を閉じ、長いまつ毛を静かに伏せた。
問いに答えるか否か、迷っている様子だ。
紗和は常盤のその反応に疑問を覚えたが、今は彼の答えを待つしかなかった。
(それにしても……こんなに綺麗な男の人を見るのは生まれて初めてかも)
近くで見れば見るほど、まさに〝人並外れた〟整った顔立ちをしている。
まるで絵画から抜け出したかのように美しい容姿をした常盤を前に、紗和はあらためて感心してしまった。
「……まぁ、紗和が覚えていないのも、仕方がないことなのかもしれないな」
しばらくの沈黙の後、常盤がゆっくりと口を開いた。
「なにせ、十七年も前のことだ。覚えているほうが……きっと、どうかしているのだろう」
そう言うと常盤は、儚げにほほ笑んだ。
なぜだかズキンと胸が痛んだ紗和は、自身の胸に手を当てた。
「ほ、本当にごめんなさい。私……空き巣に襲われたばかりで、まだ少し、混乱しているのかもしれません」
口にした言葉に偽りはない。
しかし、裏には〝もうこれ以上は常盤に悲しい顔をさせたくない〟という想いを隠していた。
「紗和が混乱するのは当然だ。だから、なにも気にする必要はない」
紗和の想いを汲んだ常盤は、苦笑いをこぼして頷いた。
(やっぱりこの人は、悪いあやかしではないのかも?)
紗和がそう思ったのは、自分に向けられる常盤の目はずっと、とても穏やかで優しかったからだ。
同時に、常盤の言う〝十七年前にした約束〟や、彼のことをなにひとつ思い出せない自分に対して疑念を抱いた。
常盤が、嘘を言っているようには見えない。だとしたら本当に自分が、彼のことを忘れているだけなのだろうか?
「あ、あのっ。あなたは、本当に私と――」
過去に会ったことがあるんですか? と、尋ねるより先に、
「紗和。とりあえず場所を移動して、これからのことを話し合わないか?」
常盤がそう言って、紗和の目を真っすぐに見つめた。
「え……これからのこと、ですか?」
面食らって聞き返すと、常盤は言葉を選びながら慎重に話し始めた。
「紗和が俺のことを一切覚えていないことは理解した。だが、あんなことがあった以上、俺は紗和をここにひとり残して戻れない――というか、絶対に置いていきたくない」
キッパリと言い切った常盤は、空き巣の手の痕がついた紗和の首筋に触れた。
「なにより紗和も、今晩、ここでひとりで過ごすのは不安だろう?」
神妙な面持ちで尋ねられ、紗和は思わず自分の首に触れると、常盤から目をそらした。
常盤の言う通り、つい先ほど空き巣にされたことを思い出したら、とてもじゃないがここで一晩明かす気にはなれない。
(とはいえ、これから泊まれるところを捜しに行くのも怖いし……)
家を出て、ひとりで夜道を歩いていくのが嫌ならタクシーを呼ぶしかない。
しかし、無職の今は、できる限り切り詰めた生活をしていかなければ。
今の紗和にとって、ホテルやタクシーは贅沢に違いなかった。
「俺のことを覚えていない紗和に、〝俺を信じてほしい〟と言うのは身勝手だと承知の上で言わせてもらう」
迷っている紗和を前に、あらためて畏まった様子で常盤が口を開いた。
「俺は、紗和に絶対に危害を加えない。だから今は俺を信じて、ついてきてはくれないか?」
紗和を見つめる常盤の瞳は、やはり紅く濡れていた。
でも、決して恐ろしい色ではない。
声色と同じく、ひたむきで真摯な想いが紗和の心の奥まで伝わってきた。
「ほ、本当に……あなたを信じてもいいの?」
意を決して尋ねた紗和の唇は震えていた。
初めて、本質の色を視ることができない相手。それも、相手はあやかしだ。
信じろというほうが無理がある。けれど常盤は、そんな紗和の思いを、きちんとわかってくれていた。
「絶対に悪いようにはしないと誓う。紗和は、俺のたったひとりの大切な人だ。それはこの先、一生変わることはないと胸を張って言える」
そう言うと常盤は、紗和を安心させるようにほほ笑んだ。
対する紗和はポカンとして固まり、返事に困ってしまった。
『紗和は、俺のたったひとりの大切な人』
『それはこの先、一生変わることはない』
一聴すると、まるでプロポーズだ。
男性に免疫のない紗和は、相手があやかしだとはわかっていても、照れずにはいられなかった。
「紗和、どうした? 顔が赤いぞ」
「え……。い、いえっ。それは……あ、あなたの気のせいです!」
顔を赤く染めて戸惑う紗和を見た常盤は、キョトンとしたあと、フッと息をこぼすように口端を上げた。
「ああ……なるほど。俺の気のせい、か。……ヤバいな、ゾクゾクする」
「ゾクゾク……え?」
「いや、なんでもない。四月の夜はまだ冷える。紗和はこれを羽織るといい」
そう言うと常盤は、自身の羽織りを脱いで、紗和の肩にそっとかけた。
――温かい。紗和がそう感じたのは、これまでずっと不安だった心が、不思議な安心感に包まれたからだ。
常盤は、あやかし。
(でも、どうしてかはわからないけど。私、彼のことは信じられるって思ってる)
不思議だ。
過去、常盤との間になにがあったのかも、常盤自身のことも覚えていないのに、紗和は常盤の手なら取れると直観していた。
「ありがとう、ございます。私、あなたに――常盤さんに、ついていきます」
紅く濡れた瞳を真っすぐに見つめ返しながら紗和が答えた。
すると、常盤は一瞬大きく目を見開いたあと、自身の顔を両手で覆った。
「あの、常盤さん?」
「ダメだ……。勝手に顔が緩む。十七年間、悪い虫がつかぬよう見守ってきてよかった」
「十七年間? 悪い虫?」
「ああ……。いや……なんでも。あらためて、俺を信じてくれてありがとう。こんなにも幸せな気持ちになるのは、実に久しぶりだ」
そう言った常盤は、自身の顔を覆っていた両手をパッと開いてほほ笑んだ。
(やっぱりちょっと、引っかかるところはあるけど……)
信じると決めた以上、今は常盤についていくしかない。
「それで、私はあなたと、これから一体どこに――ひゃっ⁉」
と、次の瞬間、紗和の身体がふわりと浮いた。
不意に立ち上がった常盤は、紗和の背中と膝裏に手をまわすと、もう逃がさないとばかりに紗和を優しく抱きかかえた。
「あ、あのっ! 重いのでおろしてくださいっ。自分の足で歩けますので!」
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「嫌だ。俺が抱いていたいんだ。紗和は重いどころか、軽すぎるくらいだよ」
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「残念。なにを言われても、俺は目的地に着くまで紗和をおろさない。……むしろこのまま、一生腕に抱いていたいくらいだ」
「え?」
「いや、なんでも」
常盤はまた〝なんでもない〟と言って目をそらした。
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いよいよ不信感を覚えた紗和は、疑いの目を常盤に向けたが――
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「本音?」
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「ああ。紗和だけは特別だ。だけど万が一のことを考えて、紗和は俺に抱かれていたほうが安全だよ」
そう言うと常盤は地を蹴った。
直後、常盤の身体が、抱えている紗和ごと宙に浮いた。
「ほ、本当に大丈夫なんですか⁉」
「もちろんだ。……十七年、俺はこの日を待ち侘びていた。もう二度と、離すものか」
不穏な言葉が聞こえたと同時に、ふたりの身体はまばゆい光に包まれた。
鎌倉の夜は、酷く静かで趣深い。
紗和は常盤の腕に抱かれたまま、闇の中に吸い込まれた――
二泊目 幽れ宿・吾妻亭
「さぁ、着いたぞ」
光が遮断された異空間を抜けた常盤が紗和をおろしたのは、重厚かつ風格のある数奇屋門の前だった。
門を抜けると草木の佇まいが美しい前庭が出迎えてくれる。
格調高い石畳の先には暖色の灯りが点った純和風の建物が構えており、日々の喧騒を忘れさせた。
まるで江戸時代にタイムスリップしたような荘厳さかつ、雅な雰囲気に圧倒される。
「ここって……まさか、あなたの家ですか?」
「あながち間違いではないが、ここは正確には〝幽れ宿・吾妻亭〟という、あやかし専門の宿だ」
「あやかし専門の宿?」
驚いた紗和が聞き返すと、常盤はほほ笑みながら頷いた。
「吾妻亭の宿泊客の多くは、鎌倉観光に訪れた他県のあやかしたちだ」
「あ、あやかしの世界にも、旅館とか観光っていう概念があるんですね」
感心した紗和はあらためて、吾妻亭に目を向けた。
紗和はこれまで、人とあやかしは別の生き物であると考え、彼らと距離を置いてきた。
(だけど人とあやかしって、実はそんなに変わらないのかな?)
鎌倉観光をしているあやかしたちの姿を想像したら、なんだかほほ笑ましい気持ちになる。
自然と、紗和の顔がほころんだ。そんな紗和を見て、常盤も嬉しそうに笑みをこぼした。
「あ……。でも、人である私は、吾妻亭には泊まれないんじゃないですか?」
紗和は真っ当な疑問を常盤にぶつけた。
吾妻亭は、あやかし専門の宿。常盤はなぜここに、人である紗和を連れてきたのだろう。
「それは――」
「常盤様、おかえりなさいませ」
そのとき、落ち着き払った声が、常盤の声を遮った。
紗和が声のしたほうへと目を向けると、吾妻亭の玄関前に背の高い痩身の男が立っていた。
「ああ、小牧、ただいま」
小牧と呼ばれた男の見た目は三十代前半で、純和風の建物とは対照的な、スマートな洋装を身にまとっていた。
白いシャツに黒いベスト、黒いスラックスと革靴。首元には品のある細めのネクタイを締めている。
髪と瞳の色は黒で、銀縁の丸眼鏡をかけたインテリジェンスな男性だが――
(小牧さんは猫のあやかし、なのかな?)
頭には黒い猫耳。尾骨のあたりからは先端だけ白くなった細くて長い、黒い尻尾が一本生えていた。
「小牧、彼女が紗和だ。紗和、この男は小牧といって、吾妻亭の従業員のひとりだよ」
〝悪い奴ではないから安心して大丈夫だ〟と続けた常盤の言葉の通り、小牧がまとう色は穏やかな月白色だった。
知的かつ冷静な常識人によく見る色だ。
(小牧さんが悪い人ではないっていうのは本当みたい)
「……あなたが噂の〝紗和さん〟ですか」
と、数秒の沈黙後に口を開いた小牧は、紗和を観察するように眺めた。
反射的に背筋を伸ばした紗和は、
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そう、とっさに自己紹介して、緊張しながら頭を下げた。
「ご丁寧にありがとうございます。自分は、小牧と申します」
「小牧、さん」
「見ての通り、猫のあやかし・猫又で、吾妻亭では総務的な役割を担っております」
「総務、ですか?」
「はい。フロント係だけでなく、財務管理や営業に事務系の仕事など、幅広くやらせていただいております」
歯切れよく紗和に挨拶を返した小牧は、右手の腹でクイッと眼鏡の端を持ち上げた。
「本日は紗和さんにお会いできて光栄です。常盤様から、紗和さんのお噂はかねがね伺っておりましたので」
「私の噂を、常盤さんから聞いていた?」
不思議に思った紗和が聞き返すと、
「そ、その話は、今はいいだろう? そうだ! 紗和の生活用品が詰まったキャリーケースも、こちらに送っておいたんだ。紗和の部屋に運ばせておく」
と、妙に焦った様子の常盤が、話の腰を折った。
(私のキャリーケースのこと、どうして知ってるんだろう?)
また不思議に思った紗和は首を傾げて、頭の上にハテナを並べた。
というか、紗和が聞きたいことはまだまだ他にもたくさんあるのだ。
「あの、それで私は……」
ところが、紗和がこれからのことについて尋ねようとしたら――
ぐぅぅぅぅうううううう。
突然、腹の虫が盛大に鳴いた。
目を見張った常盤と小牧とは対照的に、自身のお腹に両手を添えた紗和は真っ赤になって俯いた。
「す、すみません! 私、今日は朝からなにも食べてなくてっ」
穴があったら入りたいとはまさにこのことだ。
紗和は恥ずかしさが限界を超えて、キュウッと両目を固く閉じた。
――すると、
「……ヤバイな。紗和が恥ずかしがっている姿、やっぱり最高にゾクゾクする」
「え?」
「死ぬほど可愛くて、今すぐどこかに閉じ込めてしまいたい」
耳を疑うような言葉が聞こえて、紗和は閉じたばかりの目を開けた。
声の主である常盤を見ると、常盤は両手で顔を覆いながら天を仰いでいた。
(い、今の、聞き間違いだよね?)
ちょっと変態的な発言だった気がするけれど。
引き気味に戸惑う紗和に対して、小牧は冷めた目を常盤に向けている。
「あ、あの……?」
「ああ、どうかお気になさらず。これは常盤様の通常運転ですので」
そう言うと小牧は、呆れたようにため息をついた。
これが常盤の通常運転だとしたら、大問題のような気もするが……
ツッコミを入れてもいいのか、今の距離感だと判断が難しい。
「常盤様、紗和さんが戸惑っておられますよ」
結局、紗和の代わりに小牧が常盤にツッコんだ。
「あ――。す、すまない。照れる紗和が尊すぎて、一瞬、我を失ってしまった」
ハッとして目を瞬いた常盤は、顔を覆っていた手をおろして紗和を見る。
そして、コホンと咳払いをしてから、あらためて口を開いた。
「紗和、いろいろと俺に聞きたいことはあるかもしれないが、まずは先に腹ごしらえをしないか?」
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