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第九章 マタイ Matthaeus
Ⅱ・8月31日
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「やっと戻ったか。望月警視がお待ちだよ」
署に戻りドアを開けた途端、課長の声が飛んできた。
捜査本部はこの多摩川南署に置かれてはいるが、松田のように入り浸る訳にもいかないようで、望月の顔を見るのは久しぶりだった。
「望月警視がお待ちだと」
後ろに続いていた二人を振り返る。
また望月にソファを占領されている事だろう。さあ、どこで昼寝をしようか。そんな事を考えていたが、課長に、昼寝をさせて貰えない事を教えられる。
「田村、お前もだ。望月警視はお前を待っている」
「ん?」
後ろで二人が固まっているのが分かる。アカウントのフォロー以外で、何の話があるのだろうか? 二人もきっと同じ事を浮かべているに違いない。
いつものソファに先に腰を下ろしていた、望月の向かい側に座る。その隣に山﨑、望月の隣には松田。誰に促される事なく、二人も腰を下ろしている。
「田村さんに一つ確認したい事がありまして」
望月がテーブルの上に写真を並べる。
「先日の田村周平の殺害現場に残されていた匕首です。匕首には田村周平の血が付着していました。鑑識の結果でも間違いはありませんでした」
「こないだの凶器ですね」
松田が写真を手に取っている。
一体、匕首がなんだって言うんだ?
そんな疑問は一瞬の事で、もう一枚の写真を目にした途端、背中に冷たい汗が滲んできた。
「やっぱり見覚えがあるんですね。この匕首は模造品です」
「模造品?」
山﨑の声はもう耳には届いていなかった。ただ望月の目に捕えられ、さらに冷たい汗が流れだす。
「どう言う事ですか? この匕首の模造品と、晃平さんが何の関係があるんですか?」
「望月警視、すいませんが、三十分。いや二十分だけ時間を下さい。すぐに確かめてきます」
望月の返事も待たずに、ソファから立ち上がる。
二枚目の写真に写されていた、パッケージには見覚えがある。
慌てて階段を駆け下り、署のドアを抜ける。早く家に帰って、この目で確かめなければ。あの匕首の模造品は、まだ宅配便の箱の中にあるはずだ。
——もしなければ? 誰が? まさか祥太が?
まさか祥太が、あの匕首を持ち出していたと言うのか? 背中を流れていた冷たい汗が、強い日差しの下、熱い汗に変わっていく。
「あった」
思わず小さな声が漏れた。
手にした宅配便の箱の中には、手付かずの匕首が収まっている。一瞬でも祥太を疑った事に、自責の念が沸いてくる。早く署に戻り、この匕首を望月に示さなければ。祥太は何も関係ない。いや、自分は何も関係ないと証明しなければ。
玄関の鍵を閉め忘れていたが、そんな事はどうでもよかった。二十分と言った以上は二十分で戻らなければ、あらぬ疑いを持たれるかもしれない。ついさっき署から小走りで通った道を折り返す。普通に歩いて十分とかからない道だ。往復で二十分とかからない。何故か匕首よりも、二十分と言うタイムリミットが頭を占めていた。
「すみません、お待たせしました」
急いできた様子は充分に伝わっただろう。三人の目が一斉にこちらへ向かう。この二十分の間で、三人は何を話していただろうか。
「それですね。開けて頂いていいですか?」
「はい」
宅配の箱から小さな箱を、更にその小さな箱から、模造品の匕首を取り出す。
「話が全く見えないんですけど」
仲間外れにされ、拗ねた子供のような顔を松田が見せる。その向かいの山﨑も、何が何だか分かっていない様子だ。
「現場に落ちていた、この匕首は模造品だった。実際の凶器はこれではないんだ。模造品だから紙一枚切る事が出来ない。模造品と言う事は、簡単に手に入るって事だ。実際、ネットで普通に出回っている物だったんだよ」
「ああ、だから田村さんも同じ物、持っているんですね」
松田が理解を示す。
「そこでこの模造品を販売しているサイトで、購入履歴を調べたところ、田村晃平って名前が出てきたんだよ。そうですよね? 田村さんはこの匕首をネットで買いましたよね」
「そうです。ネットで買ったのがこの匕首です。さっき写真を見てびっくりしました」
「そう言う事だったんですね」
ようやく全てを理解した松田が、珍しそうに匕首を手に取っている。
「晃平さんが買った匕首の模造品と同じ物を買い、それをわざわざ殺害現場に残した。たまたま同じ匕首だったのかもしれないですけど、偶然と取るには確率が低いですね。どちらにしても、その匕首が凶器ではなかったと言う事ですね」
「そうだな。まだ見つかってはいないが、凶器は別にある。わざわざ模造品に血液を付着して残していくって事は」
「——って、事は?」
山﨑に代わって、松田が望月の言葉尻を拾っている。
「誰かが晃平さんに罪を擦り付けようとした」
「おいおい」
唐突な山﨑の意見に思わず体を反らしてしまう。そんな事があるはずはない。この連続殺人とは無関係だ。これ以上巻き込まれる訳にはいかない。
向かいに座る望月を盗み見たが、山﨑の意見に納得している様子だった。
「田村さんはどうしてこの匕首の模造品を購入されたのですか?」
「それは……」
率直な望月の質問に言葉が詰まる。
ネットで気に入って部屋に飾ろうと思って。そんな白々しい事が言える訳がない。だからと言って何故買ったかなんて、自分でもその理由を分かっていない。
田村俊明の死に様を描いた時、脳に焼き付けられたのが匕首だ。あの眼に匕首で甚振られ、どこかで匕首を欲していたのだろうか? 自分でも曖昧なその理由を誰かに伝える事なんて出来ない。それに何から何まで詮索され、全てを話す事になるだろう。
「田村さん。何か隠している事がありますね。捜査の協力だと思って、知っている事はどんな些細な事でも構わないので、話して頂けませんか?」
見透かしているぞ。と、言わんばかりの鋭い視線が刺さる。望月のその口調は柔らかいものだが、その目は獲物を視角に入れた蛇の目よりも鋭い。
——逃げ切れない。
そんな気にさせる目だ。全てを話さなければいけない時が来たのだろう。
「これは、これは私の妄想でしかありません。田村晃と田村俊明の死に様が、頭の中で再生されて。その時、田村俊明は匕首で殺されたんです。それで匕首が気になって、ネットで見つけて、衝動的に買いました」
嘘ではないが、可笑しな事を言っているのは、自分でも分かった。全てが頭の中で造り出されたもので、他の誰かが理解できるものでもない。隣の山﨑に目を向けてみたが、どう受け止めるべきか、迷っているような、難しい顔をしている。
「田村晃と田村俊明とは面識があったんですか?」
「いえ、ありません。ただ新宿二丁目のバーで、二人がよく新宿二丁目の店に来ていた事を、話で聞いただけです」
「新宿二丁目ですか」
咄嗟に口を押える。
余計な事を言ってしまった後悔を、手で押さえつけたが、それはもう取り返す事が出来ない。一拍置いて望月が続ける。
「田村さんのセクシャリティについて、とやかく言うつもりはありません。ですが今も入院中の多村駿さんが発見されたのも、新宿二丁目のサウナだった。それに田村周平も新宿二丁目には、よく通っていたようだし。そこに田村晃と田村俊明ですね。他に何か知っている事があれば話して頂けますか」
「多村駿とは……」
言いにくい事を吐き出すには力が必要だ。その力を発揮できれば、決壊したダムのように、全てを話せるのかもしれない。だからと言って全てを話し、受け入れられるとは思えないし、信じて貰えるとも思えない。
「話せる事からで構いませんよ」
穏やかな顔を向ける望月に、思わず安心感を持ってしまう。こうやって何人もの被疑者を落としてきたのだろう。救いを求めるように、山﨑へ目を向けたが、ただ困った顔をするだけだ。
「多村駿とは、御察しの通り、新宿二丁目のサウナで出会いました。出会ったと言っても、名前も何も知らない。ただあのサウナで知り合った。ただその日、あの大騒ぎに巻き込まれたんです。高温の湯船に、目を閉じて浸かる多村駿にサウナ中が大騒ぎになりました」
「十二月二十七日ですね。ヨハネの聖名祝日だ。その日に新宿二丁目のサウナにいたんですね?」
「はい。ただ騒ぎに巻き込まれまいと、必死に逃げました。周りの誰もがそうしたように、あのサウナから逃げ出しました。その後、気になってニュースを検索したんです。そうしたら多村駿は死んでいなかった事を知って、信濃町の病院へ行ったんです」
隣で山﨑が小さく頷いた。
経緯を知ったことで、三人で信濃町の病院へ行った日を、納得したのだろう。
「多村駿さんとの事は分かりました。それでは、田村周平との面識は?」
「ありません」
「新宿二丁目のバーで会ったとか、そういう事も?」
「ありません。ただ田村周平の死体を見た時——」
その先の言葉を詰まらせていた時、じっと話を聞いていただけの山﨑が口を開いた。
「目がって。晃平さん怯えるように目がって言っていましたよね。田村周平とは面識はなかったけど、田村周平のあの目に見覚えがあったんじゃないですか?」
困惑したままの山﨑の顔を眺める。
その顔を歪めているのは自分だ。その顔をいつもの顔に戻してやりたい。そんな思いが全てを吐かせようとするが、全てを吐いたところで、誰に受け入れられる訳ではない。山崎にさえ受け入れられないかもしれない。
「眼です。見開かれたあの眼に全身が震えました。田村晃と田村俊明を殺したのは田村周平だって。やっぱり二人を殺したのはあの眼だったんだって」
「目ですか? どう言う事ですか? もっと詳しく教えて下さい」
望月は受け入れようとしているのか? 理解しようとしているのか? 探りを入れたいがもうそんな時間はない。もうありのままを話すしかない。
「さっきお話した通りです。田村晃と田村俊明の死に様が、頭の中で再生された。これはあくまで妄想に過ぎません。二人にも会った事はありません。ですが二人の死に様が、頭の中で再生された時、二人ではなく縛られていたのは私でした。そして私を縛った人間、私を殺した人間があの眼だったんです。あの眼は田村周平の目だった。私を、いや、田村晃と田村俊明を殺したのは田村周平だった。……すみません。私の頭の中での話です。夢なのかもしれない」
「分かりました。ですが、田村周平には、面識はなかったと」
「はい」
「では、その目を見るのは、初めてだったんですか? その頭の中で再生された、その目をどこかで見かけた事はありませんでしたか?」
「どう言う意味ですか?」
「頭の中で再生されたと言う事は、現実世界の中で、その目に会っていた可能性があります。その時、刷り込まれた印象を脳が再生した。そう考えるのが妥当では?」
望月の理解に、ふとあの眼が脳裏を掠めた。
以前にあった事があるのか? 田村晃の死に様が再生されるより以前。
あの眼に——。どこかで——。
「あっ!」
思わず声が漏れる。
閃くとはこう言う事なのだろうか。もっと凄い事を思い出せる頭ならよかったのに。
「どこかで会っていたんですね?」
「はい。新宿のサウナです。新宿のサウナで、あの眼に会っています。あの眼の執拗な視線を感じました」
また訳の分からない事を言っていると、捉えられたのだろう。望月が黙り込んでしまう。
その隣の松田は目を合わさないようにと逸らしている。やはり訳の分からない事を言ってしまったのだろう。
きっと山崎も? そう思い目を向ける。
山﨑のその表情は、吐き出された言葉を、必死に噛み砕こうとしているように見えた。
「……と、言う事は、田村周平も十二月二十七日に、新宿のサウナにいたと言う事ですよね? 晃平さんはそのサウナで田村周平に会っていた」
山﨑が噛み砕き、説明を付けようとした言葉を無視し、望月が続ける。
「分かりました。どちらにせよ多村駿と関係を持っていた事は、間違いありませんね?」
「はい、間違いありません」
「分かりました。仕方有りませんが、今後、捜査から外れて頂きます。多村駿と関係を持っていたと言う事は、少なからず今回の事件の関係者になりますから」
最初から好き好んで、捜査に加わった訳ではない。外れろと言うなら、手放しで喜んで外れてやる。望月に何と言われようが、ダメージを受ける事なんて何一つない。それなのに例えそれが、気遣いからきたものであったとしても、続く山崎の言葉には、どうしようもなくダメージを受けてしまう。
「晃平さん。かなり疲れているんじゃないですか? 少し休んでリフレッシュした方がいいですよ。ゆっくり休んで下さい」
労いのつもりだろうが、もう不要だと、もうコンビ解消だと、そんなふうに聞こえてしまう。今は松田がいる。この連続殺人の捜査は、松田とコンビを組んでやっていく。そんな裏を読んでしまう。勘繰りでしかない事は分かっていても、気持ちがカーブし、どこかへ逸れて行くようだ。
「ああ、そうだな。有給も溜まっているし」
山崎だけを見据え、小さく笑みを送り立ち上がる。
「課長、あの捜査から外れたんで、俺、有給使ってちょっと休みますわ」
立ち上がった足で、そのまま課長のデスクへと向かった。
「有給か? 申請書だけは忘れず出しておけよ」
上目遣いに、一瞬怪訝な顔をされたが、課長はそれ以上何も言わなかった。
暫くゆっくり過ごしてやる。最近飲みにも行ってないし。謹慎ではなく、あくまで有給休暇だ。有意義な時間を過ごしてやる。ちらりと山崎ら三人に目を向けたが、何やらまだ話し込んでいる様子だった。気にする事はない。もう"TAMTAM"に振り回される必要はない。
署に戻りドアを開けた途端、課長の声が飛んできた。
捜査本部はこの多摩川南署に置かれてはいるが、松田のように入り浸る訳にもいかないようで、望月の顔を見るのは久しぶりだった。
「望月警視がお待ちだと」
後ろに続いていた二人を振り返る。
また望月にソファを占領されている事だろう。さあ、どこで昼寝をしようか。そんな事を考えていたが、課長に、昼寝をさせて貰えない事を教えられる。
「田村、お前もだ。望月警視はお前を待っている」
「ん?」
後ろで二人が固まっているのが分かる。アカウントのフォロー以外で、何の話があるのだろうか? 二人もきっと同じ事を浮かべているに違いない。
いつものソファに先に腰を下ろしていた、望月の向かい側に座る。その隣に山﨑、望月の隣には松田。誰に促される事なく、二人も腰を下ろしている。
「田村さんに一つ確認したい事がありまして」
望月がテーブルの上に写真を並べる。
「先日の田村周平の殺害現場に残されていた匕首です。匕首には田村周平の血が付着していました。鑑識の結果でも間違いはありませんでした」
「こないだの凶器ですね」
松田が写真を手に取っている。
一体、匕首がなんだって言うんだ?
そんな疑問は一瞬の事で、もう一枚の写真を目にした途端、背中に冷たい汗が滲んできた。
「やっぱり見覚えがあるんですね。この匕首は模造品です」
「模造品?」
山﨑の声はもう耳には届いていなかった。ただ望月の目に捕えられ、さらに冷たい汗が流れだす。
「どう言う事ですか? この匕首の模造品と、晃平さんが何の関係があるんですか?」
「望月警視、すいませんが、三十分。いや二十分だけ時間を下さい。すぐに確かめてきます」
望月の返事も待たずに、ソファから立ち上がる。
二枚目の写真に写されていた、パッケージには見覚えがある。
慌てて階段を駆け下り、署のドアを抜ける。早く家に帰って、この目で確かめなければ。あの匕首の模造品は、まだ宅配便の箱の中にあるはずだ。
——もしなければ? 誰が? まさか祥太が?
まさか祥太が、あの匕首を持ち出していたと言うのか? 背中を流れていた冷たい汗が、強い日差しの下、熱い汗に変わっていく。
「あった」
思わず小さな声が漏れた。
手にした宅配便の箱の中には、手付かずの匕首が収まっている。一瞬でも祥太を疑った事に、自責の念が沸いてくる。早く署に戻り、この匕首を望月に示さなければ。祥太は何も関係ない。いや、自分は何も関係ないと証明しなければ。
玄関の鍵を閉め忘れていたが、そんな事はどうでもよかった。二十分と言った以上は二十分で戻らなければ、あらぬ疑いを持たれるかもしれない。ついさっき署から小走りで通った道を折り返す。普通に歩いて十分とかからない道だ。往復で二十分とかからない。何故か匕首よりも、二十分と言うタイムリミットが頭を占めていた。
「すみません、お待たせしました」
急いできた様子は充分に伝わっただろう。三人の目が一斉にこちらへ向かう。この二十分の間で、三人は何を話していただろうか。
「それですね。開けて頂いていいですか?」
「はい」
宅配の箱から小さな箱を、更にその小さな箱から、模造品の匕首を取り出す。
「話が全く見えないんですけど」
仲間外れにされ、拗ねた子供のような顔を松田が見せる。その向かいの山﨑も、何が何だか分かっていない様子だ。
「現場に落ちていた、この匕首は模造品だった。実際の凶器はこれではないんだ。模造品だから紙一枚切る事が出来ない。模造品と言う事は、簡単に手に入るって事だ。実際、ネットで普通に出回っている物だったんだよ」
「ああ、だから田村さんも同じ物、持っているんですね」
松田が理解を示す。
「そこでこの模造品を販売しているサイトで、購入履歴を調べたところ、田村晃平って名前が出てきたんだよ。そうですよね? 田村さんはこの匕首をネットで買いましたよね」
「そうです。ネットで買ったのがこの匕首です。さっき写真を見てびっくりしました」
「そう言う事だったんですね」
ようやく全てを理解した松田が、珍しそうに匕首を手に取っている。
「晃平さんが買った匕首の模造品と同じ物を買い、それをわざわざ殺害現場に残した。たまたま同じ匕首だったのかもしれないですけど、偶然と取るには確率が低いですね。どちらにしても、その匕首が凶器ではなかったと言う事ですね」
「そうだな。まだ見つかってはいないが、凶器は別にある。わざわざ模造品に血液を付着して残していくって事は」
「——って、事は?」
山﨑に代わって、松田が望月の言葉尻を拾っている。
「誰かが晃平さんに罪を擦り付けようとした」
「おいおい」
唐突な山﨑の意見に思わず体を反らしてしまう。そんな事があるはずはない。この連続殺人とは無関係だ。これ以上巻き込まれる訳にはいかない。
向かいに座る望月を盗み見たが、山﨑の意見に納得している様子だった。
「田村さんはどうしてこの匕首の模造品を購入されたのですか?」
「それは……」
率直な望月の質問に言葉が詰まる。
ネットで気に入って部屋に飾ろうと思って。そんな白々しい事が言える訳がない。だからと言って何故買ったかなんて、自分でもその理由を分かっていない。
田村俊明の死に様を描いた時、脳に焼き付けられたのが匕首だ。あの眼に匕首で甚振られ、どこかで匕首を欲していたのだろうか? 自分でも曖昧なその理由を誰かに伝える事なんて出来ない。それに何から何まで詮索され、全てを話す事になるだろう。
「田村さん。何か隠している事がありますね。捜査の協力だと思って、知っている事はどんな些細な事でも構わないので、話して頂けませんか?」
見透かしているぞ。と、言わんばかりの鋭い視線が刺さる。望月のその口調は柔らかいものだが、その目は獲物を視角に入れた蛇の目よりも鋭い。
——逃げ切れない。
そんな気にさせる目だ。全てを話さなければいけない時が来たのだろう。
「これは、これは私の妄想でしかありません。田村晃と田村俊明の死に様が、頭の中で再生されて。その時、田村俊明は匕首で殺されたんです。それで匕首が気になって、ネットで見つけて、衝動的に買いました」
嘘ではないが、可笑しな事を言っているのは、自分でも分かった。全てが頭の中で造り出されたもので、他の誰かが理解できるものでもない。隣の山﨑に目を向けてみたが、どう受け止めるべきか、迷っているような、難しい顔をしている。
「田村晃と田村俊明とは面識があったんですか?」
「いえ、ありません。ただ新宿二丁目のバーで、二人がよく新宿二丁目の店に来ていた事を、話で聞いただけです」
「新宿二丁目ですか」
咄嗟に口を押える。
余計な事を言ってしまった後悔を、手で押さえつけたが、それはもう取り返す事が出来ない。一拍置いて望月が続ける。
「田村さんのセクシャリティについて、とやかく言うつもりはありません。ですが今も入院中の多村駿さんが発見されたのも、新宿二丁目のサウナだった。それに田村周平も新宿二丁目には、よく通っていたようだし。そこに田村晃と田村俊明ですね。他に何か知っている事があれば話して頂けますか」
「多村駿とは……」
言いにくい事を吐き出すには力が必要だ。その力を発揮できれば、決壊したダムのように、全てを話せるのかもしれない。だからと言って全てを話し、受け入れられるとは思えないし、信じて貰えるとも思えない。
「話せる事からで構いませんよ」
穏やかな顔を向ける望月に、思わず安心感を持ってしまう。こうやって何人もの被疑者を落としてきたのだろう。救いを求めるように、山﨑へ目を向けたが、ただ困った顔をするだけだ。
「多村駿とは、御察しの通り、新宿二丁目のサウナで出会いました。出会ったと言っても、名前も何も知らない。ただあのサウナで知り合った。ただその日、あの大騒ぎに巻き込まれたんです。高温の湯船に、目を閉じて浸かる多村駿にサウナ中が大騒ぎになりました」
「十二月二十七日ですね。ヨハネの聖名祝日だ。その日に新宿二丁目のサウナにいたんですね?」
「はい。ただ騒ぎに巻き込まれまいと、必死に逃げました。周りの誰もがそうしたように、あのサウナから逃げ出しました。その後、気になってニュースを検索したんです。そうしたら多村駿は死んでいなかった事を知って、信濃町の病院へ行ったんです」
隣で山﨑が小さく頷いた。
経緯を知ったことで、三人で信濃町の病院へ行った日を、納得したのだろう。
「多村駿さんとの事は分かりました。それでは、田村周平との面識は?」
「ありません」
「新宿二丁目のバーで会ったとか、そういう事も?」
「ありません。ただ田村周平の死体を見た時——」
その先の言葉を詰まらせていた時、じっと話を聞いていただけの山﨑が口を開いた。
「目がって。晃平さん怯えるように目がって言っていましたよね。田村周平とは面識はなかったけど、田村周平のあの目に見覚えがあったんじゃないですか?」
困惑したままの山﨑の顔を眺める。
その顔を歪めているのは自分だ。その顔をいつもの顔に戻してやりたい。そんな思いが全てを吐かせようとするが、全てを吐いたところで、誰に受け入れられる訳ではない。山崎にさえ受け入れられないかもしれない。
「眼です。見開かれたあの眼に全身が震えました。田村晃と田村俊明を殺したのは田村周平だって。やっぱり二人を殺したのはあの眼だったんだって」
「目ですか? どう言う事ですか? もっと詳しく教えて下さい」
望月は受け入れようとしているのか? 理解しようとしているのか? 探りを入れたいがもうそんな時間はない。もうありのままを話すしかない。
「さっきお話した通りです。田村晃と田村俊明の死に様が、頭の中で再生された。これはあくまで妄想に過ぎません。二人にも会った事はありません。ですが二人の死に様が、頭の中で再生された時、二人ではなく縛られていたのは私でした。そして私を縛った人間、私を殺した人間があの眼だったんです。あの眼は田村周平の目だった。私を、いや、田村晃と田村俊明を殺したのは田村周平だった。……すみません。私の頭の中での話です。夢なのかもしれない」
「分かりました。ですが、田村周平には、面識はなかったと」
「はい」
「では、その目を見るのは、初めてだったんですか? その頭の中で再生された、その目をどこかで見かけた事はありませんでしたか?」
「どう言う意味ですか?」
「頭の中で再生されたと言う事は、現実世界の中で、その目に会っていた可能性があります。その時、刷り込まれた印象を脳が再生した。そう考えるのが妥当では?」
望月の理解に、ふとあの眼が脳裏を掠めた。
以前にあった事があるのか? 田村晃の死に様が再生されるより以前。
あの眼に——。どこかで——。
「あっ!」
思わず声が漏れる。
閃くとはこう言う事なのだろうか。もっと凄い事を思い出せる頭ならよかったのに。
「どこかで会っていたんですね?」
「はい。新宿のサウナです。新宿のサウナで、あの眼に会っています。あの眼の執拗な視線を感じました」
また訳の分からない事を言っていると、捉えられたのだろう。望月が黙り込んでしまう。
その隣の松田は目を合わさないようにと逸らしている。やはり訳の分からない事を言ってしまったのだろう。
きっと山崎も? そう思い目を向ける。
山﨑のその表情は、吐き出された言葉を、必死に噛み砕こうとしているように見えた。
「……と、言う事は、田村周平も十二月二十七日に、新宿のサウナにいたと言う事ですよね? 晃平さんはそのサウナで田村周平に会っていた」
山﨑が噛み砕き、説明を付けようとした言葉を無視し、望月が続ける。
「分かりました。どちらにせよ多村駿と関係を持っていた事は、間違いありませんね?」
「はい、間違いありません」
「分かりました。仕方有りませんが、今後、捜査から外れて頂きます。多村駿と関係を持っていたと言う事は、少なからず今回の事件の関係者になりますから」
最初から好き好んで、捜査に加わった訳ではない。外れろと言うなら、手放しで喜んで外れてやる。望月に何と言われようが、ダメージを受ける事なんて何一つない。それなのに例えそれが、気遣いからきたものであったとしても、続く山崎の言葉には、どうしようもなくダメージを受けてしまう。
「晃平さん。かなり疲れているんじゃないですか? 少し休んでリフレッシュした方がいいですよ。ゆっくり休んで下さい」
労いのつもりだろうが、もう不要だと、もうコンビ解消だと、そんなふうに聞こえてしまう。今は松田がいる。この連続殺人の捜査は、松田とコンビを組んでやっていく。そんな裏を読んでしまう。勘繰りでしかない事は分かっていても、気持ちがカーブし、どこかへ逸れて行くようだ。
「ああ、そうだな。有給も溜まっているし」
山崎だけを見据え、小さく笑みを送り立ち上がる。
「課長、あの捜査から外れたんで、俺、有給使ってちょっと休みますわ」
立ち上がった足で、そのまま課長のデスクへと向かった。
「有給か? 申請書だけは忘れず出しておけよ」
上目遣いに、一瞬怪訝な顔をされたが、課長はそれ以上何も言わなかった。
暫くゆっくり過ごしてやる。最近飲みにも行ってないし。謹慎ではなく、あくまで有給休暇だ。有意義な時間を過ごしてやる。ちらりと山崎ら三人に目を向けたが、何やらまだ話し込んでいる様子だった。気にする事はない。もう"TAMTAM"に振り回される必要はない。
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