上 下
36 / 58
第八章 バルトロマイ Bartholomaeus

Ⅴ・8月24日

しおりを挟む
「嘘だろ?」

 ぽつりと一言。葉佑の目が変死体から、こちらへ向けられる。口にはしていないが、晃平の顔も葉佑と同じだ。

 田村優希の頬に付着していた精液が、田村周平のDNAと一致した。そう連絡を受け、後は田村周平を探し出し、追い詰めるだけだった。

 数日前の会話が頭を掠める。
 大失態ではなかった。

——どう言う事だ?

 幾ら整理しようとも、その答えどころか糸口も見失ったようだ。

「嘘だろ?」

 葉佑に共鳴した声が、全身から血の気を奪っていく。

 駆け付けた町工場は、多摩川からも程近ほどちかい所にあった。多摩川南署からも、歩いて十分と離れていない。近付けられている。いや、違う。すでに奴の手中にあるのかもしれない。

 工業団地と呼ぶには規模は小さいが、幾つもの小さな町工場が並んだ棟。その一室で発見された変死体。跡継ぎが途絶え、今は放置されたままの工場だと聞かされたのは、後の聞き込みの際だ。

 通報があったのは朝の七時。普段は下ろされているシャッターが上がっている事を、不思議に思った近所の同業者が、その一室を覗いたらしい。そこでその第一発見者が目にしたものが、今、自分達の目の前にあるこの変死体だ。

「また予告通りなのか?」

 遅れてきた望月はまだ気付いていない様子だった。

「そうですね。バルトロマイよ! 鞭打たれ、皮を剥がれよ」

 予告通りに殺された、その男の肌には、幾筋もの赤い線があった。

 それは肌が切られた線ではない。赤く細くれ上がった線。項垂うなだれた首筋にも、背中にも、腹にも見える赤い線。

 その線がどのように付けられたかは、一目では判断しがたいが、予告があっての事だ。

 それが鞭で打たれたあとだと言う事は、すぐに想像がつく。それよりも目を奪われるのは、予告通りに剥がれた皮だ。人体模型が皮膚の下の肉を露出させているように、目の前の男も、皮膚の下の肉を露出させている。ただ一つ違うところは、露出された肉が、赤黒い血を滲ませている事だ。

「予告通りです。鞭で打たれて、皮を剥がれて」

 葉佑が声を返しながら、殺人予告を復唱する。

 その声に背筋が一瞬にして凍り付く。痛ましい姿を目にしたからではない。葉佑の声が裏返った理由もきっと同じだ。それに晃平は固まったままだ。二人は生前の男に会ってはいないが、その顔は写真で見ているはずだ。

「まさか、まさか、何で……」

 普段、動揺など見せる事のない葉佑が、言葉を失っている。

「おい、どうしたんだ?」

 葉佑の慌てぶりに、望月の声が大きくなる。

 普段見せる事のない、動揺を隠せない葉佑。それに固まったままの晃平。自分だけは冷静さを保たなければ。二人の姿にそんな意識が働く。

「田村周平です。田村周平が殺されたようです」

「えっ? この男が田村周平なのか?」

 五年前、一緒に尾行を続けた望月だったが、その顔を忘れてしまったのだろうか?

「……所持品から身元が割れましたよ。田村周平、四十一歳。大田区の在住です」

 鑑識の声に、頭が真っ白になる。
 田村周平で間違いなかった。

 "TAMTAM"と田村周平は別人だったと言うのだろうか。田邑先生のメールの相手。サイモン神父の話。それに田村優希の頬に残されていた精液。一体何だったと言うのだろう。

——振り出しに戻る。

 頭の中にボードゲームが描かれ、無理矢理スタート地点へと戻されていく。

「それとこんな物が残されていました」

 鑑識の声も耳に入らないのか、望月が意気消沈していく。そんな望月に代わり、葉佑が鑑識から血の付いた何かを受け取っている。血で赤くは染まっているが、ナイフか何かだろうか。もしかして凶器が残されていたのだろうか。

「あの眼だ。あの眼で間違いない……」

 玉の汗を噴出させた晃平の額に目をやる。確かに冷房も効いていない、町工場の一室は、外気に比べ蒸し暑くはあるが、まだ朝の早い時間だ。滲むほどの汗は出ない。それは葉佑も望月も同じで、二人の額にも汗は滲んでいない。

「目? ですか?」

「ああ、あの眼だ」

 田村周平の見開かれた目に怯えているような、晃平の様子を葉佑も察したようだった。

「目がどうかしましたか? それよりすごい汗ですよ。外でちょっと休んでいてください」

 促された晃平が背中を向ける。

 上がったシャッターの向こうの光の中に、その背中が消えた事を見届け、葉佑が手にするナイフに目を移す。

「これが凶器なのか?」

 手にしたナイフに葉佑が首を捻っている。沈んでいたと思っていた望月は持ち直したようで、葉佑からそのナイフを奪い取っている。

匕首あいくちだな」

「匕首? ですか?」

「ああ、ドスだよ。ドス」

 外の晃平の様子が気にもなるが、二人の会話に耳を集中させる。

 匕首? いつか誰かから、聞かされたような気がする。

「今時、匕首なんて簡単に手に入る物じゃないからな。こいつの入手ルート探ってくれ」

「分かりました」

 葉佑が晃平と同じように背中を向け、光の中へ消えていく。

「初めてですね」

「何がだ?」

「凶器ですよ。こんな凶器が残されていたのがです」

「今までも残されていただろ?」

「まあ石だったり、槍だったり、金槌だったりは残されていましたけど」

 素直な疑問だった。

 何故凶器を残していったのだろうか? わざわざ血の付いた匕首を残していった事には、きっと何らかの意味があるはずだ。そこから足がつく事も考えられる。うっかり忘れていったなんて、今までの奴を考えれば、納得のいかない話だ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

教師(今日、死)

ワカメガメ
ホラー
中学2年生の時、6月6日にクラスの担任が死んだ。 そしてしばらくして不思議な「ユメ」の体験をした。 その「ユメ」はある工場みたいなところ。そしてクラス全員がそこにいた。その「ユメ」に招待した人物は... 密かに隠れたその恨みが自分に死を植え付けられるなんてこの時は夢にも思わなかった。

ハメられたサラリーマン

熊次郎
BL
中村将太は名門の社会人クラブチーム所属のアメフト選手た。サラリーマンとしても選手としても活躍している。だが、ある出来事で人生が狂い始める。

消防士の義兄との秘密

熊次郎
BL
翔は5歳年上の義兄の大輔と急接近する。憧れの気持ちが欲望に塗れていく。たくらみが膨れ上がる。

茨城の首切場(くびきりば)

転生新語
ホラー
 へー、ご当地の怪談を取材してるの? なら、この家の近くで、そういう話があったよ。  ファミレスとかの飲食店が、必ず潰れる場所があってね。そこは首切場(くびきりば)があったんだ……  カクヨム、小説家になろうに投稿しています。  カクヨム→https://kakuyomu.jp/works/16817330662331165883  小説家になろう→https://ncode.syosetu.com/n5202ij/

ラグビー部主将の屈辱

熊次郎
BL
強豪社会人チームの主将勇次は部員の不祥事をかばい自らの体を差す出す。屈辱に耐えながら、熱くなる体をどうにもできない自分をコントロール出来なくなっていく、、、

終電での事故

蓮實長治
ホラー
4つの似たような状況……しかし、その4つが起きたのは別の世界だった。 「なろう」「カクヨム」「アルファポリス」「pixiv」「Novel Days」に同じモノを投稿しています。

水球部顧問の体育教師

熊次郎
BL
スポーツで有名な公明学園高等部。新人体育教師の谷口健太は水球部の顧問だ。水球部の生徒と先輩教師の間で、谷口は違う顔を見せる。

咎の森

しぃ
ホラー
その家には近づいてはいけない。

処理中です...