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第八章 バルトロマイ Bartholomaeus
Ⅴ・8月24日
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「嘘だろ?」
ぽつりと一言。葉佑の目が変死体から、こちらへ向けられる。口にはしていないが、晃平の顔も葉佑と同じだ。
田村優希の頬に付着していた精液が、田村周平のDNAと一致した。そう連絡を受け、後は田村周平を探し出し、追い詰めるだけだった。
数日前の会話が頭を掠める。
大失態ではなかった。
——どう言う事だ?
幾ら整理しようとも、その答えどころか糸口も見失ったようだ。
「嘘だろ?」
葉佑に共鳴した声が、全身から血の気を奪っていく。
駆け付けた町工場は、多摩川からも程近い所にあった。多摩川南署からも、歩いて十分と離れていない。近付けられている。いや、違う。すでに奴の手中にあるのかもしれない。
工業団地と呼ぶには規模は小さいが、幾つもの小さな町工場が並んだ棟。その一室で発見された変死体。跡継ぎが途絶え、今は放置されたままの工場だと聞かされたのは、後の聞き込みの際だ。
通報があったのは朝の七時。普段は下ろされているシャッターが上がっている事を、不思議に思った近所の同業者が、その一室を覗いたらしい。そこでその第一発見者が目にしたものが、今、自分達の目の前にあるこの変死体だ。
「また予告通りなのか?」
遅れてきた望月はまだ気付いていない様子だった。
「そうですね。バルトロマイよ! 鞭打たれ、皮を剥がれよ」
予告通りに殺された、その男の肌には、幾筋もの赤い線があった。
それは肌が切られた線ではない。赤く細く腫れ上がった線。項垂れた首筋にも、背中にも、腹にも見える赤い線。
その線がどのように付けられたかは、一目では判断しがたいが、予告があっての事だ。
それが鞭で打たれた痕だと言う事は、すぐに想像がつく。それよりも目を奪われるのは、予告通りに剥がれた皮だ。人体模型が皮膚の下の肉を露出させているように、目の前の男も、皮膚の下の肉を露出させている。ただ一つ違うところは、露出された肉が、赤黒い血を滲ませている事だ。
「予告通りです。鞭で打たれて、皮を剥がれて」
葉佑が声を返しながら、殺人予告を復唱する。
その声に背筋が一瞬にして凍り付く。痛ましい姿を目にしたからではない。葉佑の声が裏返った理由もきっと同じだ。それに晃平は固まったままだ。二人は生前の男に会ってはいないが、その顔は写真で見ているはずだ。
「まさか、まさか、何で……」
普段、動揺など見せる事のない葉佑が、言葉を失っている。
「おい、どうしたんだ?」
葉佑の慌てぶりに、望月の声が大きくなる。
普段見せる事のない、動揺を隠せない葉佑。それに固まったままの晃平。自分だけは冷静さを保たなければ。二人の姿にそんな意識が働く。
「田村周平です。田村周平が殺されたようです」
「えっ? この男が田村周平なのか?」
五年前、一緒に尾行を続けた望月だったが、その顔を忘れてしまったのだろうか?
「……所持品から身元が割れましたよ。田村周平、四十一歳。大田区の在住です」
鑑識の声に、頭が真っ白になる。
田村周平で間違いなかった。
"TAMTAM"と田村周平は別人だったと言うのだろうか。田邑先生のメールの相手。サイモン神父の話。それに田村優希の頬に残されていた精液。一体何だったと言うのだろう。
——振り出しに戻る。
頭の中にボードゲームが描かれ、無理矢理スタート地点へと戻されていく。
「それとこんな物が残されていました」
鑑識の声も耳に入らないのか、望月が意気消沈していく。そんな望月に代わり、葉佑が鑑識から血の付いた何かを受け取っている。血で赤くは染まっているが、ナイフか何かだろうか。もしかして凶器が残されていたのだろうか。
「あの眼だ。あの眼で間違いない……」
玉の汗を噴出させた晃平の額に目をやる。確かに冷房も効いていない、町工場の一室は、外気に比べ蒸し暑くはあるが、まだ朝の早い時間だ。滲むほどの汗は出ない。それは葉佑も望月も同じで、二人の額にも汗は滲んでいない。
「目? ですか?」
「ああ、あの眼だ」
田村周平の見開かれた目に怯えているような、晃平の様子を葉佑も察したようだった。
「目がどうかしましたか? それよりすごい汗ですよ。外でちょっと休んでいてください」
促された晃平が背中を向ける。
上がったシャッターの向こうの光の中に、その背中が消えた事を見届け、葉佑が手にするナイフに目を移す。
「これが凶器なのか?」
手にしたナイフに葉佑が首を捻っている。沈んでいたと思っていた望月は持ち直したようで、葉佑からそのナイフを奪い取っている。
「匕首だな」
「匕首? ですか?」
「ああ、ドスだよ。ドス」
外の晃平の様子が気にもなるが、二人の会話に耳を集中させる。
匕首? いつか誰かから、聞かされたような気がする。
「今時、匕首なんて簡単に手に入る物じゃないからな。こいつの入手ルート探ってくれ」
「分かりました」
葉佑が晃平と同じように背中を向け、光の中へ消えていく。
「初めてですね」
「何がだ?」
「凶器ですよ。こんな凶器が残されていたのがです」
「今までも残されていただろ?」
「まあ石だったり、槍だったり、金槌だったりは残されていましたけど」
素直な疑問だった。
何故凶器を残していったのだろうか? わざわざ血の付いた匕首を残していった事には、きっと何らかの意味があるはずだ。そこから足がつく事も考えられる。うっかり忘れていったなんて、今までの奴を考えれば、納得のいかない話だ。
ぽつりと一言。葉佑の目が変死体から、こちらへ向けられる。口にはしていないが、晃平の顔も葉佑と同じだ。
田村優希の頬に付着していた精液が、田村周平のDNAと一致した。そう連絡を受け、後は田村周平を探し出し、追い詰めるだけだった。
数日前の会話が頭を掠める。
大失態ではなかった。
——どう言う事だ?
幾ら整理しようとも、その答えどころか糸口も見失ったようだ。
「嘘だろ?」
葉佑に共鳴した声が、全身から血の気を奪っていく。
駆け付けた町工場は、多摩川からも程近い所にあった。多摩川南署からも、歩いて十分と離れていない。近付けられている。いや、違う。すでに奴の手中にあるのかもしれない。
工業団地と呼ぶには規模は小さいが、幾つもの小さな町工場が並んだ棟。その一室で発見された変死体。跡継ぎが途絶え、今は放置されたままの工場だと聞かされたのは、後の聞き込みの際だ。
通報があったのは朝の七時。普段は下ろされているシャッターが上がっている事を、不思議に思った近所の同業者が、その一室を覗いたらしい。そこでその第一発見者が目にしたものが、今、自分達の目の前にあるこの変死体だ。
「また予告通りなのか?」
遅れてきた望月はまだ気付いていない様子だった。
「そうですね。バルトロマイよ! 鞭打たれ、皮を剥がれよ」
予告通りに殺された、その男の肌には、幾筋もの赤い線があった。
それは肌が切られた線ではない。赤く細く腫れ上がった線。項垂れた首筋にも、背中にも、腹にも見える赤い線。
その線がどのように付けられたかは、一目では判断しがたいが、予告があっての事だ。
それが鞭で打たれた痕だと言う事は、すぐに想像がつく。それよりも目を奪われるのは、予告通りに剥がれた皮だ。人体模型が皮膚の下の肉を露出させているように、目の前の男も、皮膚の下の肉を露出させている。ただ一つ違うところは、露出された肉が、赤黒い血を滲ませている事だ。
「予告通りです。鞭で打たれて、皮を剥がれて」
葉佑が声を返しながら、殺人予告を復唱する。
その声に背筋が一瞬にして凍り付く。痛ましい姿を目にしたからではない。葉佑の声が裏返った理由もきっと同じだ。それに晃平は固まったままだ。二人は生前の男に会ってはいないが、その顔は写真で見ているはずだ。
「まさか、まさか、何で……」
普段、動揺など見せる事のない葉佑が、言葉を失っている。
「おい、どうしたんだ?」
葉佑の慌てぶりに、望月の声が大きくなる。
普段見せる事のない、動揺を隠せない葉佑。それに固まったままの晃平。自分だけは冷静さを保たなければ。二人の姿にそんな意識が働く。
「田村周平です。田村周平が殺されたようです」
「えっ? この男が田村周平なのか?」
五年前、一緒に尾行を続けた望月だったが、その顔を忘れてしまったのだろうか?
「……所持品から身元が割れましたよ。田村周平、四十一歳。大田区の在住です」
鑑識の声に、頭が真っ白になる。
田村周平で間違いなかった。
"TAMTAM"と田村周平は別人だったと言うのだろうか。田邑先生のメールの相手。サイモン神父の話。それに田村優希の頬に残されていた精液。一体何だったと言うのだろう。
——振り出しに戻る。
頭の中にボードゲームが描かれ、無理矢理スタート地点へと戻されていく。
「それとこんな物が残されていました」
鑑識の声も耳に入らないのか、望月が意気消沈していく。そんな望月に代わり、葉佑が鑑識から血の付いた何かを受け取っている。血で赤くは染まっているが、ナイフか何かだろうか。もしかして凶器が残されていたのだろうか。
「あの眼だ。あの眼で間違いない……」
玉の汗を噴出させた晃平の額に目をやる。確かに冷房も効いていない、町工場の一室は、外気に比べ蒸し暑くはあるが、まだ朝の早い時間だ。滲むほどの汗は出ない。それは葉佑も望月も同じで、二人の額にも汗は滲んでいない。
「目? ですか?」
「ああ、あの眼だ」
田村周平の見開かれた目に怯えているような、晃平の様子を葉佑も察したようだった。
「目がどうかしましたか? それよりすごい汗ですよ。外でちょっと休んでいてください」
促された晃平が背中を向ける。
上がったシャッターの向こうの光の中に、その背中が消えた事を見届け、葉佑が手にするナイフに目を移す。
「これが凶器なのか?」
手にしたナイフに葉佑が首を捻っている。沈んでいたと思っていた望月は持ち直したようで、葉佑からそのナイフを奪い取っている。
「匕首だな」
「匕首? ですか?」
「ああ、ドスだよ。ドス」
外の晃平の様子が気にもなるが、二人の会話に耳を集中させる。
匕首? いつか誰かから、聞かされたような気がする。
「今時、匕首なんて簡単に手に入る物じゃないからな。こいつの入手ルート探ってくれ」
「分かりました」
葉佑が晃平と同じように背中を向け、光の中へ消えていく。
「初めてですね」
「何がだ?」
「凶器ですよ。こんな凶器が残されていたのがです」
「今までも残されていただろ?」
「まあ石だったり、槍だったり、金槌だったりは残されていましたけど」
素直な疑問だった。
何故凶器を残していったのだろうか? わざわざ血の付いた匕首を残していった事には、きっと何らかの意味があるはずだ。そこから足がつく事も考えられる。うっかり忘れていったなんて、今までの奴を考えれば、納得のいかない話だ。
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