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第二章 小ヤコブ Jacobus Alphaei
Ⅱ・5月7日
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「田村。お前刑事になったんだろ? 何か詳しい事、知らないのか?」
「所轄が違うから、俺も詳しく知らないんだ」
「えっ、何か所轄って、刑事ドラマみたいでカッコいいね」
十九時過ぎには、告別式の会場を後にしていた。それで解散と言うのも寂しく思った同級生達と、武蔵小金井駅前の居酒屋に来ていた。告別式の前は同窓会と言う雰囲気だけだったが、食事と酒を目の前に、今はすっかり同窓会になっている。数人は帰ったようだったが、またも幹事を買って出た大島に任せた店が今いる居酒屋だ。
「ドラマみたいなあんな格好いいもんじゃないよ」
声に顔を向け笑ってみせる。
名前を呼んでみたかったが、声の主の名前は浮かばない。三年間一緒に過ごしたクラスメイトであっても、女子の印象は薄く、しかも女性は、数年でその雰囲気をがらりと変えてくる。
「それより、今は田村じゃないんだ。今は山﨑。母親がさ、離婚した父親の苗字使ってほしくないって、三年前に変わったんだ」
田邑先生の事を聞かれても、何も答える事が出来ない。
所轄が違う。その一言で片付ける事も出来るが、その死があまりにも突然すぎて、首を突っ込んで調べる時間などなかった。自分の話をする事で、先生の話題から逸らそうと試みたが、そんな話題は先生が殺された事に比べ、どうでもいい些細な事で、みんなの話題が先生の死から逸れる事はなかった。
「俺も詳しくは知らないんだけど」
口を開いたのは大島だった。今回こうしてみんなを招集したように、先生の死について一番詳しいのは大島かもしれない。そんな大島の言葉の続きを待つ。
「先生の死体が見つかったのはホテルの一室らしいんだ。高輪のホテルで。先生の奥さんも何で高輪のホテルなんかに、一人で泊まっていたのかは分からないって。でもそのホテルは先生の名前で予約されていたって。奥さんには外泊するとか、そんな事話してなくて、黙って外泊するような事、一度もなかったから、奥さんも何が何だか分からないって」
「先生はそのホテルに一人で泊まっていたんだ?」
大島に尋ねてみた。刑事と言う職業柄か、気になった事にはつい口を挟んでしまう。他の同級生達にとっては、どうでもいいくだりだったようで、興味を示す事もなく、ビールやら唐揚げを各々胃に流し込んでいる。
「一人だったらしいよ。シングルの部屋を取っていたみたいだし。一晩帰ってこなくて、警察に届けようかと心配していたところ、逆に警察から連絡が入ったらしいんだ。奥さんは何が何だか分からないまま駆け付けたって」
「先生は死体で見つかったんだよね? 俺もニュースで見ただけで、まだ詳しくは知らないんだけど」
「そうだね。翌朝、ホテルの宿泊客から異臭がするって、苦情が入ったらしいんだ。その臭いの元を調べたら、先生が泊まっていた部屋で、ホテルのスタッフが何度も電話したり、ドアをノックしたりで、呼び掛けたらしいんだけど反応がなくて。スタッフが部屋に入ってみたら、殺された先生の死体があったって。ベッドの上に倒れた先生は、頭を殴られたようで、血や脳みそが飛び散っていたって」
大島が血や脳みそと言った途端、空気が止まった。
さっきまで懐かしく同窓会をしていたのに、先生の死の真相についてより、その無残な死体の姿に、同級生達は興味を持っている。
ほんの少しではあるが、不愉快な気分にさせられる。惨い殺され方には興味を持つが、そこに至る先生の背後には興味を示さない。
「田邑先生はどうして一人で、ホテルになんか泊まっていたんだろう?」
大島へ投げ掛けた質問には、やはり誰も興味を示さない。ジョッキを持ち上げ、またビールを流し込み始めている。
「先生が一人で泊まっていたって事は、先生は犯人を部屋に招き入れたって事だよね? 先生と犯人は顔見知りだったって言う事になる」
独り言のように吐いた言葉に、目の前の大島が大きく首を縦に振っている。
膝をついたまま、その大島のすぐ隣へ移動する。同級生達はすっかり酒が回り始めたようで、少しずつ大きくなり始めたその声にも気付いていない。
「奥さんからは一人で泊まっていたって事しか聞かされてないんだ。奥さんは家で先生の帰りをただ待っていたって」
「あ、あと、凶器になった金槌が部屋の中に残っていたって聞いたんだけど」
「それは奥さんも話していたよ。金槌は先生の物じゃないって、奥さんは見た事がなかったって。きっと犯人が持ってきた金槌だろうけど、犯人はその金槌で何度も先生の頭を殴って、殺したって」
ニュースで知った情報を大島が肯定する。
まさかあの田邑先生がそんな惨い殺され方をするなんて。心のどこかでそう思っていたが、ニュースで知った情報が現実味を帯びていく。惨い殺され方をした田邑先生。その姿を学生時代の先生に重ねる事は出来ない。
「先生さあ、最近家ではずっとパソコンに向かっていたって。学校で使う物か何かの作業かなって、奥さんは思っていたらしいんだけど。ただパソコンに向かっている間は、何かに取り憑かれたみたいに集中していて、奥さんが声を掛けようものなら、すごい剣幕で怒ってきたって。そんな大声出すタイプの人じゃないから、最近少し様子がおかしいかもって、奥さんも思っていたらしいんだ」
大島はそう言いながら、水滴が垂れ、冷たさを失っただろう目の前のジョッキを持ち上げた。その大島がジョッキに口を付けた姿を目にして、さっきまで座っていた、向かいの席に置かれたグラスに手を伸ばす。グラスの中のコーラは、すっかり氷が解け、一粒の炭酸も見る事が出来なかった。
一人で先に抜けた居酒屋を背に、武蔵小金井の駅へ戻った。
改札付近に見つけた、喪服のクラスメイト達の姿を思い出しながら、ホームへと上がる。ちょうどタイミングよく、停車中の快速電車に乗る事が出来た。東京行の快速は、夜とあってか殆ど乗客を見る事が出来ない。
優先席を避けたドアの反対側。そのシートの端に腰を下ろし、目を閉じる。
目を閉じた途端、頭に描かれる光景。頭の中で大島の言葉が一つ、また一つと映像に変わっていく。電車の揺れは感じているが、車内の様子が頭に浮かぶ事はない。
——ここはどこだろうか?
見覚えのある光景はどこかのホテルのロビーのようだった。目を開けばすぐに消えてしまうだろう光景。恩師である田邑春夫の死に様を、頭が勝手に描こうとしているのだろうか。電車の揺れに身を任せながらも、車内の様子を浮かべなければ、その全容を知る事が出来そうだ。
——ここは?
——そうだ。ここは高輪のホテルだ。
ホテルのロビー。チェックインを済ませ、部屋の鍵を受け取る。エレベーターに乗り込む。何階へ行けばいいのだろうか? いや、すでにエレベーターは動いている。
ドアが開き廊下を進む。部屋のドアの前に立ち、鍵をかざす。ドアを引き、部屋の中を見回してみる。何てことない普通のシティホテルの一室だ。シングルサイズのベッドに体を横たえる。まだ横たえて一分も経っていないのに、ブザーの音が室内に響く。ゆっくりと体を起こし、客人を招き入れる。客人の顔は?
分からない。分かるはずがない。顔は分からないが、何故かその表情が綻んでいる事は分かる。口許で笑っているのか、目で笑っているのか、そのどちらとも取れる表情。
まだ一言も交わしていないのに、突然訪れる瞬間。客人が手にした金槌を振り下ろす。
いや、違う。振り下ろされる前に、ベッドへと突き飛ばされている。
頭目掛けて振り下ろされる金槌。鈍い音が脳内を駆け巡る。金槌が頭を破る。最初に破られたのは表面の薄い皮だ。皮膚が破られ、真っ赤な血が垂れ始める。客人がもう一度、金槌を振り下ろす。薄い皮の下に金属が到達する。赤い血が勢いよく噴き出す。噴き出した赤い血に、視界が真っ赤に染まる。レッドライトが光る暗闇に似た世界が拡がる。
三度目の強い衝撃。客人が三度金槌を振り下ろす。金槌が頭を破る。赤い血が噴き出す。金槌が頭を破る。赤い血が噴き出す。何度も何度も振り下ろされる金槌。何度も何度も噴き出す赤い血。皮の下の、更に下の骨に金属が到達する。
——これは?
——これはもしかして?
——これが脳みそなのか?
勢いよく噴き出した赤い血を追って、脳みそが激しく飛び散る。客人はまだ金槌を振り下ろし続けている。飛び散った脳みそに、赤く染まった視界に、嫌な臭いが纏わりつく。
この臭いは自分が放ったものなのだろうか? 一度も鼻にした事のない臭い。鼻の奥に何か尖った物を刺されたような衝撃。こんな臭いを嗅がされるくらいなら、ここで終わらせよう。
——ここで終わらせて意識を閉じればいい。
意識を閉じたはずが、目はしっかりと開いていた。電車の揺れに合わせ、脳が揺れ描かれた光景。
乗客は武蔵小金井で乗った時より、明らかに増えている。
車窓に映るネオン。中野を出て新宿へ到着する前なのか、新宿を出て四谷へ向かっているところなのか。新宿辺りの景色には疎いが、車窓に映える賑やかな夜の町に、新宿辺りである事は分かる。
新宿で山手線に乗り換え、品川へ向かえば、高輪のホテルへ行けるが、それがどれ程、無駄な事かは承知している。それにもう新宿を過ぎているかもしれない。幾ら田邑春夫の死に様を脳が描いたからと言って、その真相に迫る事など出来ない。
電車の揺れに任せ、もう一度目を閉じてみる。さっきあれ程、鮮明に浮かんだ恩師の死に様は、もう浮かばない。ただそこには高校生だった自分と、クラスメイト達、それと恩師となった時代の田邑先生の姿が浮かぶだけだ。
幸せだった時間。一体誰が田邑先生を殺したのか。金槌で頭を破って殺すなんて。そんな恐ろしい行為ができる奴など許せるはずはない。
「所轄が違うから、俺も詳しく知らないんだ」
「えっ、何か所轄って、刑事ドラマみたいでカッコいいね」
十九時過ぎには、告別式の会場を後にしていた。それで解散と言うのも寂しく思った同級生達と、武蔵小金井駅前の居酒屋に来ていた。告別式の前は同窓会と言う雰囲気だけだったが、食事と酒を目の前に、今はすっかり同窓会になっている。数人は帰ったようだったが、またも幹事を買って出た大島に任せた店が今いる居酒屋だ。
「ドラマみたいなあんな格好いいもんじゃないよ」
声に顔を向け笑ってみせる。
名前を呼んでみたかったが、声の主の名前は浮かばない。三年間一緒に過ごしたクラスメイトであっても、女子の印象は薄く、しかも女性は、数年でその雰囲気をがらりと変えてくる。
「それより、今は田村じゃないんだ。今は山﨑。母親がさ、離婚した父親の苗字使ってほしくないって、三年前に変わったんだ」
田邑先生の事を聞かれても、何も答える事が出来ない。
所轄が違う。その一言で片付ける事も出来るが、その死があまりにも突然すぎて、首を突っ込んで調べる時間などなかった。自分の話をする事で、先生の話題から逸らそうと試みたが、そんな話題は先生が殺された事に比べ、どうでもいい些細な事で、みんなの話題が先生の死から逸れる事はなかった。
「俺も詳しくは知らないんだけど」
口を開いたのは大島だった。今回こうしてみんなを招集したように、先生の死について一番詳しいのは大島かもしれない。そんな大島の言葉の続きを待つ。
「先生の死体が見つかったのはホテルの一室らしいんだ。高輪のホテルで。先生の奥さんも何で高輪のホテルなんかに、一人で泊まっていたのかは分からないって。でもそのホテルは先生の名前で予約されていたって。奥さんには外泊するとか、そんな事話してなくて、黙って外泊するような事、一度もなかったから、奥さんも何が何だか分からないって」
「先生はそのホテルに一人で泊まっていたんだ?」
大島に尋ねてみた。刑事と言う職業柄か、気になった事にはつい口を挟んでしまう。他の同級生達にとっては、どうでもいいくだりだったようで、興味を示す事もなく、ビールやら唐揚げを各々胃に流し込んでいる。
「一人だったらしいよ。シングルの部屋を取っていたみたいだし。一晩帰ってこなくて、警察に届けようかと心配していたところ、逆に警察から連絡が入ったらしいんだ。奥さんは何が何だか分からないまま駆け付けたって」
「先生は死体で見つかったんだよね? 俺もニュースで見ただけで、まだ詳しくは知らないんだけど」
「そうだね。翌朝、ホテルの宿泊客から異臭がするって、苦情が入ったらしいんだ。その臭いの元を調べたら、先生が泊まっていた部屋で、ホテルのスタッフが何度も電話したり、ドアをノックしたりで、呼び掛けたらしいんだけど反応がなくて。スタッフが部屋に入ってみたら、殺された先生の死体があったって。ベッドの上に倒れた先生は、頭を殴られたようで、血や脳みそが飛び散っていたって」
大島が血や脳みそと言った途端、空気が止まった。
さっきまで懐かしく同窓会をしていたのに、先生の死の真相についてより、その無残な死体の姿に、同級生達は興味を持っている。
ほんの少しではあるが、不愉快な気分にさせられる。惨い殺され方には興味を持つが、そこに至る先生の背後には興味を示さない。
「田邑先生はどうして一人で、ホテルになんか泊まっていたんだろう?」
大島へ投げ掛けた質問には、やはり誰も興味を示さない。ジョッキを持ち上げ、またビールを流し込み始めている。
「先生が一人で泊まっていたって事は、先生は犯人を部屋に招き入れたって事だよね? 先生と犯人は顔見知りだったって言う事になる」
独り言のように吐いた言葉に、目の前の大島が大きく首を縦に振っている。
膝をついたまま、その大島のすぐ隣へ移動する。同級生達はすっかり酒が回り始めたようで、少しずつ大きくなり始めたその声にも気付いていない。
「奥さんからは一人で泊まっていたって事しか聞かされてないんだ。奥さんは家で先生の帰りをただ待っていたって」
「あ、あと、凶器になった金槌が部屋の中に残っていたって聞いたんだけど」
「それは奥さんも話していたよ。金槌は先生の物じゃないって、奥さんは見た事がなかったって。きっと犯人が持ってきた金槌だろうけど、犯人はその金槌で何度も先生の頭を殴って、殺したって」
ニュースで知った情報を大島が肯定する。
まさかあの田邑先生がそんな惨い殺され方をするなんて。心のどこかでそう思っていたが、ニュースで知った情報が現実味を帯びていく。惨い殺され方をした田邑先生。その姿を学生時代の先生に重ねる事は出来ない。
「先生さあ、最近家ではずっとパソコンに向かっていたって。学校で使う物か何かの作業かなって、奥さんは思っていたらしいんだけど。ただパソコンに向かっている間は、何かに取り憑かれたみたいに集中していて、奥さんが声を掛けようものなら、すごい剣幕で怒ってきたって。そんな大声出すタイプの人じゃないから、最近少し様子がおかしいかもって、奥さんも思っていたらしいんだ」
大島はそう言いながら、水滴が垂れ、冷たさを失っただろう目の前のジョッキを持ち上げた。その大島がジョッキに口を付けた姿を目にして、さっきまで座っていた、向かいの席に置かれたグラスに手を伸ばす。グラスの中のコーラは、すっかり氷が解け、一粒の炭酸も見る事が出来なかった。
一人で先に抜けた居酒屋を背に、武蔵小金井の駅へ戻った。
改札付近に見つけた、喪服のクラスメイト達の姿を思い出しながら、ホームへと上がる。ちょうどタイミングよく、停車中の快速電車に乗る事が出来た。東京行の快速は、夜とあってか殆ど乗客を見る事が出来ない。
優先席を避けたドアの反対側。そのシートの端に腰を下ろし、目を閉じる。
目を閉じた途端、頭に描かれる光景。頭の中で大島の言葉が一つ、また一つと映像に変わっていく。電車の揺れは感じているが、車内の様子が頭に浮かぶ事はない。
——ここはどこだろうか?
見覚えのある光景はどこかのホテルのロビーのようだった。目を開けばすぐに消えてしまうだろう光景。恩師である田邑春夫の死に様を、頭が勝手に描こうとしているのだろうか。電車の揺れに身を任せながらも、車内の様子を浮かべなければ、その全容を知る事が出来そうだ。
——ここは?
——そうだ。ここは高輪のホテルだ。
ホテルのロビー。チェックインを済ませ、部屋の鍵を受け取る。エレベーターに乗り込む。何階へ行けばいいのだろうか? いや、すでにエレベーターは動いている。
ドアが開き廊下を進む。部屋のドアの前に立ち、鍵をかざす。ドアを引き、部屋の中を見回してみる。何てことない普通のシティホテルの一室だ。シングルサイズのベッドに体を横たえる。まだ横たえて一分も経っていないのに、ブザーの音が室内に響く。ゆっくりと体を起こし、客人を招き入れる。客人の顔は?
分からない。分かるはずがない。顔は分からないが、何故かその表情が綻んでいる事は分かる。口許で笑っているのか、目で笑っているのか、そのどちらとも取れる表情。
まだ一言も交わしていないのに、突然訪れる瞬間。客人が手にした金槌を振り下ろす。
いや、違う。振り下ろされる前に、ベッドへと突き飛ばされている。
頭目掛けて振り下ろされる金槌。鈍い音が脳内を駆け巡る。金槌が頭を破る。最初に破られたのは表面の薄い皮だ。皮膚が破られ、真っ赤な血が垂れ始める。客人がもう一度、金槌を振り下ろす。薄い皮の下に金属が到達する。赤い血が勢いよく噴き出す。噴き出した赤い血に、視界が真っ赤に染まる。レッドライトが光る暗闇に似た世界が拡がる。
三度目の強い衝撃。客人が三度金槌を振り下ろす。金槌が頭を破る。赤い血が噴き出す。金槌が頭を破る。赤い血が噴き出す。何度も何度も振り下ろされる金槌。何度も何度も噴き出す赤い血。皮の下の、更に下の骨に金属が到達する。
——これは?
——これはもしかして?
——これが脳みそなのか?
勢いよく噴き出した赤い血を追って、脳みそが激しく飛び散る。客人はまだ金槌を振り下ろし続けている。飛び散った脳みそに、赤く染まった視界に、嫌な臭いが纏わりつく。
この臭いは自分が放ったものなのだろうか? 一度も鼻にした事のない臭い。鼻の奥に何か尖った物を刺されたような衝撃。こんな臭いを嗅がされるくらいなら、ここで終わらせよう。
——ここで終わらせて意識を閉じればいい。
意識を閉じたはずが、目はしっかりと開いていた。電車の揺れに合わせ、脳が揺れ描かれた光景。
乗客は武蔵小金井で乗った時より、明らかに増えている。
車窓に映るネオン。中野を出て新宿へ到着する前なのか、新宿を出て四谷へ向かっているところなのか。新宿辺りの景色には疎いが、車窓に映える賑やかな夜の町に、新宿辺りである事は分かる。
新宿で山手線に乗り換え、品川へ向かえば、高輪のホテルへ行けるが、それがどれ程、無駄な事かは承知している。それにもう新宿を過ぎているかもしれない。幾ら田邑春夫の死に様を脳が描いたからと言って、その真相に迫る事など出来ない。
電車の揺れに任せ、もう一度目を閉じてみる。さっきあれ程、鮮明に浮かんだ恩師の死に様は、もう浮かばない。ただそこには高校生だった自分と、クラスメイト達、それと恩師となった時代の田邑先生の姿が浮かぶだけだ。
幸せだった時間。一体誰が田邑先生を殺したのか。金槌で頭を破って殺すなんて。そんな恐ろしい行為ができる奴など許せるはずはない。
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